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幻想帝都 神州御親領衛記  作者: ニュートリノ鈴木
二章 珠洲原陽鳥という女
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八十七話 凛藤義貞


八十七話


87-1 沈砂池の縁で始まる授業



旧水門工区の夜は、暗いというより、役目を失った構造物の輪郭が多すぎる。


沈砂池の縁に残った保守床。途中で切れた連絡橋。導水路へ降りる階段。錆の浮いた手すり。用途の消えた配管。昼に見ればただの廃材の寄せ集めが、夜になると「そこに足を置く理由」だけを強く主張し始める。戦うには嫌な場所だ。だからこそ、ここへ来た。

市街でこれ以上やれば、街の順番ごと壊される。


羽場桐はそう判断し、御親領衛の線を工区へ移した。だが、ここへ来た時点で役割の段差はもう露骨だった。中央に立つのは二人だけ——紺野健太郎と珠洲原陽鳥。護国、東雲、志摩、綾瀬、高倉、真名、樋道は、一段外に散って「崩れた時に崩れない線」を持つ。出ない。出られない、という方が正確だ。弱いのではない。土俵が違う。


荒臣を除けば、凛藤義貞に対して「手を出して意味が残る形」を持っているのは、紺野と陽鳥しかいない。

だから静かだった。


沈砂池の南縁。半分落ちた保守床の端に、紺野が立っている。肩の力は抜けていない。抜けていないのに、倉庫帯で見せたような、前へ食いちぎるだけの角度でもない。右手が膝の横で一度握られる。怒りを先に握っておく癖だ。


半歩後ろ、視界に入る位置で、陽鳥が端末を抱える。指先は静かだが、静かすぎる。平静ではない。平静に寄せた手つきだ。倉庫帯で、構成前にまとめて落とされた子機の感触が、まだ指の中に残っている。


「二つ」


陽鳥が小さく言う。外だ。だが市街ほど耳は多くない。


「言え」


紺野は前を見たまま返す。


「一つ目。今日は止めるより先に、どこで止まるかを見せられる」


陽鳥は切れた連絡橋の中央を顎で示した。


「足場そのものじゃなくて、足場の使い道を先に殺される」

「倉庫の続きか」


紺野の眉が寄る。


「もっと露骨な、ね」


陽鳥の声が低くなる。


「二つ目。健ちゃんが先に顔に出る線は、私が先に手を入れた時。……さっきの続き」


図星だった。紺野の喉の奥がざらつく。否定しても値段は下がらない類いの図星だ。鼻で息を吐いて、短く返す。


「分かってる」


一拍置いて、言い足す。


「気に食わないがな」

「うん。だから先に言った」


陽鳥は笑わない。

その直後、工区の音の並び方が変わった。

風は吹いている。遠くの薄板も鳴っている。配管の中で残り水も揺れている。なのに、先に耳へ入るはずの雑音だけが一段薄くなる。

耳の奥が先に痛んだ。遅れて沈砂池の縁の金具が細く震え、最後に、切れた連絡橋の先で垂れていたワイヤが短く鳴る。順番がおかしい、と陽鳥が思った時には、連絡橋の中央——人が最も詰まる位置に、男がもう立っていた。


凛藤義貞。

東方守護。従二位の極致。神術大聖スペルシーカー)


詠唱を捨てた術の束を、呼吸のように同時に回す怪物。奇跡ではない。雑務の極致だ。だから高位ほど嫌う。強い者ほど、自分の得意に入る前に、前提ごと潰されるからだ。


凛藤は高所を取っていない。連絡橋の中央、逃げ場の少ない位置に立っている。そこを選べる時点で説明の半分は終わる。囲む前提が脅威になっていない。


「場所を変えたか」


凛藤の声は静かだった。温度のない平坦さだけが残る。


「正しいな。街で続ければ君たちの手順の方が先に死ぬ」

「褒めてるつもり?」


陽鳥の目が細くなる。


「違う」


凛藤は即答した。


「判断の確認だよ」


紺野の右手がもう一度握られる。怒りより先に順番を掴み直す合図だ。凛藤はその手つきまで見ている顔だった。


87-2


陽鳥が先に動いた。


珠洲原陽鳥、従二位。万想狂花(メガロマニアクス)


