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幻想帝都 神州御親領衛記  作者: ニュートリノ鈴木
一章 神州と言う國
56/189

五十四話 翌朝の匂い 一章エピローグ


五十四話


54-1 翌朝の匂い



御親領衛本部の朝は、いつも通り鈍かった。


静かというより、鈍い。号令がないからではない。号令があっても揃わない箱だからだ。

廊下の窓から射す光が、昨日の続きの顔をしていた。

明るい。明るいまま、どこかでまだ焦げ臭い。帝都はそういう街だ。燃えた場所があると、翌日の空気に少しだけ混ざる。


紺野健太郎は廊下の端で立ち止まり、靴底についた河岸の白い粉を見下ろした。落ち切っていない。磨けば消える。だが磨いて消える種類のものではない気もした。

扉が開き、騒がしさが漏れてくる。


「一葉、それは頭に巻く物じゃない」

「頭も体の一部!」

「双葉はそういう言い方が一番怖い」

「双葉は怖くないし、三葉が勝手に怖がってるだけ」

「あたしは怖がってない。面白がってるだけ」


包帯の会話は、朝の会話としては間違っている。

間違っているのに、ここではそれが「壊れないための音」になる。


部屋に入ると、三つ子が机ではなく床の上に陣取っていた。昨日の反省ではない。反省を遊びに変える癖だ。

東雲丈雲がしゃがみ込み、包帯の巻き方を教えながら、巻きすぎない線だけを守らせている。教え方が厳しいのではなく、丁寧すぎて逆に逃げ道がない。


「止血は“止める”から止血。固定は“固定”だから固定だよ」

「じゃあ止血固定」

「一葉は足し算が好きだな」

「双葉は引き算が好き」

「双葉、嫌なことだけ引く」

「嫌なことは引くべきでしょ」


東雲が小さく息を吐いた。疲れている。疲れているが、ここで疲れを見せると三人が不安になることを知っている顔だ。

壁際では高倉源三が工具箱を開け、器材の締め具を点検していた。八百屋の手つきだ。つまり、毎日使って毎日壊れないようにする手つき。


「……おい、これは誰が使った」

「ボクだよ」


樋道芳芙美が即答した。女装の裾を気にしながら胸を張る。胸を張る場所が違うのに、本人だけが気づかない。


「可愛いからって雑に扱うなよ?ボクはボクの可愛さに耐えうる器材しか使わないんだ」

「器材が耐える前に俺の胃が耐えられねえ」


高倉がぼやく。

その隣で支倉真名が、器材ケースの色見本を机の上に並べていた。昨日から続いているらしい。


「だから、蛍光はやめて」

「映えるって!」

「映えるのは分かるけど今じゃない」

「今じゃない、って言われると今したくなるのが人間だよ」

「それを言うと永遠に終わらないでしょ」


真名の声は落ち着いているのに、返す言葉の角度が妙に鋭い。樋道はそれを「相方候補の本気」と勘違いしている。勘違いがあるうちは平和だ。


志摩龍二は窓際の椅子に座り、飴を噛んでいた。煙草は没収されたままだ。本人は飴を噛みながら、しきりに腕を揉っている。減衰を張り続けた筋肉の痛みが、今さら追いついてきたのだろう。


「志摩」


護国宗一が声をかける。


「腕、診療班に見せろ。放っておくと次の現場で抜ける」

「抜けねえよ」


志摩は言い切ってから、少し間を置き、面倒くさそうに付け足した。


「……見せる。アネゴに怒られたくねえし」

「中尉だ」


宗一が言うと、志摩は肩をすくめた。


「はいはい。中尉。中尉のせいで胃が痛い」


護国綾瀬はその会話に混ざらず、壁際で刀装具の留め具を外していた。外して、見て、戻す。それだけの作業が、本人にとっては一番落ち着くらしい。


「綾瀬」


宗一が呼ぶ。


「はい」


返事は即答だが、視線は留め具から外れない。


「昨日の糸、張り直したいなら申請を」


宗一は淡々と言った。注意の形を借りた気遣いだ。

綾瀬は留め具を一度だけ止め、兄の方を見ないまま言った。


「申請するほどのことではありません。手順の確認です」

「確認は大事だ」


宗一が言う。


「だが“確認”が逃げ道になっている時もある」


綾瀬の指が止まる。

止まってから、また動く。答えない。答えないが、刺さっている。宗一はそれで引いた。引けるだけ偉い。


紺野はその全部を見て、何も言わずに自分の机へ向かった。机の上には紙束が置かれている。羽場桐妙子の字だ。丁寧で、余白が少ない。余白が少ないのに、詰め込みの字ではない。必要なことだけが並んでいる字。


