東郷財宝と人狼
妙な噂が静かに広がっていた。
東郷元帥はお召し艦「比叡」に乗ってアフリカまで赴き、そこでいったい何をしていたのか。
ことの発端は、あまりにも曖昧で、しかもあまりにも魅力的だった。
日本の財界人たちのあいだで、東郷元帥に差し出した金塊がどうなったのか、噂話が交わされたからだ。
その金塊がウラン鉱石の買い付けに充てられたことは、軍機に属していた。
ゆえに、差し出した当人たちでさえ、その後の行方を知ることは許されていない。
だが、秘密というものは、規模が大きくなればなるほど、完全には隠しきれない。
東郷元帥が声をかけた相手は華族、財閥、政商、成り上がりの富豪まで広範囲に及んでいた。
立場も流儀も違う彼らだったが、社交場や会食の席で顔を合わせれば、いずれ同じ話に行き着いた。
「あのとき、元帥に頼まれて金塊を差し出した」
「そうだ、自分もだ」
「それでは、おまえの金はどこへ消えた」
「私が知るものか、そちらこそ聞きたい」
そんな押し殺した声音の応酬が、帝都の奥まった座敷や洋館の応接間で、幾度となく繰り返された。
日本中から集められた金塊は、総計すれば一トンにも達する。
一個人の道楽でもなければ、投機でもない。
東郷元帥が私利私欲で使ったとは考えられない。
では、それほどの黄金はどこへ消えたのか。
答えのない問いは、やがて人々の想像力に火をつけた。
アフリカの奥地に、東郷財宝が眠っている。
いつ誰が最初に言い出したのか、もはや確かめようもない。
だが、そうした伝説は、事実である必要などなかった。
人は真実よりも、胸を熱くさせる物語に飛びつく。
「アフリカの奥地に、一トンの金塊が隠されている」
その一文だけで十分だった。海を越え、国境を越え、噂は独り歩きを始めた。
日本のみならず、欧州にも、アメリカにも、果ては現地の植民地社会にまで、東郷財宝の名は妖しい光を放ちながら浸透していった。
そして、黄金の匂いに釣られた者たちがアフリカへと群がり始めた。
山師、冒険家、失業兵、詐欺師、没落貴族、新聞記者、そして己を次の時代の王と信じて疑わぬ夢想家たち。
それぞれの欲望を胸に、黒い大陸へと吸い寄せられていった。
困り果てたのは、ウラン鉱石の買い付けに来ていたアメリカ人たちだった。
鉱山の操業率が、目に見えて落ちていた。原因は明白だった。
坑道に降りるべき男たちの多くが、つるはしではなく夢を抱き、財宝探しにうつつを抜かしていたのである。
昨日まで鉱石を掘っていた労働者が、今日は地図とも呼べぬ走り書きを手に密林へ消える。
現場監督が怒鳴り散らしても、賃金を上乗せしても、坑夫たちの目はすでに鉱脈ではなく黄金の幻に奪われていた。
ルーズベルトは進まぬ事態に業を煮やした。
彼は、欧州諸国が背負う莫大な対米債務に目をつけた。
ベルギーとポルトガルに対し、返済不履行を名目として圧力を加え、港湾施設から内陸輸送路、さらには鉱山そのものに至るまで、差し押さえの強制執行に踏み切った。
差し押さえの実行部隊として、アメリカ海兵隊の第1海兵旅団と第2海兵旅団、合わせて五千人に及ぶ兵力がアフリカへ派兵された。
書類の上では、それはあくまで正当な債権回収だった。
だが、銃剣を伴う徴収を、侵略と呼ばずして何と呼ぶのか。
ベルギーとポルトガルは激しく反発し、侵略戦争だと非難した。
だが、非難は砲弾のかわりにはならない。
アメリカ海軍により、制海権は真っ先に奪われた。
ベルギーにはアフリカ植民地に派遣できるような海軍艦艇が無く。
ポルトガルですら通報艦を派遣するのが精一杯だった。
アメリカ海軍の重巡洋艦から20センチ砲9門の斉射を受けたポルトガル海軍の通報艦アフォンソ・デ・アルブケルケの乗員は絶望した。
