五・一五事件
島流しにされた牟田口廉也は、何とかしてこの境遇を変えようと、同期から元上官に至るまで知っている将校へ片っ端から手紙を送った。
哀れを誘ったのか、同期の一人が手を回してくれた。
一泊二日だけ上京できる命令書が交付された牟田口は離島を出て帝都へ向かった。
何か月ぶりかで帝都へ戻った牟田口は、簡単な連絡業務を終え、夜になると同期の仲間達が集まって宴会を開いてくれた。
久々に顔を合わせた同期から慰めの言葉を受けた。
牟田口は左遷されるまでは、同期の中でも出世頭の一人に数えられる男だった。
さすがに、誰ひとりとして、あの人事が正当だとは思っていなかった。
だが、酒が回った席で、陸軍省勤めの男が、ぽろりと余計なことを口にした。
「三長官に、海軍から反逆者の名簿が渡されたらしい」
「牟田口、お前の名もあったんじゃないか」
一瞬、座が静まった。
軍機といっても、海軍が抱えているという謎の資料『未来からの贈り物』にまつわる噂は、すでに陸軍の中にも広まっていた。
通常の人事手続きではなく、陸軍最高幹部たる三長官の前で会議が開かれ、牟田口たちの左遷が決まった、という噂話も語られていた。
たった一言。
酒席の冗談とも取れる軽口だった。
しかし、その場の空気はそれだけで冷めてしまった。
牟田口は、反逆者になるから左遷されたのか。
誰も納得できなかった左遷の理由として、その説は妙に筋が通っていた。
むしろ、軍人として決して許されぬ何かを犯す男だと上層部が判断したからこそ、ああいう乱暴な処分になったのだ――そう考えれば腑に落ちる。
慰めるはずの席だったのに、同期たちは次第に牟田口から視線をそらし始めた。
励ます会は、その一言を境に急速に冷えた。
二次会に呼ばれることもなく、牟田口は一人で宿舎へ戻った。
その夜、牟田口はすべてに絶望した。
自分の軍人としての経歴は終わった。
何もしていない。
何ひとつ落ち度などない。
それなのに、自分は反逆者だと断じられ、北の孤島へ追いやられた。
証拠は何だ。
海軍が抱えているという、占いじみた、得体の知れない何か。
そんなもので断罪されたのか。
牟田口は、そこで悟った。
島流しにされた者は、みな反逆者名簿に載っていた……
ならば、自分たちは海軍が手にした、不吉な「未来」によって裁かれたのか。
まだ起こっていないことを理由に罪人扱いされたのなら。
いっそ、その未来通りになってやる。
北の孤島へ戻った牟田口は、同じく左遷された者たちと密かに語り合い、やがて反乱計画を練り始めた。
春になれば、北洋漁業の季節が始まる。
太平洋漁業の所有する神武丸は、満載排水量一万一千百八十トンの大型貨物船だった。
イギリスで建造され、明治四十四年に日本へ売却された老朽船で、外見もくたびれていた。
いまは蟹工船に改装され、五百七十三名の漁夫を乗せて北洋漁業に来ている。
その日、神武丸が島の近海で蟹網を広げていると、臨検だと称して海軍の小型船が近づいてきた。
申し訳程度の砲を載せたその船には、過積載としか思えぬ人数の軍人が乗っていた。
しかも、乗っていたのは海軍ではなく陸軍だった。
臨検を名目に乗り込んできた彼らは、いきなり船長へ銃口を突きつけ、島へ寄港するよう命じた。
神武丸が島へ横付けされると、船を動かすのに必要な五十人の船員だけを残し、五百七十三人の漁夫は全員下ろされた。
牟田口中佐の配下、将兵と下士官あわせて九十九名が神武丸を乗っ取った。
老朽漁船は、最大でも十ノットしか出ないが、東京湾まで持てば十分だから全速を命じた。
艦長役を務める三上卓中尉が、海図を前にして航路を弾いた。
「六百三十海里。全速で六十四時間だな」
牟田口は、かすかに笑った。
「島にある船も無線も、全部壊してきた。あの孤島から連絡する手段はない」
海軍の藤井斉大尉も、口の端を吊り上げた。
「俺たちを馬鹿にした連中に、一泡吹かせてやる」
古賀清志中尉は船員に拳銃を突きつけ、会社宛てに「異常なし、操業継続中」と偽の無電を打たせた。
