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幻想帝都 神州御親領衛記  作者: ニュートリノ鈴木
一章 神州と言う國
47/193

四十五話 拍手の向き


四十五話


45-1 拍手の向き



河岸の倉庫が一棟消えた翌日、帝都の空気は奇妙に静かだった。


騒いでいないのではない。騒ぎ方を選んでいるのだ。露骨に怯えれば生活が止まる。平気な顔をし過ぎれば昨日見たものが嘘になる。だから人は、半分だけ信じて半分だけ忘れた顔で朝を歩く。


その朝、臨時の説明会が開かれた場所は河岸そのものではなく、少し離れた区の集会所だった。明灯会が「住民向け相談会」と称して先に押さえた会場に、警察と区の職員が後から入り、最後に近衛が入る。順番だけ見れば穏当だ。中身はまるで逆で、誰が主導権を握っているかを巡る押し合いだった。


紺野健太郎は入口脇の壁に背を預けて立っていた。軍刀はある。手は鞘から離している。昨日の河岸で一棟を消した手だと知っている者はまだ少ないが、知らない者にも分かるものはある。近寄りづらさというやつだ。

護国宗一が小さく言う。


「視線が集まっています。少尉個人にではなく、近衛という札に」

「同じだ」

「いえ、今日は違います」


宗一の声は落ち着いていた。落ち着いているが、平板ではない。人前で刃を抜かないために、言葉の温度を少しだけ上げている声だった。


「昨日の現場を見た者が大勢います。噂の段階を越えた。今は“確かめに来ている”目が多い」


紺野は会場を見渡した。


前列には商店主と町内会の年寄り。中ほどに子連れ。後方に腕章を巻いた明灯会の手伝いらしい若者が散っている。警察は壁際。区の職員は壇上の脇で書類を抱えて立ち尽くしている。誰も席順を決めていないのに、自然に役割の形へ寄っている。


羽場桐妙子は壇上の端にいた。軍服ではなく、近衛の上着の上から簡素な外套を羽織っている。場を刺激しないための配慮だろう。だが、彼女が立っているだけで場に一本線が入る。柔らかい顔で、秩序の輪郭だけが硬い。


その少し後ろ、支倉真名が椅子に浅く腰掛けていた。帽子を深く被り、化粧も薄い。顔を隠しているつもりなのだろうが、隠し方に慣れていない人間の隠れ方で、気づく者にはすぐ気づかれる。

紺野が眉を動かす。


「……何でいる」


真名は口元だけで笑った。

「“何で”は失礼。今日は人前に出る仕事でしょ。私の本職よ」

「近衛の本職じゃない」

「だから来たの。近衛だけでやると、みんな顔が怖いから」


後ろで志摩龍二が吹き出しかけ、宗一に睨まれて口を閉じた。綾瀬は会場の柱の陰に立ち、客席と出入口と窓の位置を順に見ている。糸はまだ張っていない。宗一に止められているからだ。だが、いつでも置ける目をしている。


壇上の中央へ、明灯会の男が出た。昨日河岸で顔を見せた、あの男だ。背広姿で、声の通りがいい。人に聞かせる言葉を仕事にしてきた者の立ち方だった。

「本日はお集まりいただき、ありがとうございます」

一礼。角度が浅い。だが浅さが嫌味にならない位置を知っている礼だった。


「昨日の河岸の件で、不安を抱かれた方も多いと思います。まずは負傷された方への支援と、生活物資の再配布について――」

「その前に」


羽場桐の声が入った。

遮る声ではなかった。丁寧に順番を取りに来る声だ。だが、その丁寧さで相手の流れを切る。ああいう割り方をされると、人前で怒った側が負ける。

男は笑みを崩さず、手でどうぞと促す。


羽場桐は一枚の紙を掲げた。紙そのものはただの紙だ。だが公印が押され、区の課名が入り、警察署長代理の署名が並ぶと、それだけで人を座らせる力を持つ。


「区と警察の合同確認です。明灯会が本日扱う医薬品・衛生資材・寄付物資について、臨時規制区域内での配布を継続する条件として、搬入元と保管経路の確認を行います。配布は止めません」