排水量1,780トンの船体に12センチ砲4問しかない通報艦で海戦など出来ない。
彼らには白旗をあげる以外の選択肢は無かった。
制海権を失った時点で、勝敗は決した。
星条旗を掲げた輸送船団が次々と上陸していく。
ベルギー軍もポルトガル軍も植民地を支配するための警備軍にすぎず、統一された指揮系統どころか、連絡手段すら整備されていない。
抵抗する艦艇どころか陸上の火砲すらなかった。
上陸した海兵隊は手際よく港を制圧した。
補給も増援も断たれた植民地守備隊は無駄な抵抗を放棄した。
すぐに、鉄道が押さえられ、鉱山地帯も次々と占領されていった。
海兵隊がポルトガル領アンゴラ、ロビト港を制圧したころ。
港町の片隅に身を潜めながら暗号無線を送る者たちがいた。
大日本帝国海軍の諜報員である。
彼らの任務は重大だった。
日本以外の国が、原子爆弾の原料となる鉱石へ手を伸ばさぬよう監視すること。
アメリカに核兵器を持たせるわけにはいかない。
それは、日本にとって未来の敗北を意味していた。
だからといって、アメリカと正面から戦争を行う事は出来ない。
公然たる衝突は二度目の開戦になる。
ならば、方法はひとつしかない。
日本が背後で糸を引いていると悟られぬ形で破壊する。正規戦ではない、名も旗も持たぬ者たちによるゲリラ戦だ。
問題はこの時代のアメリカ海兵隊は白人しかいない、日系人どころかアジア系すら珍しい。日本人がアメリカやポルトガル、ベルギーの軍人に化けるのは無理がありすぎた。
だが、日本にはこれ以上なく適した人材がいた。
祖国を失った亡命ドイツ人たちである。アメリカ人にはドイツ系移民が多くいる。
ドイツ語訛りの英語を話すアメリカ人もそれほど珍しくない。
英語が堪能なドイツ人なら、なりすますのは難しくない。
ハンス・アドルフ・プリュッツマンは日本の密使を前にして、自らその役目を買って出た。
アメリカが血を流すよう、見えぬところから刃を差し込んでやると。
亡命ドイツ人部隊、人狼部隊は、暗い倉庫の中で誓詞を口にした。
彼らには帰るべき故郷がなく、守るべき祖国もなく、ただ胸の底に煮えたぎる憎悪だけが残されていた。
「憎悪こそ我らの掟、復讐こそ我らの合言葉」
低く、押し殺した声が湿った空気を震わせた。
この戦いには勲章はない。
軍旗もなければ、公式記録も残らない。
成功しても誰も讃えず、失敗すれば犯罪者として吊るされるだけだ。
すべてを失ったドイツ人たちは、胸の奥に黒々と燃える炎を抱え、アフリカの闇へと足を踏み入れていった。
その先に待つのが栄光であれ破滅であれ、もはや誰ひとり、引き返すつもりはなかった。
人狼部隊が行った攪乱工作は効果抜群だった。
ウラン鉱石を輸出させないためのデマを流した。
坑夫に変装した工作員がウラン鉱石をハンマーで叩き割ると、懐に隠していた純金の小さな板を取り出して「金塊があった」と大声で叫んだ。
それだけで、鉱山はパニックになった。
誰もが手当たり次第に鉱石を叩き割り始めた。
たった一欠片の金塊が掲げられただけで坑夫達は持ち場を放棄した。
定期的に町の酒場で「あそこに東郷財宝がある」とデマを流すだけでも効果はあった。
アメリカ海兵隊までもが財宝探しに任務を放棄するようになった。
そして、アメリカ軍は五千人あまりの兵力で数百キロに及ぶ鉄道と鉱山と港を警備するには人手が足りない。
必然的に見回りに出る部隊は小隊から分隊程度にまで細分化されてしまう。
そこをポルトガル軍の軍服を着て奇襲した。
まだ携帯できる長距離無線機すらない時代だ、連絡すら取れずにジャングルに消えてしまう兵隊が続出した。
人間に化けた人狼達は確実に敵を食い殺していった。




