五十六話 【未到達記録】神術大聖
五十六話
【未到達記録】神術大聖
空が、先に鳴った。
遅れて耳が痛み、最後に地面が割れる。順番が逆だ、と理解した時には珠洲原陽鳥の撒いた子機はもう半分以上が消えていた。消えた、では足りない。潰された、でも浅い。処理された、がいちばん近い。
見えない術式が、見えない虫を、順番にではなく同時に噛み砕いている。
陽鳥は舌打ちを呑み込んだ。呑み込んだのは癖ではない。声を出す余白が惜しいからだ。
子機の挙動を書き換える前に、術式側が先に判定して切る。感覚改竄も、認識の滑りも、侵入点に届く前に焼ける。凛藤義貞の前では、繊細な仕事ほど死ぬ。
万単位の術式を同時運用し、詠唱を要らない手癖にまで落とした怪物は、こちらの「手順」を見てから対処しない。手順そのものが成立しない地形を先に敷く。
神術大聖
名前だけなら神話めいて聞こえるが、やっていることはもっと悪質だ。奇跡ではない。雑務の極致である。ありとあらゆる干渉を、ありとあらゆる形式で、ありとあらゆる速度で先回りして潰す。だから高位ほど嫌う。強い者ほど、自分の得意を奪われるからだ。
「……っ」
紺野健太郎が横から突っ込んだ。
踏み込みの瞬間、コンクリートの砕片が彼の脛に追いつけず後ろへ残る。人間の動きではない速度で一直線。迷いのない、いや、迷いを速度で押し殺す類の前進だった。
凛藤は振り向きもしない。
空間の一部だけが白く抜け、紺野の右肩から胸元にかけて火花のような線が走る。斬られたのではない。進路のほうが、彼を拒否した。
目に見えない何かが層になって前にあり、紺野はそれを一枚ずつ噛み千切るように進んだが、三枚目で足を取られ、四枚目で姿勢を崩し、五枚目で地面を抉って止まった。
止まっただけで済んだのは、凛藤が殺すつもりで切っていないからだ。
そこが、いちばん腹立たしかった。
「落ち着け、紺野君」
凛藤の声は戦場に似合わないほど静かだった。教師のようでも、軍人のようでもない。計器の音声案内に近い。
「君は彼女を殺したい。彼女は君を壊せるうちに壊したい。理解はしている。だが、どちらも神州にとって損失が大きすぎる。だから止める」
紺野が顔を上げる。額から血が落ちた。怒りでではなく、衝撃で瞳孔が開いている。
「説教しに来たのかよ」
「違う。消耗させに来た」
凛藤はそこで初めて、二人を順に見た。
視線だけで、空気の密度が変わる。比喩ではない。圧力差で埃が動き、割れた窓の縁に残っていた細いガラス片が、触れてもいないのに音を立てて落ちた。
陽鳥は笑った。笑うしかない種類の現実だった。
「合理的。吐き気がするほど」
「褒め言葉として受け取る」
会話の間に、陽鳥は子機を捨てた。
捨てる、という判断は速い。執着すると死ぬからだ。親機の演算配分を切り替え、残った子機を改竄ではなく爆砕に寄せる。精神干渉の繊細さを捨て、ただの雑音発生器にする。
破裂。
破裂、破裂、破裂。
音ではない。認識の端で弾けるノイズが、視界の輪郭を一拍だけ荒らす。術式の制御そのものを乱すには程遠い。
だが、凛藤の視線が一度だけ、陽鳥の左肩越しを滑った。確認のための微小な寄り道。彼ほどの術者にとっては誤差にもならない動きだが、陽鳥にとっては十分な収穫だった。
効かないわけじゃない。
通らないだけだ。
「ようやく順番を正しくしたな」
凛藤が言う。
「虫を入れる前に、盤面を汚すべきだった」
「教えてくれるの?」
「君は死なせたくないからね」
陽鳥の笑みが、今度は本当に冷えた。
その一言で腹が立つのは、侮辱だからではない。正しいからだ。彼は本当にそう思っている。私情ではなく、公算で。感情を抜いても殺したがる理由がない――そう判断している人間の顔をしている。
だから厄介だった。
紺野が再び立つ。膝が笑っているのに、前に出ることだけはやめない。陽鳥は横目で見て、わずかに眉を寄せた。
正面からでは届かない。届かない相手に、正面から二回行くのは勇敢じゃない。単なる自己暗示だ。
だが、その自己暗示の強さだけは、いま利用価値がある。
「健太郎」
呼ぶ。
いつもの調子で、名前だけ。二人きりではない。
「……何だ」
「真正面の馬鹿をもう一回やりなさい」
「喧嘩売ってんのか」
「売ってる。買う余裕があるなら死ぬ気で前に出ろ」
紺野の目が細くなる。怒鳴り返す寸前の顔で、しかし彼は陽鳥の手元を見た。親機の挙動。残った子機の軌跡。自爆の間隔。
理解したとは言わない。だが、勘のいい獣は、餌ではなく罠の形を先に覚える。
「……お前、当てる気か」
「当たれば、あの人でもただじゃ済まない」
陽鳥の背後で、親機群が連結を始めた。
細い光の節が一本、二本、三本と空中で噛み合い、関節の多い長体を組む。虫というより、兵器だ。節ごとに別演算、別機能。先端は刺突、胴は伝送、尾は分裂。精神ナノマシンの群れを無理やり一つの獣にした、制御難度だけで人を殺せる構造。
百足。
凛藤の目が、今度ははっきりそれを捉えた。
「それは困るな」
初めて、彼の声に熱が混じる。恐怖ではない。純粋な評価だ。