会場の空気が少し揺れる。

止めません、を先に言った。羽場桐らしい。相手の善性を表では崩さず、内部だけ締める言い方だ。

男が口を開く。


「もちろん協力します。私たちは最初からそのつもりです。ただ――」


そこで男は客席へ向き直った。


「皆さんもご覧になった通り、昨日は近衛の介入で倉庫一棟が消えました。確認は必要でしょう。ですが同時に、確認する側の手段についても説明が必要ではありませんか」


拍手は起きなかった。代わりに、何人かが頷いた。

拍手より厄介だ。拍手は勢いで起きる。頷きは、自分の頭で正しいと思っている。

男の目が紺野を捉える。


「紺野少尉。昨夜に引き続き改めてあなたに伺いたい。昨日、あなたは何をしたんですか?」


宗一が一歩前へ出ようとした。紺野が腕で止める。


「俺が出る」


宗一は止まる。止まった上で、低く言う。


「説明を選んでください。挑発ではなく」

「分かってる」


分かっている。分かっているが、何をどう言えば“分かったことになる”のかは分からない。そこが一番腹立たしい。

紺野は壇上へ上がらず、客席の通路に立ったまま声を返した。


「崩れる倉庫を止めた」


男は首を傾げる。


「止めた、ですか」

「列に倒れ込む前に消した。中に人はいない。そこまでは確認してやった」

「“消した”と、ご自身でおっしゃる」

「見たままだろ」


ざわつきが広がる。

紺野は続けた。簡潔に切ると冷たく聞こえる場だと分かっていたから、珍しく言葉を足す。


「火と薬品で飛ぶ前だった。宗一少尉と綾瀬が切りに入ってた。志摩が人波を押さえてた。間に合う形がなかった。だから俺が壊した。そういう話だ」


男がすぐ返す。


「“間に合う形がなかった”の判断を、誰がしたんです?」

「現場にいた奴らだ」

「あなた方だけで?」

「当たり前だ。倉庫は会議を待たない」


後方で何人かが息を呑む。乱暴な言い方だ。乱暴だが嘘はない。羽場桐が止めないのが、その証明にもなっていた。

男はそこで初めて笑みを薄くした。


「では、近衛の判断ひとつで、市民の財産は消える」


紺野は男を見た。正面から。逃げずに見る。


「お前の判断ひとつで、市民は列に並ばされる」


会場の空気が止まる。

宗一の目がわずかに動いた。志摩が口の端を上げる。綾瀬は無言のまま、柱の陰で男の足元を見ている。


男はすぐには返さなかった。返せない、ではない。返し方を選んでいる沈黙だった。

紺野はそこで畳みかけた。


「飯を配るなとは言ってない。薬を配るなとも言ってない。だが昨日の河岸で、人を“前に置いた”のはお前らだ」

「証拠は」

「あるなら今ここで逮捕してる」


男の眉がほんの少し動く。


「ないなら、印象操作ですね」

「印象操作はお前の仕事だろ」


志摩が今度こそ吹き出した。真名が咳払いのふりで消す。場が笑いに傾くと、明灯会の男の土俵になるからだ。笑わせるのも、怒らせるのも、相手の得意分野だと真名はよく知っている。

羽場桐が紙をもう一枚出した。


「話は並行して進めます。明灯会さん。配布を続けるなら、搬入口の鍵と保管室の立会いをお願いします。区の職員と警察が同席します。こちらからは私と――」


一拍置いて、真名を見た。


「支倉さん。同行を」


真名が立ち上がる。帽子を少し押し上げると、客席の若い女が「あ」と小さく声を漏らした。やはり気づく者は気づく。

男の視線が真名へ流れる。


「……有名人まで。ずいぶん本気だ」


真名は営業の笑みとは少し違う笑顔で返した。


「人前の空気が荒れると、商売柄ね。放っておけないの」


それが嘘でないのが厄介だった。


45-2


搬入口は会場の裏手、河岸へ続く細い通路の先にあった。


表の説明会が続いている間、裏では別の戦いが進む。大声も拍手もない。紙と鍵と、荷の匂いの戦いだ。こういう場で強いのは、刃物でも神術でもなく、生活を知っている人間になる。


