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ヒットラー暗殺

 大慶油田は、一刻も早く開発しなければならなかった。

 油田そのものは、『未来からの贈り物』に記されていた通りの地点を掘れば、驚くほどあっけなく見つかった。

だが、発見できたからといって、すぐ石油が湧き出して国を潤してくれるわけではない。掘削開始から本格的な生産開始までには、どう急いでも三年はかかる。

 しかも、産出した石油を運び出すための鉄道も、ようやく敷設が始まったばかりだった。


 油田の存在を隠し通せるはずもない。

そこで日本政府は、油田を担保に開発会社への出資を募り、資金をかき集めた。

失業者は大陸の油田開発へ渡っていった。

おかげで、国内の失業問題にはようやく薄明かりが差し始めている。


 だが、その一方で、より深刻な問題があった。中国軍によるゲリラ攻撃である。

運び込んだ機材の一部は破壊され、すでに百人を超える死傷者が出ていた。

中国側が、この油田開発を最優先の攻撃目標の一つと見なしているのは明らかだった。

だが、百キロ四方に広がる油田地帯と、さらに千キロを超えて伸びる輸送線路の全域を警備するには、陸軍一個師団でも到底足りない。


 現在の日本は、石油の大半をアメリカからの輸入に頼っている。

 戦艦二隻を撃沈した攻撃隊が使った航空機ガソリンはアメリカから輸入した87オクタン・ガソリンだった。

まだ日本では量産できない。

本来の歴史なら昭和16年に日本標準規格JES K 59としてオクタン価95の航空機用揮発油が追加されるはずだが、すでに先走って日本標準規格に追加されているが、実物はまだ無い……


 国家の命脈を握る最重要資源を、仮想敵国から買わねばならない。

歪んだ構造は、どう考えても致命的だった。

今回は戦争が一年で終わったため、備蓄を食い潰しきる事態には至らなかった。

だが、実際には危ういところまで追い込まれていたのである。


 戦死者の穴を埋めるために補充された将兵は、訓練も十分に出来ない。

戦時に最後の学校生活を過ごすことになった海兵60期は練習航海にすら行けなかった。

それどころか、配属先で指導してくれる先任者が戦死している部署すら多い。

艦隊もまた、燃料不足と損傷艦の多さに苦しみ、十分な訓練を行えずにいた。


 そして今、大日本帝国は深刻な外交問題も抱えていた。最大の難題は、アメリカとの国交正常化である。


 幸いだったのは、この戦争において日本が「被害者」の立場にいることだった。

国際社会の同情は日本に集まり、ソビエトですらアメリカの非道を非難している。

世界的に名の知れた東郷元帥の死は、国際世論を日本側へ大きく引き寄せる材料になっていた。


 アメリカは相当に困っているらしい。

 イギリス国王ジョージ六世の訪米計画は流れたらしい。

 しかも、それを皮肉るように、デイリー・メールにはこんな文句が載ったという。


「頭のおかしい軍人に二〇センチ砲九門で撃たれたら、近衛兵が全員盾になっても陛下をお守りできません」


 ブリティッシュ・ジョークにしても悪趣味だった。

 だが最近では、「二〇センチ砲九門で撃たれる」という表現そのものが、世界中で格好の風刺の種になっている。軍艦とアメリカ軍人を混ぜ合わせたような戯画まで出回りはじめていた。

 二〇センチ砲はアメリカ式に言えば八インチ砲である。そこから「八インチ九門」をもじって、“Eight-Nine”で「気違いに殺される」という、品のない新語まで生まれていた。


