九十三話 採点の顔の続き
九十三話
93-1 採点の顔の続き
百足の尾節が凛藤義貞の肩口へ食い込んだまま、細かな光の塵を散らしていた。
紺野健太郎は崩れた壁の向こうで瓦礫を押しのけ、半身を起こした。肺に入った粉塵が喉を焼く。肩から脇腹にかけて、熱い線が何本も残っている。痛みの場所は多い。だが痛みの数を数える段ではない。目の前の男が、まだ立っている。
立っている、では足りない。
凛藤は左肩から血を流しながら、呼吸一つ乱していなかった。
百足の直撃を受けた直後の顔ではない。痛みに耐える顔でも、怒った顔でもない。採点の続きをしている顔だった。
陽鳥は端末を抱え直し、焼けた節のログだけを先に切り捨てる。親機に逆流した熱が喉を焼いている。吐き気がある。あるが、吐くと演算が落ちる。今はまだ落とせない。
凛藤が肩口を見下ろし、尾節を指で摘んだ。
「良い」
声は相変わらず平坦だった。
「ここまでは、かなり良い」
「"ここまでは"ってつけるの、性格悪いよ」
陽鳥の口元が冷たく歪む。
「必要だからつけるだけだ」
凛藤は即答した。
「お前は一つ通ると、次を同じ手で取りに来る」
陽鳥の目が細くなる。
研究局の地下で、初めて大きな改竄を通した直後に、同じ回路で二度目を狙って束ごと潰された夜を思い出す。あの時もこの男は、ほぼ同じ言い方をした。
一回通った方法は、二回目から"入口"として読まれる。
凛藤が尾節を切り離す。
術一つ。光が走る。百足の切断面から火花ではなく、細かな塵だけが零れて消える。
その瞬間、工区の空気が一段だけ軽くなる。
重かった術の枚数が少し減ったのではない。凛藤が「ここで増やす理由」を一つ切っただけだ。だから軽くなったように見える。軽く見えるだけで、差はまだ深い。
「……説教の後に褒めるのは、趣味か」
紺野が血を吐き捨て、立ち上がる。
「違う。順番だ」
凛藤は紺野へ視線を向けた。一拍。
「褒めるべき時に褒めないと、君は無駄に前へ出る」
紺野の右手が膝の横で握られる。合図。怒鳴る前に握る癖。
凛藤はその手つきまで見ている。
「で」
紺野が低く言う。
「次は何だ。まだ"ここまでは"なんだろ」
「次は、届いた後の仕事だ」
凛藤の返事は速かった。連絡橋の中央で、一歩も動かないまま続ける。
「珠洲原君は、通した一撃のあとに盤面を取り直せ。紺野君は、通した瞬間に勝った顔をするな。どちらも次で死ぬ」
その言葉の途中で、陽鳥はもう端末を叩いていた。
悔しさが先に来る。だが今夜の陽鳥は、その悔しさを"次の演算"に寄せることができる。そこだけは昔より進んでいる。
「健ちゃん」
外だ。耳は多い。だが今は呼称の線を気にする段でもない。
「一回下がる。追わない」
「今かよ」
紺野が顔をしかめる。
「今」
陽鳥の声は短い。
「百足の先端死んだ。尾節も切られた。いま押すと、同じ形で読まれる」
「ようやく会話になったな」
凛藤がそこで初めて、ほんのわずかに顎を引いた。肯定とも評価ともつかない仕草だった。
紺野の喉がざらつく。腹立たしい。
それでも、前みたいにその場で噛みつかない。百足が通った直後に押し切れない事実を、身体の方が先に理解している。
「……一歩だけだ」
紺野が言う。
「引くのは一歩だけ」
陽鳥は頷かない。頷く代わりに、端末の演算配分を切る。観測、ノイズ、再編。親機群の負荷を喉と指の震えでごまかしながら、焼けた節を切り、残った節の役割を再定義する。
昔はここで欲張った。全部残そうとして崩した。いまは切る。嫌いな切り方だが、切らないと次がない。
93-2
凛藤の術が増える。
見えない。だが工区の構造物の鳴り方だけで分かる。
連絡橋の欄干。橋下面の金具列。沈砂池の縁。切れた配管の継ぎ目。
人の体ではなく、場の"使われ方"に先に意味を置く、あの嫌な丁寧さがまた広がる。
