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幻想帝都 神州御親領衛記  作者: ニュートリノ鈴木
一章 神州と言う國
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三十九話 景道院の昼


三十九話


39-1 景道院の昼



護国綾瀬は、昼休みの鐘が鳴っても席を立たなかった。


国立景道院の教室は、騒がしい日ほど人の序列が見えやすい。声の大きい者、顔の広い者、家の名で群れを作る者。そういうものが昼休みにはよく動く。だが綾瀬の机の周りだけは最初から空いている。空いているというより、最初から距離が決まっている。


理由は単純だ。強すぎるからである。

同学年の訓練記録で綾瀬に並ぶ者はおらず、模擬戦で一度でも射程に入った者は、見えない斬撃がどこに置かれていたか理解できないまま負ける。負けた側からすれば理不尽だろう。だが理不尽さはこの国では欠陥ではない。高位の神術師とは、そういうものだからだ。


綾瀬は教本を閉じ、窓の外を見た。

校庭の向こう、訓練棟の壁際で数人がひそひそと話している。視線は何度かこちらに来て、来るたびに逸れる。自分の話だろうと思ったが、今日は違った。


「……倉庫街の、あれ」

「一棟まるごとって本当?」

「近衛が来たって」

「御親領衛だろ。三席が――」


そこで声が落ちる。落ちるが、綾瀬の耳には届く。

教室の戸口が開いた。担任の教官ではない。校務の下士官でもない。近衛の黒い軍装が二つ、廊下の光を切って入ってくる。


護国宗一と紺野健太郎だった。

教室の空気が目に見えて固まった。宗一だけなら「護国先輩の兄」で済む。紺野が隣に立つと話が変わる。近衛、それも御親領衛の実働隊長格が学校の教室に顔を出すというだけで、昼休みの雑音は一段下がる。

宗一が教官へ向ける顔で言う。


「授業中ではなくて助かりました。護国綾瀬さん、少し借ります」


綾瀬は立ち上がった。


「兄さん、何かありましたか」


兄と呼んだ瞬間、教室の何人かが目を丸くする。綾瀬は気にしない。ここで隠す意味がない。

宗一は教室の空気を一度見てから答えた。


「校内で話す内容ではありません。歩きながらにしましょう」


紺野がそこで口を挟んだ。


「心配する類の呼び出しじゃない。むしろ逆だ。お前の学校の方が少し面倒を起こした」


綾瀬の眉がわずかに動く。


「私の学校が?」

「訓練棟の外周に、申請外の補助術式が残ってる。古い罠の癖だ。生徒が触る前に見ておきたいそうだ。学校側が近衛に泣きついた」


紺野の言い方は相変わらず無愛想だが、説明は前より長い。必要なことだけ言って切る癖は変わらないが。それでも綾瀬には分かった。これは監督でも事情聴取でもない。呼ばれた理由がある。

教室を出る前、背後から声が飛んだ。


「護国さん、その、倉庫街の件って……」


綾瀬は振り返らない。代わりに紺野が半歩だけ足を止めた。


「噂で腹を膨らませるな。授業で習う方を先に覚えろ」


強い言い方だった。だが怒鳴りではない。 教室の空気がそれで少しだけ元に戻る。

廊下へ出ると、綾瀬は小さく言った。


「今の、優しいですね」


紺野は嫌そうな顔をした。


「優しくない。面倒を増やしたくないだけだ」


宗一が横で息を吐く。笑ってはいないが、少しだけ肩の力が抜けている。 兄妹の前に立つ男の輪郭が、最近少し変わったと宗一は思った。変わったから安心、という話ではない。むしろ逆だ。変化は大抵、次の厄介事を連れてくる。


39-2


問題の場所は、訓練棟裏手の資材置き場脇だった。

一見すれば何もない。壁、排水溝、器材の木箱、踏み固められた土。学校側の教官が二人、少し離れて待っている。どちらも神術師ではあるが位階は高くない。近寄らない距離の取り方が実に正しい。

