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幻想帝都 神州御親領衛記  作者: ニュートリノ鈴木
二章 珠洲原陽鳥という女
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九十八話 静かすぎる日ほど、先に裂ける


九十八話


98-1 静かすぎる日ほど、先に裂ける



本部の空気は、騒がしい日に荒れるとは限らない。

むしろ逆だ。


任務件数が少ない日、街の線が大きく動かない日、紙の山も人の足も「回る」だけの日ほど、部屋の中に残るものがある。言いかけて飲み込んだ一言。視線を逸らした一拍。仕事の形には乗るのに、私事の火だけが消えない時の静けさだ。

その日の御親領衛本部は、まさにそれだった。


羽場桐妙子は、報告机の端で紙束を揃えながら、中央の二人を見ないように見ていた。


紺野健太郎は固定の残る肩を庇いながらも、前より滑らかに「見える顔」を使っている。珠洲原陽鳥は喉の焼けがまだ抜けないのに、端末線と研究局側の照会を平然と捌いている。どちらも働く。働きすぎるほど働く。

だから余計に、危ない。


「今日、中央線の摩擦は少ないですね」


護国が羽場桐の横へ来て、小さく言った。


「はい」


羽場桐は紙から目を上げない。一拍置いて、短く足す。


「少ないのが問題です」

「同感です」


護国の返事も短い。


「妙子ちゃん、研究局側の個人宛て照会、今日は止まってる。代わりに市警の記録閲覧申請が二本」


そこへ、端末を抱えた陽鳥が来る。声はまだ少し掠れている。

羽場桐は紙を受け取り、目だけ走らせる。


「内容を」

「同行記録そのものじゃない。周辺案件の時刻処理」


陽鳥が端末の縁を指で叩く。


「まだ"本体"じゃなく、地図を描いてる」

「なら、こっちも地図だけ返せばいいだろう」


紺野が少し離れた位置から口を挟む。

言い方は正しい。

正しいが、声の温度が薄い。噛みつかない代わりに、まだ噛み傷が残っている声だと羽場桐には分かる。


「紺野少尉、その件は私から返します」


羽場桐は即座に切る。視線を上げる。


「紺野少尉は、今日は外の後処理線へ。停車場西の物品照合、護国少尉と一緒に」


紺野の眉がわずかに動く。外されると受け取りかけた顔だ。

羽場桐はその前に続けた。


「珠洲原主任は研究局側の照会整理。終わったら帰投扱いで構いません」


陽鳥が一瞬だけ羽場桐を見る。

副官の意図を測る目だ。羽場桐は何も説明しない。説明の値段ではない。


「了解」


陽鳥が先に返す。


「……了解」


紺野も一拍遅れて答える。

会話はそれで終わる。

終わるが、羽場桐は紙を揃えながら思う。今日の夕方、どこかで火が出る。任務の火ではない。止めるべきかどうか判断が難しい類いの火だ。だからこそ、今日はわざと場所を分けた。


「止めますか」


東雲が湯呑みではなく水筒を盆に載せて通り過ぎ、羽場桐へだけ聞こえる声で言う。


「止めると長引きます」


羽場桐は紙から目を上げない。一拍。


「ただ、場所だけは選んでほしいですね」

「それは、たぶん向こうも同じことを考えています」


東雲は小さく笑う。

その「向こう」が誰を指すか、言い直す必要はなかった。


98-2


日が落ちる前の河川敷は、街の端のくせに音が多い。


橋の下を抜ける車輪。遠くの船着き場の金属音。石段を降りる靴音。川面を渡る風が、言いかけた言葉まで持っていく。人目はある。だが、会話の中身を拾えるほど近くはない。揉めるには都合がよく、説明を誤魔化すには向かない場所だった。


陽鳥が指定したのは、旧観測堤の脇だった。

河岸の改修で使われなくなった低いコンクリート張りの張り出し。灯りは薄く、足場は悪くない。二人で立つには十分で、第三者が割って入るには少し遠い。


紺野は先に来ていた。

固定は外れていない。動けるが、動きの角でまだ引きつる。立っているだけでも傷があると分かる姿勢だ。だが今日はそれを隠していない。隠す気がないというより、隠して会話の値段を上げたくない顔だった。

