表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
幻想帝都 神州御親領衛記  作者: ニュートリノ鈴木
一章 神州と言う國
37/190

三十五話 目を閉じる時間


三十五話


35-1 目を閉じる時間



御親領衛本部の朝は、だいたい二種類の面倒から始まる。

外から来る面倒と、中で育つ面倒だ。

その日は後者だった。


「本日正午より二刻。軍令部全体の外象術式防衛機構を系統停止して点検します」


羽場桐妙子中尉が読み上げた通達は簡潔で、簡潔である分だけ嫌な匂いがした。止めるのは防衛機構だけではない。連動している照明、搬送、封鎖扉、記録系の一部も落ちる。要するに、普段は見えない継ぎ目が全部むき出しになる。


「技研は毎度そう言う。『安全のため』とな」


硯荒臣少将は椅子の背にもたれたまま言った。

紙の山を相手にしている時の顔ではない。眠そうに見えて、目だけが起きている。赤い瞳が細く笑った。


「本部が目を閉じる時間に、人間の方まで寝ていると碌なことにならん。今日は顔を揃えろ」


羽場桐が確認する。


「全員、ですか」


偶に、荒臣はこういう突飛も無い事を言い出す。羽場桐は荒臣のそう言う一面を知っていたが、それでも知っていることと動揺しないは別問題だ。


「全員だ。珍しいだろう。珍しいことは、たまにはやる」

「理由の記載は」

「『内部点検補助』でいい。どうせ本当の理由を書いても誰も得しない」


羽場桐は頷き、即座に書式へ落とした。文字にした瞬間、それは命令になる。御親領衛を崩さず回す人間の手つきだった。

荒臣はそれを横目で見て立ち上がる。


「私は先に食堂を見る」


羽場桐が一瞬だけ顔を上げる。


「……食堂、ですか」

「冷蔵庫が止まる。放っておくと高倉君が泣く」

「高倉さんはまだ来ていません」

「来る前に泣くものを減らしておくのが上官の仕事だろう」


理屈としては妙だったが、荒臣はもう歩き出していた。

こういう時の彼女は止めても止まらない。羽場桐は止めない。止めるべき場所と、止めても無駄な場所の線を引くのが上手い。


廊下へ出た荒臣の足取りは軽い。将官の歩き方ではない。年若い女の歩き方でもない。場の重さに身体を合わせる必要がない者の歩き方だ。

その背を見送ってから、羽場桐は小さく息を吐いた。


「……全員招集。今日は長くなりますね」


誰に言った言葉でもなかったが、扉の外で待っていた紺野健太郎が聞いていた。


「もう長い」

「まだ始まっていません、紺野少尉」

「そういう意味だ」


紺野の返しは短い。短いが、今の彼なりに機嫌は悪くない。羽場桐はそれを読み取って、書類を一枚差し出した。


「なら先に動いてください。護国少尉と一緒に地下の補助扉を見ます。停止中に閉じたら、戻るのが面倒です」

「了解」


紺野は紙を受け取り、すぐ踵を返す。説明を好まない男だが、筋道まで嫌うわけではない。渡された仕事の形が整っていれば、それなりに静かになる。

羽場桐はその背を見て、今度は本当に仕事の顔へ戻った。


「さて、崩れる前に縫い合わせますか」


35-2


正午までの本部は、静かな癖に騒がしかった。


騒がしいと言っても声量の話ではない。人の出入りの密度が普段より濃い。御親領衛はそもそも全員が揃わない前提の部隊だ。だから、揃うだけで空間の使い方が変わる。


最初に現れたのは護国宗一と護国綾瀬だった。

宗一はいつも通り整っている。綾瀬はいつも通り整いすぎている。兄妹で似ているのに、似方が違う。


「綾瀬さん、今日は内部補助です。学校への連絡は済んでいます」


羽場桐が告げると、綾瀬は丁寧に応じた。


「承知しました。……助かります」


礼は言う。だが棘が消えない。学校よりこちらを優先されたこと自体には不満はない。ただ“配慮された”形にされるのを好かない。それが声の端に出る。

宗一が横から柔らかく挟む。


「点検中の仮設導線に、君の糸は有効だ。頼りにしている」


綾瀬の眉間の力がわずかに解けた。


「最初からそう言ってくださればよろしいのに」


兄は苦笑だけで返す。言い方一つで受け取り方が変わると知っている顔だ。

そこへ志摩龍二が駆け込んでくる。


「っぶねえ、間に合った……!」

「志摩君、走らない」

「走らねえと間に合わねえじゃん」

「その理屈で廊下を滑って頭を打つのが最悪です」

「言い返せねえ」


制服の着崩し方は相変わらずだが、今日は煙草の匂いが薄い。羽場桐の前で学習している証拠だった。本人は認めないだろうが。


樋道芳芙美と支倉真名は、ほぼ同時に別方向から来た。

樋道は朝から仕上がっている。真名は朝でも人前の顔を崩さない。


「ねえ羽場桐中尉、内部点検補助って何するの? ボク、可愛い担当?」

「樋道准尉は“触るな”担当です」

「ひどっ」


真名が肩を揺らして笑う。


「適任じゃない」

「真名ちゃんは?」

「私は“落ち着ける”担当かな」

「自分で言うんだ」

「言っておかないと、あなたが先に言うでしょ」


この二人のやり取りは軽い。軽いが、軽さの中に互いの危険性を知っている手つきがある。雑な喧嘩にならない程度の距離を、ちゃんと測っている。


そこに高倉源三は遅れて大袋を提げて来た。


「すいません羽場桐中尉、ついでに市場寄って……いや、ついでじゃねえな、これ完全に私用だな」