 もっとも、日本としては一億ドルの賠償金を受け取り、これ以上の責任追及は行わないと終戦条約に定められている。

 東郷元帥の命に一億ドルという値がついたことに、誰もが納得したわけではない。

だが少なくとも、それは日本国民の怒りを鎮めるには十分な額だった。

その結果、「一億ドルの命」という流行語まで生まれた。決戦の勝利も相まって、国民感情はいまのところ沈静化している。


 国際連盟脱退をめぐる議論も、戦争のどさくさで有耶無耶になった。

 海軍軍縮条約も、形式の上ではまだ失効していない。だが、もはや有名無実と言ってよかった。


 外交上の難題は山積みだった。

 その中で、ドイツはやがて重要な同盟相手となるはずの国である。

 しかし同時に、いずれ人類史上最悪級の独裁者となるヒットラーとの付き合い方は、大日本帝国にとって極めて厄介な問題でもあった。

 親しくはしたい。だが、近づきすぎてもならない。

 そんな、都合のいい綱渡りを強いられるはずだった。


 昭和八年一月三十日。

 ドイツから、ヒットラーが首相に就任したとの報が届いた。

 このまま、後に「民主主義の自殺」と呼ばれる全権委任法が成立し、ナチス政権が誕生する。

 山本五十六は、そう覚悟していた。

 だが、その直後、ドイツ大使館から飛び込んできた急電は、その予想を根底から覆した。


『チャーチル元大臣、ヒットラー首相を暗殺』


 首相就任祝いのパーティーに招かれていたチャーチルは、サインを求めヒットラーが手を出した瞬間、ペンに仕込んだ毒針でヒットラーを刺したという。

 その場に居合わせた駐独大使の報告によれば、取り押さえられたチャーチルは、妙な言葉を叫んでいた。


「第二次世界大戦を防いだ!」


 山本五十六は、その一報を読んだ瞬間、背筋に氷水を流し込まれたような感覚を覚えた。

「第二次世界大戦」という言葉は、まだ存在しない。

この時代、第一次世界大戦はまだ単に「世界(The Great )大戦(War)」と呼ばれている。

未来を知らぬ者が、その呼び名を口にできるはずがなかった。


 そんな言葉を知っている人間は、一種類しかいない。

 未来を知る者だ。


 『未来からの贈り物』を受け取ったのは、自分だけではなかった。

 チャーチルもまた、未来を知っていたのだ。

 自らを犠牲にしてでも、ヒットラーをここで殺せば、第二次世界大戦を防げる。そう信じて暗殺を決行したのか。


 山本は、さらにもう一つの、おぞましい可能性にも思い至った。

 アメリカ海軍の巡洋艦が、帰国を急ぐ比叡を撃沈しようとしたあの一件。

 もしあの時点で比叡が沈んでいれば、アメリカは原子爆弾の悲劇から救われる。そんな未来の囁きを、誰かが受け取っていたのではないか。

 だとすれば、アメリカにもまた、未来を知る者がいる。


 ドイツの情勢をさらに追わせると、報告は『未来からの贈り物』に記された歴史と完全に食い違っていた。

 ヒットラー暗殺後、フランツ・フォン・パーペン副首相が首相へ繰り上がった。ヒンデンブルク大統領はなお健在であり、政局はナチス党、社会民主党、共産党の三党が激しくせめぎ合う混沌へとなだれ込んでいる。


 『未来からの贈り物』によれば、高齢のヒンデンブルク大統領は、ほどなく世を去るはずだった。

 そして、その死を契機として、第二次世界大戦を引き起こす独裁者が歴史の表舞台に躍り出る。

 だがその当人は、いまや何も成し遂げぬまま、ただ一人の暗殺者に倒されて退場したのである。


 本来なら、大英帝国を救う英雄になるはずだったチャーチルは、いまや殺人犯としてギロチンに送られようとしている。

 いや……

 山本はかぶりを振った。


 そうではない。

 チャーチルは、自分一人の命と名誉を引き換えに、何十万、あるいは何百万人もの英国人を救えると信じたからこそ、暗殺を行ったのだ。

 たとえ犯罪者として処刑されようとも、未来を知る者の目から見れば、彼は間違いなく救国の英雄だった。


 果たして、昭和十五年九月二十七日、日本・ドイツ・イタリアの間で三国同盟は結ばれるのか。

 昭和十六年十二月八日、日本とアメリカはなお開戦するのか。


 未来がどう転ぶのか、もはや誰にもわからない。

 だが、それこそが、本来あるべき世界なのかもしれなかった。

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