第四十九話 人の順番
第四十九話
49-1 人の順番
先に鳴ったのは罵声ではなく、拍手だった。
帝都第六区の公会堂は、平時なら町内会の集まりか、商人組合の寄合に使われる程度の古い建物だが、その日は入口から廊下まで人で詰まっていた。河岸の一件で行き場を失った者、炊き出しに並んでいた者、野次馬、記者、議員の使い走り、警察の見張り。肩書の違う人間が同じ椅子に座ると、たいてい空気は濁る。にもかかわらず、会場の熱は妙に整っていた。
整いすぎている、と紺野は思った。
前方の壇上では、明灯会の“顔”である男が、演台に手を置いて頭を下げていた。軍人でも官吏でもない姿勢だ。威圧しない代わりに、退かない人間の立ち方だった。
「本日は、先日の河岸の件について説明の場を開きました」
よく通る声だった。張り上げていないのに最後列まで届く。言葉の置き方が上手い。会場のどこで誰が頷くかを知っている話し方だ。
紺野の半歩前には護国宗一が立っている。今日は制圧要員ではなく、近衛としての立会いだ。軍刀は帯びているが、抜くための位置にはいない。羽場桐妙子も同席しているが、彼女は軍装の上に外套を羽織り、意図的に“近衛の圧”を薄くしていた。
「我々は、国家に逆らうために食事を配ったのではありません。医師を呼んだのも、薬を回したのも、行き倒れを減らすためです。――それだけです」
会場の前列で誰かが拍手した。単発だった拍手は、二人、三人と増え、やがて一つの流れになる。
拍手は賛成の意思だけで起こるものではない。助かりたい時にも起こる。自分が間違っていなかったと確認したい時にも起こる。そういう種類の拍手が、この場には混ざっていた。
宗一が低く言う。
「見事に作りましたね」
「場を、ですか」
羽場桐は視線を壇上へ向けたまま返した。
「場も、人の順番も」
宗一の返しに、羽場桐は短く頷く。肯定とも評価ともつかない、事務的な動きだった。
壇上の男はそこで一度言葉を切り、今度は会場の中央を見た。そこには河岸の倉庫で炊き出しを受けていた者達が、前列より少し後ろにまとめて座らされている。座らされている、という言い方になるのは、自然に散った配置には見えないからだ。
「近衛が来たことを責めるつもりはありません。現場は危険でした。倉庫の内部に何があったか、私も把握していました。爆ぜれば周辺へ延焼したでしょう」
ここで男は一度、紺野へ目を向けた。ほんの一瞬だが、その一瞬で会場の何割かの視線が引っ張られる。視線の流れが、声の指揮に従っている。
「ただ、結果として建物一棟が消えた。人命は救われた。ええ、そこは事実です。だが同時に、市民の目には“国家が動くと容易に建物が消える”という事実も残った。ここをなかったことにはできない」
会場が静まる。
罵声は飛ばない。泣き声も上がらない。代わりに、ざわめきの質が変わる。言葉にする前の恐怖だけが、椅子の脚を伝って広がるような静けさだった。
紺野は表情を動かさない。動かさないが、喉の奥に嫌なざらつきが残っている。河岸で倉庫を消した時の後味だ。人は死んでいない。出力も抑えた。その理屈は通っている。通っている理屈が、他人の目の前では形を失うこともある。
男は続けた。
「だからこそ、我々は公開します。物資の出入りも、医療の手配も、受け入れの基準も。恣意で人を選んでいるのではないと示すために」
羽場桐の目がわずかに細くなった。
「基準を出す、と」
彼女は誰にともなく言う。
「それは善意の言葉ですが、組織の言葉でもあります」
宗一が小さく息を吐く。
「近衛が言うと、嫌味にしか聞こえませんね」
「事実です」
短い応酬だったが、紺野には分かる。この二人はもう別の線を見ている。壇上の男の話術ではなく、その後ろで動く手順の方を。
壇上から、また声が落ちてくる。
「近衛の皆さんにもお願いがあります。対立の演出は、ここでは得になりません。見ての通り、ここには子供もいる」
言外の釘だった。ここで近衛が強く出れば、負けるのは明灯会ではない。まず場が壊れる。そして壊れた場の責任は、力の大きい側に乗る。
