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幻想帝都 神州御親領衛記  作者: ニュートリノ鈴木
一章 神州と言う國
43/189

四十一話 封緘の手順


四十一話


41-1 封緘の手順



朝一番の区役所分室は、忙しい時ほど静かになる。


怒鳴る暇がないからだ。机の上に積まれた申請書と照会文と臨時通達が、誰の顔色より先に優先順位を決めていく。夜のうちに一棟が消えたという報せが回っているのに、廊下を走る者が一人もいないのは、その報せが既に「書類に落ちた」後だからだった。


羽場桐妙子中尉は会議机の端に座っていた。

警察の捜査主任、市の衛生課、消防の設備監督、それに薬事監査の担当官。軍の人間は羽場桐一人に見えるが、壁際には高倉源三が腕を組んで立ち、窓際には珠洲原陽鳥が白衣のまま資料を捲っている。場の中心にいるのは羽場桐だが、場を動かしている手は一つではない。


「昨夜の件を受けて、川沿い三区画の施療拠点に対する臨時監査を本日付で実施します」


羽場桐が言う。口調はやわらかいが、言っている内容は一歩も引いていない。


「名目は薬品保管基準違反、申請外搬入、消防設備不備の三点。刑事事件としての立件は警察側の判断にお任せします。こちらはあくまで“止めるための紙”を先に通します」


捜査主任が眉を寄せた。


「中尉殿、刑事で先に踏めた方が早いケースもある」

「承知しています。ただ、今回の相手は表向きの施療を継続しています。被施療者が居る場所を刑事だけで踏むと、こちらの正しさより先に被害の印象が立ちます」


羽場桐はそこで一枚、別の紙を差し出した。


「ですので、先に継続条件を提示します。閉鎖ではなく条件付き継続です。患者名簿、薬剤搬入経路、担当責任者の常駐、外部寄付金の受入口の一本化。守るなら続けて構いません」


衛生課の男が目を上げる。


「つまり……表の善行は潰さないと」

「潰しません。潰す理由がまだないからです」


言い切り方に、部屋の空気が少し締まった。


ここで感情を混ぜると話が濁る。羽場桐は濁らせない。濁らせないまま、相手にだけ濁りを抱えさせる。御親領衛の秩序役とは、こういう仕事だ。

高倉が壁際から口を挟んだ。


「昨日止めた川沿いの荷ね、今朝の市場でもう揉めてますよ。明灯会の名前そのものには文句言えない連中も、荷受けの時間がずれると急に口が回る」


「どういう内容ですか」


「“施療所の荷なのに中身が毎回違う”“受け取り人がころころ変わる”“夜だけ伝票の書き方が雑になる”……そんなとこです。商売人の勘ってのは、数字より先に手つきで気づくんですよ」


捜査主任が高倉を見た。


「あなた、軍属じゃないよな」


高倉は苦い顔で笑う。


「八百屋ですよ。たまに近衛に使われるだけで」

「たまに、の割に詳しいな」

「生活がかかってると、人の嘘のつき方はよく見えるんです」


窓際で資料を見ていた陽鳥が、そこで顔を上げた。


「それ、たぶん今日の夜に切るよ」


全員の視線が集まる。陽鳥は意に介した様子もなく、紙束から一枚を抜く。


「昨夜まで使ってた搬入票と、今朝届けられた是正申請書。筆跡は別人だけど、急いで作った人間の癖が同じ。余白の詰め方が雑になってる。たぶん向こう、内部で誰を残して誰を切るか、もう始めてる」