「紺野少尉」


背後から声がした。

羽場桐が立っていた。軍服の襟元は整っている。整っているのに、目だけが少し遅い。徹夜の目だ。徹夜でも崩れない人間の目。


「河岸の所感、確認しました」

「……気味が悪いって書いたぞ」

「ええ。必要です」


羽場桐は淡々と続けた。


「上にも回しました。曖昧なまま、“曖昧だ”と記録するのが今回の唯一の正解です」


紺野は短く息を吐いた。


「正解って言うな。気分が悪くなる」


羽場桐の口元がわずかに動いた。笑いではない。理解の表情だ。


「気分が悪くなるうちは、まだ健全です」


そう言って、羽場桐は机の端へ一枚の紙を置いた。


「追加です。講堂の撤収と押収物の仕分け、警察との折衝。宗一少尉に任せる部分と、東雲さんに任せる部分、高倉さんに任せる部分を分けています」

「俺は?」


紺野が問う。

羽場桐は一拍置いた。


「……休んでください、と言うと反発しますね」

「するな」


紺野は即答した。


「では、“敷地内待機”です」


羽場桐は淡々と言い換えた。


「呼び出しに即応。それ以外は、身体を戻すこと。昨日(さくじつ)のような現象が続くと、あなたの反応速度が落ちます」


紺野は返事をしなかった。

返事をしない代わりに、机の引き出しを開け、手袋を押し込んだ。握り込みすぎる癖を抑えるための、薄い布。陽鳥に渡されたものだ。

羽場桐はそれを見て、何も言わない。言わないことが、今は最善だと知っている顔だ。


54-2


給湯室から湯気が流れてきた。


湯気と一緒に、気配が来る。場を支配する気配。

硯荒臣少将が入ってきた。

紙の山から一言、ではない。

今日は最初から部屋の真ん中を歩いてくる。湯呑みを二つ持ち、片方を口元へ運びながら、もう片方を無造作に掲げた。


「羽場桐中尉。茶葉はどこだ」


羽場桐が即答する。


「左の棚です。……閣下、今日は塩を入れないでください」


志摩が噴き出す。


「言われてんじゃん!」


荒臣は平然と答えた。


「私は塩など入れない。昨日入れたのは保存用の鉱物粉末だ」

「もっと悪ぃ」


志摩が言い、樋道が笑い、真名が肩を揺らし、高倉が苦笑する。三つ子は意味が分からないまま笑う。東雲だけが「やめろ」と言いたそうな目をして、言わない。

荒臣は笑いの波に乗らず、乗らないまま一息で切った。


「昨夜、帝都は揺れた。揺れた後に一番壊れやすいのは“気分”だ」


部屋の空気が少しだけ締まる。

荒臣の言葉は、いつも“締める”位置に来る。場の端を掴んで結び直す手つきだ。


「昨日の件は、上は喜んでいる」


荒臣が言う。


「何を喜ぶかと言えば、被害を最小で抑えたこと。明灯会の顔を引きずり出したこと。――そして」


荒臣の赤い目が、紺野を刺す。


「“一棟消した”ことだ」


誰も笑わない。

笑える言葉ではない。

紺野が言う。


「俺は喜んでいません」

「知っている」


荒臣は淡々と返した。


「だから言った。上が喜ぶのは、君が気分よくやったからではない。結果が都合よかったからだ」


高倉がぼそりと漏らした。


「都合のいい結果ってやつは、たいてい誰かの胃を削るんだよな……」


荒臣がそれを聞きつける。


「高倉君。胃は削れても腹は減る。腹が減る限り、人は列を作る」


昨日の河岸の列。今日の講堂の列。

全員の頭に同じ絵が浮かぶ。

荒臣は湯呑みを机に置き、言った。


「よくやった、とは言わん。よくやったと言うと、次に皆が同じやり方をするからだ。代わりに――」


一拍。


「“次も生きろ”。それだけだ」


志摩が飴を噛んだまま、妙に真面目な顔で言う。


「閣下、そういうこと言うと、ちょっと好きになる」

「なら嫌いになっておけ」


荒臣が即答する。


「私は好かれる仕事をしていない」


樋道が口を尖らせる。


「でも閣下、今のちょっとカッコよかった」

「樋道准尉。君はその“ちょっと”で死ぬ」


荒臣が言い切る。

樋道は「ひどい!」と騒ぎ、真名が「正しい」と言い、三つ子が笑う。笑いが戻る。戻っていいところへだけ戻す。荒臣はそれが上手い。

東雲が静かに言った。


「……昨夜、子供が泣かなかった。泣けなかった。ああいう現象は、子供が一番先に壊れる」


部屋の空気がまた少しだけ沈む。

東雲の言葉は、いつも遅れて刺さる。

荒臣は頷いた。


「だから君たちが居る。君たちが居るから、この国は今日も回る。回るだけだ。良くはならん。だが崩れもしない」

「良くならないんですか」


紺野が低く言った。

荒臣は赤い目で見返し、少しだけ口元を歪めた。


「良くするのは、我々の仕事ではない。我々の仕事は、“崩れないようにする”ことだ」


その言葉が重いのは、荒臣が本気でそう信じているからだ。

そして同時に、その枠を知りながら、枠の外を見ている目をしているからだ。


54-3


夕方。

