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幻想帝都 神州御親領衛記  作者: ニュートリノ鈴木
二章 珠洲原陽鳥という女
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九十七話 配車場で変えたのは一つだけ


九十七話


97-1 配車場で変えたのは一つだけ



本部前の配車場は、朝になると人より先に順番が起きる。


木箱の角が石に触れる音。荷札を切る音。兵の返事。東雲の柔らかい位置指示。高倉の低い笑い。樋道の文句に、真名の切り返し。いつもの音だ。いつもの音なのに、今朝はその全部が、昨夜の戦闘を知っている顔で並んでいた。


誰も中央の二人に「大丈夫か」とは聞かない。

聞かないのは冷たいからではない。聞けば、答え方の順番が増えるからだ。御親領衛はそういうところだけ、妙に実務的で優しい。


羽場桐妙子は、執務室ではなく配車場の木箱を机代わりにして紙を広げていた。

地図、仮の出動線、搬入予定、警察側からの照会票。そこに昨夜の沈砂池工区の崩れ図は置かれていない。置けば今日の仕事が全部そちらを向く。今日の朝に必要なのは余韻ではなく、運用の復元だ。


「本日、中央線の再出動は想定しません」


羽場桐が言う。


「ただし、街の流れは見ます。止める声の採取線は終わりましたが、止まり方の癖は残っているので」

「追うのではなく、崩れないかの確認」


護国が横で短く補う。


「今日は湯呑みより、こちらですね。外で立つ時間が長いですから」


東雲が水筒を配りながら頷く。

紺野健太郎は、配車場の柱にもたれずに立っていた。

肩と脇腹の固定のせいで、自然に見せるだけで面倒な立ち方になる。だが本人はそこを無理に隠さない。隠して崩れる方が目立つと、ようやく学んだ顔だった。


陽鳥は少し離れた位置で端末を抱えている。喉はまだ戻り切っていない。白衣の襟元も昨日のまま少し緩い。軽口を入れるなら入れられるはずの距離なのに、今朝は先に仕事の顔を持ってきている。


「紺野少尉、珠洲原主任」


羽場桐が二人を見る。


「中央線は一本のままです。ですが今日は"抜く"より"残す"を優先してください」


言ってから、羽場桐の目が一瞬だけ細くなる。

昨夜、整備棟脇で何を話したかまでは知らないはずだ。だが、この言葉の置き方は偶然にしては座りが良すぎる。陽鳥の指先が端末の縁で止まり、紺野の右手が膝の横で一度だけ握られる。

羽場桐はそこへ触れない。


「停車場北口、紙商い通り、河沿い倉庫帯の外側。三点」


短く指で線をなぞる。


「どこも追いません。切れたら戻す。止まったら流す。中央の役目はそれだけです」

「見える顔のまま、か」


紺野が低く返す。


「はい」


羽場桐は即答する。


「ただし今日は、止めるより"残す"方を先に考えてください」


その一語に、紺野の眉がわずかに動く。

昨夜の言葉だ。陽鳥の口から出た、腹の立つくせに切れ味のいい宿題。その言葉を羽場桐が偶然のような顔で同じ位置に置いてくる。御親領衛の副官は、知らない顔で知っていることを使うのがうまい。


「妙子ちゃん、今日は先に言う線が少し増える」


陽鳥が小さく言う。


「増やしてください」


羽場桐が返す。


「黙って高くなる情報を減らしたいので」

「朝から面倒だな」


高倉が鼻で笑う。


「でもまあ、面倒って言ってるうちは街も生きてるだろ」


配車場の向こうで荷車が動き出す。

帝都はもう起きている。昨夜の沈砂池で何があったかを知らない顔で、今日の帳場と荷札の都合だけを前へ押してくる。その無関心の重さが、逆に本部の順番を落ち着かせた。


「中央線、無理はしないでください」


羽場桐が最後に言う。一拍。


「昨夜の続きは、街でやらない」


誰もそこへ説明を足さない。

足す必要がない種類の朝だった。


97-2


紙商い通りは、昼前になると「急がない顔をした急ぎ足」が増える。


露店の端紙。帳票紙の束。荷札の紐。印泥。筆先。

どれも小さい。小さいものほど、誰がどれだけ急いでいるかが手に出る。高倉の目が効く場所で、綾瀬の景道院線の勘も引っかかりやすい。御親領衛がこの通りを嫌いながら使う理由はそこにある。


