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幻想帝都 神州御親領衛記  作者: ニュートリノ鈴木
一章 神州と言う國
38/189

三十六話 消え方の順番


三十六話


36-1 消え方の順番



先に消える灯りには、順番がある。


それは貧しさの順番でもなければ、古さの順番でもない。人の手で消している灯りには、必ず都合の順番が混ざる。明灯会の周辺を洗っているうちに、羽場桐妙子はその癖を掴んでいた。


御親領衛本部の一室ではなく、その日は帝都中央区の小さな行政分室だった。帳簿を追うなら机の前、というのは半分だけ正しい。机に出てくる前の紙の流れを見たければ、窓口の空気を嗅ぐ方が早い日もある。


羽場桐は貸与机の上に書類を三列に分けていた。施療許可の更新、炊き出し用物資の運搬届、寄付金の仮受け記録。どれも単体では綺麗だ。綺麗すぎる、と言い切るほど露骨でもない。だが、横に並べると呼吸が合いすぎている。

高倉源三が紙の端を指で押さえた。


「この炊き出しの野菜量、数字だけ見れば普通ですよ」

「ええ」


羽場桐は頷く。


「でも実際に市場で出る量としては?」


高倉は口を曲げる。


「妙に均一です。安い葉物ってのは天気と仕入れで揺れる。揺れないのは、どっかで一回“作ってる”数字だな」


羽場桐のペン先が止まる。高倉の言葉は報告書の文にはそのまま入らないが、切り口としては極めて優秀だった。


「作ってる数字、ね」

「帳面の上だけで善行が育つ時は、現場で誰かが痩せるんです」


高倉は自分で言ってから、少しだけ気まずそうに咳払いした。


「……偉そうでした?」

「いいえ。助かります」


羽場桐は素直に返す。高倉はこういう時、褒められるより使われる方が落ち着く人間だ。礼の言い方まで帳簿に似せる必要はない。必要なのは、次の紙へ繋ぐことだけだ。


窓際では珠洲原陽鳥が、寄付物資の麻袋から採った繊維片を光に透かしていた。白衣の袖口で何かが一瞬だけ動いたように見えたが、次の瞬間にはただの影に戻る。本人は青い目を細めて眺めるだけだ。


「この袋、表は同じ問屋の印なのに縫い糸が二種類ある」


羽場桐が顔を上げる。


「積み替えですか」

「たぶん。途中で中身を入れ替えてる。雑にやってるから、糸の油が違う」


高倉が鼻を鳴らした。


「炊き出しの袋で中身差し替えるとか、嫌な真似するなあ」


陽鳥は繊維片を封筒へ戻しながら言う。


「表に出す分はちゃんとしてるんでしょ。だから面倒なのよ。善いことをしてる顔の裏で、別の流れを走らせてる」


羽場桐はそこで書類を一枚抜いた。帝都の防火巡回通知だ。昨夜、彼女が合法の紙で押し込んだものだった。


「では予定通り、今夜やります」


高倉が首を傾げる。


「巡回を増やすだけで、そんなに動きます?」

「動かします。明灯会の人間にではなく、明灯会の“内側で急ぐ人間”に」


陽鳥が笑う。


「二消一灯、逆用するのね」


羽場桐は頷いた。


「ええ。合図の意味を変えるのではなく、合図が成立する時間帯を潰します」


高倉は腕を組んだまま低く唸った。


「……なるほど。表の配給は止めない。夜の裏搬送だけ足をもつれさせる」

「そうです。善性は崩さない。崩れると末端が黙る。今回は黙らせたくない」


そこへ軍用の連絡端末が短く鳴った。宗一からの定時確認だ。羽場桐は受話器を取り、言葉を詰めずに渡す。


「羽場桐です。配置は予定通り。紺野少尉へ伝達を――今夜、追うのは灯りです。人ではありません」


受話の向こうで短い沈黙があり、護国宗一の落ち着いた声が返る。


『承知しました。本人には私から言います。たぶん嫌がりますが』


羽場桐の口元がわずかに緩む。


「嫌がってもやらせてください。今日はそれが一番早いので」


36-2


帝都南東の裏町は、夜になると道よりも窓を見る場所になる。

道は曲がる。人は嘘をつく。だが灯りの点き方は、慣れた手ほど癖が出る。


紺野健太郎、護国宗一、護国綾瀬、東雲丈雲の四人は、通りを挟んだ空き家の二階に分かれていた。志摩を入れない編成は珍しくないが、今夜は意図がある。減衰を掛ければ相手が警戒する。警戒させずに足を乱すための夜だった。


