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幻想帝都 神州御親領衛記  作者: ニュートリノ鈴木
二章 珠洲原陽鳥という女
103/193

百一話 戻ってきた二人の立ち方


百一話


101-1 戻ってきた二人の立ち方



本部裏の訓練場は、朝になると土より先に線が引かれる。


白線。安全帯。器材置き。詰所へ戻る最短の通路。

声で整える前に、位置で整う。御親領衛の癖だ。軍の癖というより、この部隊が生き残るために覚えた癖に近い。


東雲丈雲が、白線の上に水筒を並べていた。

湯呑みではない。今日は外で汗を流す日だからだ。三つ子がその横に座って、靴紐を結び直している。結び方に癖がある。癖があるからほどける。ほどけるから、訓練の前に直す。


「一葉さん、前に出すぎない」

「出してない!」

「双葉さん、結び目を床に置かない」

「……置いてた方が忘れないんだけど」

「三葉さん、笑いながら走らない」

「走ってないよー。早歩きー」


軽い会話だ。軽い会話のまま、三人の足は揃う。

揃わないまま前へ出る癖を、東雲は声ではなく位置で止める。今日の訓練は、そういう"壊れないための基本"を戻す日だった。


その線の外側に、紺野健太郎が立っている。

固定は外れている。だが、傷がなかった頃の立ち方には戻っていない。肩の角度、息の入れ方、体重の掛け方——全部が少しずつ違う。違うのに、隠していない。隠すと崩れる、と身体が先に覚えてしまった立ち方だ。


少し離れて、珠洲原陽鳥が端末を抱えている。

喉の焼けは残る。声が戻り切らない。だから今日は喋りすぎない顔だ。喋りすぎないのに、目だけは相変わらず忙しい。訓練場の線、隊員の立ち位置、周囲の民間の視線、全部に一度ずつ触れている。


「復帰、ですね」


護国が訓練場の入口で短く言った。

羽場桐妙子は紙を一枚だけ持っている。訓練計画。細かい資料はない。今日は"戻す日"だから、細かく積むほど邪魔になる。


「はい」


羽場桐はそれだけ答えて、紺野と陽鳥を見た。


「紺野少尉、珠洲原主任。本日、中央線は訓練場内に固定します」 


言い方が率直だ。回りくどい説明はしない。


「あなた方が前に出る必要はありません。出ると他が伸びません」

「俺は置物か」


紺野が鼻で息を吐く。


「高級な置物」


陽鳥が小さく言う。


「今その言い方はやめろ」


紺野が横目で睨む。

羽場桐は笑わない。笑わないまま、淡々と続ける。


「二人がここに立っているだけで十分です。距離感の勉強になります」


距離感。

御親領衛の他の隊員にとって、紺野と陽鳥は"同じ部隊の人間"ではある。だが、同じ土俵で殴り合える相手ではない。昨日までの沈砂池の話を知らなくても、その隔たりだけは訓練場の空気で伝わる。

怖いから黙る、ではなく、届かないから余計な言葉を出さない。あの隔たりは、部隊の秩序にもなる。


「ねえ、ボクら今日は何すんの?」


樋道が欠伸を噛み殺しながら言った。


「樋道君は"壊さない"練習」


真名が即座に切り返す。


「壊さないとか無理に決まってるじゃん」

「無理じゃない。やるの」

「やだー」

「やる」

「うわ、地獄。今日は真名ちゃんが教官だ」

「誰がちゃんだ」


真名の声は冷たいが、訓練の空気を壊さない冷たさだ。


綾瀬は訓練場の端で、ただ線を見ている。

紺野の立ち方、陽鳥の目の動き、羽場桐の紙の持ち方。全部を"観測"として飲み込む顔をしている。彼女はいつもそうだ。だから孤立もする。


「始めます。今日の目標は二つだけ。——順番を守ること。残すこと」


羽場桐が声を上げる。

紺野の眉がわずかに動く。

陽鳥の指先が端末の縁で止まる。


二人だけに通じる言葉が、訓練場の公用語になっている。昨夜のやり取りを知っているのは二人だけのはずなのに、部隊はもう"運用の語彙"としてそれを持っている。羽場桐がそういう形に落としたのだ。


