三十八話 欠損
三十八話
38-1 欠損
倉庫街の外れには、まだ規制線が残っていた。
焼け跡ではない。爆心地でもない。瓦礫の山ですらない。そこにあったはずの建物一棟が、まるで最初から建っていなかったみたいに、地面ごとごっそり欠けている。周囲の壁面だけが不自然に残っているせいで、余計に目が悪い。
消防の人間が低い声で言った。
「……火じゃないんだよな、これ」
「爆薬でもありません」
護国宗一が答える。
「少なくとも我々の知る爆薬の壊れ方ではない」
言い方は静かだが、否定の角度が硬い。現場の人間に余計な想像をさせないための声だ。
紺野は規制線の内側で黙っていた。軍刀は収めたまま、靴の先で欠け際の土を軽く押す。土は崩れる。普通に崩れる。普通に崩れるのに、その普通へ至るまでの過程だけが抜け落ちている。
東雲丈雲が少し離れた位置から言う。
「ここまで綺麗に“消える”と、逆に痕が読みにくいですね」
「消えてはいない」
紺野が返す。
「壊れている」
東雲はすぐ否定しない。否定せず、少し笑った。
「そういうことにしておきましょう。現場記録の文面としても、その方が助かる」
護国が紺野を見る。
「少尉、体調は」
「平気だ」
「顔色は平気と言っていませんが」
紺野は答えず、欠けた地面を見たまま言った。
「人は死んでない」
「そこは評価しています」
護国の返しは早い。
「評価はしていますが、次も同じ規模で出るなら編成を変えます」
紺野がようやく視線を上げる。 護国の目は責めていない。責めるかわりに、手順を前に出している。そういう男だ。だから助かる時がある。
規制線の向こうで警察官がざわついた。誰かが来たらしい。振り向くと、羽場桐妙子が書類挟みを持ったまま歩いてきていた。軍令部の中の顔ではなく、現場で必要なだけ固くした顔だ。隣には区役所の防災課らしい男が一人、青い顔でついてきている。
「状況確認は以上で結構です」
羽場桐が言う。
「この場は警察と消防に返します。近衛は記録を提出して一度引きます」
消防の男が思わず口を挟んだ。
「いや、引くって言われてもね……これ、どう説明すりゃ」
羽場桐はそちらを見た。
「説明しなくていい部分まで説明しようとしないでください。説明が必要なのは再発防止の導線です。現象の名前ではありません」
男は黙った。納得した顔ではないが、言い返す余地もない顔だった。
羽場桐は紺野の手元を一瞬だけ見た。傷の有無ではなく、握り方を見たのだと分かる視線だった。
「紺野少尉」
「はい」
「この後本部に戻ってください。寄り道は無しです」
「……監視か」
「体調管理です」
言い方は丁寧だが、命令である。
そのやり取りを聞いていた東雲が、欠けた地面をもう一度見て、小さく息を吐いた。
「これで向こうは急ぎますね」
「急がせます」
羽場桐が即答した。
「善意の顔を維持したまま資材を回すには、今の穴は大きすぎる。急げば雑になる。雑になれば拾えます」
護国が頷く。
「釣り上げる段ですか」
「ええ。ここからは紙と生活で締めます」
紺野はその言い方を聞きながら、喉の奥を一度だけ飲み込んだ。欠けた建物を見た後に「紙と生活」と言われると、同じ戦場の話に聞こえない。だがこの部隊では、たぶんそれで合っている。
38-2
本部に戻った時、羽場桐はもう席にいなかった。
代わりに珠洲原陽鳥が、会議室の端で湯気の立たない茶を弄んでいた。白衣の袖をまくり、机の上には封筒やら布片やら、現場から上がってきた細かい物が散っている。
彼女は紺野を見るなり、いつもの笑い方をした。
「おかえり、健ちゃん。顔が悪い」
「最初からだろ」
「違うわ今日はいつもより」
その場には東雲も高倉源三もいた。二人きりではないから、紺野はそれ以上返さない。陽鳥も追わず、指先で布片をつまんで光に透かす。
高倉が椅子に浅く座ったまま言う。
「市場の方、もう揺れてるよ。炊き出しに回ってた乾物の手配が急に詰まり始めた。表向きは“検品強化”だとさ」
「こちらが流した文面です」
羽場桐の声が扉の方からした。
戻ってきたらしい。書類挟みの束が一つ増えている。疲れているはずだが、歩幅が乱れていない。
「医薬品は衛生管理の再確認」
「燃料は保管基準の一斉点検」
「炊き出し用の大型鍋と簡易コンロは防火査察」
羽場桐は机に紙を並べながら続けた。
「いずれも違法ではありません。止めてもいません。順番に確認しているだけです」 高倉が苦い顔で笑う。
