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幻想帝都 神州御親領衛記  作者: ニュートリノ鈴木
二章 珠洲原陽鳥という女
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九十九話 先に壊さない一撃


九十九話


99-1 先に壊さない一撃



河川敷の旧観測堤は、足場としては悪くない場所だった。


幅はある。逃げ道もある。川へ落ちる角度と、石段へ戻る角度を一拍で選べる。だからこそ、そこでの戦い方には人間の性格が出る。真正面から潰すのか、足場を残すのか、相手の退路まで奪うのか——そのどれを先に選ぶかで、同じ出力でも手つきは変わる。


珠洲原陽鳥の虫が、今度は露骨に増えた。

牽制の数ではない。観測の数でもない。

張り出しの縁、石段の中腹、背後の手すり跡、川面の反射に乗る視線の端。人が「まだ安全だ」と思う場所へ、細い悪意みたいに差し込まれていく。万想狂花の本気には遠い。だが、二人だけの再戦には十分すぎる密度だった。


紺野は正面から行かない。

右へ半歩。左へ半歩。

前へ出る前に、まず自分の戻り足を殺さない位置へ立つ。昨日までなら、それだけで遅い。いまはその遅さを先に飲み込む。右手が膝の横で握られる。怒りを切るための合図。もう体が覚え始めている。


「遅いよ」


陽鳥が低く言う。


「知ってる」


紺野は鼻で息を吐く。一歩、前へ。


「その代わり、最初の一歩で全部台無しにしない」


陽鳥の指が端末の縁を叩く。

虫が二列、紺野の前方で交差する。視界の端を汚す浅い改竄。足元の継ぎ目を一瞬だけ「踏みやすく見せる」悪い手だ。相手が強いほど、こういう安い罠ほど効く。


紺野の目がそちらへ流れかける。流れかけて、止まる。

代わりに、黒い流れが足元へ落ちた。


深澱の首領


腕から噴いたそれは陽鳥の虫を追わない。まず自分の踏む石の縁だけを削る。浅く、細く、次に体重を掛ける角が死なない程度に。壊すための一撃ではなく、残すための加工だ。戦場でやるには面倒すぎる手つきだった。


「……そこ、先にやるんだ」


陽鳥の喉が小さく鳴る。


「やる」


紺野が返す。


「お前がうるさいからな」


言葉の直後、紺野が踏み込む。

速い。速いが、前のような直線ではない。

張り出しの中央を避け、陽鳥の右肩側へ回る角度。端末を持つ腕ではなく、逃げ足を先に見る軌道だった。人間を殴る前に、人間の選べる線を読む。紺野らしくない。だからこそ、陽鳥には嫌なほど分かる。


「健ちゃん、それ」


陽鳥の声が掠れる。


「誰に教わったと思ってるの」


虫が弾ける。

一匹、二匹、五匹。認識の端だけを荒らす雑音。紺野の耳の後ろで、誰かが囁いたみたいな気配が走る。昔の声だ。訓練の時、陽鳥が近くで何度も言った言葉に似ている。


——迷うな。否定しろ。

——入れる前に切れ。

——近づけるな。拒め。


紺野の顔が一瞬だけ硬くなる。

そこへ陽鳥がさらに一本、虫を差し込む。精神を壊す深度ではない。怒りの方向だけを少し曲げる、嫌に手慣れた深度だ。


「陽鳥......!」


紺野の声が低くなる。怒りで線を切り直した時の声だった。


「今の、分かったでしょ」


陽鳥はわざと笑わない。端末を抱えたまま後ろへ引く。引き方は浅い。


「それ、私が入れた"止め方"だよ」


紺野が一歩追う。追って、止まる。

右手が膝の横で握られる。三度目。虫を追えば、陽鳥の土俵だ。虫を無視すれば、怒りの行き先が失速する。どっちも気に食わない。気に食わないまま、紺野は足を残す方を選ぶ。