精神ナノマシン群である虫を用いる神術。

子機は観測、感覚改竄、精神干渉。親機は演算、回収、再編。細く入れて、深く触る術だ。だからこそ、入口を作らない相手とは噛み合わせが最悪になる。

いまは侵入しない。観測だけだ。


沈砂池の縁、連絡橋の継ぎ目、欄干の根元へ、三列に絞った子機を低く這わせる。

光点が走る。ひとつ目が継ぎ目で消える。ふたつ目が橋へ入る前に落ちる。みっつ目は凛藤の足元へ届く手前で、構成前に消えた。

速い、ではない。

処理の感触が残らない。結果だけが先に出る。


「……やっぱり、入口がない」


陽鳥が吐き捨てる。凛藤はわずかに目を向けただけで答えた。


「質問だ、珠洲原君」


平坦な声のまま、言う。


「君はいま何を見たい」

「は?」


陽鳥の眉が動く。


「処理速度か。処理順か。起点か」


凛藤は一歩も動かない。


「全部は欲張りすぎだ。君の術は繊細だが悪質で強力だ。だからこそ欲張った瞬間に繊細さが死ぬ。ならば次に何を取る?」

「勝手に授業始めてんじゃねえよ」


紺野が吐き捨てる。


「そうだ、もう始まっている。そして君たちは止められない」


凛藤は紺野へ視線を動かさず返した。

言いながら、凛藤の術はもう配置されている。見えない。だが連絡橋の欄干の影、橋桁の下面、沈砂池縁の角——人が踏み替えやすい場所だけが、わずかに「使いにくい形」へ変わっていく。壊れてはいない。壊していないからこそ嫌だ。構造物の意味だけを削る。


「……処理順」


陽鳥は舌打ちを飲み込み、端末の画面を切り替える。低く答えた。


「起点はまだ無理。速度測っても今は値段高い。だから順番だけ取る」

「良い」


凛藤は即答した。


「なら、その投げ方は半分無駄だ。三列はいらない。二列でいい。死ぬ位置の比較を取るなら、片方は同条件で重ねろ」


陽鳥の指が止まる。腹が立つ。腹が立つが、言っていることが正しいのがさらに腹立たしい。端末上の配分を二列へ切る。沈砂池の縁と橋継ぎ目へ、同じ条件の薄い列を滑らせる。

今度は死ぬ。やはり死ぬ。だが、落ち方にわずかな差が出る。


「……優先順位、橋側が先」


陽鳥の目が細くなる。


「そうだ」


凛藤の声は変わらない。


「構造物の意味を先に持っている。君の虫は"空間"へ入る前に、"用途"で弾かれている」


陽鳥の喉がひりつく。説明されている。戦闘中に。しかも、ただの講釈じゃない。実際に役に立つ形で。

紺野が一歩踏み出す。今度は真正面ではない。沈砂池の縁を左へ滑り、橋の下へ潜る角度を取る。止められる場所をずらすつもりだ。だが凛藤は紺野を見る前に言った。


「待て」


紺野の顔が硬くなる。止まらない。止まる理由がない顔だ。だがその直後、橋下面の金具列が左から順に鳴る。ひとつ、ふたつ、四つ。等間隔ではない。紺野が次に足を置く順番に合わせた鳴り方だ。

紺野の踏み込みが半拍遅れる。


「質問だ、紺野君。君はいま何に勝ちたい」


凛藤がそこで初めて紺野を見た。


「てめえに決まってるだろ」


紺野が低く返す。


「違うな」


凛藤は平坦に切った。


「いまの君は、私ではなく"止められた記憶"に噛みついている。だから二歩目が死ぬ」


紺野の目が細くなる。怒鳴る前に、右手が膝の横で一度握られる。合図。最近覚えた自制の形だ。凛藤はそれを見て、ほんのわずかに顎を引いた。肯定とも評価ともつかない仕草だった。


