まだ犯していない罪
昭和八年一月。
陸軍三長官が集まった陸軍省の会議室には、重く乾いた沈黙が満ちていた。
陸軍大臣・荒木貞夫。
参謀総長・閑院宮載仁親王。
教育総監兼軍事参議官・林銑十郎
大日本帝国陸軍の最高幹部三人が並ぶ前で参謀次長・真崎甚三郎中将は会議を始めた。
彼らの前に積まれているのは、海軍から回されてきた『未来からの贈り物』だった。
海軍が独占する異様な書籍のうち、陸軍にも関係が深い物が検討の席に上った。
だが、その日の会議は、最初から空気が悪かった。
机の中央に置かれていた一冊の本。
表紙には、あまりにも不穏な題名が記されていた。
『二・二六事件と青年将校』
それをめぐる検討は、最初の数分で耐えがたいものになった。
昭和十一年二月。
青年将校たちによる反乱が起きる。
帝都の中心で要人が襲撃され、軍は割れ、皇軍の名は泥にまみれる。
そして、その背後にいる人物として、この本は現在の参謀次長・真崎甚三郎の名を挙げていた。
真崎は何度もその箇所を読み返した。
読み返すたびに、活字は変わらず、冷たく、容赦がなかった。
「自分は……」
真崎は、乾いた喉をひとつ鳴らしてから言った。
「反逆者として禁錮十三年を求刑される。無罪にはなるが、予備役へ追われる」
誰も、軽々しく言葉を返せなかった。
三長官と参謀次長の四人はお互いに顔を見合わせて言葉を絞り出せなかった。
荒木大臣は後継者に真崎を指名するつもりだったのか。
真崎をよく思わない閑院宮参謀総長が強く林の陸軍大臣就任を勧め、林が陸軍大事になった。
真崎は教育総監になるが二・二六事件で失脚……
まだ何も決まっていないが、真崎と林は数年後には陸軍大臣の椅子を争うのか。
真崎は閑院宮参謀総長が自分をよく思っていないと知って苦い顔をしていた。
お互いに何を考えているのか探り合いは不毛な時間だけが流れた。
お互いに相手を称え合い、真崎と林はお互いに陸軍大臣の椅子を譲り合った。
全員が不毛を悟ると、全員が話を逸らして本題の検討へ逃避のように戻った。
二・二六事件で将来銃殺される者、禁錮刑を受ける者、僻地へ左遷される者。
これから先、反乱に加わることになる将校たちの名は、そこにいる者たちにとって見知らぬものではない。
しかも、現在の陸軍は、参謀総長たる閑院宮を戴きながら、その実、皇道派の影響が濃い。
いまここにいる者たちの多くも、その空気の中で昇ってきた。
だが三年後には、その同じ流れが、青年将校たちの凶行を引き金にして一斉に断ち切られる。
陸軍大臣になると書かれている林銑十郎も二・二六事件を防ぐことには賛成だった。
さすがに、大臣の椅子争いより事件を防ぐことが大切だと常識的な考えだった。
会議は簡単な解決策へ向かった。
この本に名前が載っている青年将校たちを、今のうちに帝都から追い出してしまえばいい。
芽のうちに摘んでしまえば、二・二六事件は起こらない。
そういう結論だった。
全員があっさりと結論を受け入れた。
そして、二度と東京へ戻れない左遷先の選定を参謀に命じた。
ひとつ片づいた、という顔をした者もいた。
だが、机の上には、まだ次の本が置かれた。
『インパール作戦 悲劇の構図 日本陸軍史上最も無謀な戦い』
題名を見ただけで、誰もが嫌な予感を覚えた。
読み進めるうちに、会議室の空気はさらに重くなった。
大日本帝国陸軍の歴史でも最悪級の失敗作戦。
無数の将兵を飢えと病で死なせ、作戦そのものが破綻し、大日本帝国の敗北を決定づけた愚行。
そしてその原因となった男の名前が牟田口廉也だった。
「無能、悪玉、卑劣の三冠王」
そうした言葉が、本の中では容赦なく並べ立てられていた。
だが、問題はそこではない。
牟田口は現在の陸軍の人事表の上では、まだ何ひとつ失策を犯していない、有能で前途有望な将校である事実だった。
『未来からの贈り物』の存在を知るのは、陸軍では大佐以上に限られている。
牟田口中佐は当然、何も知らない。
真崎は人事資料を開き、精査した上で口を開いた。
「現時点で左遷の理由は、どこにもないな」
それは客観的で公平な評価だった。
公平に見れば、牟田口の経歴は順調だった。
今の時点で左遷すれば、本人も周囲も不審に思うだろう。
筋の通らぬ人事だと思う者も少なくないはずだ。
だが、ここにいる将官たちは、すでに知ってしまっている。
この男が順当に出世した先に、どれほどの死骸が積み上がるのかを。
まだ犯していない罪が、どれほど巨大なものになるのかを。
結果を先取りした未来からの情報は公平な評価を許さなかった。
会議の末、決定が下された。
「色丹島防衛のため、新規に守備隊を編制する」
「牟田口中佐に守備隊長を命ずる」
