第5話 封印解除された青魔導士、女神に座られる
目を覚ましたのは、呼吸の音のせいだった。
俺のものではない。部屋の中で、誰かが息をしている。
柔らかく、規則正しく、急ぐ気配もない呼吸。
目を開けた。
ネフェレットが、俺の胸の上に座っていた。まるで、俺を自分のものにしたクッションだとでも思っているみたいに。
白い髪が肩からこぼれ、俺の肋骨のあたりに溜まっている。
裸足は胸骨の上からぶら下がり、足の指が俺の鼓動に合わせるように軽く揺れていた。
それが問題だった。
俺の鼓動は、まともに振る舞っていなかったからだ。
強すぎる。
速すぎる。
生きていると主張しすぎている。
「おはよう、ラフェル」
ネフェレットは、新しい玩具を見つけた猫みたいな顔で、俺を見下ろして笑った。
「死ななかったわね。喜びなさい」
俺は起き上がろうとした。
彼女は動かなかった。だから俺の方が、彼女を避けるように身体を起こした。
「どけ」
「口づけの後にしては、ずいぶん乱暴な物言いね」
「どけ」
俺が上体を起こすと、ネフェレットはバランスを崩すこともなく、すっと俺の膝の上に滑り込んだ。まるで重力の方が、彼女に遠慮しているみたいだった。
数歩離れたところで、アリステルが跪いていた。
背筋を伸ばし、両手を膝の上で重ね、目を伏せている。尾は片脚にきつく巻きつき、止血帯みたいになっていた。
声は落ち着いていた。落ち着きすぎていた。
「女神様、彼がお目覚めです」
ネフェレットは彼女を見なかった。
「ええ、子猫。気づいているわ」
アリステルはさらに深く頭を垂れた。
「何かご入り用でしょうか。水を。あるいは食事を」
ネフェレットは片手を軽く振った。
「後でいいわ」
アリステルは動かなかった。
恐怖と礼儀で彫られた像みたいに、完璧に静止したまま跪いている。
俺は顔をこすった。
「俺の忍耐を試しているのか」
ネフェレットは瞬きをした。
「なぜ?」
「あんたが俺の上に座っているからだ」
彼女はしばらく考え、それから俺を見上げた。
「あなたは青魔導士でしょう」
柔らかな声だった。
「妙な女が自分の上に座るくらい、慣れておくべきよ」
「祝福というより、呪いの書き出しに聞こえるな」
ネフェレットは、ゆっくりと、何も気にしていない笑みを浮かべた。
「それは、あなたがどう使うか次第ね」
緋色の瞳が、俺の目に留まる。
「もっとも」
彼女は続けた。
「見返りは欲しいの」
その笑みが小さくなる。
正直そうにも見えた。危険なやつが、遊び半分で本音を見せる時のように。
「力を得たあなたが、何をするのか見たい。奇跡もなしに歩き続けた男が、奇跡を持った時に少しはましになるのか知りたい」
その笑みが、ほんの少しだけ深くなる。
「本当の闇が来る前に、守護者が動き出すところを見たいの」
ネフェレットはようやく俺の上から滑り降り、軽やかに床へ降り立った。
衣が片方の肩からずり落ちる。
アリステルが即座に動き、それを直した。ネフェレットは、されるがままだった。
俺は二人を見つめた。
「これは何だ? 何をしている」
アリステルは俺を見なかった。
「女神にお仕えしております」
「さっき殺されかけた相手だぞ」
「この子が決めたのよ。それで幸せなら、わたしが止める理由がある?」
アリステルの顎が固くなった。
だが、何も言わなかった。
俺は立ち上がった。
脚は動く。
肺も働いている。
何もかもがおかしかった。
何もかもが、生きていた。
ネフェレットは俺を見上げて笑った。
緋色の瞳が明るい。
「あなたの封印は解かれたわ、ラフェル」
ネフェレットは、何世紀も眠っていた後みたいに伸びをした。
アリステルがすぐに立ち上がり、女神の衣を整える。震える、敬虔な手つきで、ゆるんだ布の重なりを丁寧に直していった。
ネフェレットは少しのあいだ、されるがままにしていた。やがて、毛づくろいに飽きた猫みたいに、彼女を軽く追い払う。
「もう十分よ、子猫。わたしは崩れたりしないわ」
アリステルの背筋がまた硬く伸びた。
貴族の姿勢が戻っている。
声は短く、形式ばっていた。
「仰せのままに、女神様」
「五秒ごとに女神様って呼ばなくてもいいだろ」
アリステルは俺を見なかった。
「それが礼です」
「過剰だ」
「それが礼です」
今度は少し鋭かった。
ネフェレットは、棒切れをめぐって言い争う子供二人を眺めるような、愉快そうな忍耐で俺たちを見ていた。
俺はゆっくり息を吐いた。
「アリステル。君は彼女に何も負っていない」
彼女は一度、喉を鳴らした。
それから、無理やり言葉を押し出す。
「私は、すべてを負っています」
「負っていない」
「いいえ」
その目には、激しく、脆い何かが燃えていた。
「この方は女神です。私はネコジンです。お仕えするのが務めです」
「ほら」
ネフェレットが囁くように言った。
「役目よ。人は怖い時ほど、それにしがみつくの」
アリステルの耳が伏せられた。
「私は怖がってなどおりません」
「もちろん」
ネフェレットは彼女の頬を軽く叩いた。
「震えているのは寒いからよね」
俺は鼻筋をつまんだ。