黒い奔流が横へ走り、張り出しの縁を舐めた。

虫の列が二本まとめて噛み崩れる。だが紺野は陽鳥の退路までは切らない。切れる。切れるが切らない。その「切らない」が、陽鳥の目に一番刺さる。


「.....何でそこを残すの?」


陽鳥が低く言う。


「姉さんが言ったんだろ」


紺野は笑う。笑いじゃなく、息の漏れ方だ。


「何残すか先に決めろって」


99-2


陽鳥の目が細くなる。


嬉しい顔ではない。

自分の言葉を使われたことへの安堵と、自分の想定より先へ行かれた時の苛立ちが、同時に出る顔だ。紺野は昔からその顔が嫌いで、たぶんいまも嫌いだ。嫌いだが、目を逸らすほどではなくなっている。


「健ちゃん」


陽鳥が言う。喉の焼けた声で、無理に平坦を作る。


「それは正解に近いけど、そのまま行くと次で勘違いする」

「またお前が決めるのか」


紺野が即座に返す。


「決めないよ」


陽鳥の返しも速い。


「だから言ってる。私は鍵渡さない。でも、崖の位置は言う」


端末の縁を叩く。


「いまの健ちゃん、残すって決めた瞬間に、相手まで"残してやる"に寄る」


虫がまた動く。

今度は地面ではなく、紺野の肩の高さ。視線を切るためじゃない。言葉に反応した癖を拾うための配置だった。


紺野は虫を見ない。見ないまま一歩出る。

陽鳥の左側へ回る。さっきとは逆。退路を読む。足場を残す。残しながら、距離だけは詰める。戦い方としては前よりずっと面倒だ。面倒なぶん、紺野の苛立ちも増す。


「残すって決めたら何だ」


紺野が低く言う。


「結局、"お前を傷つけるな"まで勝手に決めたことになるってか」


陽鳥は一拍黙る。

そこを突かれるのを分かっていた顔で、やはり分かっていないふりはしない。


「そう」


小さく言う。


「そこ、健ちゃんの良くない優しさ」

「優しさ?」


紺野の眉が寄る。


「そう」


陽鳥の声が少しだけ強くなる。


「健ちゃん、自分が壊す時は雑なのに、相手を残すって決めると、急に一人で抱える」


一拍。


「それは、その力の持ち方として最悪の癖になる」


本質の名を、陽鳥は使わない。

同化、理解——昨夜言った語は、ここではあえて置かない。いま戦いの中でその言葉を前へ出すと、紺野は形だけ掴もうとする。それを恐れているのが陽鳥であり、その恐れ自体がまだ歯止めの一部だ。


「お前が言うのは最悪の癖ばかりだな」


紺野は低く笑う。今度も笑いにならない。


「私が育てた部分はね」


陽鳥が即座に返す。一拍。


「でも、昨日から違うとこもある」


その直後、陽鳥の虫が一段深くなる。

雑音ではない。

紺野の足元の石に触れた瞬間、感覚の縁を一拍だけ滑らせる。転ばせるほどじゃない。だが、踏み込みの重心をずらすには十分な深度だ。紺野の体が半歩ぶれる。固定の残る肩が引きつり、顔が歪む。


そこへ陽鳥は近づかない。

近づけば紺野の距離だと知っている。代わりに、端末を持つ腕を低く振って虫の列だけを紺野の脇腹へ差し込む。傷口の近く。痛みがある場所。怒りが一番立ちやすい場所。


紺野の顔が硬くなる。

右手が膝の横で握られる。四度目。

止める。止めるが、間に合わない一拍がある。

黒い奔流が正面へ噴いた。

直線で、速い。

以前の一直線の馬鹿ではない。それでも、怒りに引っ張られた一撃だと陽鳥には分かる。虫をまとめて噛み潰し、張り出しの手前のコンクリートをえぐって進む。陽鳥は端末を抱えたまま横へ逃げる。逃げる線は残されている。残されていることが、余計に腹立たしい。