衛生課の男が訝しげに言う。


「そこまで分かるものですか」


陽鳥は笑った。


「分かる人には分かる、って言い方で許して」


羽場桐がその紙を受け取り、短く頷く。


「なら尚更、今日中です。向こうが自分で証拠を切る前に、こちらが“切らせた痕跡”を押さえる」


会議室の扉が叩かれた。


入ってきたのは、明灯会の表向きの窓口を務める僧衣の男だった。四十代半ば、物腰はやわらかい。困っている人間の前では、この手の顔が一番効く。誰もがそう思う顔だ。

男は一礼し、羽場桐へ向き直る。


「近衛中尉殿。昨夜から突然、施療拠点の運用に支障が出ております。患者も居る。せめて事前に相談を」


羽場桐は席を勧めるでもなく答えた。


「ご相談なら今お受けしています。継続条件も用意しています」

「条件、ですか」

「はい。善行を続けるための条件です」


羽場桐の前に書類が置かれる。男は目を落とし、読み進めるほどに口元の笑みが薄くなった。


「……患者名簿の提出まで必要ですか。信徒の中には、名を伏せて施しを受けたい者もおります」


高倉が即座に言う。


「名を伏せるのは勝手だ。でも薬は腹と違って記録が要る。効いた効かないで人が死ぬんだからな」


僧衣の男が高倉へ視線を向ける。


「あなたは」

「八百屋ですよ。だから分かる。腐る物を扱うのに、出入りを覚えてない顔は信用されない」


男は小さく息を吐いた。言い返さず、羽場桐へ戻る。


「……こちらを呑めば、施療の継続は保証されると」

「保証はしません。条件を満たす限り、止める理由を失うだけです」


返しが硬い。硬いが、それでいい。ここで「守ります」などと言えば、後で誰も守れない。

男は書類を畳み、丁寧に頭を下げた。


「検討します」

「本日中に。夜を越えるとこちらも次の手順に入ります」


僧衣の男が去った後、会議室の空気が少しだけ緩んだ。

だが羽場桐は緩めない。


「高倉さん、市場側へ。今日のうちに“荷受けの顔が変わった”という話を拾ってください」

「はいよ。嫌われ役続行ってわけだ」

「珠洲原主任は?」


陽鳥は白衣の袖を整えながら笑う。


「私は健ちゃんの方に行く。向こう、たぶん今夜で“善い顔”と“悪い手”を分けるから」


羽場桐が一拍だけ視線を止めた。


「……言い方はともかく、同意します。気をつけて」

「そっちもね。帳簿で人を殴る時って、案外近くで刃物が動くから」


陽鳥は軽く手を振って出て行く。

残された羽場桐は、机上の書類をまとめながら小さく息を吐いた。


紙はまだある。手順もまだある。

だが、ここから先は相手も紙だけでは来ない。


41-2


寺の庫裏を改造した施療所は、昼の顔をしていた。


線香の匂いと薬湯の匂いが混ざり、咳をする音と子供の泣き声が交じる。布団が敷かれた一間で年寄りが横になり、隣の土間では若い女が大鍋をかき回している。見れば救われている人間がいる。ここを見た者が明灯会を悪だけで呼べない理由が、場の空気にそのまま出ていた。


紺野健太郎は玄関柱の脇に立ち、出入りを見る。

護国宗一は庫裏の奥で責任者と話し、東雲丈雲は境内側の動線を潰していた。志摩龍二は珍しく表に出ず、裏口の見張りに回っている。目立つ顔は、こういう場では邪魔になる。


陽鳥は施療机の端で、薬包紙の束を指先で揃えていた。手伝っているように見える。実際、手は動いている。けれど紺野には、陽鳥の視線が別のものを数えているのが分かった。


「健ちゃん、顔こわいよ」


陽鳥が振り向かずに言う。

二人きりではない。だからこそ、わざとそう呼ぶ。紺野は眉をひそめた。


「やめろ」

「やめない。ここで“紺野少尉”って顔してると、病人まで緊張する」

「俺は看病に来たんじゃない」

「知ってるよ。だから余計に」


陽鳥はそこで薬包紙を置き、青い瞳だけを紺野に向けた。


「ここ、表の仕事は本当にやってる。だから壊す場所を間違えないで」


紺野は短く答えた。


「分かってる」

「分かってる顔には見えない」

「お前は人の顔ばかり見てるな」


陽鳥が笑った。


「仕事だから」


言葉は軽いが、紺野は返せなかった。

仕事という言葉で片づけるには、陽鳥の視線はいつも少し近すぎる。

庫裏の奥から護国が戻ってくる。


「責任者は協力的です。少なくとも表向きは。ただ、薬の在庫が帳面と合いません」

「どのくらい」

「足りない量より、足りなさ方が不自然です。高価な薬が丸ごと消えているのではなく、安い物が細かく抜けている。誰かが“目立たない不足”を積んでいる」


紺野が低く言う。


「運ぶ側だな」

「同感です」


そこへ、裏口から志摩の声が飛んだ。


「宗一アニキ! 来る!」


声に緊張が混じる。軽口ではない。

護国と紺野が同時に動いた。

裏口の土間では、若い僧が木箱を抱えて立ち尽くしていた。逃げるつもりで来たのか、運ぶつもりで来たのか、本人にも分かっていない顔だ。志摩が路地側を塞ぎ、東雲の影が一体、屋根の上から降りる場所を見ている。


「それは何だ」


紺野が言う。

若い僧は喉を鳴らした。


「薬、です。施療の追加分で……」

「どこの施療所へ」

「それは……今から指示が」

「誰の」


答えが詰まる。

詰まった瞬間、若い僧の右手が木箱ではなく懐へ動いた。


護国が一歩出るより早く、陽鳥が袖口を払った。


黒い虫が飛んだ、とは見えない。


見えたのは、陽鳥の白い指先の周りで空気が一度だけ揺れ、若い僧の肩がびくりと震えたことだけだ。次の瞬間には、懐へ入るはずだった手が止まり、男は自分で何をしようとしたのか忘れたような顔になる。