紺野と陽鳥は通りの中央を歩かない。

少しずれた位置を並ばずに進む。仲がいいようには見えない。だが完全に別の線でもない。昨夜の整備棟脇から、その歩き方だけが変わった。


「右の店、二人目の客」


陽鳥が端末を見たまま低く言う。


「何だ」


紺野が前を向いたまま返す。


「荷札の幅じゃなくて、店主の手を見てる」


紺野の目がわずかに右へ流れる。露骨に見ると相手の仕事になる。露骨に見ない程度で十分だ。


「……客の顔じゃなくて、店主の指か」

「うん」


陽鳥の声は掠れているが、切り方は正確だ。


「質問の内容じゃなくて、"どこで迷うか"を見てる」


昨夜なら、紺野はここで「追うか」と先に言っていた。

今は言わない。右手が膝の横で一度握られる。怒りじゃない。反射を切るための合図になってきている。


「何を残す」


紺野が低く言う。問う相手は陽鳥だが、半分は自分へ向けている。

陽鳥の目が少し細くなる。

その問い方を待っていた顔だ。


「店の手」


即答する。


「客は流れる。店の癖は残る」


紺野は頷きもしないまま一歩だけ位置をずらす。

店の前へ出るのではない。通りの流れを切らない角度で、列の間に体を置く。見える顔のまま、客の視線だけを通りへ戻す立ち位置だ。圧はある。だが「誰かを止めるため」の圧じゃない。「この通りはまだ通りとして動いている」と言い張るための圧だった。


客の肩が揺れる。

店主が一瞬だけ紺野を見て、すぐに手元へ戻る。指先が紙束の端を揃えかけて、やめる。


「いまの幅、景道院物品じゃありません」


そこを見ていた綾瀬が通りの向こうから短く入れる。断定ではない言い方だ。良い線引きだった。


「市中規格です」

「急ぎ客のくせに、買う物より店主の指見てる。嫌な客だな」


高倉が露店の裏から低く言う。店の呼吸の話だけで十分に嫌さが伝わる。


「今のは切らないで正解」


陽鳥が小さく言う。


「お前に言われると腹立つ」


紺野は前を向いたまま返す。


「知ってる」


陽鳥は端末から目を上げない。


「でも、昨日より先に言えるようになってる」


その言い方に、紺野は少しだけ唇を引く。笑いではない。

だが苛立ち一色でもない。自分でも気づいていない変化を、陽鳥に先に言い当てられるのは昔から嫌いだ。嫌いだが、いまはその嫌さを使う段だと分かっている。


「急ぎなんだ、先に切ってくれ」


通りの奥で、別の店の前から若い男の声が上がる。大声ではない。だからこそ浮く温度だ。

紺野の体がそちらへ向きかける。

右手が膝の横で握られる。二度目。


「健ちゃん」


陽鳥は先に虫を走らせない。端末の縁で指を止めたまま言う。二人きりではない。だから呼び方は崩さない。


「何残す」

「店の手」


紺野が低く息を吐く。一拍。


「あと、列」


そう言ってから、紺野は通りの芯へ出た。男を止めるのではなく、列の先頭と店の間に半歩だけ入る。圧で人を切る立ち方ではない。列の幅を保つだけの雑な壁だ。雑だが通りではそれが一番効く。


「急ぎは分かる」


紺野が短く言う。


「順番だけ崩すな」


男は言い返しかけて、やめる。

紺野の顔を見て引いたのか、列の空気に押し戻されたのか、本人にも分からない顔だった。そういう止まり方でいい。今日の中央線は、それを積むために出ている。


「七割」


陽鳥が端末を見ながら、喉を気にして小さく咳を殺す。


「採点すんな」


紺野が顔をしかめる。


「してない」


陽鳥は言う。


「確認だよ。健ちゃん、今日いまのとこ、壊す場所より残す場所を先に見てる」


その言葉が、昨夜ほど刺さらない。

刺さらない代わりに、重く残る。まだ馴染んでいない。だが、戦場の外で反復するにはちょうどいい重さだった。


97-3 資料室の机、広げない紙


夜、資料室の机に紙は並んだが、中央は空けられたままだった。


凛藤との戦闘記録。沈砂池工区の崩れ図。端末線の履歴。

全部ある。全部あるのに、羽場桐はそれを中央へ持ってこない。中央にあるのは今日の三点の短いメモだけだ。停車場北口、紙商い通り、河沿い倉庫帯外側。どこで何を追わず、何を残したか。それだけ。