男は最初からそこまで含めて並べている。
紺野はようやく口を開いた。
「お前、助ける順番を決めてるな」
会場の何人かが息を止めた。唐突な問いに聞こえる。だが男の目だけが、少し嬉しそうに細くなる。
「決めています」
男は即答した。
「決めないと死ぬ人間が増えるからです。国も決めているでしょう。ただ、遅いだけで」
「遅いのは国だ。だからお前が代わりに決める?」
紺野の声は低いままだった。
「それで返す気はあるのか」
男は笑わない。笑わないまま、会場全体に聞こえる音量で返す。
「何を、ですか」
「人間を」
一瞬だけ、壇上の空気が止まった。
拍手の場に刃物を入れると、たいていこういう静けさになる。男はそれを崩さず、ほんの少し首を傾げた。
「近衛少尉。あなたは人を守る時、国へ返しているつもりですか。それとも家へ返しているつもりですか」
紺野は答えなかった。答えればこの場では負ける。黙っても負ける問いだ。だから黙るしかない。黙った紺野を見て、男は最後に一度だけ会場へ頭を下げた。
「本日の説明は以上です。名簿照合と物資記録の閲覧は、希望者から順に受けます」
また拍手が起きる。今度の拍手は、少しだけ硬かった。
49-2
本部へ戻った後、羽場桐は休む前に医務室の隣を使った。
御親領衛本部の会議室ではなく、わざわざ医務室の横を使うあたりが彼女らしい。話を聞くだけで済まない可能性を最初から見ている。
室内には河岸の現場にいた警察官が一人と、避難誘導に関わった区役所の臨時職員が一人。どちらも疲れ切った顔をしていた。疲労だけではない。思い出そうとするたびに、記憶の縁が滑る顔だ。
紺野は壁際に立ち、宗一は扉の脇を取る。陽鳥は医務室との境で椅子に腰掛け、白衣の袖を軽く捲っていた。視線は柔らかいのに、部屋の空気を舐めるように動いている。
羽場桐は机の上の記録紙を閉じ、警察官に向き直った。
「確認だけします。取調べではありません」
「……さっきもそう言われました」
警察官は苦く笑った。
「確認って言われる方が怖い日もあるんですよ、中尉殿」
「今日はそうでしょうね」
羽場桐は否定しない。
「ですから、無理はさせません。順番だけ整えます」
警察官の眉が動く。宗一が視線だけで紺野を見る。紺野はその視線の意味を理解していた。来る、という合図だ。
羽場桐は静かに名乗った。
「胡蝶転帰」
声を張らない。術名だけを、机の上に置くみたいに言う。
「大きい方は使いません。視たものの順番を、あなたの中で崩れない形に寄せるだけです。苦しくなったらすぐ止めます」
警察官が喉を鳴らす。
「……それで、何か変わるんですか」
「変わりません」
羽場桐は即答した。
「変えるのは私の仕事ではありません。あなたが見た順番を、あなたの手に戻すだけです」
言い方が丁寧で、逃げ道がない。
陽鳥が横から口を挟んだ。声は軽い。
「深く潜ると逆流するからね。妙子ちゃん、今日は本当に浅くしてよ」
「分かっています」
羽場桐は目線も向けず返す。
「珠洲原主任こそ、落ち着かせすぎないでください。本人の反応が鈍ると逆に見えなくなる」
陽鳥は肩をすくめた。その指先で、いつの間にか警察官の前に水の入ったコップが置かれている。置いた動きは見た。だが、置くまでに何か細いものが袖口から滑った気がして、紺野は一度だけ目を細めた。見間違いだと言い切れる程度の違和感だけが残る。
羽場桐が警察官の視線を取る。
それだけだった。
触れていない。声を荒げてもいない。だが次の瞬間、警察官の肩がびくりと跳ね、目の焦点が一度遠くへ飛ぶ。息が詰まり、数秒遅れて咳き込んだ。
宗一が半歩出る。羽場桐は片手で制した。
「大丈夫です。今、戻ります」
戻る、という言い方も奇妙だ。だが実際、警察官の目は数秒でこちらへ戻ってくる。戻ってきた目には、さっきまでの曇りが少し減っていた。代わりに、嫌なものを鮮明に見た人間の汗が額に浮く。
「……思い出した」
警察官は喘ぐように言った。
「倉庫の前、あいつら……列を詰めてない。詰めたように見せてた。空きを残してた。逃がす道、最初から作ってた」
羽場桐の声が低くなる。
