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幻想帝都 神州御親領衛記  作者: ニュートリノ鈴木
二章 珠洲原陽鳥という女
57/191

五十五話 空白の行


五十五話


55-1 空白の行



報告書というものは、内容より先に匂いで分かる時がある。


火薬の焦げ、消毒液、濡れた土、汗の乾いた布、安物の紙に移った指の脂。任務の種類が違っても、戻ってきた人間がどんな現場に立っていたかは、机に紙が積まれた時点で半分ほど終わっている。

その夜の御親領衛本部は、珍しく人の出入りが多かった。


帝都外縁の工業区画で、低位神術師を含む集団による器材搬出未遂。表向きはただの盗難だが、外象術式用の補助部材が混じっていた以上、近衛が噛まないわけにはいかない。規模は小さい。死人は出ていない。負傷者も軽傷で済んだ。だからこそ面倒の質だけが悪い。


現場から戻った紺野健太郎は、軍刀を外す前に報告机の前へ立っていた。

向かいには羽場桐妙子中尉。机上には出動記録、現場見取図、押収品一覧、警察側の一次調書、医療班の処置票、その横に外部顧問同行記録の用紙が重なっている。紙の種類が違う。管理系統が違う。違うものを一つの机で束ねる役目を、羽場桐はいつも通りの顔でやっていた。


「順に確認します」


声は静かだった。静かだが、疲れている時ほどよく通る。


「護国少尉」

「はい」


護国宗一が一歩前に出る。姿勢は崩れない。現場帰りで袖口に煤が残っていても、答え方だけは最初から最後まで同じであるところが、彼の良いところでもあり、時々息苦しいところでもある。


「対象は五名。うち神術師は三名。位階は未測定ですが、主犯格が従五位以上、残り二名は正六位前後と推定します。外象術式用補助部材の搬出経路は、第三搬入口から南側路地へ。現場指揮は警察、制圧と押収品保全は近衛で実施。大きな齟齬はありません」


「現象面の特記事項は」

「術式の組み方に癖があります。民間流通品の寄せ集めですが、配線順に統一があった。独学だけではなく、指示系統がある構成です」


羽場桐が頷く。ペン先が紙の上を滑る音だけが短く続く。


「紺野少尉」


呼ばれて紺野が前へ出る。護国と入れ替わる時に、肩が触れそうで触れない距離を通る。御親領衛では珍しくないが、こういう時に誰も無駄にぶつからないのは、仲がいいからではない。互いの間合いを知っているだけだ。


「所感を」


紺野は少し考えてから口を開いた。


「主犯格は現場判断で動いてない。逃走経路の切り替えが早いわりに、切り替え先が全部悪い。追われる前提で動かされてる感じがある」


羽場桐が顔を上げる。


「誰かに見られていた、ではなく」

「見られていたのもあるだろうが、それより先だ。失敗した時の動き方まで先に入ってる」

「誘導」

「そう見える」


紺野の返答は短い。短いが、今日は語尾が少し硬い。任務そのものより、現場で拾った違和感が残っている時の声だと、羽場桐は知っている。


「珠洲原主任」


羽場桐が視線を横へ移す。

部屋の端、書棚の前に寄りかかるように立っていた珠洲原陽鳥が、書類から目を上げた。

白衣の袖口を少しだけ捲っている。灯りの色のせいだけではないだろうが、その髪は室内でも明るく見える。神州の人間の色ではない。青の混じる瞳は笑っている時ほど温度が読みにくい。


