第四十六話 返さない手
第四十六話
46-1 返さない手
河岸の一件のあと、帝都の空気は妙な静けさを覚えた。
治安が回復した静けさではない。人が大きな音を見たあと、自分の生活の音量をどこまで戻していいか測りかねている時の静けさだ。
炊き出しの列は解けた。だが明灯会の名は消えない。むしろ消えない形で残った。善行の評判は残し、物流倉庫一棟が跡形もなく消えた話だけが、尾ひれをつけて広がった。
御親領衛本部の会議室には、珍しく紙より先に人が揃っていた。
羽場桐妙子は壁の地図の前に立ち、帝都の南東区画へ細い木片を二本置いた。赤ではない。黒でもない。目立たない色だ。目立たない印ほど、実務では長生きする。
「河岸を閉じてから、明灯会は“配る場所”を減らしました。代わりに“運ぶ回数”を増やしています」
言って、次の木片を少し内陸へ移す。
「表向きの拠点を畳んだのではありません。見せる拠点を減らして、見せない導線へ比重を移した。焦っているのに、焦っているようには見せないやり方です」
高倉源三が腕を組んだまま唸った。会議室に八百屋がいる光景にも、今さら誰も違和感を覚えない。
「市場の荷の動きも変わってる。売れ筋がズレてんだよ」
高倉は机の上の紙ではなく、自分の記憶を見ながら言う。
「米だの味噌だのは目立つから普通なんだが、明らかに増えたのが、傷薬、熱冷まし、子ども向けの咳止め、それと……柔らけえ物だ。粥に混ぜるやつとか、歯の悪い年寄り向けのやつとか。買ってる面子は散ってるのに、偏りが同じだ」
護国宗一が視線を上げる。
「保護施設、というより避難所の補給ですね」
「そうだ」
高倉が頷く。
「しかも一か所に積んでるんじゃねえ。細かく切って、別々の人間に持たせてる。見つかっても言い訳が立つ量だ。……だが、あれを同じ先に寄せる手がいる」
羽場桐が地図の一点を指先で叩く。
「そこを絞ります。『善意の配送』の建前は崩さない。崩した瞬間、こちらが民心を押し潰した形になるからです」
志摩龍二が椅子の背にもたれたまま鼻を鳴らす。
「相変わらず面倒くせえな。悪党なら悪党の顔してろってんだ」
「顔を作れるから厄芥なんです」
羽場桐は即答した。
「志摩君、あなたの能力で前面を落とせても、評判までは落とせません」
志摩が舌打ちして黙る。反論しないのは、分かっているからだ。
綾瀬は窓際の席で、地図より先に人の顔を見ていた。兄、高倉、志摩、紺野、羽場桐。それぞれが今どこに力を入れているかを測るような目だ。やがて彼女は短く言った。
「表の善性を残したまま内部だけ焦らせるなら、運び手を一人ずつ潰すより“待ち合わせ”を潰す方が早いです。人は代わりが利くけれど、時間と場所の約束は代えづらい」
宗一の口元がわずかに動く。褒める時の、あの小さな動きだ。
「理由を」
綾瀬は兄を見ずに続ける。
「今の明灯会は、追われている側の動き方をしている。追われている側は、遅延に弱い。荷が届かないより、届く時刻が読めない方が内部で揉めます」
羽場桐が頷いた。
「採用します。護国綾瀬さん、導線封鎖の案を作成してください。実地はまだ出しません。机上でいい」
「はい」
紺野は会議のあいだ、ほとんど口を開かなかった。
黙っていたのは不満ではない。河岸で倉庫を消した時の掌のざらつきが、まだ記憶の底に残っていたからだ。話の筋は追えている。だが、何かを掴もうとすると、先に喉の奥がざらつく。
その沈黙を、荒臣が拾った。
会議室の奥の席で、硯荒臣は紙の束ではなく湯呑を持っていた。珍しく書類の山から離れ、冷めかけた茶を一口だけ飲んで、顔をしかめる。
「不味いな」
誰にともなく言ってから、紺野を見る。
「少尉。河岸での手応えはどうだった」
問い方が実務なのに、目だけは妙に人間臭かった。責めるでもない。褒めるでもない。味を確かめるような目だ。
紺野は少し考えて答える。