高倉源三が壁際の木箱をしゃがんで見ていた。今日は軍服の上に古い前掛けを巻いている。本人いわく「汚れるから」だが、あの格好になると周囲の警戒が一段落ちる。八百屋の親父にしか見えなくなるからだ。

区の職員が戸惑った声を出す。


「高倉さん、何か分かりますか」

「分かるっていうか、変なんだよ」


高倉は箱の角を指で叩いた。乾いた音が返る。


「この箱、果物用の再利用だ。ここまではよくある。けど釘の打ち直しが新しすぎる。昨日今日の仕事だ。しかも中身の重さに合わせてない」

「重さ?」


羽場桐が問う。

高倉は頷く。説明が始まると、急に声に芯が入る。


「果物箱ってのは運ぶもんに癖が出るんだ。底の撓み方とか、縄の掛け跡とか。これは見た目だけ果物箱で、中身は最初から別物を入れる前提で補強してる。薬品だな。それも割れやすい瓶じゃなく、缶か金物寄り」


警察官が箱を開ける。中から出たのは、包帯の束、消毒布、それに紛れて帳票のない金属缶が幾つか。

区の職員の顔色が変わる。


「これは申請リストにない」


明灯会の若い手伝いが慌てて口を挟む。


「それは寄付で急に来た分で、まだ記載が――」

「なら入庫させるな」


羽場桐の声は静かだった。


「未記載のまま臨時規制区域へ入れていい物資ではありません。善意を言い訳にすると、必要な物まで止まります」


若者が黙る。叱責の言い方ではない。手順の話をされると反論しづらい。悪いことをしている自覚の薄い者ほど、こういう場で弱い。


真名はそのやり取りの間、ずっと若者たちの視線を見ていた。誰が羽場桐の声で反発し、誰が安堵し、誰がただ戸惑っているか。彼女の能力は人の関心と無関心を強制的に触る。


範囲型の感応能力。目立つ能力ではない。だが人が密集した場では、刃物より先に効くことがある。

真名が羽場桐へ小さく言う。


「右の二人、視線が外に逃げてる。連絡役っぽい」


羽場桐は視線だけで頷く。


「警察さん。出入口の確認を一名増やしてください。拘束はしなくていい。まず出入りだけ止めて」

「りょ、了解」


高倉は別の箱を開けて、眉を寄せた。


「……こっちは薬じゃない。炊き出し用の乾物に混ぜてる。いや、混ぜたってより“空きを埋めてる”な」

「何を」

「紙」


高倉が引っ張り出したのは、細く巻かれた帳面の切れ端だった。領収書でも名簿でもない。記号と時刻だけが並ぶ、引継ぎ用の符丁に近い紙だ。

羽場桐の目が細くなる。


「回送の合図ですね」


高倉は肩を竦める。


「俺は八百屋だから知らん。ただ、まともな商売人の紙じゃない。客に見せる字じゃねえ」


真名が紙片を覗き込み、苦い顔をした。


「見せるための帳簿は表にある。見せないための帳簿は箱の底、か。やり方が上手いわね」


羽場桐は紙片を封筒へ入れた。


「上手い、で済ませているうちに根が太る。今日で切れる所まで切ります」


言い切ったところへ、通信器が鳴る。表から宗一の声だ。


『中尉。会場、少しずつ割れています。明灯会側の若いのが“近衛が物資を止めた”と流し始めた』


羽場桐は即座に返す。


「止めていません。未記載分を隔離しただけです。そう伝えてください。言葉は“止めた”を使わないで」

『了解。紺野少尉が前で受けています』


その一言に、羽場桐の視線がわずかに揺れた。心配の揺れだ。だがすぐ戻る。


「真名さん、表へ」

「分かった。羽場桐さんは?」


「私はここを締めます。箱は逃がしません」


高倉が鼻で笑う。


「野菜の棚卸しみたいな顔してるな、中尉」

「あなたに言われたくありません、高倉さん」


言い返しながら、羽場桐の手はもう次の封印札を切っていた。


45-3


会場へ戻ると、空気の荒れ方が変わっていた。


怒号にはなっていない。だが、もう「説明を聞く」空気ではない。隣の顔を見て、自分の不安の形を確かめ始めている。こうなると、正しい説明は半分しか届かない。残り半分は、先に届いた感情が食ってしまう。