陽鳥が白衣の裾を押さえながら石段を降りてくる。端末は持っている。持っているが、戦闘の準備としては半端な持ち方だ。話す気の方がまだ前にある。


「来ると思った」


陽鳥が言う。喉の焼けはまだ少し残る。


「呼んだのはそっちだろ、姉さん」


紺野は鼻で息を吐く。

陽鳥の手が一拍止まる。想定しているくせに、止まる。


「うん」


小さく返す。


「続き、ここでやる」

「本部の裏じゃだめだったのか」


紺野は張り出しの縁を顎で示す。


「妙子ちゃんに勘づかれてる顔して、あれ以上やるの嫌だった」


陽鳥は苦く笑う。笑いというより、認める時の口元だ。


「あと、健ちゃんが怒鳴るなら、少し風ある方がいい」

「怒鳴る前提かよ」


紺野の口元が歪む。


「今日の話なら、前提でしょ」


陽鳥はあっさり言って、数歩先で止まる。


「昨日の続き。嘘の話の続き。まだ言ってないところ」


川の風が白衣の裾を持ち上げる。陽鳥は端末を抱え直し、目を逸らさずに言った。


「私が健ちゃんに教えた"拒絶と否定"は、歯止めとしては正解だった」


「でも、使い続けると、健ちゃんの力の出方そのものが痩せる。凛藤義貞に対して、昨日と一昨日で通した手、あれは確かに通った。けど、本来ならもっと少ない手数で同じところまで行ける」


