フィリピン訪問団
陸で新しくフィリピン軍元帥になった男が権力を振るっているさなか。
海ではアメリカ海軍アジア艦隊の母港である、マニラ海軍基地の大規模な拡張工事が始まっていた。
日本を仮想敵とする軍備であることは、誰の目にも明らかだった。
アジア艦隊にはオーガスタを旗艦とする重巡洋艦3隻、新型のファラガット級駆逐艦9隻、旧式のクレムソン旧駆逐艦14隻が配備されていた。
そして、昭和十一年にアナポリス士官学校を卒業して任官したニミッツ大佐の息子、チェスター・ウィリアム・ニミッツ・ジュニア少尉が配属されていた。配属されたのは新型のファラガット級駆逐艦の一隻、戦死した父の名を冠された、駆逐艦ニミッツだった。
アジア艦隊が停泊するマニラ海軍基地では、将校を対象とした語学教育プログラムが始まっていた。
将校に仮想敵国の言語を習得させるのは軍として当然の話だが、アメリカ海軍で日本語を話せる将校は極めて少ない。
日本語の語学担当将校と認定された人間は16人しか居なかった。日本語の読み書き会話が出来る将校はアメリカ海軍全体で16人しか居ないほどの少数派だった。
少なくとも、各艦に一人はいないと情報戦で不利になることは明白だから、語学教育プログラムが始まった。
対象者に選ばれた30人あまりの将校は命令だから授業に集まったが、乗り気では無かった。なぜなら、アメリカ英語を母語とするアメリカ人にとって日本語は習得難易度が高い言語だ。
日本語教育プログラムの講師はアジア艦隊の情報将校ヘンリー・H・スミス=ハットン少佐が務めた。
東京の大使館に三年間勤務した経験がある、アメリカ海軍全体で16人しか居ない日本語の語学担当将校の一人だ。
彼が旗艦に通信士官として配属されているのは日本軍の無線を傍受して解読するためだ。
そんな中で、日本語教育プログラムを受けるよう命令されたカールトン・ファントン・ブライアント少佐は居心地が悪かった。
ブライアント少佐にとっては同じ艦隊の旗艦に勤務する将校で階級も同じだった。
だが、大使館の駐在武官として三年勤務したキャリアに対して、捕虜として十ヶ月暮らしたキャリアは自慢出来るものでは無かった。
もっとも、その十か月が無駄だったわけでもなかった。
ブライアント少佐は、捕虜の中で最も階級が高かったため、捕虜代表として日本海軍相手に何かと交渉の席へ出されることが多かった。必要に迫られて覚えた日本語は、決して流暢ではないが、少なくともネイティブの日本軍人と直接やり取りした経験は、アジア艦隊の中でも希少なものだった。
それゆえ彼もまた、この語学教育の対象者に選ばれたのである。
授業は初歩中の初歩から始まった。
日本語のカタカナを覚える所までは全員大丈夫だった。さすがに士官学校を卒業できた知力で付いていけない者はいない。
問題は漢字だ。文字の種類が多く、複雑怪奇な記号に誰もが頭を抱えた。日本の軍艦の名前と主要な軍港がある地名を暗記させられた。
日本海軍が使う軍事用語の授業は難解だった、捕虜の尋問を想定した会話の練習は困難を極めた。
授業が進むにつれて致命的な問題が現れた。
会話の練習が出来る相手がいない……
教師であるスミス=ハットン少佐ですら、所詮は英語訛りの日本語であり、ネイティブとはほど遠い。聞き取り練習は日本語を吹き込んだレコード頼みで、生身の教材になる日本人がいなかった。
いっそのこと、日本海軍を呼んでみたらどうか、そんな意見が出た。
幸いにして、マニラには日本で名の知られたジェームズ・リチャードソン少将がいた。
リチャードソン少将の名で日本海軍へ招待状を送り、親善訪問として海軍将兵を呼んでみてはどうか。
その提案は驚くほどすんなり通り、大使館を通じて送られた招待状に対し、日本海軍は「喜んで伺わせていただく」と即答した。
こうして、日本海軍の軍艦がマニラを訪れることになった。
日本海軍にしてみれば、断る理由はない。
戦力を増強されたアジア艦隊の情報が欲しい。拡張工事中のマニラ海軍基地の状況を見たい。新型駆逐艦を近くで観察したい。
親善訪問の名目で相手の懐に入り込めるのなら、これほど都合のよい話はなかった。
もっとも、日本海軍も抜け目はなかった。
相手の情報は欲しいが、こちらの手の内は見せたくない。
派遣艦として選ばれたのは、練習艦八雲だった。
八雲は、日露戦争で黄海海戦、日本海海戦の両方に参加した古参の武勲艦であり、ドイツから購入した大型の装甲巡洋艦である。
旧式とはいえ、1万トン近い排水量と20.3cm砲4門、15.2cm砲12門を持つ大型艦だ。
練習艦になった旧式の外国製の軍艦をいくら調べても何も得るものは無い。
堂々と艦内を見せても何の支障も無い軍艦だった。
そして、艦内にはドイツから購入した調度品があり、内装は綺麗で豪華だ。
