表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
36/37

天皇より偉いムタグチ元帥

 三人の肖像画が描かれた未来の紙幣は、ビセンテ・リムを動かしただけではなかった。

 彼が最初に打ち明けた相手は、未来から贈られた1000ペソ紙幣に共に描かれているホセ・アバッド・サントス司法長官だった。

 法を知り、国家の屋台骨がどこまで腐っているかを知る男だ。

 そして、未来の世界では日本軍から傀儡政府の大統領になれと迫られても拒絶し、銃殺されたほど潔癖な人物だった。

 サントス司法長官は未来から贈られた1000ペソ紙幣を見せられ、話を最後まで聞くと、しばらく目を閉じていたが、やがて問いかけをした。


「問うべきは一つです、『未来からの贈り物』を私利私欲のために使うのか、これから生まれる祖国の為に使うのか」


 次に加わったのは、未来から贈られた1000ペソ紙幣に共に描かれているホセファ・リャネス・エスコダだった。

 婦人団体と社会事業の世界で名の知られた活動家で、若い娘たちを教育し、未来のためにガールスカウトを組織化しようとしていた。

 彼女は未来の紙幣を見つめたまま言った。


「汚職を無くす方法は人を育てることです。子供達に正義を教え、正直な子どもを育てることです」


 フィリピンで一番の富豪になった人物は、貧しい中でも1000ペソ紙幣を使わなかった。

 彼にとっては聖人の肖像画であり、金では無かったのだ。

 彼が死んだ後に残された六人の子供達は争わず、力を合わせ『未来からの贈り物』を送ってきた。

 六人の子供達にとって、亡き父の形見は200億ドルの財産よりも価値があったはずだ。

 それを、フィリピンの未来のために自分達に託した。


 三人は未来の世界でフィリピンの偉人として1000ペソ紙幣に自分の肖像が描かれる事を知った。

 それは、侵略してきた日本軍に逆らって殺されたからだが、自分達が死んでも未来へ希望が託された事実でもあった。

 三人にとって未来から贈られた財宝は、今から生まれる祖国を守るための道具でしか無い。

 まだ存在しない1000ペソ紙幣こそが彼らの旗印であり、未来から託された聖遺物だった。

 未来を知った彼らは腐敗と汚職にまみれたフィリピンを改革しようと誓い合った。

 その誓いには本来の歴史には存在しないはずの、四人目の手が添えられた。


 アバッド・サントスは法の道を整えた。

 憲兵総監ホセ・デ・ロス・レイエスの管轄の下に、軍と軍需に関わる汚職を摘発するための「特別査察部」を設ける。平時の通常裁判権は侵さず、軍契約・兵站・軍紀に関する案件だけを扱う。必要な場合には大統領令に基づいて臨時軍事法廷を開く。

 制度の外に新しい怪物を作るのではなく、既存の制度を無理やり拡張して、怪物が入り込む隙間をこしらえたのだった。


 その隙間に入り込んだのが牟田口だった。

 彼の配下には「特別保安隊」と呼ばれる選抜兵が置かれた。名目は軍紀維持と軍需犯罪捜査である。だが、実際には敵対派閥を脅し、証人を囲い込み、帳簿を押さえ、敵を黙らせるための暴力装置だった。


