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幻想帝都 神州御親領衛記  作者: ニュートリノ鈴木
二章 珠洲原陽鳥という女
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八十八話 昔話の値段


八十八話


88-1 昔話の値段



沈砂池の縁で、夜はまだ止まっていなかった。

止まっていないのに、動きが切れて見える。

凛藤義貞が言葉を落とすたび、連絡橋の意味が少し変わる。


紺野健太郎が一歩を作るたび、その意味の削れ方が少し遅れる。

珠洲原陽鳥が虫を投げるたび、死ぬ位置の輪郭だけが薄く残る。

戦闘の最中だ。だが、音の数の割に進み方が遅い。

遅いのではない。順番を見せられているから、そう見える。


「質問を変える」


凛藤は連絡橋の中央に立ったまま、沈砂池の縁にいる陽鳥へ視線を置いた。平坦な声だった。


「珠洲原君。君は"見えていない"ことに腹を立てているのか、"昔と同じことを言われている"ことに腹を立てているのか、どちらだ」


陽鳥の指先が止まる。

端末の縁を握る力が、ほんの少しだけ強くなる。

紺野が横目で一瞬だけ陽鳥を見る。言葉の意味は全部分からない。だが刺さったことだけは分かる顔だ。


「最悪な聞き方」


陽鳥は笑わない。低く返す。


「両方よ」

「だろうな」


凛藤は頷きもしない。


「研究局の下の試験室に一度だけ降りてきて、私の記録束ぜんぶ赤で潰した人が、いまさら何を確認してるの」


陽鳥の喉の奥で、乾いた笑いにならない音が鳴る。言い方は軽い。軽く作っている。温度だけがまったく軽くない。


「"虫を入れる前に盤面を汚せ"って、あの時も言った」

「同じ癖が残っているから、同じことを言っている」


凛藤の返事は速かった。

その一言で、陽鳥の目が冷える。

腹が立つのは侮辱だからではない。正しいからだ。


「知り合い同士の説教なら後でやれ」


紺野が低く吐き捨てる。


「君にも関係がある」


凛藤は今度は紺野へ視線を向けた。一拍。


「彼女の癖が直らないと、君の一歩目は毎回高くつく」


紺野の右手が膝の横で握られる。怒りを飲む合図だ。

飲めるようになっていること自体が、この数日の成果であり、本人にとって一番気に入らない変化でもあった。


「じゃあ、見せなよ。どこまで昔話で済ませるつもり?」


陽鳥が先に切る。


「済ませるつもりはない」


凛藤は連絡橋から動かない。動かないまま、沈砂池の縁、橋の継ぎ目、欄干根元の三点に、見えない圧だけが薄く置かれる。術式の光は見えない。だが構造物の「使われ方」だけが先に変わる。


「続きをやる。君たちが答えられる段まで」


凛藤の声は変わらない。


88-2


紺野が動いた。


今度は沈砂池の縁を左へ流れ、切れた連絡橋の下へ潜る角度を取る。真正面で止められるなら、視線の高さごと変える。前より雑ではない。雑さを残したまま、順番だけは少し整理されている。


凛藤は動かない。

動かないまま、橋下面の金具列が左から順に鳴る。

ひとつ、ふたつ、四つ。

等間隔ではない。紺野の次の足が置かれる順番に合わせて鳴る。

紺野の踏み込みが半拍だけ遅れる。


壊れていない。落ちてもいない。ただ、その足場を使う理由だけが痩せる。

紺野は舌打ちを飲み込み、右腕の黒い奔流を橋下面へ走らせた。

黒い流れが金具列へ噛みつき、凛藤の術の縁を削る。全部は剥がせない。だが一列分、足を置く理由だけを奪い返す。その細い余白へ身体をねじ込む。前へ出る、ではなく、止められ方を選ぶための入り方だ。


「一つ目は良い。では二つ目だ」


凛藤が言う。平坦な声のまま、続ける。


「君はいま、何を守っている」

「前に出る順番」


紺野が低く返す。


「それでは半分だ」


凛藤は切る。


「もう半分は、怒る順番だ。君は怒りの方が先に出ると、足の選び方が古くなる」


沈砂池の縁の空気がわずかに冷える。図星だった。

紺野の顔が硬くなる。だが前みたいにそのまま突っ込まない。右手がもう一度握られる。合図。自分で自分を止めるための手つきだ。


その一拍で、連絡橋の中央寄りが薄く白む。

見える壁ではない。踏み込んだ先で、世界の側が「そこは違う」と言い換えてくる、あの嫌な拒否だ。

紺野は押さない。半歩手前で止まる。止められたのではない。凛藤の次を先に吐かせるため、自分から止める。


「良い」


凛藤の眉が、ほんの少しだけ動いた。

陽鳥はそのやり取りの間に、端末の配分を切り直していた。


虫は入口で死ぬ。なら、死ぬことを前提に使うしかない。観測のためではなく、相手の優先順位を一拍だけ揺らすための配置へ寄せる。だが、まだ出さない。いまやると同じ失敗をなぞるだけだと、指の方が分かっている。