陽鳥は笑っている。


「ごめん。今の、危なかったでしょ」


若い僧は青ざめた。

護国が懐を探ると、出てきたのは小さな油紙包みと火打石だった。帳面でも武器でもない。紙を焼くための道具だ。

東雲が低く言う。


「証拠を燃やす手だ」


志摩が舌打ちする。


「ほんとに切りに来やがったか」


紺野は木箱を開けた。中身は半分が薬、半分が紙だった。患者名簿ではない。受け渡しの符丁と、短い地名の列。まともな帳簿に見せる気もない走り書き。

護国が若い僧を押さえながら問う。


「誰に言われた」


男は唇を震わせる。


「知らない……顔は、見てない。灯を一つ残せって……残った所だけ回せって……」


二消一灯。

昨夜の合図が、今度は逃がすために使われている。

紺野は紙束を見つめたまま言った。


「表の施療は残す。裏の運び手だけ切るつもりだ」


陽鳥が肩をすくめる。


「うん。たぶん上の判断。きれいだよね。悪い意味で」


護国は若い僧へ視線を落とす。冷たいが、捨てる目ではない。


「あなたをどう使ったか、後で全部聞きます。今は黙っていなさい。黙る相手を間違えるな」


若い僧は泣きそうな顔で頷いた。


紺野はその顔を見て、喉の奥がざらつくのを感じる。

人は救っている。人も使っている。

その両方を同じ手でやる相手は、正義だけでは斬れない。斬れないから、こうして一つずつ剥がすしかない。


境内の方から、年寄りの咳が聞こえた。

昼の顔はまだ続いている。続いている間に、裏口だけを締める。

羽場桐が選んだ戦い方は、こういう手つきだった。


41-3


夜の帝都は、灯りの数で安心しない方がいい。

灯りが多い夜ほど、隠すものも多い。


川沿いから寺町へ抜ける細い坂の途中に、明灯会が使っていた小さな配給小屋が三つ並んでいた。どれも粗末な造りだ。炊き出しの器と薪を置くだけの小屋に見える。実際、昼はその通りだろう。


だが夜は違う。

羽場桐が本部で紙を通し、高倉が市場で荷を痩せさせ、施療所の裏口で若い運び手を押さえた時点で、向こうは「残す灯」を決め直さざるを得なくなった。

だからここに出る。


坂の上の物陰に御親領衛の面々が散っていた。

羽場桐も現場に来ている。外套の襟を立て、手元の懐中時計だけを見ている。彼女が現場に出る時は、秩序が机の上だけでは足りない時だ。


「時刻です」


羽場桐が言う。声は小さいが、全員に届く。


「二つ消えて、一つ残れば当たり。残った灯に集まる人間は、善意の運び手ではなく、切られる側です」


志摩が鼻を鳴らした。


「嫌な役だな。向こうもこっちも」

「嫌な役ほど、先に死にます」


羽場桐の返しに志摩が口をつぐむ。軽口を潰すためではない。事実だからだ。

坂下の小屋の灯りが、ひとつ消えた。

少し遅れて、真ん中が消える。


一番上だけが残る。


誰も動かない。羽場桐が手を上げるまで待つ。

こういう時、御親領衛の愚連隊じみた隊でも、止まれる人間は止まる。止まれないと全員が止まらないからだ。


数息。


上の小屋へ、影が三つ入った。二人は荷を持ち、一人は手ぶら。手ぶらの人間が指示役であることは、歩き方で分かる。急いでいるのに周囲を見ない。見るべき景色は部下が見るからだ。

羽場桐の手が下りた。


「行きます」


東雲の影が先に坂を切る。

護国が右、志摩が左。羽場桐は後ろへ下がらない。陽鳥がその一歩後ろで笑みを消している。紺野は正面から小屋の戸を開けた。


「近衛だ。動くな」


小屋の中は狭い。

薪と鍋の裏に、帳面と木札と布袋が積んである。やはり昼と夜で用途が違う。手ぶらの男が振り返る。三十代、痩せた顔、僧衣の袖をまくっている。寺の人間にも荷役の人間にも見える顔だ。

