八十九話 沈砂池の縁で始まる講義
八十九話
89-1 凛藤義貞
沈砂池の水面は、相変わらず何も映さない。
連絡橋の中央に凛藤義貞。沈砂池の南縁に紺野健太郎と珠洲原陽鳥。
距離は詰まっていない。だが、詰まっていないこと自体が前より具体的な情報になっている。どこで足場の理由を削られるか。どこで虫が入口ごと殺されるか。見えていないままではない。少し見える。少し見えるのが、いちばん厄介だった。
風が配管を鳴らす。遠くで薄板が震える。
その雑音の上から、凛藤の声だけが平坦に落ちる。
「続けよう」
命令でも提案でもない。判定の続きを告げる音だった。
「次は"同じ場を見る"段だ。攻撃は後でいい」
「いちいちうるせえよ。戦ってるんだろうが」
紺野が低く吐き捨てる。
「だから言う」
凛藤は一歩も動かない。
「君は戦いになると、見えているものを口に出さなくなる。彼女は逆に、見えていないものまで先に処理しようとする。噛み合わない理由はそこだ」
「いちいち癇に障るな、あんた」
陽鳥の目が細くなる。端末の縁を指で一度叩く。
「昔からそうやって人の手を止めたよね。『黙って賢い顔をするな。見えてる範囲を先に出せ』って」
「覚えているなら使えと言っている」
凛藤の返しは速い。
その一言で陽鳥の口元が歪む。笑いではない。
腹が立つのは、昔話として投げていないからだ。戦場でそのまま使える形に落としてくる。嫌な教師のやり方だった。
「.....で、どうするんだ」
紺野が陽鳥を横目で見る。
「言えばいいんでしょ。見えてる死点と、切替の癖」
陽鳥は前を見たまま答える。一拍。
「でも健ちゃん、先に動くな。今を攻撃の合図にしない」
「じゃあ何の合図だ」
紺野の眉が寄る。
「足場の確認」
陽鳥の声は短い。以前より短いのに、言っていることは具体だ。
「私が"今"って言ったら、踏み込むんじゃなくて、次に置く足を一回だけ見る。置かないでいい。見るだけ」
「回りくどいな」
紺野は露骨に嫌そうな顔をする。
「その感想は正しい。高位同士の戦闘は大体が面倒だ」
凛藤が被せた。
沈砂池の縁の外側で、御親領衛の面々は動いている。
中央へは入らない。護国は戻り線を維持し、東雲は位置でだけ人の流れを薄く整え、志摩は端末線のノイズを拾い、綾瀬は足場の死に方を見ている。高倉は外周の顔を市井の勘で見て、真名と樋道は視線の偏りを散らす。誰も声を差し込まない。ここで口を挟めば情報ではなくノイズになると、全員が分かっているからだ。
中央の三人だけが、言葉の値段を持つ。
「始めるぞ」
凛藤が言う。
その直後、連絡橋の欄干根元、橋下面の金具列、沈砂池縁の角——三か所で、構造物の"使われ方"だけが薄くなる。壊れてはいない。折れてもいない。ただ、そこを踏み替えや通過に使う理由だけが痩せる。見えない術が、場の意味から先に入ってくる。
89-2
陽鳥が子機を投げる。
使い方を絞る。死ぬこと前提の観測に寄せる。
沈砂池縁、橋継ぎ目、欄干根元へ二列。
一列は薄く。もう一列は同条件で重ねる。処理順だけを比較するための、嫌に地味な投げ方だった。
光点が走る。
継ぎ目で一つ落ちる。欄干根元の手前で二つ目が痩せる。
完全に消える前、ほんの一拍だけ優先順位の差が出る。
「今」
陽鳥が言う。鋭い声ではない。確認の声だ。
紺野の身体が反射で前傾しかける。そこで止まる。
右手が膝の横で握られる。合図。攻撃に使う癖を、足に行かせないための自制だ。
紺野は踏み込まない。代わりに、沈砂池縁の角と橋下面の金具列を一瞬だけ見る。次に置くはずだった足の位置が、さっきまでと違う痩せ方をしている。
「……橋じゃなく、縁の角が先に死んでる」
「半分正解。橋の方は"入口"で殺されてる。縁の角は"退き足"として殺されてる」
陽鳥が即答する。端末を叩く。
「前じゃなく、戻りを先に削られてる」
「良い。ようやく同じ図面を見始めたな」
凛藤が言う。
その言い方が、紺野の神経を逆撫でする。だが今は噛みつかない。噛みついた瞬間に古い足になると、身体の方が先に覚え始めている。
紺野が動く。
今度は沈砂池の縁を左へ流れ、連絡橋の下へ潜る角度を取る。真正面ではない。橋の中央へ向かう気を見せつつ、実際には橋下面の金具列と沈砂池縁の角を使って回り込む軌道。
凛藤は動かない。