「ほら」


陽鳥が掠れた声で言う。息が少し上がる。


「そこ。痛いとすぐ"否定"に戻る」


紺野は一歩追いかけて、二歩目を止める。

自分で止めた。止めてしまった。その止まり方に、また苛立つ。


「……わざとだろ、傷口狙ったの」

「そう、わざと」


陽鳥は即答する。隠さない。


「凛藤の前でそれやられたら、健ちゃんもっと悪い戻り方するから」


その名がまた出る。

紺野の喉がざらつく。だが今度は噛みつかない。噛みついたら、陽鳥の言ってる通り「否定に戻る」だけだと、戦いながら分かり始めている。分かること自体が腹立たしい。腹立たしいが、足は止めない。


「じゃあ何だよ」


紺野が低く言う。


「痛い時、どうしろってんだ」

「全部守るな」


陽鳥は端末を抱え直し、真正面から言う。一拍。


「残すって決めたもの以外は、ちゃんと捨てて」


さらに一拍。


「健ちゃん、いま"残す"と"抱える"を混ぜてる」


言葉の直後、紺野が前へ出る。

今度は虫を追わない。陽鳥も追わない。

端末を持つ腕でも、喉でも、傷でもない。陽鳥の左足の外、張り出しの端へ黒い奔流を落とす。コンクリートが弾け、逃げ足の角度が一つ消える。全部じゃない。全部消すと、相手の選択肢ごと壊す。一本だけ消す。残す線を先に決めた上で、捨てる線を切る。

陽鳥の目がはっきり揺れた。


「……今の」


喉の痛みを忘れたみたいに、声が前へ出る。


「誰に言われてやったの」

「姉さんが嘘つく前の俺に聞け」


紺野は息を吐く。肩が痛む。脇腹も痛い。怒りもある。

それでも、今の一手だけは自分で選んだ手だと分かる。


「たぶん、そいつが勝手にやった」


低く返す。


99-3


その返しで、陽鳥の顔から一度、仕事の表情が落ちた。


研究局主任でも、外部顧問でもない。

紺野を拾った側の人間の顔。守ったつもりで形を作って、作った形のせいでいま苦しんでいるのを、自分でも見ている顔だ。


「……そういうこと言うから」


陽鳥が掠れた声で言う。


「私、健ちゃんの"理解"の線が怖いって言ってるの」


本質の語を、自分で出した。

同化と理解。その最後の語だけを、陽鳥はここで前へ出す。全部は渡さない。だが、隠し切る段でもない。戦いの真ん中で、歯止めになる嘘と本音が噛み合わなくなっている。


「なら最初から嘘をつくな」


紺野の顔が硬くなる。


「.....最初から本当のこと言ったら、健ちゃん死んでたかもしれない!」


陽鳥もすぐ返す。

張り出しの空気が一段張る。

虫が一斉に走る。

紺野も前へ出る。

今度は会話のための間合いじゃない。互いに一手ずつ、ちゃんと痛い手を出す距離だ。


陽鳥の虫が紺野の視界の上下を切る。浅い改竄じゃない。意識を飛ばすほどでもない。だが、判断の優先順位を揺らすには十分な深度。万想狂花(メガロマニアクス)の本来の嫌らしさが少しだけ覗く。


紺野は黒い奔流を腕から噴かせ、虫の列をまとめて噛み崩す。

壊し切る。だが、陽鳥の足場は全部は潰さない。潰さないまま距離を詰める。痛みで怒りが戻るたび、右手が膝の横で握られる。もう癖というより、戦闘の動作になってきている。


陽鳥が右手を振る。虫の列が紺野の脇腹へ差し込む。

紺野は歯を食いしばり、今度は正面へ奔流を出さない。足元の石を一枚だけ砕き、自分の体を半歩落として角度を逃がす。痛みで否定へ戻る前に、残す足場だけを先に拾う。遅い。だが前より壊れない。


「それ!」


陽鳥の声が掠れる。指導めいた言い方だ。腹が立つほど、凛藤の戦い方に似た温度になる。


「そこ、ちゃんと捨てた!」

「いちいち指摘するなって言ってんだろ!」


紺野が低く吐く。

言葉と同時に、紺野の左拳が陽鳥の右手へ伸びる。

人間じゃない。端末。万想狂花の"いま"の手元。陽鳥は端末を引く。引いた先で、紺野の拳はわずかに軌道を変え、白衣の袖をかすめて張り出しの手すり跡を砕く。砕けたコンクリート片が川へ落ちる。