「改めて確認します」


宗一が小声で言う。暗がりでも声の輪郭が崩れない。


「追うのは人物ではなく、合図の崩れです。羽場桐中尉からの指示通り、誰か一人を確保して終わりにはしない」


綾瀬が窓の隙間に目を寄せたまま返す。


「分かっています。……ですが、逃がしすぎると二度と繋がりません」

「だから“逃がす”のではなく“選ばせる”」


宗一の言い方は柔らかい。だが譲ってはいない。綾瀬は小さく舌を打つ気配だけ残して黙った。兄に言い負かされたからではない。筋が通っていると分かった時の黙り方だ。

紺野は壁にもたれて通りを見ていた。今夜の仕事は苦手だ。灯りを追う任務は、手応えがない。斬れないものを相手にしている感じがする。


「紺野少尉」


宗一が低く呼ぶ。


「何だ」

「人を追いたくなるでしょうが、今夜は先に合図です」


紺野は返事の代わりに鼻で息を吐いた。


「分かっている。言われるほど腹が立つだけだ」

「言わないと本当に追うので言っています」


東雲が小さく笑う。暗い部屋の端で、影を一つだけ床へ薄く這わせている。今夜は探るだけだ。深く出せば返りが痛い。最古株の慎重さは、こういう夜に効く。


路地の向こうで、巡回の提灯が二つ通った。今夜は行政の防火巡回を羽場桐が増やしている。制服の警邏と消防の点検札が、いつもより遅くまで動いている。表向きは善いことだ。誰も文句を言えない類の善意だ。


そして、それが裏の都合を壊す。

通りの三軒先、軒下の灯りが一つ落ちた。少し遅れて、角の店先も一つ落ちる。いつもならそのあとで、路地奥の灯りが一つだけ残る――それが二消一灯の合図だった。


だが今夜は違う。

巡回の提灯が余計に曲がり込み、角の店主が消すタイミングを迷った。迷った瞬間、順番が崩れる。


──夜が噛んだ。


暗くなったのではない。夜の歯車が一段ずれたのだ。見慣れた手順が狂った時の静かな音が、通り全体に走る。


俯瞰すれば、消えた灯りは二つ、残った灯りは三つ。予定していた“合図の形”にならない。だから路地の奥で待っていた運び手が、出るべきか戻るべきかを一拍迷う。


その一拍で十分だった。

綾瀬の指先が窓枠の下で払われる。


「右奥、樽置き場の陰。二人。片方は子供」


宗一が即座に動く。


「東雲さん、出口を一つだけ残してください。綾瀬は鳴子線。紺野少尉――」

「分かってる。殺さない」


宗一はそこで一度だけ紺野を見た。確認ではなく、信頼を前提にした視線だ。


四人は二階から降りる。足音を殺しているわけではない。今さら隠れても遅い。今必要なのは、逃げ道を一つにする速さだ。


路地へ踏み込んだ時、布包みを抱えた小柄な影が反転した。大人の方が子供の肩を押し、先に走らせる。捨て駒の押し方だ。


「止まれ!」


宗一の声が飛ぶ。命令の声だ。だが相手は止まらない。止まれない。合図が崩れた時点でもう、内側の誰かに怒鳴られる未来しか見えていない走りだった。


綾瀬の糸が路地の角へ残る。見えない鳴子だ。子供がそれを跨ぎ、大人がそれに触れた瞬間、足が半拍遅れる。斬れてはいない。斬る前の未来だけを引っかけた。


「今です、兄さん」


綾瀬の声に、宗一が一歩入る。無足無刃は抜いた時にはもう終わっている類の斬撃概念だ。だが今夜の宗一は斬らない。斬る代わりに、大人の進路だけを潰す位置へ出た。


「終わりです。荷を置きなさい」


大人は反射で懐へ手を入れた。刃物ではない。薄い札だ。符か、合図紙か。捨てる気だ。

だが紺野が先に詰めた。

速い。速いが荒くない。今夜はそれでいい。紺野の手が相手の手首を掴む。


──喧騒の底が、少しだけ沈んだ。


相手の皮膚に貼りついていた薄い癖が、掌へ引かれて途切れる。悲鳴も血もない。ただ男の目の焦点が戻る。戻った瞬間、自分が何を捨てようとしていたかを理解して顔色が変わる。


不気味なのはそこだ。紺野の能力は外から見れば“壊した”より“喰った”に近い。だが何を喰っているのかは、本人にも他人にも言葉には出来ない。

紺野は札を奪って宗一へ放る。


「紙だ。燃やす前だった」


宗一が受け取り、東雲へ回す。東雲は影に触れさせて表面の凹みを読む。老練な手つきだ。


「……配送符じゃない。人名でもない。時間と場所だけ」


綾瀬が子供の方へ視線を向ける。子供は路地の端で震えていた。逃げる脚はもう残っていない。


「どうします」


宗一が短く答える。


「この二人は警察へ。だが先に羽場桐中尉へ繋ぐ。今夜の収穫は身柄より順番です」


紺野が舌打ちを飲み込む。


「順番、ね」

「ええ。誰を捕まえたかより、誰が先に困るかです」


そこへ連絡端末が鳴った。羽場桐からだった。

宗一が出る。


「護国です。こちら確保二名、紙一枚」


受話の向こうで羽場桐の声は静かだった。


『よくやりました。では次です。今の崩れで、もう一箇所が早まります』


紺野が眉を寄せる。


「まだあるのか」


宗一は受話を押さえず、そのまま返す。


「あるそうです。……紺野少尉、今夜は走りますよ」


紺野は子供の抱えた布包みを見た。中身は薬だった。いつものように安い薬だ。金ではなく、どこかの弱い場所へ流すための荷だと分かる。


「最初からそう言え」

「言っていました」


宗一の返しは穏やかで、少しだけ早かった。


36-3


本部へ戻る頃には夜半を過ぎていた。


御親領衛本部の灯りは落ち着いている。昼の総点検が嘘みたいに静かだ。だが静かな場所ほど、遅い時間の報告は重い。


羽場桐は机の前に座ったまま、持ち帰られた札を並べていた。横には高倉の市場メモ、陽鳥の繊維所見、今夜の巡回記録、そして警察側の確保時刻。紙の種類が違う。文体も違う。違うものを並べて一つの顔にするのが、彼女の仕事だ。


