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幻想帝都 神州御親領衛記  作者: ニュートリノ鈴木
一章 神州と言う國
39/193

三十七話 灯りの癖


三十七話


37-1 灯りの癖



区の土木詰所は、役所の建物にしては珍しく油と鉄の匂いがした。


帳簿を積む部屋ではなく、街灯の交換部品や工具が壁に掛かっている。机の上にあるのも決裁書の山ではなく、区画図と巡回札、それに今夜使う交換用の灯具だ。


羽場桐妙子がこの場所を選んだのは、明灯会を「書類で追う」ためではない。街の動きを、街の道具に紛れ込ませるためだった。


「二消一灯の癖は、向こうの合図だけじゃありません」


羽場桐は区画図の上に細い木札を置いた。


「“安全だと思い込んだ灯り”に人が寄る。合図は文字より先に身体に入るものです」


向かいで高倉源三が腕を組む。八百屋の前掛けは外しているが、袖口にはまだ野菜の青い匂いが残っていた。


「理屈は分かる。で、今夜はその“身体の癖”を逆に噛ませるってわけだな」

「はい。消防と土木の点検線をずらして、こちらが作った灯りの並びを“いつもの合図”に見せます」


区の土木主任が不安そうに口を挟む。


「そんなことで動きますかね。相手も馬鹿じゃないでしょう」


高倉が先に答えた。


「腹が減ってる時の人間は、賢いふりの方から先に噛みますよ」


主任は困った顔をしたが、否定はしなかった。高倉の言い方は乱暴でも、現場の匂いがある。


部屋の隅では珠洲原陽鳥が、街灯の蓋に使う留め金を指先で転がしていた。工具箱から拾ってきたような小さな部品だ。彼女はそれを光にかざし、笑いもせずに言う。


「この金具、昨日交換されたやつだけ煤の付き方が違う」


羽場桐が顔を上げる。


「どこで回収した物ですか」


「明灯会の炊き出し小屋の裏路地。灯具そのものじゃなくて、誰かが触った跡の方ね。油の種類も違う。区の支給品じゃない」


高倉が眉を寄せた。


「灯りを自前でいじってるのか」

「たぶんね。表では善い顔をして、裏では路地ごとに灯りの癖を作ってる。人を誘導するなら、足元の明るさがいちばん効くから」


陽鳥は金具を工具箱へ戻す。その仕草は軽いのに、見ていると妙に目が離れない。指先に何か小さな影がまとわりついた気がしたが、次の瞬間には消えていた。


詰所の蛍光灯がちらついたせいだと片付けられる程度の違和感だけが残る。

羽場桐は区画図に新しい線を引いた。


「今夜は診療所裏路地、共同井戸脇、旧乾物問屋の搬入口。この三か所を先に“安全”に見せます。巡回員は制服なし。警察は見せない。消防だけ見せる」

「なんで消防だけなんだ」


高倉が問う。


「火は誰でも怖いからです。怖いものに対処している人間が居ると、人は安心して別の警戒を落とす」


羽場桐はそこで一度言葉を切り、全員を見た。


「変わらず向こうの表向きの善性は崩しません。炊き出しも診療も止めない。止めるのは裏の受け渡しと連絡だけです」


高倉が小さく息を吐いた。


「それなら市場の連中も黙る」

「だから高倉さんに来ていただきました」


羽場桐は丁寧に言う。高倉は照れた顔をせず、嫌そうな顔だけした。


「給金の範囲でな」


部屋の戸が開く。紺野健太郎、護国宗一、志摩龍二、護国綾瀬が入ってきた。現場側の顔だ。空気が少しだけ硬くなる。


羽場桐は説明を短くしなかった。こういう時に短くしすぎると、現場は手順ではなく勘で動く。勘が悪いわけではない。ただ今夜は、勘より先に“見せたい形”がある。


「灯りを追ってください。ただし捕まえる優先順位は低い。今夜は、誰がどこへ“戻るか”を見る夜です」


志摩が鼻で笑う。


「要するに、引っかける餌はもう撒いてあるってことか」

「そうです。あなたは咬ませる側です」


志摩は少し嬉しそうに口角を上げた。綾瀬は逆に顔をしかめる。


「私は」

「罠の解除と上書きです。向こうも鳴子を使うでしょうから」


綾瀬の目が細くなる。自分の得意な領分を汚い使い方で真似されるのを嫌う顔だ。

護国が確認する。


「撤退基準は」

「紺野少尉が一人で前へ出たくなった時です」