「君も止まれるようになったか」


凛藤がその指先を見ている。


「誰のせいだと思ってるの」


陽鳥の目が吊る。


「私のせいでいい」


凛藤は平坦に返した。


「その方が話が早い」


陽鳥の口元が歪む。笑いではない。

昔の凛藤を思い出している顔だ、と紺野は思う。研究局だの試験室だの、具体的な場所の話は知らない。だが、陽鳥がこの男に「一度だけ言われた」相手じゃないことは分かる。反発の角度が、初対面のそれではない。


「昔、お前は記録の精度で勝とうとした。悪くない。だが、相手の精度の土俵に乗った」


凛藤は続ける。


「……まだ覚えてるんだ」


陽鳥の瞳が細くなる。


「覚えている」


凛藤は即答した。


「高い素材が、同じ失敗を繰り返すのは損失だからな」


その言い方の無神経さに、陽鳥の肩がわずかに揺れる。怒っている。怒っているのに、その怒りをまるごと戦闘へ使えない。使った瞬間に読みやすくなると分かっているからだ。


「じゃあ、いまの失敗も言えよ」


紺野が低く言う。


「いいだろう」


凛藤の視線が紺野へ戻る。一拍。


「君たちはまだ、同じ場を見ていない」


88-3


言葉のあとに、術が来た。


凛藤が指を動かしたわけではない。連絡橋の中央で立つ姿勢も変わらない。

それでも沈砂池の縁、橋下面、欄干根元の三点で、構造物の意味だけが一斉に薄くなる。

壊れてはいない。折れてもいない。


だが、紺野が踏み替えに使う角、陽鳥が虫の列を這わせたい継ぎ目、二人がそれぞれ「次に使うつもりだった理由」だけが、同時に削られる。

紺野が舌打ちを飲み込む。陽鳥の指が端末の縁で止まる。


「これが答えだ。君は君の足場だけ見ている。彼女は彼女の入口だけ見ている。だから、同時に削られる」


凛藤は平坦に言う。沈砂池の黒い水面を挟んで、二人へ視線を置く。


「私を見すぎるな。まず場を見ろ。私の術は、私の体より先に場へ置かれる」

「言うのは簡単だ」


紺野が低く笑う。笑いというより、血混じりの息が漏れる音だった。


「簡単だから言っている」


凛藤は即答した。


「難しいのは、その後だ」


紺野の黒い奔流が一瞬だけ濃くなる。怒りで前に出る顔だ。陽鳥の指が袖口を弾きかけ、止まる。いま切ればまた順番を奪うだけだと、もう分かっている。

沈砂池の縁の外側では、御親領衛の面々が動いている。


中央へは入らない。入れないのではない。入らない方が値段が安いからだ。護国の視線は戻り線を切らず、東雲は位置だけを整え、志摩は端末のノイズを拾い、綾瀬は足場の死に方を見ている。高倉は外周の顔を市井の勘で追い、真名と樋道は視線の偏りを薄く散らしている。

口を挟まない。

挟めば中央の戦いへ余計な意味が混ざる。

この場で言葉の値段が高いのは、三人だけだ。


「……じゃあ、次は場から取る」


陽鳥が先に息を吐いた。凛藤を睨んだまま言う。


「虫を入れる前に、健ちゃんの足場と私の入口を同じ線で見る。これでいい?」

「良い。ようやく会話になった」


凛藤の返事は短い。


「使うのか、俺の足を」


紺野が横目で陽鳥を見る。


「使う。使われるのが嫌なら、先に私の入口を使って」


陽鳥は前を向いたまま返す。一拍。


「できるならね」


紺野の口元がわずかに歪む。笑いではない。だが怒り一色でもない。


「喧嘩売ってんのか」

「売ってる」


陽鳥の声は低いままだ。


「でも仕事の範囲で」

「それでいい」


凛藤がそこで、初めてほんのわずかに口角を動かした。笑いと呼ぶには薄すぎる動きだった。静かな声で言う。


「感情を消す必要はない。順番だけ揃えろ」


連絡橋の中央で、凛藤が重心をほんの少し抜く。術を解くのではない。この場で増やす理由を一段切った姿勢だ。周囲の空気の張りがわずかに戻り、沈砂池縁の細い針金が遅れて鳴った。


戦闘は終わっていない。

ただ、二段目の問答が終わった。

沈砂池の黒い水面は相変わらず何も映さない。

映さないまま、連絡橋の中央と沈砂池の縁のあいだに、まだ届かない距離だけが残る。だが、その距離の中身はさっきより具体的になっていた。


虫は入口で死ぬ。

紺野は足場の理由を奪われる。

凛藤は戦いながら、質問の形で二人を揃えにくる。

そして陽鳥は、昔に言われた言葉を、いま戦場で言い直されている。


次に進むなら、もう「見えない相手」への苛立ちだけでは足りない。

場を共有する段へ入らなければ、凛藤義貞の授業は終わらない。


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