五月十五日。
日付が変わった深夜、北洋漁業へ出ていたはずの蟹工船・神武丸は、ひそかに東京湾へ入った。
神武丸から小型の川崎船が下ろされる。
反乱将兵はそれに分乗し、東京湾から隅田川を遡上して、勝鬨橋近くから上陸した。
海軍省までは直線で二キロあまり。
彼らは軍人らしく整然と隊列を組み、深夜の帝都を静かに進んだ。
やがて見回りの歩哨と遭遇した。
こんな時刻に部隊が行動しているとは聞いていない。
歩哨は不審を覚え、先頭の将校に誰何した。
牟田口は暗闇の中で、ためらいなく銃剣を抜いた。
刃が歩哨の腹に深く刺さった。
油断していた相手は、短く息を詰まらせ、そのまま崩れ落ちた。
牟田口がそのまま刃をひねると、低いうめき声が闇に吸われた。
部下たちも迅速に動いた。
海軍省前に立っていた歩哨たちは、声を上げる暇もなく刺し倒されていく。
完全に油断していた衛兵たちは、暗闇の中で次々と殺された。
海軍省は、あまりにも無防備だった。
牟田口たちの目的は、海軍省を制圧すること自体ではない。
自分たちを島流しにした根拠となった軍機『未来からの贈り物』を奪うことにあった。
それが具体的に何なのか、彼らは知らない。
海軍省の奥深くに隠され、未来を知ることのできる何か。
その程度の、漠然とした噂しか知らなかった。
牟田口は半ば本気で占い師でも居るのでは無いかと思っていた。
そいつを八つ裂きにする。
それだけが、彼らをここまで動かしていた。
一方、山本五十六の副官を務める井上成美大佐は、その夜は帰宅していた。
だが何の備えもしていなかったわけではない。
海軍省に隣接する東京海軍無線電信所には、特務部隊が待機していた。
史実の五・一五事件や二・二六事件を未然に防ぐための方策はすでに巡らされていたが、同種の事件を別人が起こさない保証はない。
そう主張した井上の提案により、海軍省を守るための特務部隊が密かに編成されていたのである。
表向きの名称は「海軍広報隊」。
海軍の広報隊のはずなのに、なぜか戦車がある。
機関銃も大砲もある。
軍の事情を知らぬ者が見れば、陸軍部隊と見間違えても不思議はない。
海軍省で最初の銃声が響いた瞬間、彼らは飛び起きた。
井上大佐から「海軍省がいつ襲撃されてもおかしくない。常時即応せよ」と厳命されていた。
彼らは何が起きたかを瞬時に悟り、そのまま戦闘態勢へ移った。
海軍省の中では、牟田口が当直将校へ血まみれの銃剣を突きつけ、軍機を保管している部屋を吐かせていた。
案内された先の扉を破壊し、彼らは資料室へ入った。
部屋の中には一斗缶ほどの大きさの金属箱が棚にずらりと並んでいた。
同じ金属箱が、ざっと六十はある。
本棚には、見たこともない装丁の書籍がぎっしり詰まっていた。
「これが……自分たちを島流しにした元凶なのか」
牟田口は目の前の光景に一瞬たじろいだ。
理解が追いつかない。
室内の灯りをつけ、本棚へ近づいたそのとき、ふと一冊の背表紙が目に留まった。
『牟田口廉也とインパール作戦 日本陸軍「無責任の総和」を問う』
牟田口は、その本を引き抜いた。
ぱらぱらとめくる。
斜め読みしただけで十分だった。
そこに書かれているのは、自分のことだった。
まだ起きてもいない未来の、自分自身のことが書かれている。
牟田口は、ついに真相を知った。
「海軍が抱えている軍機とは……未来から届けられた歴史資料だったのか」
そのとき、遠くで機関銃が吠えた。
海軍省を襲撃した反乱兵を制圧するため「海軍広報隊」の名を借りた特務部隊が反撃を開始したのである。
牟田口は即座に状況を悟った。
すぐに陸軍も動く。
このまま立てこもっても、全員殺されるだけだ。
彼は素早く本棚から数冊を選び、雑嚢へ放り込んだ。
そして、脱出を決意した。
牟田口は軍機に火を放つと、暗闇に紛れて姿を消した。
朝日が昇るころには、反乱部隊は完全に鎮圧されていた。
多数の死体が確認された。
だが、数を改めると、十人分の死体が足りなかった。