「商売人からすりゃ、その“だけ”が一番効くんだよな」
「分かっています。だから高倉さんにお願いしています」
「分かってるって顔じゃないな、中尉」
「分かっているからこの顔なんです」
東雲が横から口を入れた。
「表を崩さず中だけ詰まらせる。器用なやり方です」
「器用でないと、向こうの“善い顔”だけが残りますから」
羽場桐が言う。
「善性を掲げている組織を正面から潰せば、残るのは反発です。欲しいのは反発ではなく、焦りです」
陽鳥がそこで小さく笑った。
「焦ると人は近道する」
「ええ」
羽場桐は頷く。
「近道した記録は残ります」
紺野は椅子の背に手を掛けたまま、会話を聞いていた。話している内容は理解できる。だが、理解できることと得意であることは違う。羽場桐と高倉のやり取りは、刃物の振り方ではなく、通りの流れを読んで相手の足だけ止める類の技だ。
高倉が仕入れ帳ではなく紙袋を机へ置いた。中から小さな木札がいくつか出る。市場の荷受け札だ。
「これ、今朝から増えたやつ。寺の炊き出しに入る予定だった荷の付け替え札だ。運び先が二度変わってる
羽場桐がすぐ拾う。
「二度?」
「最初は南の施療院、次が川沿いの倉、最後が……」
高倉は木札を一枚裏返した。
「旧水門の資材置き場。今は使ってないはずの場所だ」
護国が資料を覗き込む。
「明灯会の名義は?」
「出ていません」
羽場桐が答える。
「出す段階を越えました。これはもう内部の付け替えです。表の看板を通さない動き方になっている」
陽鳥が布片を机に戻し、青い目を細めた。
「じゃあ、いよいよ息が上がってきたね」
「はい。ですので、ここからは現場です」
羽場桐は視線を紺野へ向けた。
「紺野少尉」
「行けばいいんだろう」
「ええ。ただし今回は“壊す”より先に押さえてください」
「難しい注文だな」
「難しいから、あなたに言っています」
少し間があって、陽鳥が口を挟んだ。
「健ちゃん
紺野がそちらを見る。
「手、出して」
紺野は眉をひそめたが、出した。陽鳥は掌をじっと見て、指先で触れはしないまま、すぐに引っ込める。
「……まだ残ってる」
「何が」
「嫌な感じ。喉の奥に甘い金属みたいなやつ」
東雲が視線を上げる。 高倉は黙ったまま、陽鳥の顔だけ見た。
陽鳥はいつもの笑みを崩さず言う。
「次、無理して深く噛むと、帰ってから中尉に本気で怒られるよ」
羽場桐が紙から目を離さずに言った。
「帰ってからで済めばいいですね」
軽口に聞こえる。聞こえるが、誰も笑わなかった。
38-3
旧水門の資材置き場は、使われなくなって久しいくせに鍵だけは新しかった。
川沿いの湿った風が吹く。人の気配は薄い。薄いが、無人ではない。灯りを落とした建物ほど、人を隠すには都合がいい。
編成は四名だった。紺野、護国、綾瀬、東雲。
高倉は市場側の確認に回り、羽場桐は警察との連絡線を握る。陽鳥は本部で拾い上げた物の照合と、必要になった時だけ呼ぶ位置にいる。前へ出しすぎない。出さない方がいい場面だと、全員が分かっていた。
綾瀬が低く言う。
「入口は三つ。表、側面、搬入口。裏の窓は古いですが使えます」
「罠は」
護国が訊く。
「まだです。張りますか?」
「張ってくれ。ただし退路は一本残す」
綾瀬が一瞬だけ宗一を見る。
「逃がすんですか」
「逃がすのではなく、選ばせるんです」
護国の声は変わらない。
「全部塞ぐと、最悪ここで死ぬ方を選ぶ人間が出ます」
綾瀬は小さく息を吐き、壁際へ移動した。指先がほとんど見えない角度で動く。何もない空間へ、何もないはずの線が置かれていく。
碗獄断糸。
見えない鳴子、見えない刃、見えない未来の残滓。知らない者はただの空間だと思って踏み込む。知っている者ほど嫌がる能力だ。
東雲が影を一体だけ出した。 影は足音を消して裏手へ回る。
護国が紺野へ言う。
「少尉、先行は私が」
「いや」
紺野は首を振った。
「今回は俺が前でいい。向こうはたぶん、俺を見たがってる」
「それは餌になるという意味ですか?」
「ああ」
短い返事のあと、紺野は付け足した。
「……でも、俺が居ると向こうは急ぐ。急いだ方が綺麗に捕まる」
護国は数秒だけ黙った。反対する顔をして、それを飲み込む顔だった。
「では、私が後ろで切ります。だから勝ちに行かないでください」
「分かってる」
「今の言い方は分かっていませんね」
綾瀬が横から刺す。