「誰が指示していましたか。顔でなくていい。手順だけで」
「壇上の男……じゃない。あいつは前にいた。後ろだ。腕章の色違いがいた。咳払いを二回して、それで列が動いた。……あれは、合図だ」
宗一がすぐ拾う。
「二回の咳払い。音の合図」
「いや、音だけじゃない」
警察官は目を押さえる。
「手も。指。……二本消して、一つ点けるみたいな」
紺野の視線が宗一へ流れる。宗一も同じ瞬間に紺野を見た。明灯会が内部で使っていた合図の逆用を狙っていた時の線に、ようやく実地の手癖が繋がった顔だった。
羽場桐はそこで術を切った。切る瞬間は誰にも分からない。分からないまま、警察官だけが深く息を吐いて椅子にもたれた。
陽鳥がすぐコップを差し出す。
「はい、飲んで。吐くなら左向いて」
言いながら、彼女の青い目は羽場桐ではなく、警察官の瞳孔の揺れ方を見ている。優しさの形をしているが、観測の目だ。
羽場桐は次に区役所の職員へ向き直った。
「あなたにも同じことをします。ただ、もっと浅く」
「……さっきの見たら、浅いの基準が信用できないんですけど」
職員が乾いた笑いを漏らす。
陽鳥が小さく笑った。
「信用しなくていいよ。使えるかどうかだけ見て」
その言い方に、羽場桐が一瞬だけ陽鳥を見る。好悪ではない。役割の擦れる音だけが走る。
結局、二人目の証言から出たのは名前ではなく配置だった。倉庫周辺の人の流れ、薬箱の置き方、列の折り返し位置、見せたい場所にだけ視線が集まるように組まれた導線。善意の現場でやっている手際としては、出来すぎている。
羽場桐は筆を置いた。
「……勝ち筋が見えましたね」
宗一が問う。
「どちらのですか」
羽場桐は淡々と答える。
「相手のです。人命を救いながら、国家の手順だけを遅く見せる。近衛が動けば大きすぎる力の印象が残る。動かなければ見捨てた形になる。どちらでも負ける盤面を、先に配っている」
紺野は黙ったまま左手を見た。河岸で一棟消した時のざらつきは薄れたが、消えていない。
陽鳥がその手を見て言う。
「健ちゃん、まだ残ってるでしょ」
二人きりではない。呼び方だけが柔らかい。
紺野は目を上げずに返す。
「……少し」
「なら今日はもう触るな」
陽鳥の声は軽いままだった。
「次に同じ距離で出したら、今度は“少し”で済まないかもしれない」
羽場桐は会話を遮らない。遮らず、最後に記録紙だけを揃える。
「河岸の件は、こちらで法務と警備へ分けます。現場の皆さんは休んでください。――ただし呼べば来てください」
宗一が小さく笑った。
「休みの定義が狭いですね」
「広げると壊れます」
羽場桐の返答は、いつも通り正確だった。
49-3
その夜、紺野は河を渡る橋の中ほどで男を見つけた。
見つけたというより、向こうが待っていたのだろう。橋脚の陰に寄るでもなく、欄干にもたれ、帝都の灯りを見ている。逃げる気配のない背中は、追わせるつもりの人間の背中だ。
宗一にも羽場桐にも報告していない。した方が正しい。正しいと分かっていて一人で来た時点で、紺野の機嫌はあまり良くない。
男は振り返らずに言った。
「ちゃんと深呼吸しましたか」
紺野は足を止めない。
「お前の心配はいらん」
「心配ではありません。観察です」
男が振り返る。公会堂で見た時と同じ顔だ。笑っていないのに、人前に立てる顔をしている。
紺野は距離を取って立つ。刀に手はかけない。かけると話が早く終わる。早く終わる話ほど、後で尾を引く。
「何の用だ」
紺野が言う。
「確認です」
男はあっさり答えた。
「あなたが、あの場で本当にあの選択をする人間かどうか」
「倉庫のことか」
「ええ。人を避けて、建物だけ消した」
男は言葉を選ぶように間を置く。
「見事でした。怖いほどに」
紺野の眉がわずかに寄る。
「褒められる筋合いはない」
「褒めていません。使える事実だと言っている」
風が橋の上を抜ける。河の匂いが少し強い。男は欄干から身を離し、紺野の正面へ向いた。
「少尉、私はあなたに勝つ必要がない」
その言い方は挑発ではなく説明だった。だから腹が立つ。
「お前が勝つ相手は、俺じゃないと言いたいのか」