紺野の喉の奥がざらつく。

凛藤の名をここで出されるのは嫌だ。いま一番、生々しい格差だからだ。


「……その"本来なら"って言い方は嫌いだな」


紺野が低く言う。


「出来てない事を出来る前提で言うな」

「じゃあ言い方変える」


陽鳥の目が細くなる。喉を気にしながら、言葉を切る。


「健ちゃんはいま、わざと効率の悪い握り方をしてる」


一拍。


「私に握らされてた」


紺野の右手が膝の横で握られる。

最近覚えた合図。怒りをそのまま前に出さないための。


「どこまでだ」


紺野が問う。


「嘘ついてたのは分かった。じゃあ、どこからが本当だ」


陽鳥は少し黙る。

風の音が間に入る。橋の上の車輪が二つ、三つ、音を引いて通る。


「本質が同化、理解」


陽鳥が言う。


「これは本当」

「でも、それをそのまま今の健ちゃんに渡すと危ない。これも本当」

「またそこか」


紺野が顔をしかめ、陽鳥は頷く。


「だって本当に危ないから」


「危ない危ないって、結局お前が決めるんだろ」


紺野が一歩だけ前に出る。張り出しの中央、陽鳥との距離が詰まる。声は低い。怒鳴ってはいない。怒鳴っていない分だけ硬い。


「どこまで俺に渡すか。どこまで黙るか。いつ止めるか。全部」

「今まではそうしてきた」


陽鳥は動かない。


「今までも、だろ」

「……うん」


一拍。


「今も半分はそうしたい」


正直すぎる返しだった。

紺野は一瞬だけ言葉を失って、それから吐き捨てるみたいに笑った。笑いになっていない。


「最低だな」

「知ってるよ」


陽鳥は即答した。


「でも、健ちゃんが本質を勘違いしたまま戦い続ける方が、もっと悪い」


喉を押さえて、続ける。


「凛藤義貞のような相手には、単純な力だけで押し切れない。そこは昨日分かったでしょ」

「それは分かってる」


紺野の目が冷える。


「なら、次までに変える一個は必要」


陽鳥の声が少しだけ強くなる。


「"何を残すか"を先に決める。あれだけは、今日から本気でやって」


そこまでは、昨日の続きだ。

紺野にも分かる。分かるから余計に、別の場所が刺さる。


「姉さん」


紺野が低く呼ぶ。


「俺の力を抑えるために嘘ついたのは分かった」


一拍。


「俺のためってのも半分は分かる」


もう一歩、近づく。


「でもそれだけじゃねえだろ」


陽鳥の瞳がわずかに揺れる。

ここを突かれるのを待っていた顔で、待っていなかった顔でもある。


「俺が、お前の手を離れて勝手に開くのが怖いんだろ」


紺野が言い切る。


98-3


風が一度、強く吹いた。


陽鳥の白衣の裾が跳ねる。腕に少し力が入る。

答えを作る前の間。研究局の主任としてならいくらでも誤魔化せる間だ。今夜の陽鳥は、そこを誤魔化さない方を選んだ。


「……怖かった」


小さく言う。


「いまも怖い」


紺野の喉が鳴る。


「健ちゃんが私の知らない形で開くのが怖い」


陽鳥は目を逸らさない。一拍。


「でも、それ以上に」


喉の痛みで声が少し掠れる。


「私が間違ったまま握って潰す方が、もっと怖いって思ったから、昨日言った」


紺野は返事をすぐにしない。

怒りはある。使われた感覚も消えていない。だが目の前の女が、いま一番言いたくない線を自分で出してくると、殴る角度がずれる。ずれること自体が、また腹立たしい。


「……じゃあ、今日は何だ」


紺野が低く言う。


「説教の続きか。謝罪か。講義か」

「確認だよ」


陽鳥の口元が少しだけ歪む。笑いではない。端末を持つ手を下げる。


「健ちゃんが、どこまで"残す方"で動けるか」

「ここでやる気かよ」


紺野の眉が寄る。


「やる」


陽鳥は即答した。


「本部の中でやると、妙子ちゃんが止める。ここなら、私が止める線と、健ちゃんが止まる線、両方見える」


その言い方に、紺野の顔が硬くなる。

また"試す"のか、という怒り。だが同時に、ここで逃げると昨夜と今朝に積んだものが全部口先になるという感覚もある。

右手が膝の横で握られる。

怒鳴る前に、自分を止める合図。


「……一回だけだ」


紺野が言う。


「街には流さない。ここで切る」


陽鳥は端末を起動する。光点が二つ、三つ、遅れて増える。

数は多くない。威圧のための数でも、制圧のための数でもない。観測と牽制の最低限。万想狂花の本気から見れば爪先みたいな配分だ。


「私も一回だけ」


陽鳥が言う。


「今日は殺し合いじゃない。でも、甘くもしない」

「そこは信用してる」


紺野の口元がわずかに歪む。

会話はそこで切れた。

先に動いたのは陽鳥だ。虫を紺野へは飛ばさない。張り出しの縁、足場の角、背後の石段の手前へ散らす。人を直接触る前に場の"嫌な位置"を作る、陽鳥の悪い癖だ。


紺野は正面へ出ない。

昨日までなら、ここで一歩目を強く踏み込んでいた。今日は違う。

張り出しの中央から半歩外れ、陽鳥と自分のあいだにある「場の嫌な位置」を先に見る。何を壊すかではなく、何を残すか。川へ落ちない足場。陽鳥の退路。自分の戻り足。最低限、その三つだけを頭へ置く。

陽鳥の目が細くなる。

端末の縁を叩く指が一度止まる。見ている。採点ではない。確認の目だ。


「遅い」


陽鳥が言う。


「知ってる」


紺野は鼻で息を吐く。一歩、横へ出る。


「でも、前みたいに速いだけで崩すよりましだろ」


陽鳥は小さく虫を弾く。

一匹が紺野の視界の端へ入り、もう一匹が足元の石の継ぎ目を舐める。精神改竄の深い手ではない。反応を見るための浅い差し込み。

紺野は虫を追わない。

追う代わりに、足元の継ぎ目だけを黒い奔流で薄く削る。虫を壊すためじゃない。自分が次に足を置く角を死なせないための削り方だ。


「……そこ」


陽鳥の喉から、短い息が漏れる。

紺野はそこで初めて前へ出る。

一直線ではない。張り出しの縁を残したまま、陽鳥の右側へ回る角度。相手へ届く前に、相手の退路を全部潰さない角度だ。壊すなら簡単だ。簡単な方を選ばないだけで、妙に難しい。

陽鳥は後ろへ下がりかけて、止まる。

止まったのは恐怖だけじゃない。紺野が"潰し切らない角度"を選んだのが見えたからだ。そこを確かめたい顔になる。


「健ちゃん。今のどこ残した」

「教えるかよ」


紺野は踏み込みの途中で笑う。笑いというより、息の漏れ方だ。


「でも、前よりは分かってる」

「最低」


陽鳥の口元が歪む。悔しさに近い笑いだ。


「知ってるよ」


そのやり取りの直後、陽鳥の虫が一段増える。

牽制の数ではない。反射で切り返す数だ。張り出しの空気が少しだけ張る。会話の確認は終わり、再戦の形が立ち上がる。


紺野の右手が膝の横で握られる。

もう怒りのためだけじゃない。言葉と動きの順番を切るための合図だ。


河川敷の風が、二人のあいだの言い訳を先に散らす。

ここから先は、どちらが正しいかを言葉で決める段っはない。

どちらの手つきが、相手を壊し切らずに本音まで届くかを、傷の残る身体で試す段だ。


張り出しの上で、陽鳥の端末の光が細く走り、紺野の黒い奔流がそれに応じる。

街の線でも、凛藤の試験でもない。二人の間でしか成立しない、最悪で、必要な衝突が、ようやく本当の形で始まった。


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