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是空管

 山本五十六のもとへ、株式会社芝浦製作所の社長がやって来た。

まだ書かれていない自社の社史と、未来の技術資料を託された男は上機嫌だった。

持参した試作品を前に、抑えきれぬ笑顔を浮かべていた。


「トランジスタが完成しました」

「焼け野原の中から日本を復興させた未来の記録は、まことに見事なものであります」


 その瞬間、山本の傍らに控えていた副官が怒鳴り声を上げた。

「未来の情報は軍機である! 神州日本が焼け野原になる事など断じて無い!」


 社長はびくりと肩をすくめた。

 山本閣下その人は気さくで話しやすいのに、副官は扱いにくかった。四角四面で融通というものがない。社長は邪魔な男だと思っていた。


 もっとも、山本五十六自身も、その口やかましさには少々辟易していた。

 海軍省軍務局第一課長から海軍次官附の副官を命ぜられた井上成美大佐は、口うるさいことにかけては海軍随一といってよかった。

 だが、それも無理はない。大日本帝国の命運を左右しかねない『未来からの贈り物』の管理という特命まで帯びている立場である。そういう役には、四角四面で神経質な男のほうが向いているのも事実だった。


 まだどこの国も実用化していない、乾電池四本で動く超小型ラジオ。

 その試作品は、たしかに完成していた。


 詳細な製造法だけではない。工程管理、品質管理、歩留まり改善、量産に至るまでの失敗談と工夫、戦後の東芝が苦闘の末に積み上げた知見が、未来の社史には詰め込まれていた。