「はーい」


軽く返してから、陽鳥は紙を一枚持ち上げた。


「現場で回収した配線被覆、薬液の付着あり。工業区画の廃材置場で使う標準品じゃない。あと、補助部材のひとつに改造痕。誰かが“使える形”に整えてから流してる」

「どの程度の技能水準ですか」

「研究局の人間ほど綺麗じゃない。でも街の素人工作よりはずっと上。軍系の手順を知ってる人が、わざと雑に見せてる感じ」


志摩龍二なら「嫌らしい」と言うだろう。紺野も似たような感想を持ったが、口には出さなかった。

羽場桐は同行記録の紙を引き寄せる。


「珠洲原主任、同行記録の時刻確認を」

「うん。現地到着が十九時十二分、採取開始十九時二十六分、警察引継ぎ十九時五十四分、帰投二十時三十一分」


陽鳥がさらりと読み上げる。羽場桐のペンが時刻欄を追う。その横で、紺野の視線が止まった。

止まったのは陽鳥の顔ではない。紙の行間だ。

十九時三十二分から三十九分まで、記載欄が空いている。


書き忘れの空白ではない。欄の前後は埋まっている。採取対象の品目と、警察側への口頭注意事項まで細かく書かれているのに、その七分だけ、そこだけが抜け落ちている。

紺野は紙を指で示した。


「ここ」


羽場桐のペン先が止まる。陽鳥は先に笑った。


「ああそこ? 計測器の同期が飛んだの。工業区画、たまにあるんだよね。外部ノイズ強くて」

「計測器の話じゃないだろう」


紺野が言う。声は低いが、机の上の空気が一段締まるには十分だった。


「お前はその時間帯いなかった」


陽鳥の笑みが薄くなる。消えはしない。消えないところがこの女の悪いところだと紺野は思う。


「いなかった、って」

「視界から切れた。戻ってきた時にはサンプルケース増えていた」


護国が目だけを動かす。東雲丈雲は部屋の奥で湯呑みを持ったまま、何も言わず様子を見ている。こういう時に不用意な相槌を打たないのが東雲で、打たないから余計に場が冷える。

陽鳥は肩を竦めた。


「健ちゃん、現場で人の荷物まで見てるの。やだ、怖い」


二人きりではないのにその呼び方を使う。わざとである。

紺野の眉がわずかに動いた。


「誤魔化すな」


陽鳥が言い返す前に、羽場桐が紙を伏せた。

音は小さい。それだけで会話が切れる。


「その話は、ここで終わりです」


丁寧な声だった。だが拒絶の仕方は軍人のそれだった。続行も質問も許可しない切り方である。

紺野が羽場桐を見る。


「中尉」

「聞こえています、紺野少尉。だからこそ、ここで終わりにします」


羽場桐は視線を逸らさない。


「今この場には、警察提出前の一次記録があります。外部顧問の同行記録があります。押収品目録もあります。疑義の立て方を間違えると、あなたの直感ごと全部“なかったこと”になります」


言っている意味は分かる。分かるから苛立つ。

紺野は机の上の紙を見る。七分の空白は、紙の上ではただの未記入だ。そこに意味を見た瞬間に、意味の持ち方を間違えると全部潰れる。羽場桐が言っているのはそういうことだ。

護国が静かに口を開いた。


「……確認ですが」


羽場桐は頷く。


「隊内処理ですか」

「現時点では。正式照会に上げません」

「理由を伺っても」

「今は“理由を書く材料がない”からです。書けない理由を上に出すと、書ける理由に作り替えられます」


羽場桐はそこで一度だけ息を継いだ。


「これは保留です。放置ではありません」


陽鳥は何も言わない。笑みだけを残している。

その笑みが崩れないままなのに、白衣の袖口の影で何かが動いた気がした。糸くずか、虫か、見間違いか。視線を合わせた瞬間にはもう何もない。そういう消え方だった。


55-2


報告の後処理は、いつも通りに進んだ。

いつも通りに進む、というのは平穏の意味ではない。紙を閉じる順番、押印の位置、どの記録をどこまで共有し、どこから先を切るか。その手順が乱れないというだけだ。乱れないからこそ、乱れたものが余計に目立つ。


紺野は提出欄の前で署名を終えたあとも、すぐには席を立たなかった。

羽場桐は一人ずつ処理を流し、警察送付用と近衛内部保管用で束を分けている。陽鳥は壁際の棚で採取品の仮ラベルを書き換えていた。書き換えている、という見え方をわざと雑にしている時の手つきだ。あの女は丁寧にやる時ほど雑に見せる。

