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幻想帝都 神州御親領衛記  作者: ニュートリノ鈴木
一章 神州と言う國
42/191

四十話 川沿いの封鎖


四十話


40-1 川沿いの封鎖



帝都の川沿いは、夜になる前ほど忙しい。

荷が集まり、人が集まり、言い訳が集まる。


昼に通った帳面は夕方には別の顔をして、正しい配送は半刻ずれるだけで裏の仕事になる。帝都の裏というのは大抵そういうものだ。暗くなってから始まるのではない。明るいうちから、もう始まっている。


その日、川岸の荷捌き場に立っていたのは羽場桐妙子中尉だった。


軍服の上に外套を羽織り、警察と市の役人に囲まれている。囲まれていると言っても、主導権は彼女の側にある。怒鳴らない。脅さない。紙を置く。押印を求める。必要な条文を読み上げる。相手が反論できる余地を先に潰してから、最後に丁寧に頭を下げる。

それだけで道が一本死ぬ。


「この倉庫列は今夜から一時閉鎖です。理由は火災対策設備の未更新と薬品保管区画の申請不備。営業停止ではありません。是正が済めば再開できます」


倉庫組合の男が顔を強ばらせた。


「中尉殿、こんな時間からですか。明日朝じゃ駄目なんですか」

「明日朝にした場合、今夜の荷が動きます。動いた荷を止める方が被害が大きい」


羽場桐の声は穏やかだった。穏やかなまま、逃げ道を残さない。


「それに、こちらは“あなた方の商売を潰したい”のではなく、“燃えた時に誰が責任を負うか”の確認をしているだけです。組合として受けるなら、今ここで受けてください。個別業者へ回すなら、今夜中に全件通達を」


男は言葉に詰まり、高倉源三へ視線を向けた。助けを求める目だ。

高倉は軍服ではない。くたびれた外套に市場の匂いを付けたまま、書類箱を抱えて立っている。八百屋の親父の顔で、こういう時だけ妙に効く。


「組合長さん。羽場桐中尉が先に来てる時点で、もう止める方が安いですよ」


高倉は肩をすくめて続ける。


「今夜だけ無理に通して、どっかで荷が焼けたら、あんたの帳場に残るのは金じゃなくて恨みです。商売ってのは、客の腹を満たす前に、客の怒りを増やさない方が先でしょう」


組合長は舌打ちしかけて、やめた。高倉の言葉は理屈というより生活の勘だ。こういう勘は、現場にいる人間ほど逆らいにくい。


「……分かった。こっちで回す」


羽場桐はすぐに書類を差し出した。


「助かります。こちらに」


男が印を押す。紙面の上で朱が乾く。

その瞬間、川沿いの一角から荷の流れが消えた。


明灯会の表向きの善性は、まだ崩れていない。

炊き出しも施療も続いている。救われている人間も実際にいる。そこを正面から叩けば、こちらが悪く見える。だから羽場桐は正面から叩かない。脇の呼吸を止める。人も金も物も、善意だけでは流れない。流れには必ず管がある。