紺野が返す。
「半分そうです。もう半分は、あなた方全員です。近衛も、警察も、区役所も、議会も」
男は指を折らない。ただ言葉だけで並べる。
「私は善いことをする。飢えた人間に飯を出す。医者を繋ぐ。寝床を回す。あなた方が遅れている場所に、先に手を入れる。それだけで人は集まる」
「集めてる時点でそれだけじゃない」
「もちろん」
男は肯定した。
「集まれば、順番を作れる。順番ができれば、組織になる。組織になれば、国は無視できない。無視しないために調べる。調べるために手を入れる。手を入れれば、私は言えるんです。――ほら、善行を邪魔しに来た、と」
紺野は黙る。
男は言葉を継ぐ。声は上げない。上げないから、余計に刃が立つ。
「高位の神術師は特権を持つ。その代わり国家への義務を負う。正しい制度です」
男は口元だけを少し動かした。
「では、その義務の履行先を国家が独占していい理由は何です。今日死ぬ人間に、来月の手順を説明して何になる」
「だからお前が決める?」
紺野の声が低く沈む。
「返す気のない順番で」
男は少し考えるように紺野を見た。見てから、静かに言う。
「返す気がない、か。いい言葉ですね」
そして続けた。
「でも少尉、国だって同じです。人を救った後、その人間をどこへ返す? 元の職へ? 元の家へ? 元の貧しさへ? 元の順番の後ろへ? 私は少なくとも、そこで終わりだとは言っていない」
「言ってないだけだ」
紺野が返す。
「お前は助けた人間を、お前の手の届く場所に置き直してる。家へ返してない。選べる手札にしてる」
男はそこで、初めて少しだけ笑った。嬉しそうではない。よく見えている相手に会った時の笑い方だ。
「だから私は、あなたに興味があるんです」
「気色悪いな」
「ええ、でしょうね」
男は平然と言う。
「あなたは壊せる。しかも人を避けて壊そうとする。国家から見れば便利で、制度から見れば危険です。そういう人間が一番、時代を動かす」
紺野の喉の奥がざらつく。空腹ではない。嫌悪に近いが、綺麗に分類できない感情だ。
「俺はお前の道具じゃない」
「知っています」
男は即答した。
「だから価値がある」
橋の下を船が通る。小さな機関音が遅れて届く。その間だけ二人とも黙った。
やがて男が、少しだけ視線を河から外し、帝都の灯りの方へ向ける。
「次は河岸ではありません。もっと“正しい場所”でやります。善意が善意として拍手される場所で、あなた方が止めにくい形で」
「景道院か」
紺野は思わず口にした。
男は否定も肯定もしない。ただ、沈黙で答える。その沈黙が答えより厄介だった。
「止める」
紺野が言う。
「でしょうね」
男は頷く。
「止めてください。止められるなら」
言い終えると、男は紺野の横を通って歩き出した。肩が触れる距離を選ばない。近すぎず遠すぎない、人の記憶に残る距離を知っている歩き方だった。
すれ違いざまに、男は低く言う。
「あの日のあなたの一棟、あれで何人があなたを恐れ、何人があなたに縋るか。私はもう数え始めています」
紙も帳面も出さずに言うあたりが、余計に悪質だった。
紺野は振り返らない。振り返ると追う足になる。追う足になると、今夜はおそらく失うものの方が多い。
橋の上に一人残り、紺野は深く息を吸って吐いた。
喉の奥は静かだ。静かだが、それが安全の意味ではないことはもう知っている。河岸で一棟消えた。公会堂で拍手が起きた。橋の上で勝ち筋を説明された。
戦っていないのに、負け方だけが先に見えてきている。
それでも戻るしかない。戻って、羽場桐の作る線に乗り、宗一の切る判断に合わせ、綾瀬の糸と志摩の減衰と東雲の影と、高倉や真名や樋道や三つ子の手が届く場所を繋いでいくしかない。
御親領衛は大局の中心ではない。天帝や神州の国家全体から見れば、たいして重い駒でもない。だが、軽い駒だから拾えるものもある。
橋を下りながら、紺野は左手を開いたり閉じたりした。掌のざらつきは、まだ少し残っている。
次に鳴く時、どこまで壊して止まれるか。
その問いだけを持って、紺野は本部へ戻った。