 ビセンテ・リムは、それを必要悪だと自分に言い聞かせた。

 腐敗を裁くには力が要る。

 法を守るためには、まず法を食い物にしてきた者どもから牙を抜かねばならない。

 特別査察部は獲物を食い殺していった。


 未来から送られた財宝は新聞にも、議員にも注ぎ込まれた。

 新聞は金払いの良い牟田口達を絶賛する提灯記事を載せ「新しいフィリピンの夜明け」とはやし立てた。


 やがて刃は、大物に向いた。

 司法長官アバッド・サントスは、ケソン政権周辺の資金の流れを洗い始めた。

 軍備計画にからむ口利き、政治献金の偽装、側近たちの不正蓄財。さらに追及を進めるうちに、マッカーサー元帥にも、説明しがたい金の動きが見つかった。


 フィリピン防衛計画作成の謝礼。

 顧問契約に付随する不透明な支出。

 それはアメリカの法制度においても違法だった。


 そこを、アバッド・サントスは容赦なく突いた。


 彼らは醜く権力にしがみつくケソンを弾劾した。

 マッカーサーはフィリピン政界を巻き込んだ醜聞の中心人物として糾弾され、アメリカ本国への召還を余儀なくされた。

 旧体制は揺れた。国民議会は紛糾し、非常時の挙国一致内閣を作るための臨時法が通された。


 混乱の果てに、アバッド・サントスは臨時選挙を制して大統領に就いた。

 副大統領にはホセファ・リャネス・エスコダが立った。

 ビセンテ・リムは大将に昇進し、参謀総長となった。


 そして国民は、四人目の英雄の名を叫んだ。


 レオナルド・レイエス・ムタグチ。


 汚職を断ち、正義を通し、悪徳政治家を震え上がらせた男。

 新聞は彼を「正義の改革者」と呼んだ。


 マッカーサー失脚の後、空席になったフィリピン軍元帥位をどうするかが議題に上ったとき、最初は誰も本気にしなかった。

 だが農村から、兵営から、都市の下町から、レオナルド・レイエス・ムタグチを推す声が湧き上がった。

 その声は牟田口が新聞とラジオに財宝をばら撒いて、作らせた声だった。

 国民議会は臨時立法として元帥位の再授与を認め、アバッド・サントス新大統領が署名した。


 こうして、レオナルド・レイエス・ムタグチ元帥が誕生した。


 「特別保安隊」は「特別高等警察軍」と名前を変え、独立した強大な権力を手にした。

 その権力は牟田口を「正義の改革者」と信じた国民が与えた物だった。


 権力を手に入れた牟田口は地方の大地主たちを標的にした。

 罪状は見事なほど綺麗で正当だった。


 この時代のフィリピンで小作人を虐待した事が無い大地主などいない。

 小作人を虐待死させても誰も文句を言えないのが当たり前だった。

 大地主は気に入らない小作人を殺すことが罪だと思えないほど腐っていた。


 牟田口は小作人を棍棒で殴り殺した地主に目を付けた。

 牟田口はそれを法に照らして、殺人罪で逮捕起訴した。

 牟田口の行いが正当な警察権の行使であり、正当な司法であることはアバッド・サントス大統領も認めるしか無かった。

 裁かれる者は納得しなかったが、苦しめられ、傷つけられた人々は正義だと賞賛した。


 地主を刑務所にぶち込むと、土地を慰謝料と賠償として殺された小作人の遺族へ分け与えた。

 地主が溜め込んでいた金も農村の共同財産にすべきだと言って、ばら撒いた。


 未来から贈られた財宝の一部を受け取った新聞やラジオは、大地主に酷い目に遭わされた農民の惨状を報道した。

 彼らを救ったのは正義の改革者、レオナルド・レイエス・ムタグチ元帥だと提灯記事を書いた。


 解放された農民たちは、ムタグチ元帥を英雄として仰いだ。

 牟田口は彼らの前で、アメリカの言葉を借りて演説した。


「圧制に抗する民には、自らを守る武器を持つ権利がある」


 立派な言葉だった。

 だが彼が本当に欲していたのは、自由な市民ではない。兵隊として従順な群衆だった。


 彼は農民たちに銃を持たせた。

 軍服を村で縫わせ、靴をそろえさせた。

 買えない者にはアメリカから導入したクレジットカードで借金させた。

 重機関銃や火砲などの重火器は村単位や町単位での共同財産として購入させた。