東雲が三つほど湯呑みを盆に載せて立ち上がった。


「護国少尉、志摩君はもう帰ったか」

「さっき高倉さんと廊下で。学校の課題がどうとか言っていました」

「それなら先に渡しておこう。冷める」


東雲が部屋を出る。護国も書類を抱えて続いた。扉が閉まる。残ったのは紺野、羽場桐、陽鳥の三人だけになった。

三人だけになった瞬間、陽鳥が先に口を開く。


「怖い顔」


紺野は返さない。羽場桐が紙束を整えたまま言う。


「珠洲原主任、ラベルの仮登録が終わったら医療班保管庫へ。ここは私がやります」

「追い出してる?」

「仕事を振っています」


陽鳥は笑った。


「はいはい。じゃ、行ってくる」


軽い返事と一緒に、陽鳥は棚の上のケースを持ち上げる。紺野の横を通る時、ほんの一瞬だけ顔を寄せた。


「後でね、健ちゃん」


囁くような声だった。甘い。甘いが、あれを甘いだけで受け取ると痛い目を見ると、紺野はもう知っている。

扉が閉まる。

やっと静かになった部屋で、羽場桐はようやく手を止めた。


「紺野少尉」

「中尉、あれは」

「疑義あり。私もそう思います」


即答だった。

紺野は言葉を切られるつもりでいたので、逆に一拍遅れた。羽場桐はその遅れを待たずに続ける。


「時刻欄の空白そのものより、空白の前後が整いすぎています。珠洲原主任はああいう抜け方をしません。抜けるなら、もっと雑に抜く」

「……分かってて止めたのか」

「分かっているから止めました」


羽場桐は紙を指先で揃える。端がぴたりと合う。几帳面さというより、考える時間をその動作で作っているのだと紺野は思った。


「あなたがあの場で詰めれば、珠洲原主任は“現場の記憶違い”で押し切ります。私が正式照会に上げれば、研究局との照会になって、記録の優先順位で負けます。警察提出前の紙を巻き込んだ時点で、御親領衛の処理能力そのものに傷が入る」

「だから見逃せと」

「違います」


羽場桐の声が少しだけ硬くなった。


「今は“内々で持つ”と言っています。あなた一人で動かないでください。私を通してください」


紺野は黙った。黙るしかない、ではなく、言うべきことを選んでいる沈黙だった。


「……中尉は、どこまで知ってる」


羽場桐はすぐには答えなかった。答えを探しているのではない。どこまで言うかを計っている。


「知っていることと、確信していることは違います」

「そういう返しは嫌いだ」

「好き嫌いで答える段階ではないので」


羽場桐はそう言ってから、少しだけ視線を落とした。


「ただ一つだけ言います。珠洲原主任は、隊を壊したい人ではありません。――壊しかねないやり方を取ることはあっても」


紺野は鼻で息を吐いた。


「十分悪いだろ、それ」

「ええ。だからあなたを止めています」


羽場桐が顔を上げる。


「あなたは、壊しかねないものに対して真っ直ぐ行き過ぎる。正しいかどうかの前に届くかどうかで動く。今それをやると欲しい答えから遠ざかります」


痛い言い方だった。痛いが外れていない。


紺野は机の上の伏せられた紙を見る。七分の空白。たったそれだけのことなのに、喉の奥で別の何かがざらつく。あれは任務の違和感だけではない。陽鳥が関わった途端に、自分の中で別の線が繋がり始める気配がある。

