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幻想帝都 神州御親領衛記  作者: ニュートリノ鈴木
二章 珠洲原陽鳥という女
94/191

九十二話 戦場の外側


九十二話


92-1 戦場の外側



沈砂池の戦場で、御親領衛の仕事は「前に出ること」ではなくなっていた。

それは敗北の言い換えではない。段の違いの話だ。


連絡橋の中央に立つ凛藤義貞と、南縁で食らいつく紺野健太郎、端末を抱えて盤面を汚す珠洲原陽鳥。その三人の間で起きているやり取りは、護国や東雲がどうこうできる種類の"手"ではない。見えていないわけではない。見えている。見えているからこそ、入ってはいけないと分かる。

入った瞬間に、中央の三人が払っている値段へ、余計な死角を足すだけになる。


羽場桐妙子は沈砂池の南東、崩れた点検通路の影に立っていた。

立っている場所は固定していない。半歩、二歩、視線の届く範囲でだけ位置を変える。中央を見続けながら、中央"だけ"を見ないためだ。


戻り線、外周、退避線、遮蔽物の死に方、隊員の呼吸。凛藤の術は人だけを止めない。場の意味から先に削る。なら、外周の仕事も「どこに立つか」より先に「どこを立つ理由にしないか」から決める必要がある。


護国は羽場桐の西寄り、一段下がった位置で戻り線の芯を持つ。

東雲はさらに外、三つ子を置いてきた代わりに、残った隊員の位置だけを柔らかく揃えている。志摩の端末線は薄く工区外周を舐め、綾瀬は中央を見ない顔で中央の足場だけを見ていた。


高倉は戦いを見ていないような顔で、近くに寄りかけた人間を遠くで散らしている。真名と樋道は一度だけ視線を集めたあと、もう中央を凝視しない。凝視は「ここが要所です」と教える行為になる。


誰も口を挟まない。

挟まないまま、全員が中央の変化に神経だけを寄せている。


その静けさの中で、羽場桐は一つだけ確信していた。

ここまでのやり取りで、中央の二人はようやく同じ場を見る段へ入った。だが同じ答えを持ったわけではない。だから次に来るのは、会話ではなく"役割の切替"だ。

珠洲原陽鳥の端末を持つ手が、そこで止まった。


止まってから、細く動く。

観測の手つきではない。計測を削る時の手だ、と羽場桐は見て取る。


——切った。


羽場桐は心の中でだけ言う。

観測の粒度を。精度を。あの女が嫌っていた部分を、今ここで先に捨てた。


凛藤の声は外周まで届いたが、言葉の細部は風と鉄骨に削られる。

それでも、褒めているのか採点しているのか分からない平坦な調子だけは、嫌になるほど変わらない。


護国が短く息を吸う。

紺野が動いたのだと、羽場桐は視線を向ける前に分かる。護国の呼吸は、中央の突入角が一段変わった時にだけ、ほんの僅かに浅くなる。


沈砂池の縁を滑る紺野の軌道は、前の段よりさらに嫌な形になっていた。

真正面の圧を見せる。だが踏むのは橋の下。

回り込む気を見せる。だが回り込み切る前に、凛藤に守る場所を選ばせる。


獣の勘だけでやっていた頃の速さではない。遅い。遅いが、遅くなった分だけ、止められる前提を織り込んでいる。


凛藤は動かない。

動かないまま、連絡橋の下で金具が順に鳴る。


ひとつ。ふたつ。


間。


三つ。五つ。


綾瀬の指がわずかに動く。数えたのだ。声にはしない。する意味がない。中央はもう別の言語で戦っている。外周の数えは外周の仕事にしか使わない。


沈砂池の縁の手すり残骸が沈み、紺野の足が半拍だけ止まる。

そこで止まれること自体が、前より良い。良いが、凛藤の術はすぐ次を置く。場の意味を削る速さが、こちらの修正をまだ半歩上回る。


羽場桐は視線を切らず、端末の送信欄だけを開いた。

打たない。まだ打たない。

中央の二人が次の段へ入るなら、ここで外周が報告を飛ばす方が邪魔になる。


92-2


変化は、陽鳥の端末の持ち方から来た。


それまでの陽鳥は「取る」手つきで戦っていた。通らない虫であっても、比較を取る、順番を取る、癖を取る。研究局の人間らしい執着だ。だが、今の手つきは違う。演算配分を寄せる時の重さが、観測のそれではない。親機群の比率を、別の器へ寄せる手だ。