 その購入資金と担保は大地主を処刑してばら撒いた土地や財産だった。


 彼らは手にした武器を、自分たちを守る権利だと信じた。


 若者たちは喜んで軍に志願した。

 正義を信じて、ムタグチ元帥の旗の下に集まった。


 その姿を見て、牟田口は内心で笑っていた。

 兵隊が自分から銃を担いでやって来る。

 しかも、その費用まで自分たちで払ってくれる。


 彼がやっていることは、表向きには「正義の改革」だったが。

 実態は、金持ちを殺して貧乏人にばら撒いているだけだった。

 短期的には熱烈に支持される。だが長期的には資本を食い潰し、国民を借金漬けにする政策だが。

 それで構わなかった。


 牟田口は、フィリピンの未来など考えていなかった。

 彼が必要としていたのは、日本軍が押し寄せてきたとき、死ぬまで戦い続ける兵隊だった。

 戦争が終わった時にフィリピン人が半分になっていようが、自分が勝者の側に立っているならそれでいい。


 十個軍管区で実施された動員計画は、狂ったような勢いで進んだ。

 徴兵制は書類上だけの存在になり、志願者だけで十分すぎる兵力が集まった。

 だれもが軍に入れてくれと自分から志願してきたからだ。


 優れた武器を持参している人間は入隊初日から階級を高くした。

 民衆は軍で高い階級に付くために、地主から取りあげた土地を売り払い、借金して高価な武器を買ってきた。


 自分の財産を守るために牟田口に恭順の意思を示した資産家はアメリカ製の高価な武器と部下を引き連れてやってきた。

 そうした人間はすぐに、自前で連れてきた人数に応じて中尉や大尉の階級が与えられた。


 やっていることは、自前で装備と給料を与えた兵隊を集めれば誰でも将校になれた、アメリカ独立戦争時代のようだった。

 銀貨四万ドルを軍に寄付して将軍になったデイヴィッド・ポー将軍のような事をやっていた。

 フィリピン軍は近代軍どころか、一世紀前の軍隊のようになっていた。

 その原因は、自前で兵器や兵隊を揃えることが、最短で将校になれる方法だと牟田口が広めたせいだった。


 三十個師団編成のフィリピン陸軍は予算を伴わない机上の空論でしかなかったが、ムタグチ元帥の狂気によって実現した。


 こんな軍政が長期的には維持不能になる事は解りきっていた。

 だが、目標は遠い未来では無い、数年後に日本が侵略してきた時に勝利できる軍だった。


 その影で大西(おおにし)瀧治郎(たきじろう)には、兵器調達顧問として大佐待遇が与えられた。

 彼はマニラとワシントンの間を飛び回った。資金は潤沢にあるが、金をまともに支払えば一つしか買えない物も、政治家と将軍の懐に滑り込ませれば十にも百にも増える。

 大西はそのことを、よく知っていた。

 彼はアメリカ軍の高官に賄賂を渡し、航空戦力の拡張計画を動かした。

 大型飛行場を優先して整備し、爆撃機用の燃料貯蔵所を造らせ、アメリカ本国の生産計画にフィリピン向けの割当をねじ込んだ。

 B-17の優先供給、P-40戦闘機とA-24急降下爆撃機の前倒し配備、訓練機材の調達、本格的な航空戦力がアメリカから送られてきた。


 マッカーサーは去った。

 旧支配者は追われた。

 いずれ日本が敗れ、GHQが現れた時、その頂点に立つのはアメリカの老将ではない。

 自分だ。

 自分が、その場所に立つ。


 牟田口は、マッカーサーが使っていた高級ホテルのスイートルームでマニラの夜景を見下ろしながら、静かに呟いた。


「天皇より偉いムタグチ元帥」


 日本を屈服させ、天皇に靴を舐めさせる男。

 日本の全てを見下ろす勝者。

 そう呼ばれる日が来ると夢想していた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
インパール作戦を最初に聞いたときは「補給、兵站が持たんわ!」と言って蹴った程度には金勘定できるのに…… やっぱ、ムチャ口なんか?
これはきっとムタグチ元帥いってしまうな
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