本部の屋上は風が強い。風が強い時ほど、誰かが来る。

扉が開き、珠洲原陽鳥が顔を出した。白衣のまま。外套を羽織っている。昨日よりは少しだけ厚い。


「全員いる?」


陽鳥が言った。


「いるわけないだろ」


志摩が先に返す。


「三つ子は寝かけてるし、樋道はまだケースの色で揉めてるし、高倉さんは奥さんに電話してるし」

「じゃあだいたい全員だね」


陽鳥は笑った。

屋上には、紺野、宗一、綾瀬、東雲、羽場桐、陽鳥が揃っていた。揃っているだけで珍しい。全員集合ではない。だが今は、それで十分だった。

陽鳥が言う。


「健ちゃん、左手」

「その呼び方はやめろ」


紺野は言った。

陽鳥は目を細くする。


「分かってる。だから言い方変える。紺野少尉、左手」


宗一が咳払いで笑いを誤魔化す。綾瀬は無表情だが、目だけが少し動いた。東雲は「やめろ」という顔をする。羽場桐は何も言わない。言わないのが最適だと分かっている顔だ。

紺野は左手を出した。

陽鳥が手首を取る。指先は冷たい。


「握り込みすぎ」

「……分かってる」

「分かってるのにやるのが癖だよ」


陽鳥は淡々と言った。


「昨日使ってないのに、指が固い。あの日の余韻がまだ残ってる」


陽鳥が紺野の手を離す。

離す時、袖口の内側で、爪先ほどの黒い影が一瞬だけ這った気がした。見れば消える。見られる前に引っ込む。演出だと言い切れる程度に、いつも上手い。

その直後、ごく短い、薄い音がした。

紙ではない。金属でもない。生き物が壁を擦るような音。


宗一の目が一段だけ冷える。

綾瀬の指先がわずかに立つ。

東雲は何も言わずに、ただ息を吐いた。

陽鳥は何もなかった顔で言った。


「……ごめん。露骨にやりすぎた」

「.....ごめんで済ませるな」


紺野が言う。


「済ませないよ」


陽鳥は笑った。笑って、すぐ真顔になった。


「でも今は済ませる。今ここで、余計な線を増やすと、健ちゃんが――」

「俺が何だ」


陽鳥は一拍置いた。


「嫌な想像をする」


紺野は黙った。

それは当たっている。

沈黙を切ったのは、綾瀬だった。


「……あの男は捕まった。これで終わりですか」


宗一が答える前に、羽場桐が言った。


「終わりません。終わったことにしたい人はいますが、終わっていない。列の癖は残りました」


東雲が続けた。


「列は残る。列を作る理由が残る限り」


陽鳥が帝都の灯りを見下ろして言った。


「だから、まだやる。まだやるし、まだ付き合う。……この隊は、そういう場所でしょ」


紺野は手すりから街を見た。

河岸の方角は見える。見えないはずの空白が、なぜか見える気がした。

宗一が言った。


「少尉。今日、使わなかったのは正しい判断でした」

「正しいとか言うな」


紺野は吐き捨てる。


「…..使わなかった」

「ええ」


宗一は頷いた。


「その一点だけで、昨日よりは少しだけ“壊れていない”」


綾瀬が小さく言った。


「兄さん、そういう言い方、好きなんですか」

「別に好きではない」


宗一が即答する。


「必要だから言うだけだ」


東雲がゆっくり頷いた。


「必要な言葉は、たいてい口に出しづらい」


羽場桐は最後まで口を挟まなかった。

挟まなかった代わりに、手元の小さな帳面へ何かを書き付けた。風に紙が鳴る。鳴っただけで、妙に安心する音だった。

その時、屋上の扉の向こうで、騒がしい声がした。


樋道の声、真名の声、志摩の笑い声、三つ子の足音、高倉の「だから売り物じゃねえって!」という声。生活の声だ。軍の声ではない。

陽鳥が言う。


「戻ろう。下の方がうるさい。うるさい方がいい日ってある」


紺野は一度だけ空を見上げた。

風は強い。強いのに、喉の奥は今は黙っている。

黙っている間くらいは、それでいい。

そう思えることが、たぶん第一部の終わり方としては、ぎりぎり許される。

扉へ向かって歩きながら、紺野はふと口を開いた。


「姉さん」


二人きりではない。だから言うつもりはなかった。だが出た。

陽鳥が振り返る。

驚かない。驚かないまま、ほんの少しだけ目を丸くする。


「何?」

「……次、俺が変な顔してたら、先に言え」

「うん」


陽鳥は即答した。


「言う。先に言うし、止める」

「止めるの方が先に来たな」

「当たり前でしょ」


そのやり取りを、宗一は何も言わずに聞いていた。

綾瀬も何も言わない。東雲は見ないふりをした。羽場桐は帳面を閉じた。


御親領衛の廊下へ戻る。

鈍い朝の続きみたいな空気の中で、騒がしさだけが少し増える。

壊れていない。

良くもなっていない。

それでも、この国は今日も回っている。


それだけで十分だと言えるほど、誰も強くはない。

言えないから、次もまた、ここに立つ。



一章終了


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