それが嫌だった。


「……分かった」


やっと紺野が言う。羽場桐は頷いたが、すぐに釘を打つ。


「“分かった”は、隊内で動く、です」

「子供じゃない」

「知っています。だから確認します」


少し間があいて、紺野は肩を竦めた。


「……隊内で動く」


羽場桐の口元が、ほんのわずかだけ緩んだ。笑ったのではない。許可が通った時の顔だ。


「ありがとうございます。ではまず、現場の時刻を別紙で起こしてください。珠洲原主任の記録と照らします。感想ではなく、見た順番で」

「感想を消すのが好きだな」

「感想は後で使います。先に事実を固定します」


机の上の紙束を叩く。薄い音だった。


「この部隊は、そこを間違えると本当に崩れるので」


55-3


廊下に出ると、夜の本部は昼より狭く感じた。


人が減ったから静かになったのではない。残っている人間が皆、何かを抱えたまま歩いている時の静けさだ。足音が小さい代わりに、止まる場所がはっきりしている。


紺野は自分の席に戻る前に、資料室の前で立ち止まった。

止まった理由を自分でもうまく言えない。羽場桐に釘を刺されたばかりで、今すぐ動くつもりはなかった。だが、何もしないまま座ると、喉の奥のざらつきだけが残る気がした。


扉の向こうで紙の擦れる音がした。

陽鳥だった。

資料室の細い机にケースを並べ、回収物の仮ラベルを整理している。白衣の背中は丸めていない。疲れていないふりがうまい背中だ。

紺野が戸口に立つと、陽鳥は振り返らずに言った。


「来ると思った」

「自信満々だな」

「健ちゃん、分かりやすいもん」


二人きりだ、だからその呼び方でもおかしくない。おかしくはないのに、紺野はその瞬間だけ余計に腹が立つ。


「……姉さん」


呼ぶと、陽鳥の手が一拍止まった。呼ばれること自体は想定していたくせに、毎回ほんの少しだけ反応する。


「なに」

「さっきの七分、何してた」


陽鳥はラベルを一枚貼り終えてから、やっと振り向いた。

青い目は笑っている。笑っているが、軽くはない。


「仕事」

「その答えが一番信用できない」

「ひどい」


陽鳥は笑ったまま首を傾げる。


「でも半分当たり。仕事だよ。健ちゃんの仕事じゃないだけ」


紺野の顔が固くなる。陽鳥はそれを見て、からかう声を少しだけ引いた。


「……今は言えない、が正確かな」

「言えない理由は」

「言ったら、健ちゃんがそっち向くから」


即答だった。

紺野は一歩だけ中へ入る。


「向いて困るのか」

「困るわ」


陽鳥はあっさり言った。


「今の健ちゃん、余計なとこに手を伸ばすと、主菜の前に皿ひっくり返す顔してる」

「俺は犬じゃない」

「犬より悪い。食べたら静かになるやつ」


言われた瞬間、紺野の喉の奥がざらついた。図星に近い比喩だったからだ。陽鳥はそこを見逃さない。


「ほらね」


紺野は舌打ちしたいのを飲み込む。


「……何を隠してる」

「隠してるって言い方、好きじゃない」

「じゃあ何だ」


陽鳥は白衣の袖を少し引いた。袖口の影で、黒い点が一つだけ蠢いた気がした。糸くずにも見える。小さな虫にも見える。次の瞬間には消えている。


「安全圏の確保」


声が柔らかい。柔らかいから余計に冷える。


「健ちゃんのためでもあるし、隊のためでもあるし、私のためでもある」


紺野は数秒黙った。怒鳴ることもできた。詰めることもできた。だがどちらをやっても、この女は同じ笑みで返すだろうと分かっている。

分かっているから、別の言葉が出る。


「……羽場桐中尉には通せ」


陽鳥の目が少しだけ細くなる。笑みは残る。


「うん。あの人には通す」

「俺には通さないのか」

「今はね」


その「今は」が、火種だった。

すぐ燃える類ではない。乾いた紙に落ちた火の粉みたいなものだ。踏めば消える。見失えば残る。残ったまま風が変わると、一番嫌な場所から燃え始める。

紺野はそれ以上言わず、資料室を出た。


廊下を歩きながら、掌を開いて閉じる。任務のざらつきとは別のざらつきが残っている。喉の奥ではなく、今度は胸の少し上のあたりだ。怒りとも違う。嫌悪だけでもない。もっと個人的で、もっと始末が悪い。


本部の奥で誰かの笑い声がした。樋道か志摩か、たぶんそのあたりだろう。高倉の低い声も混じる。生活の音に近い。

その音がある間は、まだ壊れていない。

だが壊れていないことと、ひびが入っていないことは別だ。


紺野は自分の席につき、羽場桐に言われた通り、現場の時刻を紙へ起こし始めた。見た順番で。感想は後回しで。


十九時三十二分。


そこで一度、ペンが止まる。

空白は紙の上にある。だが、発火点はもう別の場所へ移っていた。


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