護国がそれを見て、視線だけで羽場桐へ確認を送る。

羽場桐は頷かない。頷くと合図になる。代わりに、護国の立つ位置の少し左、退避線の空きを一歩ぶん広げた。来るなら波が来る。中央の三人の会話量が減った時は、だいたいそうだ。


凛藤の声がまた落ちる。内容は拾いきれない。

拾えるのは、外周まで届く音の長さだけだ。短い。講義の長さではない。段階確認の長さ。つまり、中央の二人が自分で着地した。


次の瞬間、陽鳥の子機の落ち方が変わった。


数は多くない。むしろ少ない。

それでも、消える前の散り方が違う。これまでの観測線は「入口で死ぬ」だけだった。今のは、死ぬ前提のまま、死に方を雑音へ寄せている。処理されること自体を、盤面を汚す手数へ変え始めた。


志摩の端末が外周で小さく鳴る。志摩は何も言わない。言わないまま耳の位置だけを変えた。ノイズの質が変わった、と羽場桐はその動きで理解する。


紺野が沈砂池の縁を蹴る。

今度は突進の速さより、途中の"止まり方"の方が目につく。止まらされるのではない。止められる前提で、自分から止まる。そこへ黒い奔流を差し込んで、足場の意味だけ奪い返す。暴力の向きが、相手の体ではなく、相手が先に意味を置いた場所へ寄っている。


それでも、決定打にはならない。

連絡橋の中央に立つ凛藤は相変わらず動かない。動かないまま、殺さないために術を増やしていく。過剰に飛ばせば死ぬ、切りすぎれば死ぬ——その制約を守りながら止めるから、術の枚数だけが増える。外から見ていても、嫌な丁寧さだった。


そして、外周の誰にも分かった。

このままでは有効打がない。

陽鳥の端末が、そこで一度だけ沈む。

沈んでから、持ち直す。

観測を捨てた手つきではない。もう一段、役割を変える時の重さだ。


東雲の目が細くなる。

高倉は見ていない顔のまま、帽子のつばを少しだけ押さえた。

真名と樋道も、中央を見ないまま呼吸だけ浅くなる。

誰も口を挟まない。挟めば価値が落ちると分かっている。だが、全員が同じ予感を持つ。


来る。


陽鳥が子機を散らす。

今度は"入れる"ためではなく、"荒らす"ため。細い粒が認識の端で連続して弾ける。致命打にはならない。ならないことを前提にした汚し方だ。凛藤の視線が一度だけ、中央からずれる。ほんの一拍。誤差にもならない寄り道。


その一拍に、紺野が食いついた。

外周から見れば、まず沈砂池の縁のコンクリート片が置いていかれた。

次に紺野の肩口で火花のような線が走り、黒い奔流がそれを噛み崩す。

最後に、連絡橋の中央の空気だけがわずかに歪む。


一歩。二歩。三歩。


止められる前提で削られた進路を、それでも無理に前へ通す動きだった。綺麗ではない。綺麗でないからこそ届く一歩だと、護国は思う。現場で見てきた紺野の悪い癖と、今夜ここまでで覚えた修正が、奇跡的に同じ方向を向いた踏み込みだった。


凛藤が半歩だけ位置をずらした。

半歩。たったそれだけ。


だが、外周にいる全員が理解するにはそれで十分だった。凛藤の格から見て、その半歩の意味が大きすぎる。


陽鳥の端末の光点が、そこで一つの形へ連結し始めた。


節。節。節。


細い光の節が空中で噛み合い、長い獣じみた形を作る。親機群を無理やり一つの兵器へ寄せた構造。観測でも改竄でもない。通すための器。段階を踏んで、ようやくここへ来る。


百足。


羽場桐はそれを見て、初めて送信欄へ指を置いた。

まだ送らない。だが、この段に入ったときの報告文面は頭の中で完成している。段階が一つ進んだと。


百足が走る。


外周から見えたのは、空気が裂ける絵ではなかった。

連絡橋の中央へ続く"通り方"が一本だけ変わる。紺野が作った半歩の門を、節ごとに別の意志を持つような長体が縫う。先端が避け、胴が乱し、尾が噛む。無理を通すために作った獣の、無理を通す動きだと、東雲は息を詰める。