男は一瞬だけ笑った。


「遅いな。もう切った後だ」


護国が詰める。


「何を切った」

「人を、だよ」


言い終わる前に志摩が舌打ちした。


「こいつ、自分で薄めてる。頭の芯が滑ってる」


陽鳥が小さく言う。


「噛んでるね。外からじゃない、自分で」


つまり自壊の準備だ。追及の前に、自分の言葉の芯を削って使い物にならなくする類の訓練。明灯会の上は、末端だけでなく中間にもそういう手を入れている。

羽場桐が前へ出た。


「あなたを今ここで壊しても、こちらは困ります。ですので、順番を変えます」


男が眉をひそめる。

この場で最も刃になるのが羽場桐の声だと、相手もようやく理解した顔だった。


「坂下二ヶ所は既に市の監査が入っています。施療所裏口でも運搬係を確保済み。あなたが黙っても、今夜中にこの系統は止まります」


羽場桐は男の目をまっすぐ見る。


「それでも黙るなら構いません。ただ、その場合、表の施療拠点まで一律で止めます。あなた方が守りたい顔まで巻き込みます」


男の笑みが消えた。


ここで初めて、感情が出た。怒りではない。躊躇だ。表の善行を盾にして来た側ほど、その盾を捨てる決断には時間がかかる。

高倉の声が戸口から飛ぶ。いつの間にか上がって来ていた。


「兄ちゃん、やめときな。上は逃げるぞ。逃げた後に残るのは、あんたの名前だけだ」


男が高倉を睨む。


「八百屋風情が」

「だから言ってんだよ。毎日売れ残り見てる人間の勘を舐めるな。残される側の顔は、だいたい似る」


小屋の空気が揺れた。

男の指先が袖へ動く。護国が踏み込むより早く、紺野がその手首を掴んだ。

今度は建物を消す必要はない。

出力も要らない。ただ、手首に集まった薄い癖だけを潰す。


男の肩が跳ね、懐の小瓶が床に落ちた。割れない。中身は油ではない。舌を噛ませるための薬だろう。志摩が蹴って遠ざける。

男が紺野を見上げた。

目に浮いたのは恐怖だった。昨夜の浴場跡の噂が、もう届いている顔だ。


「……お前、建物を」


紺野は手を離さない。


「人は殺していない」

「.....だから怖いんだよ」


男の言葉は本音だった。

羽場桐がそこで一歩だけ距離を詰める。


「名前を」


男は唇を噛んだ。血が滲む。だが薬は飲めない。舌も噛めない。準備した逃げ道だけが潰れている。


「……行徳、です」

「所属は」

「明灯会、帝都施療講……運搬と帳付け」


羽場桐の目が細くなる。


「“講”ですか。ようやく組織名が出ましたね」


行徳は俯いたまま吐くように言う。


「講はもう切られた。今夜で灯だけ残すって、上から……俺らみたいなのは捨てるって」


志摩が低く罵る。


「クソだな」


高倉はそれを否定しなかった。

否定しないまま、行徳の前にしゃがむ。


「お前、ここで全部喋れ。せめて自分の手で、自分の名前を残せ」


行徳はしばらく黙っていたが、やがて力の抜けた声で言った。


「……紙と帳面、奥の床下だ。火はまだ入れてない」


東雲の影がすぐに床板を外す。下から出てきたのは帳面三冊、木札の束、符丁の一覧、それに施療拠点の名簿と運搬経路の照合表だった。表と裏を繋ぐ紙だ。これが出れば、明灯会の“表向き善性”そのものは崩れなくても、裏の運搬系統はもう言い逃れできない。

羽場桐が静かに息をつく。


「確保。これで十分です」


護国が行徳を拘束し直し、東雲が帳面を布で包む。志摩は小屋の外を見張ったまま、ぼそりと呟いた。


「二消一灯、逆に使われたな」


羽場桐が答える。


「合図は便利ですが、癖も残ります。便利なものほど辿られる」


陽鳥が小屋の入口で笑った。青い瞳は細く、楽しげに見えて温度がない。


「向こう、今夜は眠れないね。灯を残したつもりで、芯を抜かれた」


紺野は何も言わなかった。

帳面が出た。人も押さえた。線は締まった。任務としては上出来だ。

それでも勝った気がしないのは、昼の施療所で咳をしていた年寄りの声が、まだ耳に残っているからだろう。表を残して裏を切る。正しい。だが正しさの手触りがいつも軽いわけではない。


坂を下りる頃には、残っていた灯も消えていた。

闇になったわけではない。通りの灯りはまだある。寺の灯りも、家々の灯りも、川向こうの倉の灯りも残っている。


消えたのは、明灯会が裏で使っていた一本だけだ。

灯は残る。

だが芯を折られた灯は、次に点ける手を選ぶ。

そして、その“次の手”は、今までの末端よりずっと重い。


御親領衛の面々は誰も口にしなかったが、その気配だけは全員がもう感じていた。


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