五十四話 翌朝の匂い 一章エピローグ
五十四話
54-1 翌朝の匂い
御親領衛本部の朝は、いつも通り鈍かった。
静かというより、鈍い。号令がないからではない。号令があっても揃わない箱だからだ。
廊下の窓から射す光が、昨日の続きの顔をしていた。
明るい。明るいまま、どこかでまだ焦げ臭い。帝都はそういう街だ。燃えた場所があると、翌日の空気に少しだけ混ざる。
紺野健太郎は廊下の端で立ち止まり、靴底についた河岸の白い粉を見下ろした。落ち切っていない。磨けば消える。だが磨いて消える種類のものではない気もした。
扉が開き、騒がしさが漏れてくる。
「一葉、それは頭に巻く物じゃない」
「頭も体の一部!」
「双葉はそういう言い方が一番怖い」
「双葉は怖くないし、三葉が勝手に怖がってるだけ」
「あたしは怖がってない。面白がってるだけ」
包帯の会話は、朝の会話としては間違っている。
間違っているのに、ここではそれが「壊れないための音」になる。
部屋に入ると、三つ子が机ではなく床の上に陣取っていた。昨日の反省ではない。反省を遊びに変える癖だ。
東雲丈雲がしゃがみ込み、包帯の巻き方を教えながら、巻きすぎない線だけを守らせている。教え方が厳しいのではなく、丁寧すぎて逆に逃げ道がない。
「止血は“止める”から止血。固定は“固定”だから固定だよ」
「じゃあ止血固定」
「一葉は足し算が好きだな」
「双葉は引き算が好き」
「双葉、嫌なことだけ引く」
「嫌なことは引くべきでしょ」
東雲が小さく息を吐いた。疲れている。疲れているが、ここで疲れを見せると三人が不安になることを知っている顔だ。
壁際では高倉源三が工具箱を開け、器材の締め具を点検していた。八百屋の手つきだ。つまり、毎日使って毎日壊れないようにする手つき。
「……おい、これは誰が使った」
「ボクだよ」
樋道芳芙美が即答した。女装の裾を気にしながら胸を張る。胸を張る場所が違うのに、本人だけが気づかない。
「可愛いからって雑に扱うなよ?ボクはボクの可愛さに耐えうる器材しか使わないんだ」
「器材が耐える前に俺の胃が耐えられねえ」
高倉がぼやく。
その隣で支倉真名が、器材ケースの色見本を机の上に並べていた。昨日から続いているらしい。
「だから、蛍光はやめて」
「映えるって!」
「映えるのは分かるけど今じゃない」
「今じゃない、って言われると今したくなるのが人間だよ」
「それを言うと永遠に終わらないでしょ」
真名の声は落ち着いているのに、返す言葉の角度が妙に鋭い。樋道はそれを「相方候補の本気」と勘違いしている。勘違いがあるうちは平和だ。
志摩龍二は窓際の椅子に座り、飴を噛んでいた。煙草は没収されたままだ。本人は飴を噛みながら、しきりに腕を揉っている。減衰を張り続けた筋肉の痛みが、今さら追いついてきたのだろう。
「志摩」
護国宗一が声をかける。
「腕、診療班に見せろ。放っておくと次の現場で抜ける」
「抜けねえよ」
志摩は言い切ってから、少し間を置き、面倒くさそうに付け足した。
「……見せる。アネゴに怒られたくねえし」
「中尉だ」
宗一が言うと、志摩は肩をすくめた。
「はいはい。中尉。中尉のせいで胃が痛い」
護国綾瀬はその会話に混ざらず、壁際で刀装具の留め具を外していた。外して、見て、戻す。それだけの作業が、本人にとっては一番落ち着くらしい。
「綾瀬」
宗一が呼ぶ。
「はい」
返事は即答だが、視線は留め具から外れない。
「昨日の糸、張り直したいなら申請を」
宗一は淡々と言った。注意の形を借りた気遣いだ。
綾瀬は留め具を一度だけ止め、兄の方を見ないまま言った。
「申請するほどのことではありません。手順の確認です」
「確認は大事だ」
宗一が言う。
「だが“確認”が逃げ道になっている時もある」
綾瀬の指が止まる。
止まってから、また動く。答えない。答えないが、刺さっている。宗一はそれで引いた。引けるだけ偉い。
紺野はその全部を見て、何も言わずに自分の机へ向かった。机の上には紙束が置かれている。羽場桐妙子の字だ。丁寧で、余白が少ない。余白が少ないのに、詰め込みの字ではない。必要なことだけが並んでいる字。
「紺野少尉」
背後から声がした。
羽場桐が立っていた。軍服の襟元は整っている。整っているのに、目だけが少し遅い。徹夜の目だ。徹夜でも崩れない人間の目。
「河岸の所感、確認しました」
「……気味が悪いって書いたぞ」
「ええ。必要です」
羽場桐は淡々と続けた。