「もう一度問う」


凛藤が言う。


「何に勝ちたい」


紺野は舌の裏で何かを噛む。目の前の男か。止められる感覚か。自分の顔が先に熱くなる癖か。どれも違わない。どれも違う。数秒の沈黙のあと、低く言う。


「……順番だ」


言ってから、自分でも嫌そうな顔になる。


「気に食わないが、今はそれだ」

「良い」


凛藤は即答した。


「では、君の一撃はまだ要らない。まず足を置け」


その言い方が、命令でも指導でもなく、確認の続きとして落ちてくるのがまた腹立たしい。


「上から目線で語ってんじゃねえよ!」


紺野は沈砂池の縁を蹴る。前へ出る前に、先に右腕から黒い奔流を走らせた。


紺野健太郎。正二位、深澱の首領マギスターテンプル


いま見えるのは、破壊と捕食に見える力だけだ。黒い流れが欄干根元へ触れ、凛藤の術の縁を噛み、削る。全部は剥がせない。だが一列分、足を置く理由だけを奪い返す。そこへ身体をねじ込む。


一歩目は入る。

二歩目を置く直前、連絡橋の中央寄りが薄く白む。見える壁じゃない。踏み込んだ先で世界の側が「そこは違う」と言い換えてくる、あの嫌な拒否だ。


紺野は無理に押さない。半歩手前で止まった。止まらされたのではない。止められる前提で、自分から止まる。凛藤の次を先に吐かせるための停止だ。


「ようやく、質問に答えた動きになったな」


凛藤の眉が、今度ははっきりわずかに動いた。


87-3


沈砂池の縁で、会話の比率だけが高い。

だが、それは静かな場面という意味ではなかった。

凛藤の言葉が落ちるたび、足場の意味が変わる。

紺野が返すたび、黒い奔流の使い方がわずかに変わる。


陽鳥が聞くたび、虫の投げ方が一段だけ痩せる。

戦っていないのではない。

戦いながら、わざと「答えさせられている」。


「次はこっち!」


陽鳥が端末を握り直す。

苛立ちは消えていない。消えていないが、怒る先がさっきより具体的になっている。怒鳴るより先に、何を取るかを決める顔だ。


「橋中央と縁だけじゃ足りない。継ぎ目の手前、死ぬ前の痩せ方も欲しい」


独り言のようにに吐く。


「処理順だけなら二列でいい。でも切替点の癖を見るなら、もう一つ——」

「そこに軸を増やすな」


凛藤が被せた。

陽鳥の目が吊る。


「勝手に口出ししないで」

「口を出されるのが嫌なら、出させる段へ行け」


凛藤は平坦に返す。


「君はいま、観測項目を増やして安心しようとしている。だが安心のために取る情報は、たいてい遅い」


陽鳥の指が止まる。

図星だった。

珠洲原陽鳥は、怖い時ほど観測項目を増やす。

増やせば、自分の位置が守られる気がする。守られる気がするだけで、実際には処理が太る。凛藤の前では、その太さそのものが入口になる。


「……最悪」


吐き捨てて、陽鳥は端末の配分を切る。

橋中央と縁。二列。比較。

継ぎ目の手前へ置きたかった三つ目は捨てる。捨てたぶんだけ、残した二列の解像度が少し上がる。

子機が低く這う。


中央で死ぬ。

縁で死ぬ。


死ぬのは同じだ。だが、死ぬ直前の痩せ方に差がある。橋中央側は一度だけ細くなってから消える。縁は最初から入る理由ごと失う。


「……取れた」


陽鳥の喉が鳴る。

収穫だった。嫌な形だが収穫だった。

紺野が低く言う。


「で、どうする.....?」


陽鳥は前を見たまま答える。


「健ちゃん、次の一歩、橋の付け根の右じゃない。下でもない」


一拍。


「"横"」

「横?」


紺野の眉が寄る。


「置くんじゃない。踏む気で見せる」


陽鳥の声は短い。短いが、今は通る。


「実際には置かない。置くと死ぬ」

「死ぬって言い方はやめろ」

「ここで遠慮する方が死ぬよ」


言いながら、陽鳥の視線は紺野から逸れない。