次の瞬間、百足の進路上に七枚の術式面が展開された。斜めに、重ねず、逃げ道まで計算して。真正面で受ければ砕けると読んでいる置き方だった。だから陽鳥は百足をまだ走らせない。
射程圏に入れない。
入れた瞬間に落とされる。
単独なら、そうなる。
「健太郎!」
「分かってる!」
吠えるように返し、紺野が突っ込む。今度は真っ直ぐではない。右へ踏み込み、左へ切り返し、途中でわざと大きく踏み鳴らした。乱雑だが、完全な素人の乱れ方ではない。相手に「修正」を強いるための崩し方だ。
凛藤の前方に術式が増える。
一枚、三枚、九枚。
その増え方が、陽鳥には見えた。凛藤は紺野を止めるとき、殺さないために出力の形を細かく刻む。過剰に吹き飛ばせば死ぬ。切りすぎれば死ぬ。焼きすぎれば死ぬ。だからこの男は、相手を守るために術式を増やす。
だったら、その「優しさ」は壁になる。
壁になるなら、影もできる。
「今」
陽鳥は自爆ノイズを重ねた。
子機が連鎖で弾け、凛藤の左側の視界縁だけを荒らす。致命的な隙ではない。凛藤ほどの術者には隙ですらない。ただ、彼が一度だけ――本当に一度だけ――術式面の優先順位を並べ替えた。
その一拍に、紺野が食いつく。
世界が先に壊れた。
そう見える速度で、彼は凛藤の正面にねじ込んだ。拒絶の層を腕でこじ開け、肩を焼かれ、脇腹を裂かれ、それでも前へ。捕食じみた黒い奔流が腕から噴き、術式の縁を噛み崩す。力の本質を知らない者には、ただ壊しているようにしか見えない暴力だった。実際、その瞬間の彼は壊すことでしか前に行けない。
凛藤が初めて半歩引いた。
半歩。
たったそれだけだ。
だが、半歩で十分だった。七枚の術式面の角度が、百足にとっては門になる。
陽鳥が指を振る。
百足が走った。
空気が裂けたのではない。空気の「通り方」が一本だけ変わった。目で追える速度ではないのに、節のすべてが独立して別の意志を持っているのが分かる。
先端が術式面を避け、胴が一枚目に触れて演算を乱し、尾が二枚目の縁を噛んで角度をずらす。無理を通すために作った獣の無理を通す動きだった。
直撃。
凛藤の左肩から鎖骨にかけて、白い光が内側へ潜り込む。
一拍遅れて血が出た。鮮烈な赤ではない。高位術者特有の、熱を持った暗い色だ。地面に落ちる前に蒸気が立つ。
同時に、半径二十メートルの術式群が一斉に明滅した。
建物の残骸が持ち上がる。鉄骨が悲鳴を上げ、舗装の下の配管が破裂し、噴き上がった水が途中で霧になって消える。
衝撃の中心にいた紺野は、そのまま後方へ叩き飛ばされて壁を抜いた。壁が二枚抜け、三枚目でようやく止まる。
陽鳥の百足は先端を失い、胴の節を半分焼かれ、それでも尾だけが凛藤の肩口に食い込んだまま執拗にノイズを流し込んでいた。
陽鳥の喉が焼ける。親機に逆流した熱だ。
それでも、口元は吊り上がる。
「……入った」
凛藤は肩口に刺さった尾節を見下ろし、ため息をついた。
痛みを堪える顔ではない。採点の顔だった。
「良い連携だ。互いを信用していない者同士の連携としては、上等すぎる」
彼は尾節を指で摘み、術式一つで切り離した。百足の切断面から火花ではなく、細かな光の塵が溢れて消える。
「珠洲原君。単独では届かない武器を、届く状況に変えた。正しい」
次に、壁の向こうで瓦礫を押しのける紺野へ視線を向ける。
「紺野君。正面から行く癖は相変わらず悪いが、今回は役に立った。君は『止められる前提』の動きを覚えるべきだ。止められない前提で戦うと、いずれ誰かを本当に殺す」
紺野が血を吐いて笑った。
「うるせえよ……教師か、あんた」
「教師は向いていない。生徒を選べないからね」
凛藤はそう言って、空を一度だけ見た。
その仕草の意味を、陽鳥はすぐに読めなかった。だが次の瞬間、背筋が粟立つ。遠く、西の方角。直接見えもしない距離から、よく知った圧がわずかに立ち上がって、すぐに消えた。
──荒臣。
出るつもりだったのか、と理解するより早く、凛藤の周囲に薄い通信術式が咲く。花弁のように開いた光の面が数枚、言葉を運ぶだけの形で並ぶ。戦闘のための術式と比べれば玩具のような規模だが、それでも陽鳥の子機より速い。
「西は動かなくていい」
凛藤は誰にともなく、だが明確に届く声で言った。
「こちらで止まる。止める」
返答は聞こえない。
聞こえないのに、凛藤の眉がほんの少しだけ寄る。相手が素直に引いていない顔だ。珍しい。陽鳥はその事実だけを記憶に刻む。
凛藤は通信術式を閉じ、二人へ向き直った。
肩口から血を流したまま、呼吸一つ乱れていない。百足の直撃を受けて、ようやく「ただでは済まない」の証拠が見えた。それだけだ。そこから先の差は、まだ深い。
「続けよう」
静かに告げる。
「君たちが互いを殺す余裕を失うまで。あるいは、同じ相手を見ている方が得だと理解するまで」
陽鳥は親機を引き寄せ、焼けた節を切り捨てる。
紺野は瓦礫の中から立ち上がり、折れていない腕を一度だけ振って感覚を確かめる。
二人の視線は、まだ互いに鋭いままだった。
それでも次に踏み出した足は、同じ方向を向いていた。