「上にも回しました。曖昧なまま、“曖昧だ”と記録するのが今回の唯一の正解です」
紺野は短く息を吐いた。
「正解って言うな。気分が悪くなる」
羽場桐の口元がわずかに動いた。笑いではない。理解の表情だ。
「気分が悪くなるうちは、まだ健全です」
そう言って、羽場桐は机の端へ一枚の紙を置いた。
「追加です。講堂の撤収と押収物の仕分け、警察との折衝。宗一少尉に任せる部分と、東雲さんに任せる部分、高倉さんに任せる部分を分けています」
「俺は?」
紺野が問う。
羽場桐は一拍置いた。
「……休んでください、と言うと反発しますね」
「するな」
紺野は即答した。
「では、“敷地内待機”です」
羽場桐は淡々と言い換えた。
「呼び出しに即応。それ以外は、身体を戻すこと。昨日のような現象が続くと、あなたの反応速度が落ちます」
紺野は返事をしなかった。
返事をしない代わりに、机の引き出しを開け、手袋を押し込んだ。握り込みすぎる癖を抑えるための、薄い布。陽鳥に渡されたものだ。
羽場桐はそれを見て、何も言わない。言わないことが、今は最善だと知っている顔だ。
54-2
給湯室から湯気が流れてきた。
湯気と一緒に、気配が来る。場を支配する気配。
硯荒臣少将が入ってきた。
紙の山から一言、ではない。
今日は最初から部屋の真ん中を歩いてくる。湯呑みを二つ持ち、片方を口元へ運びながら、もう片方を無造作に掲げた。
「羽場桐中尉。茶葉はどこだ」
羽場桐が即答する。
「左の棚です。……閣下、今日は塩を入れないでください」
志摩が噴き出す。
「言われてんじゃん!」
荒臣は平然と答えた。
「私は塩など入れない。昨日入れたのは保存用の鉱物粉末だ」
「もっと悪ぃ」
志摩が言い、樋道が笑い、真名が肩を揺らし、高倉が苦笑する。三つ子は意味が分からないまま笑う。東雲だけが「やめろ」と言いたそうな目をして、言わない。
荒臣は笑いの波に乗らず、乗らないまま一息で切った。
「昨夜、帝都は揺れた。揺れた後に一番壊れやすいのは“気分”だ」
部屋の空気が少しだけ締まる。
荒臣の言葉は、いつも“締める”位置に来る。場の端を掴んで結び直す手つきだ。
「昨日の件は、上は喜んでいる」
荒臣が言う。
「何を喜ぶかと言えば、被害を最小で抑えたこと。明灯会の顔を引きずり出したこと。――そして」
荒臣の赤い目が、紺野を刺す。
「“一棟消した”ことだ」
誰も笑わない。
笑える言葉ではない。
紺野が言う。
「俺は喜んでいません」
「知っている」
荒臣は淡々と返した。
「だから言った。上が喜ぶのは、君が気分よくやったからではない。結果が都合よかったからだ」
高倉がぼそりと漏らした。
「都合のいい結果ってやつは、たいてい誰かの胃を削るんだよな……」
荒臣がそれを聞きつける。
「高倉君。胃は削れても腹は減る。腹が減る限り、人は列を作る」
昨日の河岸の列。今日の講堂の列。
全員の頭に同じ絵が浮かぶ。
荒臣は湯呑みを机に置き、言った。
「よくやった、とは言わん。よくやったと言うと、次に皆が同じやり方をするからだ。代わりに――」
一拍。
「“次も生きろ”。それだけだ」
志摩が飴を噛んだまま、妙に真面目な顔で言う。
「閣下、そういうこと言うと、ちょっと好きになる」
「なら嫌いになっておけ」
荒臣が即答する。
「私は好かれる仕事をしていない」
樋道が口を尖らせる。
「でも閣下、今のちょっとカッコよかった」
「樋道准尉。君はその“ちょっと”で死ぬ」
荒臣が言い切る。
樋道は「ひどい!」と騒ぎ、真名が「正しい」と言い、三つ子が笑う。笑いが戻る。戻っていいところへだけ戻す。荒臣はそれが上手い。
東雲が静かに言った。
「……昨夜、子供が泣かなかった。泣けなかった。ああいう現象は、子供が一番先に壊れる」
部屋の空気がまた少しだけ沈む。
東雲の言葉は、いつも遅れて刺さる。
荒臣は頷いた。
「だから君たちが居る。君たちが居るから、この国は今日も回る。回るだけだ。良くはならん。だが崩れもしない」
「良くならないんですか」
紺野が低く言った。
荒臣は赤い目で見返し、少しだけ口元を歪めた。
「良くするのは、我々の仕事ではない。我々の仕事は、“崩れないようにする”ことだ」
その言葉が重いのは、荒臣が本気でそう信じているからだ。
そして同時に、その枠を知りながら、枠の外を見ている目をしているからだ。
54-3
夕方。
本部の屋上は風が強い。風が強い時ほど、誰かが来る。
扉が開き、珠洲原陽鳥が顔を出した。白衣のまま。外套を羽織っている。昨日よりは少しだけ厚い。