羽場桐は平然と言った。

部屋が一拍だけ静まる。志摩が吹き出しかけて飲み込み、紺野は露骨に不機嫌な顔をした。


「中尉」

「冗談ではありません」


羽場桐は紺野を見た。


「今夜は“線”を取る夜です。壊す夜ではない。そこを忘れないでください」


紺野は返事を少し遅らせた。


「……了解」


その遅れ方を見て、陽鳥が何も言わずに笑った。柔らかい顔のまま、目の奥だけが仕事の色をしている笑いだった。


37-2


川沿いの旧乾物問屋街は、日が落ちると急に人の気配が薄くなる。


店が閉まるからではない。閉まっても人が残る通りはいくらでもある。ここは「もう使っていない建物」が多すぎるのだ。使っていない建物は、街の目を鈍らせる。誰も見ていない壁が増えるから、合図と受け渡しに向いている。


消防の点検車が一台、わざと目立つように停まっていた。作業員が脚立を立て、街灯の蓋を開ける。二つ消えて一つ点く。点いてから少し遅れて、もう一つが落ちる。区の作業としては自然だ。合図として見れば、今夜の“安全”に見える。

護国が低く言う。


「来ました。倉庫裏、二名」


紺野は壁に背をつけたまま視線だけ動かした。若い男と女。どちらも荷を持っていない。受け取る側ではなく、通す側の動きだ。視線が灯りを舐める。安心した顔をして、すぐ消える。

綾瀬は路地の口を見たまま言う。


「右壁の中段に一本、低い位置に二本。……鳴子です。雑」


志摩が小声で笑う。


「ほんと辛口だなお前」

「下手なものは下手です」

「じゃあ消せるな」

「消すより使います」


綾瀬は指をわずかに動かした。

何も起きなかったように見える。だが路地の空気が、針先で撫でられたみたいに一瞬だけ軋んだ。


不可視の線は残ったまま、発動の噛み合わせだけ外される。通れば向こうには「触れた」感触が返る。だが場所は誤る。綾瀬はいつもこういう嫌らしい仕事が上手い。


「行けます」


護国が頷く。


「紺野少尉、先頭を」


紺野は無言で前に出る。志摩と綾瀬が左右、護国が半歩後ろ。四人で動く時の御親領衛は、整列していないのに崩れにくい。互いを信用しているというより、互いの最悪を知っているからだ。


倉庫裏の木戸は半開きだった。

中は暗い。粉の匂いがある。乾物問屋の古い匂いだ。だがそれに混ざって、油と薬品の匂いが薄く走っていた。高倉が居れば嫌な顔をしただろう。食い物の場所にあっていい匂いではない。


「……人の気配は三」


護国が囁く。

綾瀬がすぐ補う。


「四です。奥、床に近い位置。しゃがんでる」


子供か、と紺野は思った。思った瞬間、喉の奥がざらつく。

木箱の陰から声がした。


「止まって」


女の声だ。若い。怯えているようで、怯え方が浅い。


「これ以上来ると、ここが飛ぶ.....」


志摩が舌打ちする。


「.....自爆かよ。冗談じゃねえぞ」


護国は声を張らないまま返す。


「話せます。子供を前に出してるならなおさら、飛ばす気はない」

「子供じゃない」


女の声が少し強くなる。


「病人よ。動かせないだけ.....」


紺野は目を凝らした。暗がりの奥、床に人影がある。細い。布にくるまれている。生きてはいる。少なくとも今は。


「要求は」


護国が続ける。


「通路を開けろ。十分。外の灯りを戻せ」


羽場桐の読み通りだった。向こうはもう灯りを監視している。監視している時点で、今夜の“安全”が向こうのものではないと気づき始めている。


護国は返答しない。返答の代わりに、紺野へ短く目を送る。時間を稼ぐか、踏み込むか、壊すか。選ぶ番だという合図だ。


その時だった。


倉庫の奥で、別の音が鳴った。

カチ、と乾いた音。火種の起動音に近い。女の声が途切れる。途切れ方が不自然だった。自分で止めたのではない。向こう側で、何か別の手が手順を切り替えた音だ。


「伏せろ!」


護国の声が飛ぶ。


──倉庫の闇が膨らんだ。


火が上がったのではない。光より先に、建物そのものが“中から押される”気配が来た。壁板が鳴る。梁が軋む。粉塵が跳ねる。爆発の前触れだ。しかも倉庫一棟で終わらない。川沿いの古い建物は壁を共有している。ここで飛べば、隣も巻く。