ただし、さっきまでと少し違う。
凛藤はいま、紺野と陽鳥を「同じ場に立たせる」ための削り方をしていた。だが百足の直撃を通された今、その段は終わった。次は、同じ場を見られる前提で、二人の"次の選択"を試す削り方へ切り替えてくる。
「切替えが早い……」
陽鳥が低く舌打ちする。
「有効打を通された後に同じ授業を続けるほど暇ではない」
凛藤が平坦に返す。
「その言い方、昔から嫌いよ」
陽鳥の口元がまた歪む。
「知っているとも」
凛藤は即答した。
「お前は"昔から嫌い"と言う時はたいてい聞いている」
「なんだそれ」
紺野が横で鼻で笑う。笑いになっていない音だ。
「最悪の評価文」
陽鳥は端末から目を離さない。低く続ける。
「報告書の余白に赤で書くの。この人」
「余白がないと、お前は読まないからだ」
凛藤の声は変わらない。
その会話の間に、紺野が動いた。
一歩だけ下がる、と言った通り、本当に一歩だけ退く。
完全に距離を切らない。切ると凛藤の術が"追う必要のない場"へ寄ってしまうからだ。紺野が中央線に残る意味だけを保った、嫌に短い後退だった。
凛藤の前方にある見えない術の一部が、そこで組み替わる。
連絡橋中央寄りの圧が薄くなり、沈砂池縁の角と橋下面の欄干根元の"戻り側"が太くなる。
「……戻り先を先に殺してる」
陽鳥の指が止まる。
「当然だ。いまの君たちが一番欲しいのは、立て直す時間だからな」
凛藤が答える。
「時間を与えるふりをした方が、次の選択がよく見える」
「本当に性格悪いな」
紺野の目が細くなる。
「褒め言葉として受け取ろう」
凛藤は眉一つ動かさずに返した。
ここで陽鳥は虫を散らさない。
数を増やせば入口で死ぬ。死ぬだけならまだいい。いまは「戻り先」のどこに凛藤が意味を置いたか、その濃淡だけが欲しい。粒度は要らない。精度は捨てた。そう決めたばかりだ。
薄い列を二つ。沈砂池縁の角と橋下面の欄干根元へ。
同時。比較。通らない前提で。
消える。
角の方が一拍早く痩せる。
欄干根元の方が"遅く死ぬ"。つまり、凛藤はいまそちらを"見せている"。
陽鳥の喉が焼ける。収穫だ。
だが収穫に酔うと次を間違える。赤字で何度も潰された癖だ。
「健ちゃん、下」
陽鳥が短く言う。
「戻りは角捨てる。欄干根元だけを残す」
紺野は即座には動かない。
右手が膝の横で一度握られる。怒りを飲む合図であり、焦りを切る合図でもある。前より一拍長い。長くなった分だけ、次の動きが雑じゃない。
「……行くぞ」
小さく返して、沈砂池縁を蹴る。
紺野の黒い奔流は、さっきと同じようで、少し違う。
前へこじ開けるためだけでは無い。今回は"戻れる一本"を残すため、橋下面の欄干根元へ先に噛ませる。相手本体へ届かない段で、場の意味だけ奪い返す使い方。美しくはない。だが、この男の力にいま必要なのは美しさじゃない。
凛藤の術がそこへ重なる。
見えない。だが、連絡橋の下で金具が短く鳴る回数が増える。
ひとつ、ふたつ、三つ、四つ。
殺さないために術を刻み、止めるために術を増やす、あの嫌な優しさがまた壁になる。
紺野が二歩目まで入る。
三歩目の前で、空気の張りが斜めに切り替わる。前でも後ろでもなく"横"へ流される、あの挟み替えの止め方だ。
だが今回は、紺野が止まる前に左足を捨てた。
自分から。声の前に。
止まり方を"読まれる前提"で決めた停止だった。
「良い。ようやく"止められる場所"を使い始めた」
凛藤の眉が、わずかに動く。
「いちいち褒めるなって言ってんだろ……」
紺野が歯を食いしばる。
「必要な時は言う」
凛藤は平坦に返す。一拍。
「君はまだ、認めないと無駄な一歩を足す」
「ほんと、そこだけは一貫してるのね」
陽鳥の口元が吊り上がる。笑いではない。
「君の方もな」
その言葉に、凛藤がわずかに視線を向けた。平坦な声のまま、過去を混ぜる。