「全員いる?」
陽鳥が言った。
「いるわけないだろ」
志摩が先に返す。
「三つ子は寝かけてるし、樋道はまだケースの色で揉めてるし、高倉さんは奥さんに電話してるし」
「じゃあだいたい全員だね」
陽鳥は笑った。
屋上には、紺野、宗一、綾瀬、東雲、羽場桐、陽鳥が揃っていた。揃っているだけで珍しい。全員集合ではない。だが今は、それで十分だった。
陽鳥が言う。
「健ちゃん、左手」
「その呼び方はやめろ」
紺野は言った。
陽鳥は目を細くする。
「分かってる。だから言い方変える。紺野少尉、左手」
宗一が咳払いで笑いを誤魔化す。綾瀬は無表情だが、目だけが少し動いた。東雲は「やめろ」という顔をする。羽場桐は何も言わない。言わないのが最適だと分かっている顔だ。
紺野は左手を出した。
陽鳥が手首を取る。指先は冷たい。
「握り込みすぎ」
「……分かってる」
「分かってるのにやるのが癖だよ」
陽鳥は淡々と言った。
「昨日使ってないのに、指が固い。あの日の余韻がまだ残ってる」
陽鳥が紺野の手を離す。
離す時、袖口の内側で、爪先ほどの黒い影が一瞬だけ這った気がした。見れば消える。見られる前に引っ込む。演出だと言い切れる程度に、いつも上手い。
その直後、ごく短い、薄い音がした。
紙ではない。金属でもない。生き物が壁を擦るような音。
宗一の目が一段だけ冷える。
綾瀬の指先がわずかに立つ。
東雲は何も言わずに、ただ息を吐いた。
陽鳥は何もなかった顔で言った。
「……ごめん。露骨にやりすぎた」
「.....ごめんで済ませるな」
紺野が言う。
「済ませないよ」
陽鳥は笑った。笑って、すぐ真顔になった。
「でも今は済ませる。今ここで、余計な線を増やすと、健ちゃんが――」
「俺が何だ」
陽鳥は一拍置いた。
「嫌な想像をする」
紺野は黙った。
それは当たっている。
沈黙を切ったのは、綾瀬だった。
「……あの男は捕まった。これで終わりですか」
宗一が答える前に、羽場桐が言った。
「終わりません。終わったことにしたい人はいますが、終わっていない。列の癖は残りました」
東雲が続けた。
「列は残る。列を作る理由が残る限り」
陽鳥が帝都の灯りを見下ろして言った。
「だから、まだやる。まだやるし、まだ付き合う。……この隊は、そういう場所でしょ」
紺野は手すりから街を見た。
河岸の方角は見える。見えないはずの空白が、なぜか見える気がした。
宗一が言った。
「少尉。今日、使わなかったのは正しい判断でした」
「正しいとか言うな」
紺野は吐き捨てる。
「…..使わなかった」
「ええ」
宗一は頷いた。
「その一点だけで、昨日よりは少しだけ“壊れていない”」
綾瀬が小さく言った。
「兄さん、そういう言い方、好きなんですか」
「別に好きではない」
宗一が即答する。
「必要だから言うだけだ」
東雲がゆっくり頷いた。
「必要な言葉は、たいてい口に出しづらい」
羽場桐は最後まで口を挟まなかった。
挟まなかった代わりに、手元の小さな帳面へ何かを書き付けた。風に紙が鳴る。鳴っただけで、妙に安心する音だった。
その時、屋上の扉の向こうで、騒がしい声がした。
樋道の声、真名の声、志摩の笑い声、三つ子の足音、高倉の「だから売り物じゃねえって!」という声。生活の声だ。軍の声ではない。
陽鳥が言う。
「戻ろう。下の方がうるさい。うるさい方がいい日ってある」
紺野は一度だけ空を見上げた。
風は強い。強いのに、喉の奥は今は黙っている。
黙っている間くらいは、それでいい。
そう思えることが、たぶん第一部の終わり方としては、ぎりぎり許される。
扉へ向かって歩きながら、紺野はふと口を開いた。
「姉さん」
二人きりではない。だから言うつもりはなかった。だが出た。
陽鳥が振り返る。
驚かない。驚かないまま、ほんの少しだけ目を丸くする。
「何?」
「……次、俺が変な顔してたら、先に言え」
「うん」
陽鳥は即答した。
「言う。先に言うし、止める」
「止めるの方が先に来たな」
「当たり前でしょ」
そのやり取りを、宗一は何も言わずに聞いていた。
綾瀬も何も言わない。東雲は見ないふりをした。羽場桐は帳面を閉じた。
御親領衛の廊下へ戻る。
鈍い朝の続きみたいな空気の中で、騒がしさだけが少し増える。
壊れていない。
良くもなっていない。
それでも、この国は今日も回っている。
それだけで十分だと言えるほど、誰も強くはない。
言えないから、次もまた、ここに立つ。
一章終了




