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幻想帝都 神州御親領衛記  作者: ニュートリノ鈴木
二章 珠洲原陽鳥という女
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九十話 答えを揃える値段


九十話


90-1 答えを揃える値段


沈砂池の縁に残った静けさは、休止ではなかった。

連絡橋の中央に凛藤義貞。南縁に紺野健太郎と珠洲原陽鳥。その外側に御親領衛の線。誰も口を挟まない。挟めないからではなく、ここで声を足せば中央の値段が跳ね上がると分かっているからだ。


凛藤が「次は答えを揃えてから来い」と言って重心を抜いた、その続きの空気がまだ沈砂池の上に残っている。風は吹いている。配管も鳴る。だが、三人の間だけが妙に乾いていた。


「近づいて」


先に口を開いたのは陽鳥だった。短く言う。端末から目を離さない。


「次に欲しいの、私は接近。観測は捨てる。最低限だけ取る」

「さっき観測って言いかけただろ」


紺野が横目で見る。


「言いかけた」


陽鳥はあっさり認めた。


「でも、あの人の言う通り。今それやると、私の欲しい正解だけ増えて、健ちゃんの一歩が高くつく」


凛藤の眉が、わずかにだけ動く。評価とも確認ともつかない動きだった。


「じゃあ俺は何捨てる」


紺野は鼻で息を吐く。腹は立っている。立っているが、言葉を選んだ。


「勝ち急ぐ顔」


凛藤が答える前に、陽鳥が言う。

紺野の顔が一瞬で硬くなる。右手が膝の横で握られる。合図。怒鳴る前に握る癖だ。凛藤はその手つきを見て、平坦に続けた。


「妥当だ紺野君、君はまだ一撃を通す顔を先に作る。いま要るのは、一撃ではなく、通せる形を増やす顔だ」

「言い方が気に食わねえ」


紺野が低く返す。


「気に入る必要はない」


凛藤の声は変わらない。


「使えればいい」

「……昔からそこ変わらないね」


陽鳥の口元がわずかに歪む。笑いではない。嫌悪とも違う、古い記憶を踏んだ時の顔だ。端末の縁を指で軽く叩く。


「採点じゃなくて運用だ、って言いながら、結局人の癖に点数つけるとこ」

「点数は便利だ。お前は数字にすると怒るから、覚える」


凛藤が即答する。

陽鳥の肩がかすかに揺れた。怒りと呆れが半分ずつ混じった揺れだ。

紺野は意味の全部は分からないが、陽鳥がこの男に既知の反発の仕方をしていることだけは分かる。


「行くぞ」


紺野が言った。


「接近優先。観測は最低限。俺の顔は後回し」

「良い。では始めよう」


凛藤がうなずきもしないまま告げる。平坦な声のまま、最後に足す。


「今度は会話を減らせ。位置だけ言え。長く話すと、君たちはすぐ自分の理屈に戻る」


その言葉の直後、連絡橋の欄干根元、橋下面の金具列、沈砂池縁の角で、構造物の使われ方だけがまた薄くなる。壊れてはいない。折れてもいない。ただ、踏み替えと進路の理由だけが先に痩せる。

授業の続きが、ようやく実技に戻った。


90-2


陽鳥が虫を投げる。

数は少ない。二列。薄い。

入口で死ぬ前提の観測だ。処理順の比較だけ取るための、嫌に地味な投げ方。派手さはない。だがいまはそれでいい。観測を取りに行くのではなく、紺野の足場へ繋がる情報だけを拾う。


光点が走る。継ぎ目で落ちる。欄干根元の手前で痩せる。橋下面の金具列に触れる前に消える。


「左が先に死ぬ」


陽鳥の声は短い。

紺野は動く。沈砂池縁を左へ流れ、橋の下へ潜る角度を取る。真正面ではない。だが回り込み一本でもない。橋中央へ向かう気を見せつつ、実際は下面を使って凛藤の置いた順番を崩す入り方だ。