綾瀬が舌打ちする。


「遅い……!」


志摩が域を広げる。空気が鈍る。熱の立ち上がりを一拍だけ落とす。だが止まらない。止め切れる出力ではない。


護国が奥へ踏み込み、床の人影を引きずり出す。女が悲鳴を上げる。嫌らしい言い方をすればいい悲鳴だった。操られている人間の声ではなく自分で怖がっている人間の声だ。


紺野は、その一拍の間に木箱の列と梁の位置を見た。

建物の“どこ”を失わせれば、連鎖を断てるか。頭で考えたのはそこまでで、次は身体が先に動いた。


喉の奥で、空腹が鳴く。


嫌な音だ。聞き慣れたくない種類の音だ。だが今は、その嫌な音より先にやることがある。

紺野が倉庫の中央へ踏み込み、右手を床板に叩きつけた。


「下がれ!」


──瞬間、倉庫が欠けた。


爆ぜたように見えた者もいるだろう。潰れたように見えた者もいる。だが違う。


倉庫一棟が、中央から先を丸ごと“喰われた”みたいに消えた。


俯瞰すれば、起きた現象は破壊だ。木材、壁土、梁、積み上げられた古い箱、起動しかけた火種の術式ごと、半径十数メートルの建造物構造が一挙に失われた。飛散は少ない。爆炎も立たない。音だけが遅れて来る。だからなおさら、見ている側には気味が悪い。壊したというより、そこだけ世界から抜け落ちたように見える。