「兄さん、言い方が甘いです」
護国が少し困った顔をした。紺野はそのやり取りにほんの少しだけ口元を緩める。こういう時、綾瀬は兄より容赦がない。
合図とともに入った。
中には人がいた。武装している。だが軍人ではない。荷役に偽装した男が三人、帳場に一人、奥にもう二人。炊き出し用の鍋、乾物、薬箱、毛布。見える物だけ見れば善行の倉だ。
帳場の男が先に口を開いた。
「近衛か。何の権限で――」
「その台詞を用意してる時点で、権限の話じゃないだろう」
紺野が遮る。
男の顔が引きつる。羽場桐に散々周辺を詰められた後の顔だった。善性の看板を使えない場所へ追い込まれた人間の顔とも言う。
「荷は困窮者向けだ。差し押さえるなら責任を取れるのか」
「あいにくだが、差し押さえには来てない」
護国が前に出て言う。
「確認だ。運び先、出し元、名義、責任者。順番に聞く」
男は笑おうとして失敗した。
「順番? 今さら?」
「今さらです」
護国の声は静かだ。
「今まで通ったから、今も通ると思わない方がいい」
奥で一人が動いた。横の搬入口から抜けようとしたらしい。
綾瀬が振り向きもせず言う。
「踏まないでください」
遅かった。
男の袖と床板の間で何かが走った。
目には見えない。見えないが、結果だけが出る。袖口が裂け、床板の表面が細く削げる。男は悲鳴を飲み込んで尻もちをついた。致命傷ではない。警告としては過剰なくらい正確だった。
「次動けば足首に掛けます」
綾瀬が言う。
「だから、座っていてください」
帳場の男の顔色が変わる。見えない刃は、見える刃より遥かに効く。
その時、奥の壁際で小さな揺れが起きた。東雲の影が合図を返す。隠し扉か、逃がし口か。どちらにせよ本命はそちらだ。
紺野が踏み込んだ。
壁の一部が内側から閉じる。木でも鉄でもない、何か現象寄りの“閉じ方”だった。綾瀬の糸を避けるために用意された抜け道だと分かる。用意した相手は、かなりこちらを見ている。
「紺野少尉!」
護国の声が飛ぶ。
紺野は刀に手をかけた。抜けば切れる。切って済むなら楽だ。だが今欲しいのは中だ。中にいる人間と、持っている物だ。
喉の奥がざらつく。
嫌な感覚だった。空腹というより、引きずられる感じに近い。目の前の“閉じたもの”が、壊せる形でそこにある。それを見た時の、あの嫌な近さ。
紺野は左手を壁へ当てた。
「……開け」
誰に言ったのでもない。自分の手に言った。
──壁の一角が消えた。
消えたように見えた、と言った方がまだ正確かもしれない。木片が飛んだわけでもない。粉塵が派手に上がったわけでもない。壁の厚みごと、そこだけがごっそり欠けて、向こう側の狭い通路が露出する。
建物一棟を呑んだ時よりは遥かに小さい。小さいが、見た者の顔色を変えるには十分だった。
通路の奥で、布を巻いた男が凍りついていた。胸に抱えているのは帳面と印章箱だ。善意の倉に似合わない物だけを持っている。
護国がすぐ入る。
「動くな」
男は反射で逃げようとしたが、綾瀬の糸が先だった。足元の木箱の取っ手だけが細く切れて崩れ、男は体勢を失う。護国がその腕を取って床へ押し付ける。手際が速い。速いが折らない。必要な力で止める。
帳面が落ちた。
紺野はそれを見て、ようやく壁から手を離した。掌の奥がまた少し静かになる。静かになるたびに、嫌になる。
帳場の男が青い顔で言う。
「……お前ら、何なんだ」
高倉ではない、護国でもない、羽場桐でもない、綾瀬でも東雲でもない。目の前の欠けた壁と紺野の手を見て出る声だった。
紺野は少しだけ考えた。考えてから答える。
「近衛だよ」
雑な答えだった。だが、この場ではそれで足りた。
外へ出る頃には、警察が来ていた。羽場桐の手配だろう。表に出せる荷は表の手順で押さえる。中で掴んだ帳面と印章箱は近衛で持ち帰る。善い顔をしたまま回っていた組織の内側に、ようやく手が届く形が揃った。
帰り際、東雲が紺野の横へ並んだ。
「今日は浅く済みましたね」
「済ませた」
「ええ。そこは、ちゃんと見ていました」
紺野は返事をしなかった。
倉の入口で綾瀬が宗一に何か報告している。志摩や樋道の騒がしさがない現場は静かだ。その静けさの中で、川の音だけが遅れて聞こえる。
明灯会の表向きの善性は、まだ残るだろう。すぐには剥がれない。剥がす必要もない。
だが内側はもう、前と同じ手順では回らない。
それだけで十分だった。今はまだ。