その管を、合法の紙で締める。


少し離れた場所で、珠洲原陽鳥が木箱の影にしゃがみ込んでいた。白衣の裾を汚すことを気にする様子もなく、流通票の束をめくっている。

紺野はいない。現場班は別線で動いている。ここは本部側の仕事だ。

陽鳥は紙片を一枚つまみ上げた。


「これ、同じ印刷所ね」

「どれですか」


羽場桐が寄る。陽鳥は指先で紙の端を示した。


「施療札の版下が違うのに裁断の癖が同じ。表の配給は別団体名義でも裏の札は同じ場所で切ってる」


高倉が眉をひそめる。


「見ただけでそこまで分かるもんですか?」


陽鳥は笑った。


「見ただけじゃないよ。触ってる」


その言い方に高倉は苦い顔をした。冗談か本気か分からない時の顔だ。陽鳥はそういう笑い方をする。

羽場桐は紙束を受け取り、短く頷いた。


「川沿いの施療拠点は三つ。うち二つを今夜止めました。残り一つに荷が寄るなら、動線は絞れます」

「寄るね」


陽鳥が立ち上がる。金の髪が川風に揺れる。青い瞳は笑っているのに、見ている場所だけが笑っていない。


「向こうはもう焦ってる。焦ると人は近い手を使うから」


高倉がぼそりと言う。


「近い手ってのは、大抵ろくでもない」

「うん。だから紺野少尉達を先に入れてる」


羽場桐は時計を見た。連絡予定の時刻まで、あと僅か。


「……東雲さんからの報告が来たら、こちらも次の封鎖をかけます。高倉さん、市場側の口利きは引き続きお願いします」


「分かりました。嫌な顔されるのは慣れてます」

「頼りにしています」


高倉は鼻を鳴らした。照れ隠しの短い返事をして、夜の市場側へ歩いていく。

川沿いの灯りはまだ多い。

だが、流れは確実に痩せていた。

明灯会の内部だけが、それに先に気づく夜だった。


40-2


現場は、倉庫ではなかった。

川から二筋入った先の、古い浴場跡だった。


看板は外され、入口は板で塞がれ、表から見れば廃屋にしか見えない。けれど裏口だけが使われている建物には、独特の気配がある。人が使う気配ではない。人を通すためにだけ整えられた気配だ。


紺野健太郎、護国宗一、東雲丈雲、志摩龍二の四人は、裏路地の暗がりで建物を見上げていた。


「風呂屋かよ」


志摩が鼻で笑う。笑いは薄い。いつもの軽さを意図しているのが分かる。


「湯はもう出ねえだろうが、匂いはあるな。薬と……何だこれ」


東雲が答える。


「湿った紙。帳場を移した匂いだ」


護国が視線を建物の窓へ向けたまま言う。


「人の出入りは止まっています。表からの避難誘導が効いたのでしょう。中に残っているなら、運ぶ側か、残す側です」


紺野は黙っていた。

黙って建物を見ているというより、建物の輪郭に貼り付いた薄い揺れを見ていた。明灯会の線に沿って何度か触れたあの感触だ。火の位相とも、志摩の減衰とも違う。人の判断を少しだけずらす薄い膜。

薄いくせに、しぶとい。


「宗一」


紺野が低く呼ぶ。


「はい」

「中に子供の気配は薄い。居ても一人か二人。主は別だ」


護国は一瞬だけ紺野を見て、すぐ建物へ視線を戻した。


「“薄い”という表現で通じるのが、この隊の嫌な所ですね」

「分かるなら十分だ」


志摩が肩を回す。


「で、どう入る。正面からガチャーンってやるか。オレはそれでも構わねえけど、アネゴに帳簿で殺されるだろ」

「今日は殺される方を避けろ」


東雲が静かに言う。


「表の封鎖で相手は急いでいる。急ぐ相手は、見せたいものと隠したいものを同じ場所に置く。まず見る。壊すのは後だ」

「後なら壊していいんだな」


志摩の言い方に、護国が小さく息を吐いた。


「君はそこだけ元気ですね」

「元気じゃねえよ。怖いから喋ってんだ」


志摩はあっさり言った。

その率直さだけは、この少年の強さだと紺野は思う。怖いと言える人間は、怖さの置き場所をまだ失っていない。


裏口は施錠されていたが、東雲の影が一体だけ先に入り、内側の閂を外した。影を使う数を増やさないのは、前回のフィードバックを引きずっているからではない。増やす必要がないと判断したからだ。そこが東雲の上手い所だった。


中は暗い。

浴場の名残はある。脱衣棚、割れた鏡、剥がれた白いタイル。だが中央の広間には机が並び、帳面と薬箱と木札が積まれていた。施療所の顔をした中継所。善意の皮を被った物流の喉元だ。


