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幻想帝都 神州御親領衛記  作者: ニュートリノ鈴木
二章 珠洲原陽鳥という女
102/191

百話 戻る灯


百話


100-1 戻る灯



夜の河川敷から戻る道は、行きより短い。


距離が縮むのではない。人の頭の中で、余計なものが削げる。靴底が石を噛む音と、川の匂いの名残と、喉の奥に残った言い足りなさだけが、最後まで付いてくる。


紺野健太郎は本部の裏門をくぐる直前、自分の右手が膝の横で握られる癖を、もう数えなくなっていることに気づいた。数えていたら、たぶん今日の途中で折れていた。


詰所の灯りは淡い。

薄い灯りは、誰かを慰めるためではなく、紙を読める程度に置かれているだけだ。御親領衛にとって、それがいちばん現実的な優しさだった。

医療班の廊下は消毒薬の匂いが強い。

湿布、包帯、金属盆。戦場の匂いが消える代わりに、戦場の後の匂いが残る。


「紺野少尉」


医療班の兵が呼ぶ。名前に階級が付く声は、いまはそれだけでいい。


「はい」


紺野は短く返す。

珠洲原陽鳥は紺野の横に付かない。

付けば、周りが"意味"を読みたがる。読みたがる意味を増やすほど、翌日の紙が面倒になる。彼女はそれを分かった上で、少し離れた位置で端末を抱えて立っている。喉を押さえる指が時々止まる。止まるたび、昨日の沈砂池の焼けがまだ残っているのだと分かる。


包帯を巻かれる間、紺野は天井を見た。

白い板。蛍光灯の端。換気扇の影。そこに特別な意味はない。意味がないものを見るのは、怒りの置き場所が見つからない時の癖だ。


「痛みますか」


医療班の声。


「痛む」


紺野は正直に言う。


「当然です」


当然だ、と言われると少し楽になる。人間は妙なところで単純だ。

包帯が締まり、針金みたいな固定具が最後に鳴る。

その音で、今日の戦いが"終わった"と身体が勘違いする。終わっていないのに。


廊下の向こうで、羽場桐妙子の足音が止まる。

見なくても分かる。あの人は止まる場所を間違えない。声で止めるのではなく、位置で場を切る人だ。


「紺野少尉」


羽場桐が言う。仕事の声。


「はい」

「今日は何も言いません」


言い切る。慰めでも叱責でもない、運用の宣言だ。


「明日の紙は私が持ちます。あなたは休んでください」


紺野は一拍だけ黙った。

休めと言われて休めるなら、世界はこんなに簡単ではない。だが今夜、ここで粘ると値段が上がるのも分かる。


「……了解」


羽場桐はそれ以上言わない。

言わないまま、陽鳥の方へ視線を移す。


「珠洲原主任」

「うん」

「喉、診せてください」

「あとで。今はもう喋りたくない」


軽口ではない。拒絶でもない。ただの消耗だ。羽場桐は頷くだけで受けた。

その場が解ける。

誰も「お疲れ様」とは言わない。言うと、そこに余韻が乗る。余韻を乗せたい夜もある。今夜は違う。


紺野はベッドへ沈み、目を閉じる。

閉じたまま、耳だけが動く。遠くで紙が擦れる音。どこかで湯を沸かす音。誰かの声が一度だけ位置を言って、足音が揃って遠ざかる。まだ壊れていない音だ。


その音の中で、最後に残るのは陽鳥の靴音だった。

ベッドの脇へ来ない。来ないまま、少し離れた場所で止まる。止まってから、端末ではなく自分の喉を押さえる。


「……健ちゃん」


小さく漏れた声。外では使わない呼び方。ここは耳が少ない。


「何だ」


紺野は目を開けずに返す。


「今日は、ありがと」


掠れた声だった。

礼を言う理由が多すぎる時、人は一つだけ選んで言う。陽鳥は一つだけ言った。


紺野は返事をすぐにしなかった。

代わりに、右手が膝の横で握られた。もう怒りのためじゃない。言葉を出す順番を間違えないための癖になりかけている。


「……礼を言うな」


やっと言う。


「まだ終わってない」


陽鳥が笑う気配がした。笑い声ではない。


「うん」


一拍。


「終わってないね」 


その言葉で、廊下の灯りが少しだけ冷える。

冷えるだけで十分だった。今夜はそれ以上、何も足さなくていい。


紺野が再び目を閉じる。

閉じた瞬間、消毒薬の匂いが、別の匂いと重なった。


100-2


最初に痛かったのは光だった。


目を開けた瞬間、天井の灯りが白すぎて、世界が薄く裂けたように見えた。遅れて耳が痛み、最後に喉が渇く。順番が逆だ、と子どもの頭でも分かるほど、身体が現実へ追いつけていない。