陽鳥の目が見開かれる。

殴れたのに、殴らなかった。端末を取りに来たふりで、最後に人間の急所から角度を外した。優しさか、迷いか、残す優先か。どれでもあるし、どれでもない。いまの紺野の手は、まだ名前がつかない。


「……健ちゃん」


陽鳥の声が震えかけて、止まる。


「それ、私を残したんじゃないよね」

「分かんねえよ」


紺野の息が荒い。肩が痛い。脇腹も熱い。

それでも目だけは逸らさない。


「まだ、分かんねえ」


一拍。


「でも、少なくとも"お前を壊したい"だけで振ってない」


陽鳥の喉が詰まる。

それが一番困る返事だった。恨め、怒れ、拒め——その方がまだ扱える。扱えない中間の答えを、紺野は昔から時々出す。出すたびに陽鳥は、管理の手を一段強くしてきた。今夜は、その手をもう同じ強さでは出せない。


虫の列が一度、乱れる。

端末の光点が揺れる。喉の焼けと演算疲労がここで効く。陽鳥が立て直す前に、紺野が一歩詰める。速い。だが、殺す距離じゃない。言葉を落とせる距離だ。


「姉さん」


二人きりの呼び方で、紺野が言う。


「俺を止めたいなら、嘘だけで止めるな」


陽鳥の目が揺れる。


「選ばせろ」


紺野が続ける。一拍。


「間違えるにしても、俺の手で間違えさせろ」


その言葉が、陽鳥の端末を持つ手より先に、別のところへ入る。

保護。管理。恐怖。愛着。所有欲。止めたい理由の全部がある中で、いちばん渡したくなかった権限だ。

陽鳥は端末を下げる。

虫はまだいる。戦える。だがここで続けると、壊れるのが勝敗の線ではなく別のものになると分かる。


「……最悪」


陽鳥が掠れた声で言う。笑いにならない。


「そういう言い方が、私に一番効く」


紺野は息を吐く。肩が落ちる。痛みが一気に戻る。

勝った気はしない。負けた気もしない。戦いとしては中途半端だ。だが中途半端で終わらせたこと自体が、今夜の答えに近い気がした。


川の風が強く吹く。

張り出しの上の粉塵をさらい、砕けた手すり跡の白さだけが残る。


「今日はここで切る」


陽鳥は端末を抱え直し、喉を押さえる。一拍置いて、目を逸らさずに足す。


「次は、もう少し渡す」

「鍵か」


紺野の眉がわずかに動く。


「鍵じゃない」


陽鳥は首を振る。苦く笑う。


「開ける前に、ドアの重さくらい」

「.....回りくどいな」


紺野は鼻で息を吐く。


「うん」


陽鳥が頷く。


「でも今日は、そこまで」


一拍。


「これ以上やると、健ちゃんの傷が開く。私の喉も死ぬ。妙子ちゃんに二人まとめて殺される」


その言い方で、やっと少しだけいつもの軽口の形が戻る。

戻るが、前と同じ温度ではない。嘘が剥がれたぶん、軽口の下にあるものが見えたままだ。


「ああ……分かった」


紺野は右手を膝の横で最後に一度だけ握り、それをほどく。低く言う。


「今日はここまでだ」


勝敗の宣言はない。

決着の台詞もない。

あるのは、砕けた手すり跡と、残された足場と、言葉で先に折れたものだけだ。


河川敷の風は、言い訳を散らす。

散らしたあとに残るものは少ない。だからたぶん、次の一手に持っていける。

二人は並ばずに石段へ向かう。少しずれた位置。仲がいいようには見えない。だが、殺し合いの線でももうない。


不完全だ。

だが、二人の間に必要な和解は、たぶん最初からこういう形でしか来ない。

綺麗に握手する代わりに、壊し切らなかった場所を一つずつ増やしていく。そんなやり方でしか。


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