五十話 南区の貼り紙、筆の順番
五十話
50-1 南区の貼り紙、筆の順番
先に増えたのは警察車両ではない。貼り紙だった。
帝都南区の外れ、区役所と区民会館の間に挟まれた狭い広場。露店が立つには半端で、子供が遊ぶには汚い、そういう場所にだけ“紙”はよく育つ。掲示板の端から端まで、同じ形式の文面が重ねられていく。
支援窓口の開設。医薬配布。生活相談。職業斡旋。臨時講堂の使用許可。
どれも正しい。
正しい紙ほど、人を止める。
紺野健太郎少尉は、広場の角で足を止め、紙を見上げた。軍刀は留め具の位置がいつもより一段きつい。癖だ。きつくしておくと、余計な所作が減る。減らないのは胸の奥のざらつきだけだが、ざらつきは留め具では止まらない。
「……順番があるだろ」
独り言ではない。隣に高倉源三がいる。荷台を押したまま、紙の列を睨むように眺めていた。八百屋の手が、掲示板の紙の端を一枚だけつまむ。つまんで、力を入れずに戻す。ここで破けば“荒らし”になると知っている動きだ。
「順番?」
高倉が聞く。声は低い。市場の声だ。
「支援ってのはな、本来は飯が先だ。次に湯だ。次に寝る場所だ。そこから薬だ。最後に仕事だ」
「最後が仕事?」
「働けって言うのは簡単なんだよ。働ける身体に戻す方が面倒で、金がかかって、時間も食う。だから紙だけ先に増える」
紺野は紙の端に目を落とした。
“誓約”という字がある。救済窓口の横に、誓約。書く欄がある。住所、家族、困窮理由。その最後に一文。
――奪われた差分の返済を求める。
――取立の結果を受け入れる。
「……これ、どう見ても役所の文じゃないな」
紺野が言うと、高倉が鼻で笑った。
「役所はもっと回りくどい。こういうのは“書かせたい奴”の言葉だ」
「書かせて何をする」
「さあな。だが“書く”ってのはな、書いた側が腹を決めるってことでもある。腹を決めさせたら、あとは簡単だ」
広場の向こうで子供が走り、母親が怒鳴り、怒鳴った直後に咳き込む。
咳が出る街で、誓約書が先に増える。
紺野は紙を見たまま言った。
「……羽場桐中尉に見せるぞ」
「ああ。中尉は紙の臭いを嗅ぐのが仕事だからな」
高倉は荷台を押し直し、少し言葉を足した。
「紺野少尉。今日は前に出るなよ。前に出ると、あいつらが喜ぶ」
紺野は返事をしなかった。
返事をしない代わりに、掲示板から目を外した。外さないと、余計なところまで読んでしまう。読んでしまうと、喉の奥が勝手に熱を持つ。熱を持つと、手が動く。
その手がどこへ行くかを、紺野はもう知っている。
50-2
その前日、御親領衛本部の会議室は、昼を過ぎても明るくならなかった。
明るくならないのは照明のせいではなく、置かれているもののせいだ。机の上には紙が並び、紙の上には人の骨格が並ぶ。
羽場桐妙子中尉は、区民会館の見取り図を一枚、机の中央に置いた。
置く所作が静かで、静かなまま周囲の余計な音を切る。
「南区の臨時講堂。運用団体は“明灯会”の顔を残したまま、実際の窓口名は“均衡会”。表の責任者が出てくる手順になっています」
護国宗一少尉が資料を受け取り、目だけで読んだ。
「責任者が“出てくる”……出させるんじゃなくて?」
「向こうが出る。こちらが入った瞬間に逃げるなら、最初から姿を見せないはずです。見せたい相手がいる」
羽場桐はそこで一度だけ紺野を見る。視線が短い。短いが刺さる。
「――見せたい相手は、あなたです」
樋道芳芙美准尉が椅子の背で揺れながら言う。
「見せたいって、何を? ボクの可愛さ? それならいつでも見せてあげるけど」
支倉真名が即座に返す。
「見せたくない。今日だけは本当に見せたくない」
「真名ちゃん、会話が冷たいよ。もっと血の通った拒絶をして?」
「血は通ってる。あなたの方が無駄に濃いだけ」
三木一葉が笑いそうになって、双葉に肘で止められる。三葉は止められても笑っている。
東雲丈雲が、三人の頭上に手を置いた。止めるためではない。落ち着かせるための重さだ。
羽場桐は会話を遮らない。遮らないまま、必要なところだけ言葉を上書きする。
「本件、最重要は“勝つこと”ではありません。入口で揉めた時点で、向こうが欲しい絵になります」
宗一が頷く。
「“近衛が善意の場を潰した”の絵、ですね」
「はい。だから臨検の骨は合法に寄せます。区施設の無許可占有、医薬品管理違反、寄付台帳の不整合。警察の立会いを付けます。行政も呼びます」
羽場桐は淡々と言ってから、少しだけ声を落とした。
「その上で、責任者に名乗らせる。名乗った言葉を記録する。――捕縛するなら、その後です」
高倉が手を挙げるでもなく口を挟む。
「その責任者ってのは、景道院で講義してた男だろ。顔はもう割れてる」