小さな診療所だった。

古い消毒薬の匂い。濡れたタオル。薄い布団。紙の帳簿。壁際の薬瓶の影。窓の外から聞こえるのは、遠い車輪と雨樋の水音。


ベッドの縁に、誰かが置いた紙切れがあった。

罫線も印もない、ただの白い紙。子どもの掌ほどの大きさだ。何のために置かれたのか分からない。分からないのに、そこへ目が吸い寄せられる。紙は、なぜか怖い。


扉が開く音がした。

足音は軽い。だが迷いがない。診療所の廊下を歩く靴音にしては、少しだけ温度が違う。


白衣の女が入ってきた。

髪が明るい。診療所の薄灯りの中でも色が浮く。

瞳は青が混じる。笑っているのに、笑っているだけでは済まない目だ。こちらを"見ている"というより、"測っている"目に近い。


「起きられる?」


女はベッド脇の椅子に座らず、立ったまま言った。

子どもは頷こうとして、首が重いことに気づいた。

頷けない代わりに、喉が鳴った。


「名前は?」


女は小さく笑う。笑うが、優しさの形だけを先に置く笑い方だ。


「……健太郎」


子どもは口を開いて、自分の声が細いことに驚く。


「健太郎」


女はその名を一度だけ口の中で転がした。一拍。


「私は——珠洲原陽鳥」


名乗り方が軽い。

軽いのに、名乗った瞬間だけ診療所の空気が変わる。医者の名乗りではない。看護師の名乗りでもない。病院の人間が出す重さとも違う。もっと別の"権限"の匂いが混じる。


「それ、触ってみて」


陽鳥はベッドの縁の紙切れへ視線を落とす。

健太郎は手を伸ばし、指先が紙に触れた。

触れた瞬間、紙が濡れたみたいに色を変える。白が薄く、黒く、黒が深くなる。破れるのではない。燃えるのでもない。紙そのものの"前提"が、内側へ吸い込まれる。


健太郎は息を飲み、手を引っ込めようとして遅れた。

紙の縁が、指の動きより先に消える。怖い。怖いのに、目が離せない。


陽鳥はそれを見て、笑わなかった。

笑わず、ただ言った。


「大丈夫。いまは止める」


白衣の袖口を軽く引き、健太郎の手首の上へ自分の指を添える。触れるだけだ。力を入れない。だがその触れ方で、紙の色の沈み方が一段落ちる。沈む速度が遅くなる。


「……何、これ」


健太郎は喉を震わせた。


「危ないもの」 


陽鳥の答えは速い。一拍。


「だから、使い方を間違えないで」


健太郎は目を伏せる。怖さの行き先が分からない。

分からないまま、口が勝手に動く。


「俺、何した」

「何もしてないよ」


陽鳥はそこで、ほんの少しだけ表情を柔らかくした。


「でも、何もしないと、勝手に"してしまう"」


健太郎は理解できない。

理解できないから、怖い。怖いから、泣くより先に歯を食いしばる。子どものくせに、その手順だけは妙に早い。


「ねえ、健太郎」


陽鳥は、その顔を見て息を吐く。声が柔らかい。柔らかいからこそ、言葉の芯が冷たい。


「受け入れようとしないで」


一拍。


「否定しなさい」


もう一拍。


「拒んで。——その方が、今は安全だから」


健太郎の眉が寄る。意味は分からない。だが"安全"という語だけが先に入る。

子どもは安全がほしい。安全がほしいから、言われた通りにしようとする。


「……拒む」


健太郎が小さく繰り返す。


「そう」


陽鳥は頷いた。微笑む。微笑みは優しい形だ。だが、その奥に一瞬だけ別の色が見えた。安堵でも慈悲でもない。もっと個人的な恐れと執着に近い色。

それでも陽鳥は、その色をすぐ白衣の下へ隠して、言った。


「今日から、私がそばにいる」


一拍。


「健太郎が間違えないように」


さらに一拍。


「.....私も、間違えないように」


健太郎はその言葉の最後だけ聞き取れなかった。

間違えないように、が二つある理由が分からない。分からないまま、紙切れを見た。紙はもうほとんど残っていない。残っていないのに、紙があった場所だけ、白さが妙に冷たい。


その冷たさが、これからずっと続く気がした。

続いてしまったら困るのに、続くと分かってしまう冷たさだった。


100-3


紺野健太郎は医療班のベッドで目を開けた。


消毒薬の匂い。蛍光灯の端。換気扇の影。

現在の現実が戻ってくる。戻ってきて、喉の奥に残っていた言葉だけが、まだ消えない。


否定。拒絶。


それは安全のための教えだった。そう信じてきた。

だが同時に、それは誰かが自分を"止めるため"に置いた手でもあった。

ベッドの脇で、白衣の裾が小さく揺れる。


陽鳥はまだそこにいる。端末を触らず、喉を押さえたまま、こちらを見ている。見ている目は、二十年前の診療所の灯りの下と、同じ色を少しだけ残している。

紺野は目を閉じずに言った。


「……姉さん」


陽鳥の手が一拍止まる。いつもの反応だ。


「なに」

「昔のこと、少し思い出した」

「.....そっか」


紺野は言葉を探して、結局探すのをやめた。

陽鳥も返さない。

返さないまま、白衣の袖口を少しだけ握る。黒い点は出ない。今日は出さない。


沈黙の中で、廊下の灯りが一定のまま揺れない。

揺れない灯りは、慰めではない。だが、ここへ戻ってこられる程度の足場は残している。


紺野は天井を見た。

二十年前の白すぎる光とは違う。痛いほどではない。現実に必要なだけの白だ。

そして思う。


この灯りの下まで続いてきた線は、あの診療所の紙切れから始まっている。

紙が沈んだ瞬間、白衣の女が「拒め」と言った瞬間。

恐怖と安堵が同じ形で置かれた瞬間。


全てが、と言い切れるほど世界は単純じゃない。

それでも、ここだけは起点だと分かる。

起点を見えてしまった以上、もう前と同じ嘘の握り方では進めない。


進めないまま、紺野は息を吐き、痛む肩をわずかに動かして、残すべき足場だけをもう一度、頭の中で並べ直した。


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