倉庫一棟分が跡形もなく消えた。


残ったのは、夜風の通る空洞と、隣棟へ延びるはずだった火の連鎖が断ち切られた事実だけだ。

志摩の顔から血の気が引く。


「……おい」


綾瀬は無言で紺野の横顔を見る。驚いている。だが目の芯にあるのは恐怖だけではない。見てはいけないものを、神術師として理解してしまった時の硬さだ。


護国は床へ引きずり出した病人を庇いながら、短く命じた。


「撤収。対象を外へ」


紺野は手を離した。掌にざらついた感触が残る。火種の気配も、木の匂いも、何もかも一緒に手の中へ寄って、消えたみたいな嫌な後味だけが残る。

女が呆然とした声を漏らす。


「……何、したの」


紺野は答えなかった。答えられないのではない。今声を出すと喉の奥の空腹まで外へ出そうだった。


外へ出ると、消防の作業員が言葉を失って立ち尽くしていた。街灯の下で、空いた場所だけが夜を直に受けている。建物が一つ消えた夜は、景色の奥行きが急におかしくなる。

護国が先に動く。


「見たことはそのまま報告して構いません。だが近づかないでください。二次崩落の確認が済むまで封鎖します」


軍人の声だ。人を立たせ直す声だ。

志摩が息を整えながら、紺野へ低く言う。


「少尉。今の、.....出し過ぎじゃねえのか」


紺野は少し遅れて返した。


「……抑えた」


志摩は何も言わなかった。言えなかったと言ってもいい。目の前の空洞が、その返答を軽口に変えさせなかった。


37-3


本部へ戻った時、御親領衛の部屋は妙に静かだった。


いつもの静けさと少し違う。誰かが騒ぐ前に、全員が一度だけ考える種類の静けさだ。報告はもう入っている。消防経由の連絡は早い。街で建物が一棟消えればなおさらだ。


羽場桐は立ったまま待っていた。座っていない時の彼女は、事務官というより現場の監督に近い顔になる。


「負傷者は」


護国が即答する。


「こちら軽傷二。民間人三名確保、生存。延焼なし。対象一名拘束、一名逃走。倉庫一棟消失」


羽場桐は一度だけ目を閉じた。次に開いた時にはもう仕事の顔に戻っている。


「分かりました。まず民間人の保護を優先。区には“爆発回避のための緊急処置”で通します。詳細は伏せる。消防との文言調整はこちらでやります」


志摩が椅子に腰を落とし、天井を見たまま言う。


「中尉、あれ文言でどうにかなるのかよ」

「どうにかするのがこちらの仕事です」


羽場桐の声は揺れない。

綾瀬が壁際で腕を組んだまま口を開く。


「逃走した一名、足は乱れていました。次の受け渡し点へ直行は無理です。今夜の線は切れています」

「十分です」


羽場桐は短く頷く。


「明灯会の内部は今夜で確実に焦る。焦れば手順が変わる。そこを次で拾います」


高倉が、遅れて入ってきた区の巡回員から話を聞いて戻る。顔色は良くない。


「市場の方でもう噂が回り始めた。“近衛が倉庫ごと食った”ってな」


志摩が吹き出しかける。


「言い方ひでえ」

「笑い事じゃない」


高倉の声は低かった。


「明日には尾ひれが十本つく。炊き出しの連中まで怯えたら面倒だ」


羽場桐が即座に応じる。


「高倉さん、明朝の市場で先に話を流してください。『火が回る前に壁を落とした』で統一します。怖さは残していい。正体だけぼかす」

「了解。……ったく、八百屋の仕事じゃねえな」

「給金の範囲です」


高倉は苦笑した。少しだけ空気が戻る。

その時、陽鳥が紺野の手元を見て言った。


「手、貸して」


二人きりではない。声色は軽い。だが拒否を想定していない言い方だった。


紺野は一瞬だけ黙ってから手を出す。陽鳥は手袋越しに掌へ触れる。ほんの短い接触だ。指先の影がまた一瞬だけ濃くなり、すぐに戻る。


「……残り方、悪いね」


陽鳥は小さく笑った。


「でも今夜は正解。あれ飛ばしてたら倉庫街の半分は燃えたわ」


紺野は手を引く。


「慰めるな」

「慰めてない。ただの評価」


その言い方が気に障る。気に障るのに、紺野は返す言葉を選べない。喉の奥のざらつきはまだ消えていない。黙っている方がましだった。


部屋の奥で、硯荒臣が湯呑を持ったままこちらを見ていた。今日は紙の山をいじっていない。湯呑の中身はもう冷めているらしい。飲まずに持っているだけだ。


「少尉」


荒臣の声は軽かった。


「一棟で止めたか」


紺野は敬礼まではせず、姿勢だけ正した。


「結果としては」

「結果でいい」


荒臣は湯呑を机に置いた。


「見せ方は最悪だが、選び方は悪くない。街を残したなら及第だ」


褒められているのか、釘を刺されているのか、どちらにも聞こえる言い方だった。たぶん両方だ。


「ただし」


荒臣は続ける。


「次に同じ規模を街中で見せれば、敵より先にこちらが面倒になる。覚えておけ。高位の神術師は使えるから飼われるんじゃない。使った後の責任まで込みで飼われる」


部屋が静まる。

それは紺野だけへの言葉ではない。御親領衛全員へ向けた確認だった。この部隊は愚連隊じみていても軍で、軍である以上、国家への義務から逃げられない。

羽場桐が静かに引き取る。


「今夜の報告は私がまとめます。各員、口頭報告は十分。余計な比喩は要りません。見たものを見たまま、手順を手順のまま出してください」


志摩がぼやく。


「毎回思うけど中尉、そこが一番難しいんだよ」

「知っています」


羽場桐は即答した。


「だから私が居ます」


誰も反論しない。できない、ではなく、する理由がない。


廊下の向こうで三つ子が何かを取り合って騒ぐ声がした。真名のたしなめる声、樋道の笑い声も混ざる。本部はいつもの音に戻り始めている。


戻っているのに、紺野の耳には少し遠い。

建物一棟が消えた時の感触が、まだ掌の皮膚の下に残っていた。人は死んでいない。出力は抑えた。延焼も止めた。理屈は幾つでも並ぶ。並べても、あの空洞の景色は消えない。


喉の奥がわずかに鳴く。

紺野は手を握った。握って、離す。今はそれで黙らせるしかない。


明灯会の線は切れた。だが終わってはいない。むしろここから先の方が、相手は刃を選ぶ。


羽場桐はもう次の紙へ手を伸ばしていた。高倉は市場へ流す言葉を考えている。綾瀬は壁際で目を閉じ、志摩は椅子の背にもたれたまま域の余韻を抜いている。護国は淡々と拘束手順の確認を始め、陽鳥は押収品の端を指先で軽く叩いていた。


部隊としては正しい夜だ。

人としてどうかは、今はまだ考えない方がいい。考え始めると、明日の手が遅れる。そういう夜がある。今夜はそれだった。


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