教官の一人が頭を下げた。


「近衛の方に来ていただくつもりは無かったのですが……朝、点検で補助結界の波形が乱れまして。触ると切れるかもしれないと」


綾瀬が壁際を見たまま言う。


「切れます。しかも一つじゃない」


教官の顔色が変わる。


「見えるのか」

「見えません。置き方が分かるだけです」


綾瀬はしゃがみ込み、土の表面を指先でなぞった。触れていない。触れずに線を読む。あり得た未来の軌道から斬撃の概念を引く者は、逆に置かれた線の癖にも敏い。


「雑です」


綾瀬が言った。


「悪意は薄い。でも学校の補助術式じゃない。

真似事です。多分、上級生か外部の見学者が面白半分に置いた」


教官が眉をひそめる。


「解除できますか」

「できます。ただし今ここで“消す”と、仕掛けた本人は気づきません。もう一度やります」


宗一が綾瀬を見る。


「お前ならどうする」


綾瀬は立ち上がって兄を見る。その目は真っ直ぐだが、少しだけ棘がある。試されるのが嫌いなのだ。


「二本だけ残します。位置をずらして、入口側へ寄せる。次に同じ手で触りに来た人間だけ、軽く切る。怪我は浅く。驚かせるだけ」


教官が慌てて口を開く。


「校内で負傷者を出すのは――」


紺野が先に言った。


「浅い傷で済むなら、その方が安い」


教官が黙る。言葉の意味が冷たいのは分かる。だが現場を預かる側の顔でもあった。

宗一は綾瀬へ頷く。


「いい。だが条件を足す。切る前に印を残せ。学校側が“事故”で流せないように」


綾瀬の口元が少しだけ上がる。 「了解しました」


ここで見えるのは兄妹の仲の良さではない。役割の噛み合いだ。綾瀬は斬る位置を知っている。宗一はその後の責任の置き場所を知っている。

綾瀬は壁から三歩離れ、息を整えた。


「下がってください。射程に入ります」


教官二人が慌てて距離を取る。紺野と宗一は動かない。綾瀬は一瞬だけ紺野を見た。


「紺野少尉は、そこですか」

「当たるか」

「当てません」


短いやり取りだが、教官二人はそれだけで息を詰めた。自信と無謀の境界が、この部隊では時々入れ替わる。


綾瀬が指を立てる。 ──瞬間、壁際の空気が鳴った。


音は小さい。糸が張る音に近い。だが目には何も見えない。 綾瀬の射程内に「あり得た複数の軌道」が薄く重なり、壁際の死角へ斬撃概念の線が固定された状態だ。発動は一瞬ではない。置かれたまま残る。だから罠になる。


碗獄断糸。


綾瀬は壁際へ一歩近づき、今度は置かれていた他人の線へ触れた。触れたというより、こちらの線を噛ませた。 鈍い音が二度。土の表面が浅く裂ける。木箱の角が削げる。


「これで三本潰しました。残り二本は位置を変えたので、次に来る人間は入り口で手を切ります」


宗一が問う。


「深さは」

「皮膚まで。骨には届きません」


教官の一人がまだ青い顔のまま言う。


「……君はいつも、こういうものが見えているのか」


綾瀬は答えなかった。代わりに紺野が口を開いた。


「見えてる奴は大抵、そういう顔で生きてない」


綾瀬が初めて少しだけ笑った。棘の抜けない、しかし機嫌は悪くない笑い方だった。


作業が終わり、教官たちが現場の囲い方を相談し始めた頃、紺野は訓練棟の壁に背を預けて空を見た。昼の光は明るい。明るいまま、胸の奥がざらつく。

綾瀬が横へ来る。


「さっきの教室の噂、やっぱり本当ですか」

「何の噂だ」

「建物一棟、跡形もなく消えたって話です」

「.....」


紺野は少し黙った。 否定はしない。肯定もしない。綾瀬はその間を見て、余計なことは聞かなかった。聞かない判断ができるのは、強さとは別の訓練の成果だろう。


「……綾瀬」


紺野が言う。


「お前の線は便利だ。便利だから、使い方を間違えると周りが黙る」


綾瀬が眉を寄せる。


「脅しですか」

「忠告だ。黙る相手は従ってるんじゃない。諦めてるだけの時がある」


綾瀬はすぐに返さなかった。 視線だけが少し遠くへ行く。教室で自分を避ける同級生の顔でも思い出したのかもしれない。

宗一が戻ってきて会話を切った。


「終わった。学校側の処理は任せていいそうだ。帰るぞ」


帰り際、教官の一人が綾瀬へ深く頭を下げた。綾瀬は受けるでも返すでもなく、一礼だけして歩き出した。こういう場面で愛想を作れないのが綾瀬の欠点であり、今のところはそれで困らない程度に強いのが、さらにややこしい。