「……嫌な感じでした」
「結構」
荒臣は湯呑を置いた。
「嫌な感じがするうちは、まだ自分を見失っていない」
羽場桐がすぐに話を戻す。
「閣下、今夜の編成を確認します。現場は四名。紺野少尉、護国宗一少尉、志摩君、護国綾瀬さん。東雲さんは後方支援。高倉さんは市場側の聞き込みを継続、ただし深入りは禁止」
高倉が苦い顔をする。
「毎回そこを強く言うなあ」
「毎回、深く入ろうとするからです」
「妻にも同じこと言われる」
「奥様は正しいです」
「知ってる」
小さな笑いが漏れる。張った空気がわずかに緩んだ。
その隙を切るように、陽鳥の声が通信端末から入る。
『編成に異議なし。あと健ちゃん』
会議室の空気が一瞬だけ止まる。陽鳥は止まった空気ごと笑っている気配で続けた。
『今夜は無理に手で触らないで。剥がせる類でも、剥がした後の反動が読みにくい段階に入ってる』
紺野は眉を寄せる。
「皆の前でその呼び方はやめろ」
『え、今そこ?』
陽鳥は楽しそうに返した。
羽場桐が端末へ向けて淡々と挟む。
「珠洲原主任。私語は後で」
『はーい』
会議はそこで終わった。
終わったというより、現場の時間に押し出された。
46-2
場所は河岸ではなかった。
帝都南東区、古い路面電車の廃線沿いにある資材置場跡。昼は工事業者の倉庫として使われ、夜は半分以上が空いている。鉄柵はあるが破れ、見通しは悪く、荷を受け渡すには都合がいい。人を集めて善行を見せる場所ではない。荷だけを動かす場所だ。
だから、匂いが変わる。
善意の匂いが薄れ、手順の匂いが濃くなる。そこへ来る人間は「助けるため」より「間に合わせるため」に動いている。焦りは足に出る。足に出る焦りは、綾瀬の目に一番先に引っかかった。
「南の破れ目、二人」
綾瀬が低く言う。
「荷は軽い。薬箱じゃない。書類か名簿」
宗一が頷く。
「志摩、前に出るな。紺野少尉は中央のまま。綾瀬は右手の通路を張れ、ただし人の腰より上に置くな。転倒させると面倒が増える」
綾瀬の口調が少しだけ尖る。
「分かっています。私でもそれくらい――」
言いかけて、止めた。
兄の指示が細かいのは信用していないからではない。現場で人を守る段になると、宗一は過剰なほど先に潰しに来る。綾瀬はそれを知っている。知っているから腹が立つ。腹が立つが、従う。
そのやり取りを横目で聞きながら、紺野は資材置場の中央に立っていた。
月明かりが鉄骨に引っかかって細く光る。積み上げられた木枠と、ブルーシートと、使われない台車。どこにでもある景色だ。どこにでもある景色ほど、人間は油断する。
志摩が鼻を利かせるみたいに息を吸った。
「……来るな。今度は“薄める”より、先に“寄せる”感じだ」
宗一が視線だけで問う。
「寄せる?」
「人の注意を一点に集める前振り。真名さんのやつとは違う。雑だけど強引だ」
通信越しに羽場桐が言う。
「前回までの均しとは系統が違う?」
「違うってほどでもねえ。混ぜ方を変えてる。……あいつら、現場ごとに手を替えてる」
羽場桐は一拍置いて答えた。
「なら、こちらが正しいです。固定の能力者一人ではなく、複数の高位が回している可能性が上がる」
紺野が小さく舌を打つ。
明灯会の“善い顔”の内側に、思っていたより厚い手がある。末端の口を塞ぐ手、判断を均す手、注意を寄せる手。どれも低位の寄せ集めでは届かない。
南の破れ目から若い男が二人入ってきた。作業着、帽子、手袋。どこにでもいる運び手の格好だ。だが歩幅が揃いすぎている。
初対面の二人の歩き方ではない。慣れた相棒の歩き方でも、少し違う。外から合わせられた歩幅だ。
綾瀬の糸が、足元ではなく肩の高さに薄く置かれる。
「通路、切れます」
宗一が短く返す。
「まだ」
若い男の一人が立ち止まり、ポケットから紙片を出す。
合図を確認する動きに見える。だが紙片の向きが逆だ。読むためではなく見せるための動きだった。