戦闘艦として役に立たないが、親善訪問の船として相手に失礼がない。
親善大使として選ばれたのは、八雲艦長の醍醐忠重大佐だった。
公卿華族たる醍醐侯爵家の嫡子として生まれ、早世した父から爵位を継いで幼くして醍醐侯爵となった名門の華族軍人である。無私無欲、質実剛健な指揮官として部下から慕われ、海軍兵学校では品行優良章を授与されたほどの品行方正な人物だった。
見栄えも血筋も申し分なく、しかも本人に嫌味がない。こうした席には実に向いている男だった。
マニラに上陸した醍醐忠重大佐は現地の新聞を見て、妙な違和感に気付いた。
アメリカ人にはアジア人の区別はつかないが、日本人はかなり細かく見分けられる。
同じアジア系でも朝鮮人や中国人は日本人と違いが解るし、ポリネシア人種であるフィリピン人ともなればかなり明確に区別できる。
フィリピン軍元帥はいつもサングラスをかけて、大きなコーンパイプを咥えているが、顔つきが日本人にそっくりすぎる。
そして、フィリピン軍元帥が妙に指名手配犯に似ている気がした。
だが、常識的に考えて、数年前に指名手配された人間が外国で元帥になれるはずがない。どう考えてもあり得ないと思って否定した。
到着早々に、日米合同演習をやらないかと持ちかけられた。
それも、下に出て日本海軍がアメリカの駆逐艦を艦隊指揮してみないかとまで言いだした。
アメリカ軍の意図は単純で、日本軍の無線から指揮手順まで実際のやりとりをして情報を得ることだった。
戦争とは友好的なフリをしている平時から始まっている。仲良くしたいと言って、相手のことを探る笑顔の戦争だった。
日本語学習を命じられた30人の将校は日本海軍の士官候補生が受けている授業を実際に受講させてもらい、交流会と称して将校から下士官に兵隊まで幅広く話をさせてもらった。
アメリカ側が知りたいことは日本海軍が実務でやりとりする言葉や文字であり、新型軍艦が見たいわけでは無い。
日本側は兵器や暗号に関する機密保持は厳格だが、一般的な軍務については機密意識がなかった。
微笑ましい交流に見えるが、全ては情報戦の準備だった。
数日後、醍醐大佐は部下と士官候補生を引き連れ、アメリカ軍の航空機基地を見学させて貰った。
そこで、フィリピン軍大佐の軍服を着ているが、よく知っている男に出会った。
醍醐大佐は思わず足を止めた。
海軍兵学校四十期の同期、予備役に追い出されたと聞いていた大西瀧治郎だった。
「大西じゃないか……」
呼ばれた大西は、一瞬で顔色が変わった。
どうして醍醐がこんな場所にいるのか。しかも一人ではない。大勢の部下と士官候補生まで引き連れている。
大西の心臓は、音を立てて縮み上がった。
彼は慌てて名刺を差し出した。
航空機のコンサルタントとしてフィリピン軍で働いている、大佐待遇を与えられているため軍服の着用を許されている。
そうした苦しい説明を、日本語で矢継ぎ早に並べ立てた。
だが、弁明が必死であればあるほど、かえって怪しい。
そのやり取りを見ていたアメリカ軍の将校たちも、さすがに不審を覚えた。
ブライアント少佐は顔をしかめた。
フィリピン軍の少将が日本から連れて来た男がいる程度の話は知っていた。
その少将はいまや元帥となり、連れて来た日本人はフィリピン軍大佐として基地を歩いている。
何がどうなっているのか、良く分からなかった。
日本海軍とアメリカ海軍、双方の将校たちに囲まれた大西は、ついに耐えきれなくなった。
「す、すみません、用事があるので……」
そう言い残すや、走って逃げ去った。
これ以上何かを聞かれれば、致命的な綻びが出る。そう直感したのである。
醍醐大佐とブライアント少佐はお互いに「あの人は誰ですか?」と聞きあった。
両者とも知っていることを正直に話したが、納得のいく答えは出なかった。
大西は急いで牟田口の所へ報告に行った。
話を聞いた牟田口はマズイと思った。
正体がバレたら破滅だ。
「日本に戻る前に始末しなければ……」
だが、どうやって口封じすればいいのか、親善訪問に来ている海軍大佐で侯爵が殺されたら外交問題だ。
日本が黙っているはずが無い。
アメリカ海軍が徹底した調査を行えば隠し通せない。
しかも、大西が対面した将校は一人や二人では無い、士官候補生を含む将校団と会っている。
進退窮まった大西は非現実的な事を言い出した。
「帰り道で軍艦ごと沈めるしか……」
日露戦争時代の旧式とはいえ、一万トン近い軍艦が簡単に沈むはずが無い。船底に爆弾を仕掛けたぐらいで都合良く全員死んでくれるとは思えない。
フィリピン軍には軍艦を撃沈できるような装備は無い。あるとしたら、アメリカ軍だけだ。
中国軍は日本と交戦状態にあるから撃沈してもおかしくは無いが、中国軍には海軍兵力も軍艦を撃沈できるような航空兵力も無い……
なんとかしないと破滅だ……




