未来を知った独裁者
モスクワの空は、鉛色に沈んでいた。
街は凍り付き、煙突からは細い煙しか上がらず、食料配給所の前には、黙り込んだ人々の列が伸びていた。
ソビエト経済は、深刻な危機に陥っていた。
農業をはじめとする食料生産は壊滅的な状況にあり、国土全体が極度の食糧難に苦しんでいた。ウクライナの穀倉地帯から搾り取るだけではまったく足りない。支配下に置いたポーランドからも大規模な収奪を行っていたが、それでも足りなかった。
大国ソビエトを動かす歯車は、錆び付き、欠けていた。
工業も商業も不調だった。腐敗はあらゆる場所に広がり、何も作れず、何も流通しない。工場の書類には立派な生産計画が並んでいる。
だが、現場に行けば旋盤は止まり、作業員は飢え、倉庫には部品がない。
根本的な原因は、大粛正による極度の人材不足だった。
ソビエト経済を支えるはずだったアナスタス・ミコヤンは、すでに消されていた。
航空機開発も完全に行き詰まっていた。新型機の開発どころか、工場の稼働率は底を打ち、旧式機すらまともに生産できない。
アルチョム・ミコヤン……
オレーク・アントーノフ……
セルゲイ・イリューシン……
未来のソビエト航空界を支えるはずだった技術者たちは、大粛正の波に呑まれて消えていた。
設計局の机には、未完成の図面だけが残っている。
そこに未来はなかった。
スターリンは、手に入れた『未来からの贈り物』に名が記されていた人間を、たとえ子供であっても容赦なく粛正した。
自分の死後に「スターリン批判」を行う者たちは、ニキータ・フルシチョフをはじめとして、誰一人として生かさなかった。
『未来からの贈り物』は知る事が出来ないはずの、スターリンの死後に起きる裏切りを教えてしまった。
資料が不完全で個人の特定が困難な場合は、同姓同名の者をすべて粛正した。
ある地方都市では、未来の記録にスターリンの銅像を引き倒したと書いてあっただけで地図から消えた。
ある学校では、未来の党幹部となるはずだった少年が、授業中に連れ去られた。
それは、未来のソビエトを支えるはずだった英雄や技術者まで、根こそぎ消してしまうことを意味していた。
だが、それでもスターリンは安心できなかった。
クレムリンの執務室。
重いカーテンを閉ざした室内で、スターリンは机の上に置かれた金属製の箱を睨んでいた。
自分を殺すことがソビエトの未来を救うと書かれたそれは、存在してはいけない物だった。
「同志である毛沢東は、すでに未来人に消された」
スターリンは低く呟いた。
「ならば、次は私か」
側近たちは息を呑んだ。
誰も返事をしなかった。
返事をすれば粛正される。
黙っていても粛正される。
この部屋では、沈黙だけがもっとも長く生き残る方法だった。
もともと他人を信じていなかったスターリンの人間不信は、未来からの情報によってさらに悪化していた。
いつ殺しに来るかわからない未来人の手先に怯え、少しでも不安を感じれば容赦なく粛正する。
だが、ここまで粛正が進むと、粛正を実行する人間さえ足りなくなってきた。
内務人民委員部の名簿には、赤線が多すぎた。
命令を出す者も、命令を受ける者も、命令を記録する者も、次々と消えていた。
もう、誰を信じればいいのかわからなかった。
今のソビエト軍は、書類上だけの存在になりかかっていた。
司令官がいない、参謀がいない、兵器を生み出す技術者も労働者もいない。
名簿の上では赤軍は巨大だった。
現実には、穴だらけの骸骨だった。
ドイツがフランスやイギリスを支配すれば、次はソビエトに攻めてくる。
スターリンは、大粛正の実行をドイツ人に押しつけたにもかかわらず、今度はそのドイツに乗っ取られる心配を始めていた。
大粛正の罪を、すべてドイツ人になすりつける。
そのためには、ドイツ軍に勝てるソビエト軍が必要だった。
だが、人材も兵器も枯渇している。
自分で自分の首を絞めてしまったことにスターリンが気づいた時には、すでに手遅れだった。
スターリンに残された選択肢は、一つしかなかった。
「核兵器だ!」
その言葉が、執務室の空気を凍らせた。
世界を滅ぼす力を持てば一千万の軍にも勝る。
スターリンは、自分が核のボタンを握ることこそが、最後に残された唯一の安全保障だと確信した。
だが、ソビエトには核兵器を製造できる人材も工場もない。
ならば、日本とドイツから核兵器を手に入れる。
そのためなら、どんな対価も惜しくはなかった。
スターリンは核兵器の見返りとして、日本とドイツの双方に対して飢餓輸出を行った。それは、何千万ものソビエト人が餓死し、あらゆる工業製品が消滅しても構わない暴挙だった。
彼にとって国家とは、自分を守るための城でしかなかった。
自分の城を守るためなら、国民を煉瓦にして積み上げることに躊躇はなかった。
スターリンは、核兵器を自国の都市に使うことすら躊躇しない、最悪の暴君へと変貌していた。
ソビエト軍は、スターリンの周囲に並ぶ核兵器以外の軍備を維持できない、歪な軍へと変わっていった。
ソビエト共産党中央委員会の書記長は、モスクワ市長のように小さな存在へと縮んでいった。
フィンランド国境に近いレニングラードでは、多くの人々が国境を越えてフィンランドへ逃げ出していた。国境を警備するはずの兵士たちまで、難民となって逃げ出していた。
共産主義の熱に浮かされた夢は、ロシアの冬に凍りついていた。
スターリンは、兵器の代金としてシベリア鉄道の管理権限を日本へ譲渡した。
日本が管理しているシベリア鉄道だけは、正常に機能していた。だが、それはシベリア鉄道の主要駅に、日本陸軍の連隊や大隊が駐屯することを意味していた。
もはやシベリア鉄道は、ソビエトの鉄道とは呼べなかった。
それは、かつてのシベリア出兵の再来にも似た事態だった。
主要駅周辺の都市や町は急速に共産主義を忘れ、資本主義へと傾いていった。
日本製の缶詰が闇市で売られ、駅前では共産主義を忘れた人々が円で取引し、日本人を相手に娼婦が立つようになった。
円が貰える日本人相手の娼婦は花魁と呼ばれ、若い女性から憧れの職業と見られる、歪んだ社会現象まで生み出していた。
赤い旗は、まだ掲げられている。
だが、左上の鎌と鎚の絵はかすれ、中央の赤い丸だけ残して端から白く脱色され始めていた。
ソビエトという国は、歴史から消え始めていた。