壇上の中央で明灯会の男が声を張っていた。


「私たちは協力しています。ですが、現に今、物資の一部は動かせなくなっている! その遅れを誰が責任を取るんですか」


客席の一角で女が声を上げる。


「薬が遅れるのは困るよ!」


別の男が言う。


「昨日だって倉庫消したんだろ! 次はどこだ!」


宗一が前へ出る前に、真名が一歩だけ壇上寄りへ入った。大きな動きではない。目立たない位置取りだ。だが彼女が息を吸った瞬間、会場の視線の散り方が少し変わる。


輝陽星陰。

真名は誰か一人の心を支配するのではなく、場に流れる関心の向きを触る。怒鳴り声の方へ集まりかけた注意を、別の一点へずらす。無理に黙らせるのではない。聞く価値があるものへ視線を誘導する。単純で、だからこそ指向性が強い。


彼女は壇上へは上がらず、客席の通路で笑った。


「質問、順番にしない? みんな一緒に怒ると、誰の薬が先か分からなくなる」


場違いに聞こえるほど明るい声だった。だが、その明るさで救われる場面がある。会場の半分が一瞬だけ真名を見る。残り半分も、見るべき先が増えたせいで怒鳴る勢いを失う。


男が不快そうに真名を見た。邪魔をされた顔だ。

紺野はその隙に前へ出る。壇上に上がる。昨日河岸で一棟を消した手で、今日は木の演台を掴む。演説する柄ではない。似合わない。だが似合わないまま立つしかない時がある。


「聞け」


一言で会場が少し静かになる。良くも悪くも近衛の声だ。

紺野は短く息を入れて続けた。短く切り過ぎると命令にしか聞こえない場だと分かっていたから、言葉を繋ぐ。


「昨日の倉庫を消したのは俺だ。そこは隠さない。中に人がいないのを確認してからやった。列に倒れ込む前に止めた。まずそれが一つ」


ざわめきが残る。紺野は構わず話す。


「今、裏で止めてるのは配布そのものじゃない。帳面にない物を、帳面にないまま混ぜるなって話だ。薬が必要な奴の所に薬を通すためにやってる」


前列の老人が怒鳴る。


「そんなの役所の理屈だろ!」


紺野は老人を見る。睨まない。逃げない。


「そうだ。理屈だ。だが理屈がないと次に困るのはあんたらだ」


老人が言葉に詰まる。紺野はそこで声を落とした。


「昨日、河岸で列を前に出した奴がいる。誰かはまだ掴み切ってない。だがいる。だから今日は、善い顔した箱の中も見る。嫌なら嫌でいい。俺も好きでやってない」


会場の後ろで、明灯会の若い手伝いが動いた。出口へ向かう。綾瀬の視線が走る。

次の瞬間、若者の足元の床板がぱき、と鳴った。

切れてはいない。だが一歩の置き場を間違えると転ぶ位置だ。見えない鳴子。綾瀬の碗獄断糸が、露骨に傷つけず動線だけを止めた。


若者が足を止める。顔だけが強張る。

宗一が静かに近づき、低い声で言う。


「走らない方がいい。今はまだ、です」


脅しではない。事実としての忠告だ。だから余計に効く。

壇上では男が笑みを取り戻していた。まだ折れていない。むしろ眼の奥は冴えている。


「紺野少尉。あなたは正直だ。だから危うい」

「よく言われる」

「あなた方は、いずれ“必要だから”で何でも壊す側へ行く」


紺野は少し黙った。否定の言葉は幾らでもある。だが空疎な否定は、この男の餌だ。


「かもしれん」


会場がざわめく。男の目が僅かに見開く。肯定を引き出せるとは思っていなかった顔だ。

紺野はそのまま続けた。


「だから止める奴が要る。現場にも、本部にも。お前らの中にも本当は要るんだろ」


男の口元の笑みが、初めて形を崩した。