荒臣は窓際に立って、湯呑を片手にその作業を見ていた。書類の山に埋もれていない時の彼女は、むしろ静かだ。


「どうだ」


羽場桐は答える前に、一本線を引いた。


「表の配給所は崩れていません。炊き出しも施療も、予定通り動いています」

「それでいい」

「ええ。崩れたのは夜の搬送だけです。しかも末端ではなく、時間管理の層が先に揺れています」


陽鳥が椅子の背に腕を乗せたまま笑う。


「善い人たちはまだ困ってない。困ってるのは、善い人たちを使ってる人たちだけ」


高倉が腕を組んで頷く。


「市場の追加注文も変わった。今まで日ごとに揃ってた量が、急に半端になってる。焦ってる時の買い方だ」


宗一が静かに報告を足す。


「現場の二名は、明灯会そのものの名前は出しませんでした。ただ、合図が崩れた後の焦り方が不自然です。叱責を恐れているというより、“次の配り先が切れる”ことを恐れていました」


そこへ紺野が口を挟む。短いが、今夜は言葉が少し乗る。


「善意の顔をしてる連中を止めたいんじゃない。善意の後ろで順番決めてる奴を引きずりたい。そういう話だろう」


羽場桐が頷いた。


「その通りです」


紺野は椅子の背に体重を預ける。喉の奥のざらつきがまだ残っている。今夜は二度、手首から薄い癖を引いた。引くたびに自分の中の空腹が静かになる。静かになること自体が気持ち悪い。


陽鳥の青い目が一度だけそちらを見た。何か言いかけて、言わない。代わりに机上の封筒へ指を置く。爪先の影が小さく揺れて消える。

荒臣が湯呑を置いた。


「では方針は変えずに続行だな」


羽場桐が確認する。


「はい。ただし、次は相手も手を変えます。灯りはもう使わないでしょう」


荒臣は小さく笑う。


「使わなくて結構。使えなくしたのはこちらだ。相手に新しい手を考えさせろ。新しい手は、古い手より必ず雑になる」


その言い方は冷たい。冷たいが間違っていない。追い詰めるのではない。急がせる。急がせれば、隠していた優先順位が表へ出る。

樋道が眠そうな顔で手を挙げた。


「つまり次は、雑になったとこをボクらが取る?」


真名が横から言う。


「要約するとそう。珍しくいいこと言った」

「珍しくは余計」


三つ子はもう東雲の隣で半分寝ている。一葉だけが起きようとしていて、双葉は限界、三葉は椅子から落ちかけている。東雲は話に参加しながら、片手で三人の位置を直していた。


綾瀬は壁際で腕を組んでいる。兄の報告を聞く時だけ、表情が少しだけ動く。排他の硬さはあるが、隊の話を外から聞いている顔ではない。

志摩が欠伸を噛み殺しながら言う。


「次に“薄める”の来たら、オレ呼べよ。今日の借り返す」


羽場桐がペンを置かずに返す。


「呼びます。ただし無断改造品は置いてきてください」

「まだ言う」

「まだ書類が残っていますので」


小さな笑いが散る。笑える程度の手応えが、今夜はあった。

荒臣はその空気が落ち着くのを待ってから、最後に紺野を見た。


「少尉」

「はい」

「今夜はよく我慢したな」


紺野は顔をしかめる。


「そう言う褒められ方は気分が悪いですね」

「知っている。だから言う」


荒臣の赤い目が細くなる。からかい半分、評価半分の笑い方だった。


「我慢できるうちは、まだ使い道が広い」


紺野は返事をしない。返事の代わりに視線だけ逸らす。胸の底の空腹は、今は黙っている。黙っているだけだが、それでも今夜はそれで足りた。


羽場桐が新しい紙を一枚引き寄せる。次の巡回申請、次の保管照会、次の合法の包囲だ。


「では、続けます。明日の朝までに二本通します」


高倉が顔をしかめる。


「まだ増やすのか……」


羽場桐は淡々と答えた。


「増やすのではなく、間に合わせます。今は相手が先に焦ってくれているので」


陽鳥が青い目で笑う。


「紙で追い立てる女、こわいわ」

「褒め言葉として受け取ります」


本部の夜はそのまま更けていく。表ではまだ明灯会の灯りが人を救っている。だからこそ、裏の順番を握る手だけを先に折らなければならない。


善い顔を壊さずに、その内側を急がせる。

面倒で、遅くて、だが御親領衛にしかやれないやり方だった。


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