凛藤は動かない。

動かないまま、橋下面の金具列が左から順に鳴る。ひとつ、ふたつ、三つ、五つ。前より一つ多い。紺野の足の選び方が増えたぶん、止める点も増えている。


「右、死ぬ」


陽鳥が続ける。

紺野の右足が半拍だけ止まり、左へ寄る。止まらされたのではない。声と視界を先に使った停止だ。そこへ右腕の黒い奔流を橋下面へ走らせる。術の縁へ噛みつき、細い通路をこじ開ける。


一歩目、入る。

二歩目、半歩ぶん深い。

三歩目の前で、沈砂池縁の手すり残骸が沈む。


「捨てて」


陽鳥の声。

紺野は右を捨てる。行けないからではない。行く理由が死んだと、もう顔の前に足で分かっている。左足の置き場を一度だけ見て、黒い奔流を前足の下へ薄く差し込む。前に出るためではなく、止まる位置を死なせないための差し込み。


凛藤の術がそこで一段組み替わる。

連絡橋中央寄りにあった圧が、橋下面の欄干根元へ寄る。見えない。だが変わったことは分かる。場の意味の太い場所が、紺野の進路に合わせて移る。


「今」


陽鳥の声が落ちる。今度は踏み込みの合図ではない。確認の合図だ。

紺野は踏み込まない。橋下面の欄干根元を見る。そこがさっきより"太い"。凛藤の術が先に守った場所だ。


「……そこか」


紺野が低く言う。


「位置だけ」


そう言った陽鳥の言葉に凛藤が被せた。


「感想は後だ」


紺野の喉がざらつく。腹立たしい。だが外れていない。

紺野は苛立ちを飲み込み、身体をねじって橋下面の欄干根元へ黒い奔流を叩き込む。暴力の向きが変わる。相手本体へではなく、相手が先に意味を置いた"場"へ差し込む。


凛藤の眉が、わずかにだけ動いた。

連絡橋の中央で、凛藤の前方に見えない術が増える。


一枚、三枚、六枚。

紺野はその増え方を見る。前より長く見る。前に出るための暴力と、前に出る前の確認のあいだを、まだぎこちないまま行き来している。

陽鳥が端末を叩く。


「橋中央は見なくていい。下のまま」

「分かってる」


紺野が返す。


「まだ無駄が多いな」


挟まれる凛藤の言葉に、紺野は舌打ちを飲み込み、返事を切る。

その瞬間、沈砂池の縁と橋下面のあいだで空気の張りが斜めに切り替わった。音はない。風もない。だが紺野の身体だけが、前でも後ろでもなく"横"へ流される。飛ばされたのではなく、進む理由と戻る理由の優先順位を、斜めから挟み替えられた止まり方だ。


「っ、くそ」


紺野が歯を食いしばる。


「そこで感情に逃げるな」


凛藤の声が落ちる。


「いまのは失点ではない。情報だ」


陽鳥の目が細くなる。

その言葉は、昔の試験室で自分にも言われた類いのものだと分かるから、余計に腹が立つ。


90-3


沈砂池の縁で、言葉がまた増える。だが最初の問答とは温度が違う。

いまの言葉は、戦いを止めるためではない。戦いの中で二人の順番を揃えるために挟まってくる。だから厄介で、だから無視しきれない。


「健ちゃん、次は私が先に意味を削る」


陽鳥が低く言う。端末の画面を見たまま、続ける。


「観測じゃない。比較でもない。処理順を一拍だけずらすために、列を捨てる」

「それ、通らないだろ」


紺野が眉を寄せる。


「通さなくていい」


陽鳥は即答した。


「通らない前提で、あの人に守る場所を選ばせる。健ちゃんはその選び方を踏む」

「ようやくそこか」


凛藤の視線が陽鳥へ流れる。


「うるさい。昔の赤字の続きを今返してるだけ」


陽鳥の口元が冷たく歪む。


「良い。返せる段に来たなら結構だ」


凛藤は否定しない。

その言い方に、陽鳥の肩がまた揺れる。


怒っている。怒っているが、その怒りが端末を握る指を荒らしていない。昔と違う。昔ならここで机を蹴っていた——そんな過去を、凛藤はたぶん本当に覚えている。


陽鳥が子機を切る。二列ではない。さらに絞る。薄い列を二つ、沈砂池縁の角と橋下面の欄干根元へ、同時に、わざと死なせる速度で滑らせる。入口で死ぬのは同じだ。だが、死ぬ順番の差を一拍以内で詰める投げ方。凛藤に「どちらを先に守るか」を選ばせるための投げだ。