「残すって何残すの!」


一葉が叫ぶ。

東雲が即答しない。

代わりに、一葉の前へ半歩だけ出る。


「あなたの足です。走りすぎる足を残すと、次は転びます。今日は転ばない足を残す」


一葉が一拍止まって、頷く。

理解したわけではない。だが止まる。止まるだけで訓練は進む。


紺野はその光景を見て、黙ったまま右手を膝の横で握り、ほどいた。

怒りのためじゃない。言葉を挟まない順番を自分で守るための動作になっている。


「いまのえらい」


陽鳥が横から小さく言う。


「褒めるな」


紺野は低く返す。


「褒めてないよ。確認」


陽鳥の声は掠れているのに、言い方は妙に正確だった。


「健ちゃん、今日ちゃんと"残す"側の顔してる」


紺野は返さない。返さないまま訓練場の線だけを見た。

線が崩れない限り、今日は回る。回るうちは、部隊はまだ大丈夫だ。


101-2 


昼前、訓練は途中で切られた。


羽場桐の端末に、警察経由の依頼が一件入ったからだ。

帝都南側、停車場裏の雑居地で、低位神術師が絡む小競り合い。銃火器で抑えられる規模だが、現場の人間が"余計な順番"で動き始めた、と警察が嫌な顔をした案件だった。


「短い出動です。目的は制圧ではありません。流れを戻します」


羽場桐は紙を閉じ、言い切る。


「中央線は」


護国が短く頷く。


「護国少尉が持ってください」


羽場桐は即答した。


「紺野少尉と珠洲原主任は後段。見える顔で十分です」


紺野が口を開きかけて閉じる。

自分が前に出れば早い。早いが、今日はその早さが高くつく日だ。訓練場で言われた"残す"が、こういう時に刺さる。


現場は狭い路地だった。

露店の裏、洗濯物の匂い、子どもの声、古い看板の鉄錆。ここは帝都の首都の端で、首都の裏側だ。

低位神術師の喧嘩は派手だが脆い。派手だから人が集まる。人が集まるから順番が壊れる。壊れた順番を直すのは、いつも力ではなく声と位置だ。


「下がってください。通路を空けます」


護国が先に言う。

短い。具体的。

そこへ真名の声が重なる。


「見ないで。通るから」


強制力のある無関心が、路地の視線を一度だけ切る。

樋道が文句を言いかけて、羽場桐の目に止められて黙る。

東雲は子どもの足を避ける位置を指で示し、三つ子の線はそもそも現場に入れない。


紺野は路地の入口に立つ。

立っているだけで、人が「ここから先へ行けない理由」を勝手に作る。

陽鳥は少し後ろ、端末を抱えたまま、喉を押さえながら周囲の"手の出どころ"だけを拾っている。虫は出さない。今日は出す値段じゃない。


喧嘩は二分で終わった。

終わったのは、護国の言葉が効いたからではない。効く言葉が通る位置を羽場桐が作り、真名が視線を切り、東雲が子どもの足を守り、紺野が入口に立って"越境の言い訳"を消したからだ。

力は使わない。使わないから、後が残る。


「今日、よかったよ」


戻りの路地で、陽鳥が紺野へ小さく言った。


「何が」


紺野は鼻で息を吐く。


「壊さなかった」


陽鳥はそう言って、喉を押さえる。


「壊さないで、終わらせた」

「壊すほどの相手じゃないだろ」


紺野は一拍黙ってから返す。


「そういう話じゃない」


陽鳥は笑わない。

その一言が、紺野の背中へ遅れて刺さる。

凛藤の前で壊しても届かなかった自分。壊さずに終わらせられる場面で、壊す癖を出さなかった自分。どっちも同じ線に乗っている。乗っているから、いまはそれでいい。


101-3


夕方、本部へ戻ると訓練場の白線はまだ消えていなかった。


消えていないのに、少し踏まれている。誰かが勝手に片付けなかった証拠だ。

「戻る場所」を残しておく判断。東雲の手だと紺野にも分かった。


資料室の机に、今日の報告が並ぶ。

訓練のメモ、短い出動の処理票、警察への返し、怪我人なしの確認。紙は軽い。軽いのに、机の上の空気は重い。

重いのは事件のせいじゃない。中央の二人が"戻った"ことの重さだ。


「本日、復帰運用は問題ありません」


羽場桐が言う。


「現場の順番も崩れていません」


護国が短く補う。


「崩れないうちに戻せたのが一番です」


東雲が湯呑みを置く。今日は湯だ。


「戻すのが仕事って日が一番疲れるな」


高倉が帽子を膝で叩く。


「年寄りみてえなこと言うなよ」


志摩が笑う。


「年寄りの言葉が分かるようになっただけだ」


高倉は肩を竦める。そこまでで話を止める。市井の疲れの話で止める。守るべき線を守る人間だ。


「中央線は引き続き一本です。二人とも前に出すぎないでください」


羽場桐が最後に、紺野と陽鳥を見る。


「俺に言うな」


紺野が露骨に嫌そうな顔をする。


「あなたに言います」


羽場桐は即答する。


「あなたは、前に出ると早い。早いから、周りが学べません」


「健ちゃん、今日はよく我慢したね」


陽鳥が小さく笑いかけて、喉の痛みでやめる。


「子供扱いするな」


紺野が低く返す。


「確認だよ」


陽鳥はいつもの言い方を選ぶ。


「今日みたいな日を増やすのが、復帰ってこと」


紺野は返さず、湯呑みを取って一口飲む。

苦い。東雲の茶だ。苦いが落ち着く苦さだ。

机の上の紙は軽いままだ。

軽いまま、部隊の中の距離だけが少し変わっている。

変わった距離は、縮まったわけじゃない。むしろ正確になった。届く距離と届かない距離を、全員が前よりはっきり知った。それだけで、御親領衛は少しだけ強くなる。


「本日ここまで。明日以降、通常運用へ戻します」


羽場桐が紙を伏せる。

誰も大きく返事をしない。頷きだけで足りる。

本部の外では、帝都の夜がいつもの顔で回っている。知らない顔で回る。その無関心が、部隊の足場になる。


紺野は机の端の紙を見た。

訓練場の白線のメモ。短い出動の処理票。

残したものの一覧だ。壊したものの一覧じゃない。

陽鳥は端末を抱え、喉を押さえたまま、机の縁に立つ。


紺野と目は合わせない。合わせないが、同じ机の距離にいる。

それで今日は十分だ、とどちらも分かっている。

今日は復帰の紙だけで終える。

終えられる夜があるうちは、部隊はまだ回る。


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