次の瞬間、置場の北側で金属板が派手に倒れた。
囮だ。音で目を持っていくための、粗い囮。
綺麗ではない。だが充分に効く。
綾瀬の視線が一瞬だけ北へ流れる。宗一は流れない。志摩は舌打ちして前面を落としにかかる。紺野は――南の二人の手元を見た。
紙片ではない。細い板だ。板の縁に、見覚えのあるざらつきがある。人の判断を薄く削る類の、あの前処理の癖。
「宗一」
紺野が呼ぶ。階級ではない。現場の速度で名前を呼ぶ。
「手だ。荷じゃない」
宗一の目が細くなる。
「確保優先、殺すな」
紺野はすでに踏み込んでいた。
若い男の一人が板を割る。割れた瞬間、空気の焦点が資材置場の中央――つまり紺野の立っていた位置へ集まる。人間の目も、判断も、反射も、そこへ一度引っ張られる。
引かれた先に何を置くつもりだったのか、紺野には分かった。
あの男は、ここで「紺野が壊す」絵を作る気だった。
掌が熱くなる。喉の奥が鳴く。
ここで出せば、相手の思う絵になる。
出さなければ、手が逃げる。
嫌な二択だ。
嫌な二択ほど、この連中は用意がいい。
「……面倒くせえ」
紺野は低く吐いた。
刀を抜く。
抜刀は短い。切ったのは人ではない。男の手元の板と、その周囲に張られた薄い前処理だけだ。
一閃で板が割れ、空気の焦点が散る。散った瞬間に志摩の減衰が前面へ入る。綾瀬の糸が遅れて通路を閉じ、二人の逃げ道を肩口の高さで断つ。宗一が最後に間合いへ入って、始まった瞬間に終わる斬撃の概念を、足元の地面へだけ通した。
石畳が浅く裂ける。
人は傷つかない。だが、その裂け目一本で若い男二人の踏み込みは終わる。
宗一が低く告げた。
「動くな。次は足では済みません」
若い男の片方が笑った。
笑う場面ではない。だが笑った。
そして笑いながら、自分の奥歯を噛み砕こうとした。
紺野の手が先に動いた。
喉元ではない。顎でもない。手首だ。手首を掴む。
一瞬だけ、男の顔から“決意”の置き場所が剥がれた。
剥がしたのではない。削ったのでもない。
また、紺野の掌へ嫌なざらつきだけが寄る。
男は目を見開いて、噛むのをやめた。やめたというより、やめさせられた顔だ。
志摩がそれを見て顔をしかめる。
「……やっぱそれ、見てて怖えな」
「見なきゃいい」
紺野が吐き捨てる。
「俺も見たくてやってるわけじゃない」
通信の向こうで、陽鳥が小さく息をついた音がした。
何か言いかけて、言わない。
その沈黙の方が、紺野には気に障った。
捕縛は一分もかからず終わった。
だが、終わった時点で宗一の顔は晴れない。
「囮が粗すぎる」
宗一が言う。
「これで終わりとは思えない」
羽場桐の声が返る。
「同意します。確保した二名の所持品を確認してください。荷ではなく“合図”が本体なら、別導線が動いています」
綾瀬が先にしゃがみ込み、若い男の上着の内ポケットを探る。出てきたのは紙片ではなく、時刻だけを書いた薄い木札が三枚。
場所がない。名前もない。時刻だけ。
綾瀬の目が冷える。
「……待ち合わせを複数に分けています。しかも、場所は現地で切り替える方式」
高倉の声が通信へ割り込んだ。息が少し上がっている。
「中尉、こっち市場側からも一つ来た。今夜、南東だけじゃねえ。西の古い浴場跡でも小口が動いてる」
羽場桐の返答は速かった。
「現場、撤収準備。長居は不要です。今日の収穫は“運び手”ではなく“待ち合わせの作り方”です。追うのは次でいい」
志摩が不満そうに吐く。
「毎回それ言うな。次、次って」
宗一が静かに返した。
「今夜はそれが正解だ。相手は焦っている。焦っている時の手順は、明日の方が崩しやすい」
紺野は黙って捕縛した男の手首から手を離した。
掌のざらつきは、今度はすぐには消えない。
小さな現象を二度三度と呑んだせいか、喉の奥の空腹が妙に行儀よく黙っている。その静けさが、一番気持ち悪かった。
46-3