 芝浦製作所の社長にとって、それは金鉱脈にも等しい資料だった。


 だが、井上大佐はその技術的価値よりも先に、言葉に噛みついた。

「トランジスタなどという名は使いたくない、日本語名を与えよ」


 日本が発明したと世界に言い張る以上、日本語の名が要る。

 山本五十六は腕を組んで考え込んだ。

「電解液のない乾いた電池が乾電池だ。ならば、真空のない真空管か?」


 しかし、それではいかにも間に合わせめいている。

 社長も頭の中がトランジスタという言葉でいっぱいになっていたせいで妙案が浮かばなかった。

「真空、vacuumに対して、満たされている状態は……プレニズム、でしょうか?」


 言い終えるや否や、井上大佐が一喝した。

「外国語を使うな! 日本語で命名しろ!」


 社長は首をすくめた。

 未来から来た技術なのだから、未来の言葉で押し通してもよいのではないか、そう思ったが、この副官には通じない。

「それでは……半導体管、ではいかがでしょう」


 だが、井上大佐はなお首を縦に振らない。

「原理や構造が推測できる名は駄目だ」


 注文ばかり多い。

 社長がうんざりしかけたところで、山本五十六がふと顔を上げた。


「真空という言葉も、もとは仏教用語だったな」

「色即是空にかけて『是空管(ぜくうかん)』ではどうだ」


 社長が勢いよくうなずいた。

「それは結構ですな。いかにも、お釈迦様のご加護がありそうな名前です」


 たしかに、仏教に由来する語なら欧米人には意味が理解出来ない。しかも原理や構造を全く示していない。

 井上大佐はしばらく黙っていたが、やがて、しぶしぶといった調子でうなずいた。


「よろしい、それで行こう」


 こうして、トランジスタと呼ばれるはずだった物は是空管(ぜくうかん)と名づけられた。

 だが、命名が済んでも、肝心の量産には大きな壁が残っていた。

 芝浦製作所の社長は、表情を引き締めて切り出した。


「大量生産にあたって、一番の問題は原材料であります」

「原料となるゲルマニウムもセレンも、現状ではアメリカからの輸入に頼らざるを得ません」


 今の時代、ゲルマニウムは、面白い性質を持つものの用途の乏しい希少元素にすぎない。

 セレンもまた同様で、まさかそれらが国家的な戦略物資になるとは、誰も考えていなかった。

 社長は、未来資料の一節を思い返しながら言葉を継いだ。

「『未来からの贈り物』によれば、ゲルマニウムもセレンも石炭に微量ながら含まれております」

「石炭を燃やした灰から回収することが可能であります」


「石炭の灰なら、いくらでもあるぞ」

 山本がそう言うと、社長は苦い顔でうなずいた。


「はい、問題は濃度があまりに低いことです」

「回収そのものは可能でも、抽出工場の規模が大きくなります」


 山本五十六は眉間を押さえた。


「結局、予算か……」


 社長はそこで、かねて温めていた提案を口にした。

「お願いがあります。一部を民生品として販売する許可をいただけませんか」

「民需向け製品の売上で量産設備の費用をまかない、そのうえで軍へ納めます」


 山本は少し考えたのち、問い返した。

「ラジオにして売るのか?」


「はい。まず最も需要が見込めます」


 真空管式の大きな受信機とは比べものにならぬほど小さい、携帯可能な受信機。

 真空管ラジオのような高価で重いA電池とB電池の二種類を使う物とは電池代も桁違いに安い。

 懐中電灯用の乾電池で動く是空管ラジオは、従来の常識を覆す商品になる。


 やがて、新聞に広告が出た。


是空管(ぜくうかん)ラジオ、新発売」


 これまでのラジオとはまるで大きさが違う。

 持ち運べるほど小さな受信機は、たちまち評判を呼んだ。

 国内市場だけではない。輸出品としても破格の売れ行きを示し、その波は海を越えアメリカにまで及んだ。


 最初に飛びついたのは、当然ながら若者だった。

 これまでラジオといえば、応接間に据えられた家具の一種である。家族全員で前に座り、静かに耳を傾けるものだった。

 だが、是空管ラジオは違った。鞄に収まり、片手で持って歩ける。

 学生は寄宿舎へ持ち込み、工員は工場の休憩時間に自分のラジオに耳を寄せ、商人は店先で相場やニュースを聞いた。


 ラジオは、家のものから、個人のものへ変わろうとしていた。


 東京では、銀座の店頭に置かれた実物を一目見ようと人だかりができた。

 大阪では、道頓堀の電器店が「世界最小、世界最新」をうたい文句に実演販売を始めた。

 名古屋では、これ一台あれば停電時にも情報が入ると宣伝され、地方の新聞は「災害時の必需品」と書き立てた。


 新聞はこぞって提灯記事を書いた。

 「日本技術の精華」

 「真空管を越えた新時代の受信機」

 「帝国科学の勝利」

 そうした見出しが紙面に並び、挙げ句の果てには、欧米が模倣に走るのも時間の問題だ、とまで書く者が現れた。


 芝浦製作所の社長は、売れ行きの報告を受けるたびに顔をほころばせた。

 だが、山本五十六と井上成美の受け止め方は、少し違っていた。


「売れるのは結構だが、あまり目立ちすぎるのも考えものだな」


 山本がそう呟くと、井上は即座にうなずいた。


「はい。技術的優位を世間に見せつけるのは結構ですが、見せすぎれば盗まれます」


「もう盗まれておるよ」


 山本は苦笑した。

 新聞に広告を打った時点で、隠し通せるものではない。問題は、どこまで時間を稼げるかだった。


 実際、海外の反応は早かった。

 イギリスの技術雑誌は、日本が奇妙な小型受信機を売り出したと短く紹介した。

 フランスの新聞は、東洋の模倣工業がついに欧州を追い越したのではないかと半信半疑で書いた。


 そしてアメリカでは、最初は安物の玩具か何かだろうと笑われた。

 ところが、実物が西海岸へ入ると空気が変わった。

 ロサンゼルスやサンフランシスコの電器商は、分解して中身を見ようとした。

 だが、真空管がない。

 発熱も少ない。

 電池の持ちも異様に良い。

 しかも、こんなに小さい。


「日本人が何をやった?」


 その問いが、太平洋の向こう側で静かに広がった。


 最初に脅威を覚えたのは、軍よりも民間企業だった。

 アメリカの電機メーカーにとって、巨大で重い真空管受信機は、長年積み上げてきた市場そのものだった。

 そこへ、東洋から「小さく、軽く、持ち運べて、しかも安い」受信機が現れたのである。

 値段次第では、既存市場が一気に崩れる。


 やがて、米国商務関係者の机にも報告書が届いた。

 日本製の超小型ラジオが予想以上の速度で流通している。

 単なる珍品ではない。軍用無線機への応用まで考えれば、看過できない技術かもしれない。


 その頃、日本国内では、別の変化も起きていた。

 是空管ラジオを持つ者が、少しだけ世界の先を歩く者として見られ始めたのである。


 女学生が銀座を歩きながらイヤホンで放送を聞く。

 書生が下宿の蒲団の中で深夜放送に耳を澄ます。

 船員が港で外国語放送を拾い、断片的なニュースを酒場で語る。

 これまで国家と家庭に囲い込まれていた「放送」は、少しずつ、人ひとりの耳へ入り込むものに変わっていった。


 軍が欲しかったのは、小型で壊れにくい受信機と、将来の無線兵器への応用である。

 だが、社会が受け取ったのは、それだけではなかった。


 人々は是空管ラジオを手にしたことで、国家の与える情報だけではなく、遠く離れた別の声がこの世には存在するのだと、直感的に知り始めた。

 上海の放送。ウラジオストクの放送。マニラの放送。

 雑音だらけではある。だが、日本語ではない声が、たしかに夜の空を越えて届いてくる。


 それは、山本五十六が思っていた以上に大きな変化だった。

 技術は兵器になる、だが同時に兵器以上のものにもなる。

 ある日、追加予算の打ち合わせを終えた山本五十六は試作品の是空管ラジオを机の上で転がしながら、ぽつりと呟いた。


「戦に勝つために作らせたのだがな」

「どうやら、世の中そのものを変えてしまうかもしれん」


 井上成美大佐は、珍しくすぐには口を開かなかった。

 数秒遅れて、硬い声で答える。

「便利なものほど、統制が難しくなります」


「そうだろうな」


 山本五十六は笑った。軍が未来から受け取った技術は、気づけば軍の手を離れ、無数の個人へと広がり始めていた。

 それはまるで、瓶の中の精霊を解き放ってしまったようだった。

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