世紀の大イベント
昭和十五年九月二十一日。
皇紀二千六百年を記念すべき年に、アジアで初めて行われるオリンピックは大きな盛り上がりを見せていた。
「盆と正月がいっぺんに来た」という言い回しがあるが、今年はそれ以上だった。
皇紀二千六百年を記念する行事が相次ぎ、オリンピックが終われば、すぐに特別観艦式が始まる。
まさに過密スケジュールだった。
前回のベルリン・オリンピックは、フランスとドイツの戦争によって中止になっていた。
日本でも一時は、開催権を返上すべきではないかという議論が起こった。
国会では「今日のような一触即発の国際情勢において、オリンピックを開催するのはいかがなものか」と否定的な発言が飛び交った。
それでも、東京オリンピックは開催されることになった。
世界の国々が日本に向ける目は厳しかった。
アメリカ政府は、日本が世界征服を企んでいると公式に非難している。
その非難には、イギリス、フランス、オランダも同調していた。
そんな状況でオリンピックに選手団を送るべきか、欧米諸国は渋い顔をしていた。
しかし、オリンピック東京大会組織委員会の委員長を務める徳川家正公爵の外交努力が実り、各国の選手団は日本に集まった。
徳川家正は華族の公爵であり、もし江戸幕府が存続していれば、第十七代徳川将軍になるはずだった人物である。
諸外国の批判を逸らすため、東京オリンピックは大日本帝国ではなく、江戸時代の日本を前面に押し出した大会として演出された。
皇居には、江戸時代から天守台だけが残されていた江戸城天守が、大急ぎで再建された。
天守閣と言っても、中身は大阪城と同じ鉄筋コンクリート造の城だった。
皇居の天守閣は江戸時代の三倍はある高層建築になっていた。
日本選手団の入場行進は、征夷大将軍、徳川家正公が先導した。
選手たちは紋付き羽織袴で入場した。
今の時代に「征夷大将軍」という地位には、何の実権もない。
だが、宮内省が動き、天皇陛下から名誉称号として授けられた。
実権のない称号にすぎないとはいえ、徳川家正が十七代徳川将軍と公式に名乗れるようになったことに、妙な身分意識もっていた士族たちは喜んでいた。
フランスやイギリスは参加したが、ドイツは参加しなかった。
亡命ドイツ政府の存在を知られたくなかったからだ。
アメリカは不参加だと思われていたが、意外にも参加した。
アメリカ国内ではボイコットを主張する意見が主流だったが、アメリカ選手団団長を務める人物が強行参加させたらしい。
選手団団長は、かつて一九二八年のアムステルダム・オリンピックでもアメリカ選手団団長を務めた、六十歳の退役軍人だった。
フィリピンで行っていた不正が発覚したダグラス・マッカーサーは、アメリカに追い返され、軍からも追われた。
だが、昔のコネでオリンピック委員会に潜り込み、二度目のアメリカ選手団団長を務めていた。
ただし、選手団の顔ぶれは良くなかった。
日本に行きたくないと渋る選手が多く、有望な選手が次々と逃げたからだ。
そして、今回のオリンピック最大の目玉となったのは、テレビ放送だった。
本来の歴史なら、まだ本格的に実用化できないはずの装置である。
だが、是空管の量産により、真空管を飛び越して、是空管テレビが実用化していた。
それは、ラジオに代わる次世代メディアだ。
皇居の天守閣に設置されたアンテナから電波が飛んだ。
埼玉、千葉、神奈川との境目近くには中継所が設置され、関東平野の奥まで電波を中継した。
ラジオより高い周波数帯を使うテレビの実用化は、レーダーや近接信管の副産物でもあった。
実用化が間に合ったとはいえ、電波が届くのは関東地方だけで、テレビの値段は庶民の年収十年分に匹敵する。
とても庶民が買えるものではなかった。
だが、「テレビでオリンピックを見よう」と一大キャンペーンが行われ、映画館や公民館などに設置されたテレビを大勢の人々が見ていた。
陸上競技では、日本人初のオリンピック金メダリストであり、今は日本陸上界を指導する織田幹雄が選手たちを率いていた。
馬術競技では、日本で唯一の馬術金メダリストである西男爵が出場した。
二度目の金メダルを取れると期待されていた。
射撃競技でも、陸軍の精鋭中の精鋭が選抜されていた。
これから始まる特別観艦式が海軍の行事なら、オリンピックは陸軍の行事になっていた。
そして、今回のオリンピックから柔道が正式種目に加わった。
日本発祥の武術が、オリンピックで行われる。
創始者である嘉納治五郎はすでに故人だったが、その弟子たちが出場した。
ソビエト代表選手には、意外な人物がいた。