「……当たりだ」


護国が低く言う。

志摩が鼻をひくつかせる。


「人、いるぞ。二階。あと一階の奥に一人」

「一人は見せ札だな」


紺野が言った時、奥の襖が開いた。

若い男が出てくる。三十前後。法衣とも作業着ともつかない薄茶の上着。顔色は悪いが、目だけが落ち着きすぎている。追い詰められた人間の目ではない。役割だけ持った目だ。


「近衛か」


男は笑いも怯えも見せず言った。


「来ると思っていました。早かったですね」


護国が前へ出る。


「御親領衛です。建物内の人員確認と物資の差押えを行います。抵抗は」


男が軽く手を挙げる。


「しませんよ。私は施療の管理をしているだけだ。病人も子供ももう出しました。残っているのは帳面と、責任だけです」


「責任を置いて逃げるつもりは」

「逃げません」


男の返答は滑らかだった。滑らかすぎた。

紺野は喉の奥にざらつきを感じる。あの滑らかさは、本人の覚悟だけでは出ない。言葉の角が薄く均されている。

志摩が顔をしかめ、小声で呟く。


「.....こいつ、喋り方が気持ち悪ぃ」


男が志摩を見る。


「君も同じ匂いがする」


その瞬間、志摩の笑いが消えた。


「……誰に仕込まれた」


男は答えず、視線を奥の机へ落とした。そこに立ててある小さな行灯が一つだけ点いている。周囲の灯りは落ちているのに、それだけが残っていた。

東雲の声が低くなる。


「下がれ」


遅かった。

男が言う。


「二消一灯」


合図は短い。

けれど合図としては十分だった。

行灯の火が消えなかった。代わりに、床下で何かが開いた音がした。

古い浴場の配管は死んでいるはずだ。死んでいるはずの管を、誰かが別の用途で使っている。

つまりは──


「外へ!」


護国が叫ぶ。叫ぶ声が少し遅れる。薄い膜がもう建物全体へ回り始めていた。

男はその場で膝をついた。抵抗ではない。終えた人間の動きだ。


紺野が男の胸ぐらを掴もうとした瞬間、掌の下で何かが崩れた。骨でも肉でもない。言葉の芯みたいなものが、先に砕ける感触。


「……っ、宗一。そいつ生かして出せ」

「紺野少尉は」

「俺が残る」


護国が言い返す。


「却下です。あなたを残す理由がない」

「ある」


紺野は初めて声を荒げた。


「これが外に漏れたら周りごと呑む」


言葉が落ちる。

東雲と志摩の顔色が変わる。

東雲はすぐに判断した。


「護国、男を持って出る。志摩、お前は出口まで減衰で足場を持たせろ。紺野君は……」


東雲が一拍置き、紺野を見る。


「壊す時は中で止めろ。外へ飛ばすな」


紺野は頷いた。

それしか返せなかった。


40-3


護国が男を担ぎ、志摩と東雲が退いた後、広間は急に静かになった。


静かというより、音の居場所がなくなる。

建物全体が薄い膜に包まれている。床板の軋みも、自分の呼吸も、少し遅れて戻ってくる。判断を鈍らせる場を、今度は建物そのものに仕立ててある。逃げ遅れた人間を動けなくして証拠ごと燃やすための仕掛けだろう。


明灯会の表は施療だ。

だが裏は、ここまで来る。

紺野は広間の中央に立った。


床下から上がってくるのは熱ではない。熱より質の悪いものだ。現象がまとまる前のざらつき。触れた人間の判断を削り、反応を遅らせ、最後に一気に崩すための“場”。


胸の奥が鳴る。

鳴るたびに、喉の奥で空腹が起きる。

喰えば止まる。喰えば終わる。そう囁く声はいつも合理の顔をしているから厄介だ。


「……ここでは、人はいない」


紺野は自分に言う。


「あるのは建物と仕掛けだけだ」


その確認が必要だった。

必要な確認を一つずつ積まないと、どこまで壊していいかの線が消える。


床板が割れた。

割れ目の下で、黒くも白くもない何かが脈打つ。色ではない。見え方の問題だ。目がそれを現象として受け取る前に、別の形に崩れてしまう。


紺野は軍刀を抜いた。

抜いても斬らない。刃はただの目印だ。自分の手がどこから先へ出るかを、身体に思い出させるための細い線。


──建物が息を呑んだ。


そう見えた。

実際には逆だ。息を呑んだのは紺野の方だ。だが主観としては、建物の方が先に黙った。世界の側が一拍退いた。

紺野の左手が、割れ目の上へ伸びる。


触れた。


その瞬間、床下に脈打っていた“場”が、音もなく紺野の掌へ寄った。

吸い込んだと言えば分かりやすいが、実際にはもっと嫌な動きだった。水が排水口へ流れるような素直さがない。嫌がりながら剥がれ、剥がれた端から形を失い、行き場をなくして紺野の手の周りで消えていく。