羽場桐が会場の後方から入ってくる。手には封印済みの証拠袋。高倉と警察官が後ろにつく。紙ではなく、箱の底から出た物を持ってきた顔だ。

羽場桐は壇上の脇で一礼し、会場全体へ届く声で言った。


「確認は終わりました。配布は継続可能です。ただし保管室二か所を一時封鎖します。未記載薬品と不明出所の回送符丁を確認しました。区と警察へ引き継ぎます」


“配布は継続可能”を先に置く。やはりそう来る。

客席の空気が一段落ちる。全部は落ちない。だが将棋倒しになる流れは消えた。


男は羽場桐を見て、次に紺野を見た。どちらも嫌そうな顔をしない。嫌そうな顔をした側が負ける場だからだ。


「今日は、あなた方に話を譲りましょう」


宗一が返す。


「我々は勝ち負けでやっていません」


男は薄く笑う。


「それを本気で言える人間が、一番厄介だ」


そう言って男は後ろへ下がる。護国綾瀬の糸を踏まない位置を選び、志摩の視線を外す角度を選び、真名の声が届きにくい出口を選んで歩く。最後まで上手い歩き方だった。


追えない。追わない。今日はそこまでだと全員が分かっている。

会場が散り始める。怒号にはならず、不満と安堵の混ざったざわめきのまま、住民は列へ戻り、区の職員は汗だくで説明に走る。警察はようやく働ける顔になった。


紺野は壇上から降りる時、左手を握りかけて止めた。昨日から二度目だ。喉の奥の空腹は黙っている。黙っているが、さっき会場のざわめきが一斉に自分へ向いた瞬間、あれは確かに起きかけた。

通信器が小さく鳴る。陽鳥の声だった。


「健ちゃん、上出来」


二人きりではない。紺野は短く返す。


「……聞いてたのか」

「聞いてた。見てもいた。あとで手、見るから」


その言い方の最後に、ごく小さな擦過音が混ざる。紙でも金具でもない、薄い何かが這うような音。聞き間違いと思えばそれで終わる程度の短さで、すぐ消えた。


紺野は通信器を切り、会場の外へ出る。

河岸の風が吹いていた。昨日一棟ぶん空いた場所の方から来る風だ。見ないでも分かる。ああいう空白は、街の風向きまで少し変える。

宗一が隣に並ぶ。


「少尉」

「何だ」

「さっきの答え方、悪くなかったです」


紺野は顔をしかめる。


「褒めるな。気持ち悪い」


宗一は少しだけ笑った。


「では訂正します。現場指揮としては、ぎりぎり合格です」


志摩が後ろから割り込む。


「ぎりぎりかよ。オレはわりと痺れたぜ、紺野少尉」


綾瀬が小さく言う。


「兄さん、志摩先輩。ここ外です」


二人が口を閉じる。真名が遅れて出てきて帽子を取り、深く息を吐いた。


「人前って、戦場より疲れる時あるわね」


羽場桐は証拠袋を抱えたまま歩いてくる。疲れている顔だ。だが足取りはまだ崩れていない。


「戻ります。今日の分はまだ終わっていません。会場で出た名前を拾います」


高倉がぼやく。


「昼飯の時間は?」


羽場桐は即答した。


「歩きながらならあります」

「それ昼飯って言わねえんだよな……」


そのやり取りに、ようやく小さな笑いが混じる。

勝ったとは言い難い。根は逃げた。顔も逃げた。だが、明灯会の善性の皮を剥がさずに、内側だけ焦らせることはできた。今日のところはそれで足りる。


足りるうちに、次の手を打つしかない。

帝都の河岸はまだ歪んだまま回っている。


ただ、その歪みの中で、どちらの手が先に人を道具として数えるかだけは、少しずつ見え始めていた。


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