「直撃を通した後、すぐに"次の観測"を足したくなる癖。昔より減ったが、まだ残ってる」
「……見えてるの分かってて言うな」
陽鳥の指が止まる。
「見えているから言う」
凛藤は即答した。
「見えないものは、あとで切る」
93-3
沈砂池の戦場で、会話がもう一度増えた。
だが、それは長く続けるための会話ではない。次に切るための確認だ。
「このままじゃ、もう一回通しても同じ結果になる」
陽鳥が端末を見たまま言う。
「分かってる。次は通して終わりじゃない」
紺野が息を吐く。一拍。
「どう変える」
陽鳥は数秒黙った。
端末上の演算配分が動く。親機群の比率が、観測でもノイズでもない形へ寄っていく。節の多い長体をもう一度作るための準備ではある。だが同じ百足ではない。同じ形をもう一度出せば、今度は入口ごと切られる。そこは陽鳥にも分かっている。
「健ちゃん」
陽鳥が低く言う。
「次、私が先に"汚す"時間を作って」
「何拍だ」
「二拍」
「長い」
紺野が顔をしかめる。
「長いよ」
陽鳥は即答した。
「だから、健ちゃんが一拍目で"勝てる顔"すると死ぬ」
「そこは正しい」
凛藤がそのやり取りに平坦に被せる。一拍。
「ただし二拍は与えない。与えるのは一拍半だ」
「なんで教えるんだよ」
紺野が吐き捨てる。
「教えないと、お前たちは二拍ある前提で動く」
凛藤の声は変わらない。
「その誤認のまま進む方が、私の役目は楽だ。だが、それではここで止める意味が薄い」
最悪の親切だった。
陽鳥の目が冷える。紺野の喉がざらつく。だが二人とも、言われた数字を頭から捨てない。捨てられない。戦場で使える情報だからだ。
外周の御親領衛はまだ静かだ。誰も口を挟まない。
護国は戻り線を維持し、東雲は位置だけを直し、綾瀬は沈砂池縁の死んだ足場の順番を記憶し、志摩は外周ノイズの質だけを拾う。高倉は見物の気配を散らし、真名と樋道は視線の偏りを薄く切る。
中央へ届く声は出さない。出す意味がない。中央の三人はもう、別の速度で戦っている。
凛藤が重心をほんの少し落とす。
術を増やす前の姿勢だと、紺野にも陽鳥にも分かる。分かるようになってしまったこと自体が、いまの戦闘の嫌さだった。
「次で会話を切る」
凛藤が言う。平坦なまま。
「ここから先は、言葉で揃えた順番を、実際に使えるかどうかの段だ」
二人を順に見る。
「紺野君、勝ち筋の絵を捨てろ。珠洲原君、精度への執着を切れ。半端に残すな」
一拍。
「半端に残した方から、私が先に使う」
陽鳥が端末の縁を二度叩く。
紺野は右手を膝の横で一度握る。自制の合図。
どちらも、もう"癖"として凛藤に見えている。見えていることを承知で、なお使う段に来ている。
「一拍半、だな」
紺野が低く言う。
「うん。一拍半で盤面汚す」
陽鳥が前を見たまま返す。一拍。
「その先を通す」
「ようやく答案の形になったか」
凛藤の口角が、ほんの僅かに動く。笑いと呼ぶには薄すぎる動きだった。
沈砂池の水面は黒いまま、何も映さない。
映さないまま、連絡橋の中央と南縁のあいだで、空気の張りがまた一段重くなる。
百足を通した後の会話は終わった。
次は、その会話で決めた順番を、本当に使えるかどうかを試す段だ。
だからここからは、言葉の値段がさらに上がる。
つまり、言葉の数は減る。
凛藤の戦い方は相変わらず最悪だった。
殺さず、壊しすぎず、戦いながら二人の未熟さだけを正確に削る。
そして削った直後に、次の段の条件だけを置いていく。
沈砂池の縁で、紺野と陽鳥は同じ方角を見たまま、まだ互いを信用していない顔をしていた。
それでも次の一手に必要な数字だけは、もう同じものを持っている。
一拍半。
短い。
短いが、2人が凛藤義貞へ無理を通すには、それでも長すぎるくらいの時間だった。