「本日の中央線、想定通り」


羽場桐が言う。


「再介入なし。止まり方の癖のみ残存。街の流れは維持」

「問題はなし——ではないですが、増えてはいません」


護国が別紙へ時刻を写しながら短く補う。


「それで十分です」


羽場桐は頷く。


「いま増やさないことが一番高いので」

「今日の紺野少尉、前より"止める"のが静かだった」


真名が紙商い通りのメモを指で押さえる。


「うん。なんか怖いのは怖いけど、前みたいに"切るぞ"って怖さじゃなかった」


樋道が珍しく同意の顔をする。


「列を残す立ち方でした」


綾瀬が低く言う。言ってから、少しだけ紺野を見る。


「景道院でやると嫌われるやつですけど、今日は正解です」

「褒めるなって」


紺野は露骨に嫌そうな顔をする。


「褒めてねえよ。使い道が増えたって話だ」


高倉が膝を叩いて笑う。


「紺野少尉、今日は二回、先に手を止めていましたね」


東雲は湯呑みを置きながら、紺野の前だけ少し濃い茶を置いた。最近の定位置だ。柔らかい声で言う。


「よく止まりました」


紺野は湯呑みを取って、すぐには飲まない。

右手が膝の横で握られる。今日何度目か分からない。もう誰にも説明しない合図だ。


「……止めたと言うか」


紺野が低く言う。


「先に出すと、あとで面倒になるって分かってきただけだ」

「十分です」


羽場桐の返しは速い。それだけ言う。


「面倒の順番が見えるなら、実務ではもう使えます」


陽鳥は資料室の端で端末を抱えたまま、そのやり取りを聞いている。

喉の調子のせいもあるのだろうが、今日は軽口を差し込む位置をわざと外している。外しているから逆に、紺野の変化だけが机の上で浮く。


羽場桐はそこで、中央の空白へ一枚だけ新しい紙を置いた。戦闘記録ではない。出動予定でもない。見出しだけの紙だ。


中央線/残す優先


紺野の眉がわずかに動く。

昨夜、整備棟脇で陽鳥に言われた言葉。今日、街で使った言葉。羽場桐は何も聞いていない顔で、それを実務の語彙へ落としてくる。


「明日以降もこれで行きます」


羽場桐が言う。


「凛藤少将の再介入があっても、初手は何を残すかから。中央の詳細検討は後段。今夜は広げません」

「向こうに学ばせねえため、か」


志摩が壁にもたれて鼻を鳴らす。


「ええ」


羽場桐は頷く。


「こちらも自分たちを早く固めすぎないために」


資料室の空気が少しだけ締まる。

誰も大声では返さない。今夜必要なのは気合いではなく、持ち帰った順番を崩さないことだと分かっているからだ。


「紺野少尉、珠洲原主任」


会議が解ける前、羽場桐が二人へ視線を向ける。二人が顔を上げる。


「中央線は引き続き一本です。ですが、互いの順番を飛ばして先に切る場合は、今日は必ず口に出してください」


平坦な声で言う。


「黙って切られると、外から見て同じ癖になります」

「はい」


陽鳥が先に返す。喉を庇って短く。


「……了解」


紺野は一拍遅れて、湯呑みを置く。

その返事の間にあった一拍が、以前なら火種だった。今はまだ火種のままでも、少なくとも部屋を燃やす一拍ではない。


本部の奥で、三つ子の笑い声が一度だけ跳ねる。すぐ後ろで東雲の柔らかい声が位置を言い、足音が揃って遠ざかる。

資料室の机の中央には、広げなかった紙の代わりに、羽場桐ね書いた短い見出しだけが残る。


戦闘の続きを今夜ここでやらないと決めたことで、逆に次の戦いへ持っていけるものが増えた。

それが強さかどうかは、まだ分からない。

分からないまま、御親領衛の夜は紙の順番だけを先に整えていった。


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