「素晴らしい。狂人に囲まれている」
ネフェレットが俺の耳元へ身を寄せた。
笑みが聞こえるような声で囁く。
「怖くないふりをしている時のこの子、とても可愛いわね」
俺は呻いた。
「頼むから黙ってくれ」
「いやよ」
彼女は楽しそうに言った。
この瞬間に至るまでの全ての選択を、俺は改めて後悔した。
俺は首を振った。
「役に立つ話に戻れないのか。例えば、あんたが俺に何をしたのか」
ネフェレットは背を向け、両手を背中で組んだまま後ろ向きに歩き始めた。
未完成の作品を眺めるように、俺を見ている。
「あなたが世界に触れる方法を変えたの」
「何も説明していない」
「全部説明しているわ」
彼女は楽しそうに返した。
「青魔導士さん」
その言葉を、少しのあいだ置いておいた。
青魔導士。
裏切り者のクラス。
守護者のクラス。
語る者によっては、呪い。
「何も変わった気がしない」
「当然よ。青魔導士は、ほかの魔術師のようにマナを使うわけではない。力を奪い取るのではないの」
彼女は自分の胸を軽く叩いた。
「与えられるのよ」
俺の口元が引き締まった。
「誰からだ」
「あなたと共に立つことを選んだ者からよ」
俺は彼女を見つめた。
「古い物語は本当だった、ということか」
ネフェレットの笑みが鋭くなる。
「古い物語は、だいたい本当よ。人はそれを台無しにしてから、神話と呼び始めるの」
腹の底に、冷たいものが沈んだ。
「物語では、青魔導士は魔物から力を引き出すと言われていた。魔物を近づけすぎるのだと。自分の種族に属せなくなるのだと」
「ずいぶん意地悪な語られ方ね」
「意地悪、では済まないな」
ネフェレットは首を傾げた。
「信頼。執着。親密さ」
その視線がアリステルへ流れる。
「スキンシップよ、ラフェル。本当の意味での近さ」
アリステルが、思わず小さくむせるような音を漏らした。
俺は彼女を見なかった。
「冗談だろ」
「いいえ」
ネフェレットは指を一本立て、俺の胸を指した。
「わたしはあなたに贈り物をした。アークランス。とても小さなものだけれど」
「感じない」
「感じるようになるわ。何も感じていないふりをやめればね」
俺はこめかみに指を押し当てた。
「つまり俺は、誰かと……つながらない限り役立たずというわけか」
「そして、誰かがあなたとつながらない限り、ね」
ネフェレットの視線が、ほんの一瞬だけアリステルへ流れた。
「二人きりにしてあげましょうか?」
アリステルが、息を呑むのと抗議の中間みたいな音を立てた。
俺はネフェレットを見返した。
「楽しんでいるな」
「もちろん」
「ようやくわかった? あなたが何を失ったのか」
「何だ」
彼女の笑みが、少しだけ柔らかくなった。
「一人で立っていられる贅沢よ」
俺は顔を手でこすった。
「ナイフが残っていてよかった」
ネフェレットは嬉しそうに一度手を打った。
「封印は解けたのよ。そんな野蛮なもの、もう必要ないわ」
「アークランス」
誰かに教わったからではない。
その感覚と一緒に、名前が浮かんできたから口にしただけだった。
ネフェレットが笑う。
「使ってみなさい」
「やり方を知らない」
ネフェレットの頭上に、また光が集まった。
さっきと同じ、清浄で、何の苦もなく形作られる細い光の槍。
「親切だな。何者かは、間違えようがない」
背後でアリステルがこわばった。
「そのような言い方はなさらないでください」
早口だった。
「女神様は、あなたに教えてくださっているのです」
俺は振り返った。
「そうか?」
アリステルは俺と目を合わせなかった。
「何が助けになるかを、私たちが決める立場ではありません」
ネフェレットは俺に向き直り、手を伸ばして俺の手首を取った。
「こうよ」
俺の腕を持ち上げ、まっすぐ前へ向けさせる。
「親指で狙いを導く。指先を向けて」
彼女の指が俺の手を滑っていく。急がず、わざとらしいほど丁寧に。指先に触れたところで、ようやく離れた。
俺は彼女を睨んだ。
集中する。
マナではない。
重さ。
圧力。
皮膚の下をまだ這っている熱。
何かが応えた。
細い青い光の欠片が指先に生まれ、悲鳴のような音を立てて前方へ走る。
数メートル先で、光に溶けて消えた。
射程は短い。
速い。
柔らかい場所に当たれば、致命傷になる。
俺は手から消えていく淡い青の光を見つめた。
三十八年。
何もしないクラスを背負ってきた三十八年。
他の男たちが火を呼び、鋼を曲げ、言葉ひとつで傷を閉じるのを見ながら、俺はナイフと、速いか死ぬかの細い境目だけを信じてきた。
古い言葉では選ばれた者を意味する肩書きを渡され、現実のあらゆる場面では使い物にならないと知った。
指先をひとつ弾くだけ。
結局、必要だったのはそれだけだった。
女神が、俺を手間に値すると決めること。
感謝しているのか、腹を立てているのか、自分でもわからなかった。
どちらも同じくらい馬鹿げていた。
だから、すぐには見なくていい場所へ押し込んで、ネフェレットへ向き直った。
「おめでとう」
彼女は甘く笑った。
「あなたはまた、危険な男になったわ」




