逆賊の名簿
昭和八年三月。
第二十九代内閣総理大臣・犬養毅は、料亭で斎藤実と酒を酌み交わしていた。
斎藤実は海軍大臣を通算八年余り務め、かつてはシーメンス事件の責任を取って辞職した男である。
その斎藤が、懇意にしている海軍将官から極秘裏に聞かされた話を、今夜は犬養に伝えていた。
「総理大臣閣下は、五・一五事件で暗殺されているはずだったそうです」
「その後、自分が第三十代の総理大臣になったそうです」
あまりにも物騒な話だったが、犬養は意外なほど平然と受け止めた。
「最近、噂の『未来からの贈り物』というやつですか」
斎藤は、ためらいもなくうなずく。
「はい。自分もまた、二・二六事件で暗殺される運命だそうです」
犬養は盃を口元に運び、苦笑まじりに言った。
「逆賊どもを島流しにしたおかげで、ワシらは生きておる、というわけですな」
「はい。逆賊の名が事前に分かる『未来からの贈り物』は、まさしく千金の価値があります」
軍幹部だけの秘密だと言っても、政界には将官だった軍歴を持つ者が少なくない。
軍機など、気がつけばあちこちへ漏れていくものだった。
犬養は盃を置き、静かに口を開いた。
「ワシは文民政治家ですからな。本来なら軍とは距離を置いておきたかったのですが、最近の軍人たちは、どうも夢にうつつを抜かしておるようで困ります」
斎藤もまた、深く同意するように言った。
「一億ドルのあぶく銭に、目がくらんでおります」
犬養は、かつて海軍大臣を務めた斎藤に、いかにも政治家らしい現実論を向けた。
「軍縮条約は、事実上なくなってしまいました」
「そのうえ海軍は、壊れた船の修理代ばかりか、沈んだ船の代艦建造費まで要求してくる」
「一億ドルのあぶく銭など、そんなものは一夜で消えましょう」
「仰せの通りです」
「アメリカとの国交正常化を急がねば、海軍はいずれ燃料を失い、艦を動かせなくなります」
犬養は、やや皮肉を帯びた目を向けた。
「戦争が終わったからといって、国交正常化はまた別の話ですな」
斎藤は声を落とし、さらに踏み込んだ。
「中国の占領地には、日本の石油需要をすべて賄えるほどの大油田があるそうです。ですが、海から遠すぎる。運ぶだけで難儀をいたします」
「それよりも、樺太北部東岸の油田のほうがはるかに現実的です。中国内陸より、よほど経済性が高い」
犬養は即座に、最大の障害を指摘した。
「ソビエトが、おいそれと領土を譲りますかな」
斎藤は、さも当然の策であるかのように言った。
「交換するのです。満州北部をソビエトへ割譲し、その見返りに樺太全島を日本へ編入する」
「ロシア人は暖かい土地を欲しがります、樺太より南の土地と交換だと言えば、スターリンも動くかもしれません」
犬養は小さく鼻で笑った。
「陸軍さんが、血を流して手に入れた満州を素直に手放しますかな」
斎藤の返答は、あまりにも冷たく、あまりにも危うかった。
「その見返りに、原爆で南京と重慶を破壊します」
「中国政府は首都を何度も内陸へ移して抗戦を続けるそうですが、原爆で都市ごと消し飛ばせば、降伏に追い込める」
「中国全土を屈服させることができれば、それは陸軍にとって何よりの手柄になります」
犬養は、その先を見越したように問い返した。
「では次は、モスクワを吹き飛ばすおつもりですか」
斎藤は、真顔のまま言った。
「スターリンが死ねば、ソビエトは終わりです。独裁国家に未来はありません」
犬養毅は、最悪の未来図を聞かされながらも、かすかに笑った。
「ワシも斎藤さんも、独裁者になったらおしまいですな」
すると斎藤は、いっそう厳しい顔つきで答えた。
「我々は天皇陛下の赤子です。大日本帝国に独裁者はおりません」
「ごもっとも」
この二人は、原爆というものを本当には理解していなかった。
彼らの認識は、しょせん「巨大な爆弾で敵の都市を吹き飛ばせば勝てる」という程度の、粗雑なものにすぎない。
だが、それは無理もないことだった。
この時代の人間に、原子爆弾の本質まで見通せというほうが酷である。
人類はいつもそうだった。
真の悲劇と、骨の髄まで凍らせる恐怖を自ら味わうまで、それが何を意味するのか、決して理解出来なかった。