喉の奥が焼ける。熱ではない。飢えの方だ。


「……っ、くそ」


紺野が歯を食いしばる。

抑える。出力を上げれば一息で終わる。終わるが、終わり方が悪くなる。周囲まで巻く。人が死ぬ。だから抑える。抑えたまま、建物だけを落とす。


床下の柱が一本、音を立てずに消えた。

次に梁。

次に壁。


火災の崩落ではない。爆破でもない。支えを失った建物が崩れる前に、構造そのものが順番に“欠けていく”。


──そして、浴場跡は消えた。


俯瞰する。

三階建て、間口およそ十二間の旧浴場建築は、崩落音をほとんど出さず、半径三十歩の範囲で基礎ごと消失した。周囲の石塀と隣家の外壁は剥離とひび割れに留まり、人員被害はなし。飛散物は少なく、粉塵の立ち上がりも通常の倒壊より著しく低い。


残ったのは浅い窪地と、切り取られたような空間だけだ。

路地の外で志摩が叫ぶ声がした。


「おいっ、マジで一棟いったぞ!」


護国の声が重なる。


「志摩、下がれ。粉を吸うな」


東雲の声はもっと低い。


「……紺野君。返事を」


紺野は窪地の縁に片膝をついていた。

掌が痺れている。喉の奥はまだざらつく。胸の底の空腹は、静かだ。静かすぎて嫌になる類の静けさだった。


「……生きてるな」


声を出すと、自分でも少し安心した。

人は死んでいない。外へ漏れてもいない。建物だけだ。建物と仕掛けだけを消した。そう言い聞かせる。

路地へ出ると、護国がすぐに紺野の手を見た。


「負傷は」

「ない。少し痺れてるだけだ」


志摩が目を丸くしたまま笑う。


「いや、ないって顔じゃねえだろ。今の何だよ。斬ったんじゃねえぞ」


紺野は答えない。答えられないのではない。答えようとすると、さっき掌に寄ってきた感触まで言葉に連れてきそうで嫌だった。

東雲が紺野の肩を軽く叩く。


「今はいい。立てるか」

「立てる」


「なら立て。すぐ羽場桐中尉に上げる。向こうがこの穴をどう書くかで、今夜の残りが決まる」


護国が男の身柄を押さえ直しながら言う。


「中の人員はこの男一名。建物内の施療物資と帳面は一部回収済み。残りは消失。……明灯会側はもう、綺麗な顔だけでは通せません」


志摩が歯を見せる。


「ようやく向こうも焦るな」

「もう焦っている」


紺野が言った。喉がざらつく声だった。


「だからこんな仕掛けを置いた。次はもっと露骨になる」


路地の向こう、川沿いの方角で鐘が鳴った。時刻の鐘か、どこかの寺か、あるいは合図か。帝都では音の意味が一つとは限らない。

東雲が空を見ずに言う。


「ならこちらも次で終わらせる。引き伸ばすほど、人の顔をした盾が増える」


護国が頷く。


「同感です」


志摩は紺野の横顔を覗き込んだ。


「おい。立てるって言ったけど、ほんとに平気か」


紺野は少し間を置いてから答えた。


「平気じゃない。だが歩ける」


志摩は一瞬だけ黙り、それから妙に真面目な顔で言う。


「.....じゃあ十分だ。今の御親領衛はそれで回る」


軽口ではない。慰めでもない。

事実だけを置く言い方だった。

紺野は短く息を吐き、路地を歩き出した。


後ろに残った窪地は、灯りの届き方まで変えていた。建物一棟が消えるというのは、街の影の形が変わるということだ。

人は死んでいない。

それでも、見た者の記憶には残る。


近衛御親領衛三席、紺野健太郎。


あの男は、触れた建物を消した。

そういう噂は、明日にはもう走る。

そして噂は、敵にも届く。届けば相手はやり方を変える。

変わる前に締める。

そのための夜が、まだ残っていた。


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