光点が走る。

一方が消える。

もう一方もすぐ消える。

差は小さい。だが零ではない。


「下」


陽鳥の声。

紺野は沈砂池縁を蹴る。橋中央へ見せて、実際は橋下面へ潜る。さっきと似ている。だが似ているだけではない。右腕の黒い奔流を先に欄干根元へ噛ませ、凛藤の術の縁を削る場所が、一拍早い。


凛藤の前方の術が組み替わる。

橋中央から下へ。下から縁へ。守る順番が動く。

紺野は二歩目を深く入れる。三歩目の前で、沈砂池縁の角が死ぬ。そこまでは読んでいる。右を捨てる。左へ残す。黒い奔流を足元へ薄く差し込む。止まる位置を生かす。


ここまではいい。

その次で、凛藤が一段上げた。


連絡橋の中央に立ったまま、凛藤の術が人ではなく「時間」に近いものへ触れる。沈砂池縁の角、橋下面の金具列、欄干根元——三点の使える順番が、同時ではなく連鎖でもなく、紺野の判断より半拍だけ先回りしてずれる。

足元の地面が先に答えを知っているような嫌らしさだった。


紺野の身体が止まる。止まったのは失敗ではない。これ以上押すと死ぬ、と身体が先に判断した停止だ。前より良い。良いが、届かない。


「そこが線だ」


凛藤が静かに言う。一拍。


「いまの君たちが、言葉を使って越えられる限界」

「まだ言うか……」


紺野が血の混じった息を吐く。


「君たちは今、言葉で十分進んだ。だが次は会話だけでは足りない」


凛藤の声は淡々と告げる。

陽鳥の指が端末の縁で止まった。

分かっている。ここから先は、盤面の汚し方を変える必要がある。虫を観測のためではなく、別の用途へ切り替える段だ。だがまだ出さない。出す順番を間違えると、また入口で死ぬだけだ。


「昔お前に言ったな」


凛藤が陽鳥を見て言う。平坦な声のまま、過去を混ぜる。


「"取れる情報を全部取るな。次の一手を通す情報だけ取れ"」

「覚えてるよ。あのあと三日、記録室で寝ろって言った」


陽鳥の目が細くなる。低く続ける。


「嫌いなの、貴方のそういう正しい言い方が」

「知っている」


凛藤は即答した。


「だから、まだ聞く耳が残っているうちに言う」

「人に教えるの向いてないぞ、あんた」


紺野が鼻で笑うが笑いになっていない。


「理解出来ない者に、親切に教える程気が長くは無いからね」


その言葉のあと、凛藤が重心をほんのわずかに抜く。術を解くのではない。この場で増やす理由を一段切った姿勢だ。周囲の空気の張りが少し戻り、沈砂池縁の細い針金が遅れて鳴った。


「次へ進むなら、答えを一つ増やせ」


凛藤が言う。


「観測か接近かではない。その先だ。何を捨てて何を通すか」


二人を順に見る。


「そこを揃えろ。揃えた瞬間、私はもう一段上げる」


嫌な予告だった。

だが、全員それが正しいと分かる。

沈砂池の水面は黒いまま何も映さない。

映さないまま、連絡橋の中央と沈砂池の縁のあいだに、まだ届かない距離だけが残る。だがその距離の中身は、会話の分だけはっきりした。


場は共有し始めた。

足場と入口の死ぬ順番も、少しは揃った。

だが、まだ"何を捨てるか"が揃っていない。


凛藤義貞の介入は、相変わらず最悪だった。

殺さず、壊しすぎず、戦いながら二人の未熟な噛み合わなさだけを正確に炙り出してくる。

だから厄介で、だから次の段が要る。


沈砂池の縁で、紺野は右手を膝の横で一度握る。

陽鳥は端末の縁を指で二度叩く。

二人とも、次に捨てるものをまだ決めきれていない顔だった。


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