動かないまま、橋下面の金具列が左から順に鳴る。ひとつ、ふたつ、三つ、五つ。さっきより一つ多い。紺野の足の選び方が変わったぶん、凛藤の止め方も増えている。
紺野は二歩目の前に、右腕の黒い奔流を先に走らせた。
黒い流れが橋下面の術の縁へ噛みつき、削り、細い通路を無理やりこじ開ける。前へ出るための暴力。だが今夜のそれは、ただ一直線に噛み砕く形から少しだけ外れている。足場の"意味"を残すために使っている。
一歩目。入る。
二歩目。半歩ぶん深い。
三歩目の前で、沈砂池縁の手すり残骸が沈む。
崩落ではない。紺野が体重を預ける前に、預ける理由だけを失わせる沈み方だ。
「今、右捨てて!」
陽鳥の声が飛ぶ。今度は攻撃の合図ではなく、足の選択肢を削る声だ。
紺野は右へ行かない。行けないのではない。行く理由が死んだと、声の前に視界で取っている。左足の置き場を一度だけ見て、黒い奔流を前足の下へ薄く差し込む。止まらないためではない。止まる位置を死なせないための差し込みだ。
「遅いが悪くない」
凛藤の眉が、わずかに動く。
「まだ言うか」
紺野が血を吐き捨てる。
「必要な時は認める」
凛藤の声は変わらない。
「君は認めないと次に余計な一歩を足す」
「相変わらず、言い方が性格悪いのよ」
陽鳥の口元が吊り上がる。笑いではない。悔しさに近い歪みだ。
「君も相変わらずだ。答えを一度取ると、次で欲張る」
凛藤の視線が陽鳥へ流れる。
陽鳥の指が端末の上で止まりかける。次の投げ方で、死点比較の列にもう一つ観測軸を足そうとしていた。処理順だけでなく、起点の癖も取りたくなったのだ。欲張った瞬間に死ぬ。さっき自分で言われたばかりなのに、指の方が先にやりたがる。
「……覚えてるのね、そういうの」
陽鳥は舌打ちを飲み込み、配分を元へ戻す。低く言う。
「地下の試験室で、評価表に"B-、理由:頭が先に走る"って赤で書いたの」
「C+だ。お前がその後、机を蹴ったから下げた」
凛藤は即答した。
一瞬、陽鳥の肩が揺れた。怒りと、呆れと、笑いにならない何かが混ざった揺れだった。
「最低」
「机蹴ったのか」
紺野が横目で見る。
「うるさい」
陽鳥は端末から目を離さない。
「あいつの話に乗るな」
89-3
沈砂池の縁で、会話の温度はある。
だが戦闘の温度は下がっていない。むしろ、遅いぶんだけ濃い。
凛藤の術は見えないまま増える。
連絡橋中央、欄干根元、橋下面、沈砂池縁の角。
人ではなく、構造物の「使われ方」の側から先に意味を持ち始める。
この男は、止めるために術の数を増やし、場の意味を削る。
紺野はその増え方を見ている。
前より長く見ている。
前へ出るだけの顔から、前へ出る前に場を見る顔へ、ほんの少しだけ寄っている。
陽鳥は虫を投げる。
入口で死ぬ。だが死ぬ位置の比較は取れる。処理順の差は拾える。
凛藤の術が「何を先に守るか」は、微弱でも形になる。
それでも、まだ届かない。
「健ちゃん、次。橋中央見ないで、欄干の影」
陽鳥が低く言う。
「攻撃の角度か」
紺野が返す。
「違う。あそこ、あの人の足じゃなくて、橋の意味が先に太い。そこが削れると、次の二歩目の価値が下がる」
紺野の眉が寄る。
理解は半分。だが半分で動く方が、この段では正しい。
紺野は沈砂池縁を蹴り、橋下面へ身体を滑らせる。
右腕の黒い奔流を欄干根元の影へ先に噛ませる。
見える物体ではない。意味の濃い場所へ暴力を差し込む使い方だ。
凛藤の前方の術が一段だけ組み替わる。
見えないが、変わったことは分かる。
連絡橋中央寄りではなく、橋下面の金具列の方へ優先順位が一瞬だけ寄る。
「……取れる」
陽鳥の目が細くなる。
「そこまでは良い」
次の瞬間、沈砂池の縁と橋下面のあいだで、空気の張りが斜めに切り替わった。
見える線ではない。音もない。
だが紺野の身体だけが一瞬、前でも後ろでもなく「横」へ流される。
飛ばされたのではない。
進む理由と戻る理由の優先順位を、斜めから挟み替えられた止まり方だ。
「……っ、くそ」
紺野が歯を食いしばる。
「そこだ、紺野君」
凛藤の声が落ちる。
「君はまだ、一撃のための場しか見ていない」
陽鳥の指が止まる。
陽鳥はいま、処理順と死点を取れていることに手応えを感じている。
紺野は、前より深く入れたことに手応えを感じている。
どちらも間違いではない。
だが同じ手応えではない。
「場は共有し始めた」
凛藤が言う。