「ええ。国立景道院で“救済と近代国家”を語っていた人物です」
羽場桐が答える。語尾に感情を混ぜない。混ぜないから余計に重い。
「彼は“高位神術師を殺したい”のではなく、“高位神術師に手を出させたい”。その違いを間違えると、こちらが先に転びます」
宗一が視線を紺野へ投げる。
「少尉。……挑発されるな。お前が動くと、場が崩れる」
紺野は短く息を吐いた。
「分かってる。俺は……前に出ない。出るなら手だ」
「手でも十分怖いんですよ」
羽場桐が静かに言う。
怖い、と言っているのに責めてはいない。事実の確認として“怖い”と言っている。
「だから、言葉の順番を決めます。宗一少尉が入口の会話を受ける。紺野少尉は半歩後ろ。樋道准尉と真名さんは内部の動線整理。東雲さんは三つ子の制御と外周の抜けを潰す。高倉さんは外の列の温度を見てください」
樋道が肩を揺らす。
「ボクが戦場で動線整理って、可愛いだけじゃ足りないじゃん」
「足りないので仕事をしてください」
羽場桐の返しは即答だ。
「可愛いは帰ってからでいい」
真名が小さく笑って、すぐ真面目な顔に戻る。
「……あの場、歌うみたいに人を動かすのが上手い。こっちも上手くやらないと、列が先に壊れる」
羽場桐が頷いた。
「壊れ方を選びます。壊さないのではなく、壊れない方向へ押す」
その瞬間、部屋の奥の扉が開いた。
硯荒臣少将が入ってくる。小柄な少女の姿だが、入室しただけで空気が“軍”に戻る。
「段取りは聞いた」
荒臣の声は若い。若いのに古い。
「良い。――ただし」
羽場桐が背筋を正す。
「はい、少将閣下」
荒臣は紺野を見た。
「少尉。明日の相手は、お前に力を使わせたい。つまり、お前の中身を見たい。見せるな。見せる必要が出たら、見せた後で必ず責任が来る」
「……分かっています」
紺野は言った。
「来るなら、俺が受ける」
荒臣が目を細める。楽しそうではない。値踏みでもない。
「受け方を間違えるなよ。受けるなら、受けた後に戻せ。戻せないなら受けるな」
紺野は答えなかった。
答えないまま、指先だけが軍刀の留め具に触れた。留め具は硬い。硬い方がいい。
50-3
夜、本部屋上の風は冷たい。
冷たい風は言葉の温度を誤魔化す。だから内緒話には向くし、逆に言えばここで話す内容は大抵、内緒にしておきたい類だ。
紺野が手すりにもたれていると、背後で扉が開いた。
「いた」
珠洲原陽鳥の声だった。
白衣の上に薄い外套を羽織っている。髪が風に煽られ、金に近い色が街灯を拾って揺れる。瞳の青さが、暗いはずの屋上で妙に目立つ。目立つから余計に、笑い方が“柔らかい顔を作っている”ように見える瞬間がある。
もちろん、そう見えるだけで済まない人間だと、紺野は知っている。
陽鳥は隣まで来て、手すりに寄りかからず少し離れて立った。
「健ちゃん。明日の相手、言葉が上手いよ」
「知ってる」
「知ってる顔してる。嫌な知り方した顔」
「……余計なこと言うな」
「余計じゃない。止めるための確認」
陽鳥は紺野の左手を見た。
「明日、握り込んだら先に言う。握り込む前に言う」
「お前が?」
「私が。羽場桐中尉でも宗一くんでも遅い時がある。遅いと、健ちゃんは“間に合う手”を選ぶ」
紺野は舌打ちしかけてやめた。
「……俺は使わない」
「使うな、じゃない。使うなら使うで使い方を選びなさい。明日の相手は“使わせて勝つ”んじゃない。“使わせて残す”んだよ」
言い方が嫌だった。
嫌だが、正しい。正しい言葉はいつも嫌だ。
紺野は息を吐いた。
「姉さん」
二人きりの時だけの呼び方だ。陽鳥の目がほんの少しだけ丸くなる。
「何」
「……明日、俺が黙ってたら、先に喋れ。俺の代わりにじゃない。俺が余計なこと言う前に、場を整えろ」
陽鳥は数秒黙ってから、ゆっくり笑った。
「うん。整える。止める。必要なら、先に嫌われ役もやる」
「嫌われ役は元からだろ」
「ひどいなあ健ちゃん」
笑いながら、陽鳥の声には一瞬だけ冷えた真面目さが混じる。
「でも、そう。元から。だから明日は楽。私が嫌われても、健ちゃんは“使わない”を選べる」
屋上の金網が鳴った。
下の廊下のどこかで、樋道の大声と三つ子の笑い声が混ざる。遠くで高倉の電話口みたいな声もする。羽場桐の声は聞こえない。聞こえないということは、まだ紙の中にいる。
紺野は夜を見なかった。
夜景を見れば、街が綺麗に見える。綺麗に見えると、明日の列が“正しく”見えそうで嫌だった。
「……行く」
紺野が言うと、陽鳥が頷いた。
「うん。明日は“勝たない”のが勝ちだよ」
紺野は返事をしない。
返事をしないまま扉へ向かった。
明日、列はまた出来る。
筆が動く。署名が増える。
増えた署名の先に、責任者が名乗る。
名乗る瞬間が、この戦いの本当の入口になる。