直撃。


凛藤の左肩口で、白い光が内側へ潜り込む。

一拍遅れて血が出る。熱を持った暗い色が地に落ちる前に蒸気が立つ。


同時に、工区の構造物がまとめて悲鳴を上げた。

連絡橋の欄干。沈砂池の縁。切れた配管。

鉄骨が鳴り、古いコンクリートが裂け、埋まっていた配管の水が噴いて、途中で霧みたいに消える。中央の術の枚数が一瞬明滅した影響だと羽場桐は理解する。理解するが、理解したところで人間の感覚が追いつく規模ではない。


紺野の体が後方へ弾かれる。

壁一枚。二枚。三枚目で止まる。

陽鳥の百足は先端を焼かれ、胴を削られ、それでも尾節だけが凛藤の肩口へ食い込んだまま執拗にノイズを流し込む。


外周の誰も動かない。動けないのではない。

ここで飛び込んでも何も助からないし、何も増えない。動くべきは、崩れた構造物の波が外周に来た時だけだ。護国が一歩、東雲が半歩、綾瀬が視線で落下線を切る。仕事の動きだけがある。


凛藤が肩口の尾節を見下ろして、ため息をつく。

外周まで届いたのは声の細部ではなくその変わらない形だった。直撃を受けてなお、苦痛に歪む顔ではない。未だ採点の顔だった。


92-3


──その時だった。


風向きが変わったわけでもないのに、工区の空気の底で、別の圧が立った。

近くはない。

この工区のどこにもいない。

それでも、御親領衛の人間には分かる。分からない方が困る種類の圧だった。


西。


羽場桐の背筋が冷える。護国の呼吸が一瞬だけ止まり、東雲の視線が中央ではなく方角へ流れる。志摩の端末に何かが乗り、綾瀬の指先が硬くなる。高倉ですら、意味までは分からなくてもただ事ではない重さだけは顔に出した。


硯荒臣。

初めて、その名が戦場の意味として立ち上がる。


近衛御親領衛一席。西方守護。


ふだん本部の机や窓際でしか見ない人間が、いま遥か西で、出るか出ないかを測っている。物理で間に合うような距離ではない。だからこそ、この圧は「来る前の圧」ではなく「来られない距離でなお届く重さ」だった。


陽鳥の目が一瞬だけ西へ流れる。

紺野は瓦礫の向こうで立ち上がりかけた姿勢のまま、同じ方向を見た。


凛藤だけが、空を見ない。

凛藤の周囲に薄い通信術が咲く。花弁のようにに開いた光の面が数枚。戦闘の術に比べれば玩具みたいな規模だ。だが、それでも陽鳥の子機より速い。

外周まで届いた言葉は短かった。


「西は動かなくていい」


一拍。

凛藤の声は相変わらず平坦だ。


「こちらで止まる。止める」


返答は聞こえない。聞こえないのに、凛藤の眉がほんの僅かに寄る。相手が素直に引いていない顔だ、と羽場桐は思う。その事実だけで戦場の意味が一段重くなる。


通信術が閉じる。


凛藤は肩口から血を流したまま、呼吸一つ乱していない。百足の直撃を受けて、ようやく「ただでは済まない」の証拠が見えた。それだけだ。そこから先の差は、まだ深い。


紺野が瓦礫を押しのけて立つ。

陽鳥は焼けた親機群を切り捨てながら、端末を握り直す。

外周の御親領衛は、中央の三人を見ていない顔を保ったまま、戻り線と崩れ線だけを維持する。


羽場桐はここで初めて、端末へ打った。


段階更新

有効打を確認

凛藤義貞、非致死運用のまま継続可能

西方の圧を確認、直接介入は恐らく未成立

中央線継続、外周維持に務めよ


送信してから、顔を上げる。

中央ではもう次の段が始まっている。凛藤の声は聞こえる。内容は全部拾えない。だが、外周にいる全員に分かることが一つだけある。


紺野と陽鳥の視線が、まだ互いに鋭いままだということ。そして次に踏み出す足は同じ方角を向き始めたということ。


そこが、この戦闘のいちばん嫌で、いちばん救いのあるところだった。

沈砂池の黒い水面は何も映さない。


映さないまま、連絡橋の中央と南縁のあいだに、凛藤義貞が立っている。

殺さず、壊しすぎず、戦いながら、教えるように二人を削る男。


御親領衛の外周から見えるのは、勝ち負けではない。どこで何を捨て、どこで何が通ったか、その順番だけだ。


そして今夜、その順番は確かに一段進んだ。

代わりに、次の段で払う値段も、はっきり見えるようになってしまった。


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