「だが、欲しい結果がまだ別だ」
陽鳥の喉が鳴る。
そこを言われるのがいちばん痛い。
「質問しよう」
凛藤は二人を順に見た。
「次に欲しいものは何だ。観測か、接近か」
「観——」
「近——」
陽鳥が先に言いかけ、紺野が同時に口を開く。
二人の声がぶつかって止まる。
沈砂池の縁に、短い沈黙が落ちる。
「それだ」
凛藤の口角が、ほんのわずかに動く。笑いと呼ぶには薄すぎる動きだった。
「まだ、互いを使う段に入っていない」
紺野の喉の奥がざらつく。腹立たしいほど正しい。
陽鳥の目も冷えている。腹立たしいほど正しい顔だ。
「だったら、答えを揃えるまで待ってくれるの?」
陽鳥が低く言う。
喧嘩を売る声ではない。値段の確認だ。
「待つ程暇ではない」
凛藤は即答した。
「だから、いまここで揃えろ」
その一言で、沈砂池の縁の空気がもう一段だけ重くなる。
連絡橋の下で金具が短く鳴る。
縁のコンクリートに埋まった鉄筋が、触れてもいないのに軋む。
術を解く前の気配ではない。
次を足す前の気配だ。
「十数える」
凛藤が言う。
「その間に決めろ」
「数え終わったら?」
紺野が低く問う。
「揃っていなければ、次は両方落とす」
平坦な声だった。
脅しではない。確認だ。
だから厄介だった。
「一」
凛藤が数え始める。
陽鳥の指が端末の縁を叩く。
親機群の配分が一段だけ重くなる。
次の手を出したい。出せる。だがいまは、その前に決めるものがある。
「二」
紺野の右手が膝の横で握られる。
怒りを握るためだけじゃない。
噛みつく順番を止めるための合図だ。
「観測を取る」
陽鳥が先に言う。
速い。だが、今は速さに意味がある。
「まだ足りない。死点の比較と切替点をもう一段欲しい」
「三」
「それで届かなきゃ意味無いだろ」
紺野が返す。
「俺は近づく。あの距離を縮めないと、次の手がない」
「四」
「近づいて、何するの」
陽鳥の目が細くなる。
「いまの健ちゃんは届く形をまだ持ってない」
「分かっている」
紺野が吐き捨てる。
「だから作るんだろうが」
「五」
凛藤の数え方は一定だ。
急かしもしない。待ちもしない。
ただ、人が自分の順番を露呈する速度に合わせて落ちてくる。
「観測がないと、また同じとこで死ぬ」
陽鳥が言う。
「近づけても、二歩目で終わる」
「だったら」
紺野の顔が硬くなる。
「俺が二歩目を取る」
「六」
「無理よ」
「知ってる」
「七」
「でも今は、それしかねえ」
紺野の返しは短い。
短いからこそ、陽鳥の方が一拍だけ黙る。
「八」
風が配管を鳴らす。
沈砂池の黒い水面は何も映さない。
映さないまま、二人のあいだの言葉だけが遅れずに落ちる。
「……じゃあ、こう」
陽鳥の声が低くなる。
決めた時の声だ。
「私は観測だけ取らない。次の一手で、健ちゃんの二歩目が死ぬ場所を一個だけ減らす」
紺野の目が動く。
「減らせるのか」
「全部は無理」
陽鳥は即答した。
「でも一個なら減らせる。その代わり、健ちゃんは私が取る差を待つ。差が出る前に行かない」
「九」
紺野の喉が鳴る。
待つ。
待つのが嫌いなのを、陽鳥は知っている。
知っていてそこを条件に出してきた。
「……分かった」
紺野が低く言う。
「でも、お前も欲張るな」
陽鳥の指が一度止まる。
それから、小さく頷く。
「分かってる」
「十」
凛藤の数が止まる。
平坦な目が、連絡橋の中央から二人を測る。
沈砂池の縁にいる二人は、まだ未熟だ。まだ届かない。
それでもさっきまでより、わずかに同じものを見ている。
「ようやく形になったか」
凛藤が言う。
「では、次だ」
その瞬間、連絡橋の中央の空気が薄く白んだ。
壁ではない。
拒絶でもない。
「そこへ入る前提」そのものが、一段厚くなっただけだ。
沈砂池の縁のコンクリートが軋む。
橋下面の金具列が左から順に鳴る。
欄干根元の影が、踏む理由より先に削られていく。
「来い」
凛藤が短く告げる。
「今度は、数えた答えで動け」
沈砂池の黒い水面は、やはり何も映さない。
映さないまま、連絡橋の中央と南縁のあいだにある距離だけが、さっきよりはっきりした形で残る。
虫は入口で死ぬ。
紺野は二歩目を取られる。
だが次は、そこへ同じ角度では入らない。
まだ届かない。
だからこそ、次の一手が要る。
ここから先、ようやく本当に、二人で凛藤義貞へ触りに行く。