ソビエト人で唯一、嘉納治五郎から黒帯を授かったワシリー・オシェプコフである。
まさかの、日ソ同門対決になった。
ワシリー・オシェプコフは、本来の歴史なら無実の罪で投獄され、獄中死していたはずだった。
だが、この世界では大粛正によってアナトリー・アルカディエヴィチをはじめとするサンボの創始者たちが処刑されたため、逆に生き残っていた。
オリンピックは、大日本帝国の威光を示すイベントとして大成功を収めた。
日本人の誰もが、日本は世界一の大国になったと信じるに十分な成功だった。
陸上でオリンピックが盛り上がる一方、海軍は『紀元二千六百年特別観艦式』の準備に忙しかった。
昭和十五年十月十一日に横浜港沖で行われる観艦式は、連合艦隊の艦艇百隻と航空機六百機が一堂に会する、空前絶後の行事だった。
完成したばかりの戦艦大和と武蔵。
そして六隻の雲龍型空母、雲龍、天城、葛城、笠置、阿蘇、生駒。
それらが、装甲空母に改装された加賀を中心に、六角形の陣形を組んでいた。
これほどの艦隊を整備する予算を確保するなど、本来なら不可能と思われた。
だが、未来から贈られた抗菌薬と半導体が世界中に売れたおかげで、何とかなった。
大日本帝国は製薬においても、半導体産業においても、世界最先端の国になっていた。
さらに表では言えないが、亡命ドイツ政府の尽力によって、ソビエトから膨大な資源の横流しがあった。
空には、ゼロ戦、彗星、流星が編隊を組んで飛んでいた。
一式陸上攻撃機は四発機になってしまったが、双発の銀河が作られた。
長距離任務を担う四発機と、通常任務を担う双発三座機に分かれることで落ち着いたのである。
四発機は贅沢すぎると問題になったが、全機種で共通エンジンを使うことで量産性を高め、その問題を解決した。
ドイツからもたらされたマザーマシンをもとに作られた工作機械は、複雑なV型液冷エンジンのクランクシャフトを短時間で削り出した。
高度な鋳造技術も、生産性を劇的に高めていた。
富嶽は、いまだに試作機すら飛ばせない。
三千馬力エンジンの開発は、あまりにも難易度が高すぎた。
日本の航空機開発が完全に成熟するまで、まだ五年はかかりそうだった。
伊四〇〇潜水艦は、まだ存在を秘匿すべきだと判断された。
核攻撃を行う戦略兵器となった伊四〇〇潜水艦は、本来の歴史より大型化していた。
核爆弾を運ぶ晴嵐は航空機ではなく、巨大な誘導ロケット弾になっていた。
予定通り、九時十分に天皇陛下が御召艦比叡に御乗艦になり、出航した。
十時になると御親閲が始まり、航空機が編隊飛行を開始した。
予定通り御召艦が所定の位置に投錨したため、観艦式参加の主要職員は、御召艦に参集するため移動を始めた。
大日本帝国は、世界最大の艦隊を揃えることができた。
そして、観艦式最大の目玉は、戦艦でも空母でもなかった。
核実験である。
実験場をどこにするのかは難題だった。
爆発の規模を考えると、どうやっても本土では無理だ。
半径数十キロから人間を避難させることが可能な場所となれば、離島しかない。
エニウェトク環礁やビキニ環礁が候補地に挙がった。
だが、南洋群島は委任統治領であり、純粋な日本の国土ではない。
少数とはいえ、住民もいる。
最終的に、南鳥島が選ばれた。
島にいるのは、大日本帝国海軍が管理している気象観測所の人間だけだった。
実質的に無人島と言える。
南鳥島の周囲には、巨大な核爆発の影響を受ける居住地もない。
大日本帝国は、絶海の孤島、南鳥島を核実験場に選んだ。
準備は念入りに行われた。
一番の懸念事項は、核爆発が起こらず、希少な核物質が飛び散って失われることだった。
そこで、爆弾の周囲に半径三百メートルの円柱状の工作物を設置し、失敗した場合でも核物質を回収できるようにした。
失敗した場合は、工兵部隊がガイガーカウンターを片手に、核物質の破片を探し回る計画だった。
特別観艦式の最終日。
成層圏まで届く巨大なキノコ雲が上がり、日本の核実験は成功した。
キノコ雲が薄くなっていく空へ、アメリカ軍の偵察機が強行侵入してきた。
明らかな領空侵犯だった。
空母から上がったゼロ戦が追いかけたが、追いつけない。
武装を捨て、主翼すら切り詰め、最大速度で通り過ぎることだけに特化した偵察機は、ゼロ戦を振り切った。
そして、領海外で待機していた空母へ着艦した。
彼らの任務は、空高く舞った塵を集めることだった。
塵の中にネプツニウム二三七が存在するなら、それはアメリカが行ったようなハッタリではない証拠になる。
自然界には存在しないネプツニウム二三七は、核爆発でしか生まれないからだ。