逸れないのは、その一歩で紺野がまた真正面の癖へ戻る可能性を、自分でも分かっているからだ。

紺野の右手が膝の横で一度握られる。

怒りを先に握る癖。

最近はそれだけじゃない。前に出たい自分を一拍だけ遅らせるための合図にもなっている。


「……分かった」


紺野が沈砂池の縁を蹴る。

今度は最初から真正面を見せない。

橋の付け根の横へ視線と肩を先に向ける。踏み込む気で見せる角度だ。


凛藤の術がそちらへ一枚、先に置かれる。

置かれた瞬間を見て、紺野は足を出さない。

代わりに、黒い奔流を足元に這わせた。


それが沈砂池縁の角を噛み、欄干根元に置かれた術の縁を削り、次に体重を掛ける理由だけを細く奪い返す。全部を剥がす気はない。剥がせる相手でもない。


一列分。半歩分。通るために必要な意味だけを取り返す。

そこへ身体をねじ込む。

一歩目が入る。

深い。さっきより半身ぶん近い。

凛藤の前方に術が増える。


一枚、三枚、五枚。


殺さないために刻むから増える。過剰に飛ばせば死ぬ。切りすぎれば死ぬ。だからこの男は、相手を止めるために術の枚数を増やす。

紺野はその増え方を見ている。

前より、見ている時間が長い。

前へ出るだけの顔から、前へ出る前に場を見る顔へ、ほんの少しだけ寄っている。


「良い。だがまだ遅い」


凛藤が言う。


「うるせえよ」


紺野が吐き捨てる。


「遅いと言っただけだ。悪いとは言っていない」


凛藤の声は変わらない。

陽鳥の口元が歪む。


「ほんと嫌な言い方」

「君達には必要な言い方だ」


凛藤は二人を順に見た。


「君たちは互いを嫌う理由が多い。だが、いまそれを目的にすると、私の役割に意味が無くなる」


一拍。


「だから、まだ主題にはするな」


紺野の黒い奔流が一瞬だけ濃くなる。

怒りで前に出る顔だ。

陽鳥の指が袖口を弾きかけ、止まる。ここで切れば、また自分が順番を奪うだけだと分かっている。

凛藤は、その二人の癖まで見ている。


「さて、区切りは良いが今日はここまで、とは言わない」


静かな声だった。

陽鳥の指先が止まる。

紺野の目が細くなる。

凛藤は連絡橋の中央に立ったまま、ほんのわずかに重心を落とした。

術を解く前の姿勢ではない。逆だ。

これまでの問いを終えて、次の段へ移る前の沈み方だ。


「ここまでは、添削だ」


平坦に言う。


「次は、ようやく実技に入ろう」


沈砂池の縁の空気が、一段だけ重くなった。

連絡橋の下で金具が短く鳴る。

縁のコンクリートに埋まった鉄筋が、触れてもいないのに軋む。

場の使い道が、さっきまでより露骨に書き換わっていく。


陽鳥の喉が鳴る。

親機群の演算配分が、次段へ寄りかける。まだ早い。だが、早いと分かる段まで来た。

紺野は前を見たまま言う。


「今までは戦いですら無いってか.....」

「その通りだ」


凛藤は即答した。


「君たちが互いの順番を奪うのか、使うのか。それが実際の形になるのはここからだ」


そこで初めて、凛藤の視線がわずかに鋭くなった。

教師めいた平坦さの下にあったものが、一段だけ剥き出しになる。

守護と呼ばれる存在が実戦でしか見せない、切る前の目だった。


「来たまえ」


短い。


「今度は、問う前に削る」


沈砂池の黒い水面は何も映さない。

映さないまま、連絡橋の中央と南縁のあいだにある距離だけが、前よりはっきりした形で残る。


虫は入口で死ぬ。

紺野は二歩目を取られる。

凛藤はまだほとんど動いていない。

それでも、ここまでは前座にすぎない。

次に落ちる一手から、ようやく本当に戦闘になる。


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