撤収の帰り、車両は本部へ直行しなかった。
羽場桐の指示で、宗一と綾瀬が護送を担当し、志摩は東雲の待つ別導線へ回され、紺野だけが短い寄り道を命じられた。
理由は聞かなかった。聞かなくても、寄り道の行き先があの通りであることは、車が曲がった角で分かった。
古物屋の並ぶ通りは、夜になると昼より静かだ。
閉まる店が多いからではない。閉め方が静かだからだ。看板を引く音も、戸を落とす音も、どこか控えめで、街の時間を乱さないように閉じていく。
例の店の戸は、まだ半分開いていた。
紺野が入ると、店の奥で女が湯を沸かしていた。給仕服の女――未来が、無言で急須を持ち上げる。黒髪の隙間で、瞳に淡く翠が混じる。灯りのせいだと言い切るには、色が冷たすぎる。
帳場の女は、こちらを見て笑った。
「今日は刀じゃなくて手で来たね」
紺野は眉を寄せる。
「呼ばれた気がしただけだ」
「そういうのを“来た”って言うんだよ」
女は湯呑を一つ押しやり、紺野の前の椅子を顎で示す。
紺野は座らない。立ったまま言う。
「何の用だ」
女は少しだけ肩をすくめた。
「用ってほどでもない。改めて名乗っとこうと思って」
そこでようやく、彼女は帳場から身を起こし、店の薄暗がりの真ん中で、妙に古風な礼をした。
「古際名無子。今さらだけど、そう呼ばれてる」
紺野は数秒黙る。
前も聞いた名だが、本名かどうかは分からない。だが、名乗るべきでない人間が、名乗るべきでないタイミングで名乗った感じだけは分かる。
「……今さらか」
「そう、今だよ。そのうち名前だけで済まなくなるから」
未来が湯を置く。湯気が立つ。湯気の向こうで、古際は笑っていない。
軽い声で喋る女が、軽さをやめた時の顔だった。
「河岸の一件で、向こうは見た。君の手も、近衛の順番も、どこまで崩せるか一通り見た」
古際は指先で湯呑の縁をなぞる。
「次は“見せるための善行”じゃなくなる。もっと露骨になる。人を助ける顔をしたまま、人を減らす手順に入る」
紺野の目が細くなる。
「知ってる口ぶりだな」
「知ってるよ」
古際はあっさり言った。
「でも、教えすぎるのは趣味じゃない。……一つだけ」
店の外を、風が通る。今度は風鈴がちゃんと鳴った。遅れずに鳴った音が、妙に耳に残る。
「君、次に“壊す”時は、壊した後を先に決めな」
古際が言う。
「壊せることは、もう向こうも知った。なら次は、壊した後に君が何を選ぶかを見に来る」
紺野は返さない。
返せないのではない。言葉にすると、喉の奥のざらつきがまた起きるのが分かったからだ。
未来が初めて紺野をまっすぐ見た。
淡い翠の混じる黒い瞳が、感情のない声で言う。
「遅いと間に合わない」
「何がだ」
紺野が問う。
未来は少しだけ首を傾げる。
「全部」
言って、また湯の方へ視線を戻した。
冗談でも脅しでもない声音だった。だからこそ腹が立つ。
紺野は湯呑に触れず、戸口へ向かう。
背中に古際の声が飛ぶ。
「近衛さん」
紺野は振り返らない。
「今度は何だ」
「次に会う時は、もうちょっとちゃんと名前呼ぶよ」
意味の分からないことを言う。
意味の分からないまま、紺野は店を出た。
夜気は冷えていた。
本部へ戻る道すがら、通信器が震える。羽場桐からの短い呼び出しだった。
『紺野少尉、至急戻ってください。確保した運び手の一人が口を割りました』
紺野は歩幅を変えないまま、短く返す。
「何て言った」
通信の向こうで、羽場桐は一拍だけ黙った。
その一拍が、悪い報せの長さを決める。
『……今夜ではありません。明日、帝都北側で“もっと大きい列”を作るそうです』
紺野は足を止めなかった。
止めなかったが、喉の奥で何かが低く鳴いた。
列。
また列だ。
善行の顔をしたまま、人を盾にするやり方が、まだ終わっていない。
むしろ、ここからが本番だと告げるように、帝都の夜は静かだった。静かすぎた。