39-3


御親領衛本部の食堂は、時間を外すと急に狭く見える。


夕方前の中途半端な時間、隊員は散っていた。樋道と真名の声が奥で少し響き、三つ子の誰かが笑っている。高倉は厨房の端で何かの値段を献立係と揉めていた。八百屋の習性が軍の食堂でも抜けないらしい。


紺野と宗一と綾瀬は、壁際の長机に並んで座った。珍しい並びだった。さらに珍しいことに、先に喋ったのは綾瀬だった。


「兄さん、さっき止めましたね」


宗一が湯呑みを置く。 「何をだ」


「訓練棟で。私が教官に言い返しかけた時」

「止めたというより、お前が飲み込んだ」


綾瀬は不満そうに口を閉じる。閉じるが、そこで終わらせない。


「……飲み込んだのは、紺野少尉が居たからです」


紺野が顔を上げる。


「俺が?」

「はい。あの人たち、兄さんの言葉は『近衛の常識人の説明』として聞くでしょうけど、あなたが横にいると、話の重さが変わる。そこで私まで尖ると、全部“脅し”に見える」


宗一がわずかに目を見開いた。綾瀬がそこまで言語化して話すのは珍しい。 紺野は少し考えてから言う。


「そこまで考えられるなら、上出来だ」


そこへ、盆を持った志摩が勝手に割り込んできた。


「何だよ何だよ、珍しく兄妹で反省会か。混ぜろよアニキ」


宗一が眉を下げる。


「志摩、席は空いてるが、今の会話に混ざる気か」

「.....いや無理だな。難しすぎる」


志摩は即答して隣へ座った。


「でも聞いていいか?今日学校の外、妙にピリついてた。何かやったろ」


綾瀬が先に返す。


「やったのは“片付け”です。あなたの減衰みたいに街の空気を汚してません」


志摩が笑う。


「言うじゃねえか」


言い合いが始まりかけたところで、食堂の入口から羽場桐が入ってきた。帳簿を抱えていない。代わりに湯気の立つ茶を二つ持っている。珍しい光景に、食堂のざわめきが少しだけ弱くなる。

羽場桐は紺野の前に一つ置き、もう一つを綾瀬の前へ置いた。


「今日は景道院の対応ご苦労様でした。報告はあとで。先に飲んでください」


綾瀬が目を瞬く。


「……私にもですか」

「現場に出た隊員ですから」


短い返事だったが、綾瀬は湯呑みを両手で持った。熱いのか、少しだけ肩の力が抜ける。

羽場桐はそのまま去ろうとして、ふと志摩を見た。


「志摩君、煙草は返しません」

「まだ言ってねえのに!」


食堂のあちこちで笑いが起きた。小さい笑いだが、乾いていない。 こういう笑い方ができる日は、まだましだ。


紺野は湯呑みを口に運んだ。熱い。熱いだけで、胸の奥のざらつきが少し沈む。 窓の外は暮れかけていた。帝都は今日も騒がしいだろう。どこかでまた誰かが追われ、誰かが見逃され、誰かが帳簿に載る。


それでも今この机には、湯気がある。兄妹の言い合いがある。志摩の軽口がある。 その程度のものが、案外人間を繋いでしまう。

紺野は湯呑みを置いて言った。


「綾瀬」

「はい」

「訓練棟の線、良かったぞ。次は最初から『残す二本』まで口に出せ。相手の前でな。お前が何を守って何を切るか、先に言った方が得だ」


綾瀬は一瞬だけ黙ったあと、静かに頷いた。


「……承知しました。次はそうします」


宗一が何も言わず茶を飲む。黙っているが、横顔は少しだけ穏やかだった。 志摩は空気を読まずに口を挟む。


「オレにもなんか褒めろよ」


紺野は即答した。


「赤点を消してから来い」


志摩が大袈裟に机へ突っ伏す。綾瀬が小さく笑った。今度は棘のない笑いだった。


夕方の食堂に、ささやかな熱が残る。 大局から見れば何の価値もない時間だろう。だが、価値のない時間を持てるうちは、まだ壊れ切っていない。御親領衛という部隊は、そういうところで辛うじて形を保っている。誰も口には出さないが、皆どこかでそれを知っていた。


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