「指揮下には二十二名の将校、七十名の下士官を配属する」
色丹島。
北海道の東方に横たわる、寒風の吹きすさぶ離島。
そこが、牟田口の流刑地に選ばれた。
色丹へ押し込めてしまえば、少なくともインパールの惨劇は起こらない。
青年将校どもを帝都から遠ざければ、二・二六も封じられる。
理屈としては、ひどく単純だった。
真崎甚三郎中将は、自分の目でその男を見ておこうと思った。
将来、史上最悪の愚将と呼ばれる男へ島流しの辞令を自ら手渡した。
真崎中将から辞令を受けた牟田口は、何が起きているのか理解できない顔で立っていた。
当然だった。
何の前触れもない。
人事異動の季節でもない。
栄転でもなければ、軍拡による自然な配置でもない。
ただ、ある日突然、帝都から遠く引き剥がされる。
真崎は、建前を述べた。
「将来の対ソ戦を見据え、離島の絶対防衛を図る」
「色丹島が陥落すれば、北海道はソビエトの手に落ちる」
「貴官の守備隊には、色丹島の死守を命ずる。いかなる事態においても撤退は許されない」
言葉だけを聞けば、重責だった。
だが牟田口には、それが聞こえすぎるほどよく分かった。
これは栄誉ではない。
島流しだ。
極寒の辺境で朽ちろと言われているのだ。
自分が何をした。
どんな失策を犯した。
誰に睨まれた。
いくら考えても分からない。
牟田口廉也は、まだ犯していない罪によって裁かれた。
同じことは、これから先、反乱を起こすことになる青年将校や下士官たちにも起きた。
彼らの手にも次々と辞令が渡されていく。
当然、不満が噴き出した。
なぜ今なのか。
なぜ自分なのか。
なぜ皇道派の者ばかりが不自然に送られるのか。
彼らはまだ犯していない罪で裁かれる理不尽を知ることが出来なかった。
真崎中将は耳に心地よい嘘を整然と並べた。
「戦略上、絶対的に信頼できる精鋭中の精鋭を配備せねばならない」
「君たちは、護国の礎となる最重要拠点へ配属されるのだ」
真崎中将が左遷の大鉈を振り回していると、荒木貞夫陸軍大臣に直訴する者が現れた。
おおらかな人柄で格下の青年将校にも慈悲をかけてくださる荒木大臣なら話を聞いて頂けると期待しての事だった。
だが『未来からの贈り物』を読んでいた荒木大臣の対応は冷たかった。
青年将校が反乱事件を起こした原因についてこう書かれていたからだ。
『荒木貞夫は格下の青年将校とも親しく交わり、宴席では多くの青年将校が座を共にした』
『寛大な態度が、青年将校の間に下克上の風潮を蔓延させ、二・二六事件へと至った』
荒木大臣は自分の寛大な態度が下の者を増長させ日本が負ける遠因になった事を悟って反省した。
部下とは距離を取り、厳粛な態度で望まなければならない。
荒木大臣は直訴した者を軍規違反で処罰した。
そんな横紙破りをするような人間だから左遷されるのだと言わんばかりの厳しい態度で当たった。
左遷される若い将校たちは真崎中将の嘘を感じ取っていた。
言葉の響きは立派でも、命じられていることの中身は明らかに異常だった。
皇道派こそ正義であり、国家を正す道だと信じていた。
その中心にいたはずの真崎が自分たちを帝都から切り離している。
寛大で優しかった荒木大臣が人が変わったように冷たくなったのも真崎のせいに違いないと思い始めていた。
彼らは急いで冬のうちに人口千人程度、わずかな漁業だけが全ての離島へ送られた。
船に乗せられた牟田口は不自然な編成に困惑していた。
将校が23人に下士官が70人もいるのに、編成の上では大隊だから、普通なら500~600人の兵隊を指揮するはずだ。
それなのに、兵隊が30人しかいない。
それも、明らかに素行不良で問題のある兵隊ばかりだ。
どうしてなんだ……
流氷が浮かんでいる海を古びた貨物船に乗せられ、島へ上陸した彼らは頬を切るような海風に顔をしかめた。
気温は氷点下だった。
小さな島の漁村には意外な先客がいた。
海軍の軍服を着た男は牟田口中佐に敬礼すると名乗った。
「三上卓中尉だ、流刑島へようこそ」
飛行帽と飛行眼鏡を頭に乗せた二人の将校も名乗った。
「おう、俺は藤井斉大尉だ、色丹島海軍航空隊の隊長ってコトになってる」
「古賀清志中尉だ、俺達二人だけの航空隊だ」
海軍も同様に「五・一五事件」の首謀者となる男と、関係者二人を離島に左遷していた。
哨戒艇とは名ばかりの、中古漁船に日露戦争で使われた旧式の小型砲一門を搭載しただけの船だった。
そして、海軍飛行隊とは名ばかり、色丹島には滑走路すらない。
飛行機も無ければ整備員もいなかった。
三人組の海軍将校と出会った牟田口は悟った、海軍も同じ事をやっている。
なぜか分からないが、一部の将校が理不尽に流刑島へ送られている。
彼らは妙な親近感を感じてすぐに仲良くなった。