「私用は後で聞きます。先に確認です。食堂の冷蔵庫が止まるので、中身の仕分けをお願いします」


高倉が袋を持ち直しながら天井を見た。


「やっぱりそうなるよなあ……」


ぼやいているが、足はもう食堂へ向いている。生活の問題になると動きが早い。八百屋の親父という肩書きは伊達ではない。


東雲丈雲は三つ子を連れて来た。

一葉が先頭で、双葉が文句を言い、三葉が横へ逸れる。それを東雲が歩幅だけで戻す。何度見ても手品みたいな連れ方だった。


「今日は迷子探しじゃなくて、迷子を作らない仕事だよ」


「迷子にならなければいいんでしょ!」と一葉。

「それができれば苦労しない……」と双葉。

「あたし迷子になっても戻れるもん」と三葉。


「それは君だけだ」と東雲。


ここまで揃うと、本部の空気はもう“静かな危険”ではなく“騒がしい危険”に変わる。種類の違う火種が同じ部屋にある時の感じだ。羽場桐は帳簿を持ったまま、それを正面から受け止めていた。


最後に珠洲原陽鳥が入ってくる。

白衣のまま、いつものように笑っている。柔らかい笑みだが、輪郭が曖昧な柔らかさではない。計って置いた柔らかさだと分かる者には分かる。

金の髪と青い瞳。目立つはずの色なのに、本人の笑い方のせいで逆に視線の置き場がずれる。


「遅れた?」

「定刻です、珠洲原主任」


羽場桐が即答する。

陽鳥は肩をすくめた。


「よかった。今日は何壊す日?」

「壊さない日です」

「それ、御親領衛で言う?」


二人の応酬は乾いている。乾いているのに、周囲は余計な口を挟まない。ここへ触ると仕事が増えると皆知っている。

荒臣が食堂から戻ってきたのは、全員が揃ったそのタイミングだった。

袖を少しだけ捲っている。珍しい。将官の姿としてはだいぶ雑だが、御親領衛でそれを気にする者はいない。


「よし、いるな。欠けてないな」


樋道が目を丸くする。


「少将閣下、袖」

「流しの蛇口が硬かった。力仕事だ」

「それ閣下がやるんですか……」


高倉が困惑する。

荒臣は当然の顔で言う。


「誰がやっても同じなら、暇な者がやる。今日は私が少し暇だ」


羽場桐が無言で何かをメモした。たぶん“少将による流し台分解未遂”あたりが将来の事故予防として記録される。

荒臣はそれを見て笑い、全員を見渡した。


「本部の防衛機構が止まる。だから今日は、本部の中身が防衛機構の代わりをする。難しく考えるな。いつも通りだ」


宗一が問う。


「配置を」

「羽場桐が切れ。私は歩く」


それだけで十分だった。御親領衛において、荒臣が“歩く”と言った日は、だいたい誰かの予想が一つ外れる。


35-3


正午の鐘が鳴るより先に、建物が息を潜めた。


光が痩せた。

消えたのではない。減った。常灯は残るが、機構に連動していた補助照明が落ち、本部の輪郭が一段古くなる。壁の継ぎ目、床の擦れ、扉の癖が見えるようになる。


俯瞰すれば、外象術式系統の出力は計画通り段階停止。防護結界の層は薄く保たれ、封鎖機構は手動系へ切替、搬送系は停止。人の手で足りる範囲へ機能を縮めた形だ。


だが、“人の手で足りる”と“人の手が足りる”は違う。

最初に鳴ったのは地下の補助扉の警報だった。

紺野と宗一がすでに入っていた区画だ。連絡線越しに宗一の声が返る。


『補助扉一枚、半閉鎖で停止。人は挟まっていません。固定に入ります』


羽場桐が即座に返す。


「了解。綾瀬さんを向かわせます。目印を残してください」


綾瀬は返事より先に動いていた。腰の位置で指先が一度だけ払われる。

彼女の能力は碗獄断糸。あり得た未来の軌道から不可視の斬撃概念を射程へ展開する限定因果操作だ。斬るだけの力ではない。発動中に残る。だから糸にも罠にも鳴子にもなる。


綾瀬が廊下の角へ糸を置く。見えない。だが本人には“触れた未来”として位置が分かるらしい。


「この先、右の手動扉が噛みます。三歩手前で一度引いてください」


連絡線の向こうで宗一が短く笑った気配がした。


『助かる』


兄に礼を言われても、綾瀬は顔を変えない。変えないまま、次の糸を置く。頬の横だけが少し固い。嬉しい時ほど出る癖だった。


二つ目の騒ぎは食堂で起きた。

冷蔵庫の停止で搬出した食材を、高倉が手早く仕分けている最中、補助搬送台の車輪が一本だけ固着した。重たい箱が動かない。


「くっそ、今かよ……」


高倉が悪態をつく。悪態はつくが、無茶はしない。無茶をすると反動が来ることをよく知っているからだ。

そこへ荒臣が顔を出した。


「止まったか」

「止まりました。車輪の芯が欠けてるっぽいです。替えがありゃ早いんですが」


荒臣は箱を覗き込み、すぐ高倉を見る。


「やるか」


高倉は一瞬だけ黙る。自分の能力の値段を計算している顔だった。

欠落補填(リプレイスメント)。足りないものを前借りで埋める能力。便利だが、便利なほど後で払う。


「……小さいのだけなら」

「小さいので済ませろ。今日は戦場じゃない」


荒臣の言い方は命令に近いが、無理押しではない。高倉は頷き、車輪の軸へ指を添えた。

ほんの短い間、金具の回りに“足りない厚み”が埋まる。


箱が動く。動いた瞬間、高倉の右手の指先が白くなる。反動は軽い。軽いが、ゼロではない。

荒臣はそれを見て、黙って箱の片側を持った。


「閣下、持たなくていいです」

「持てるから持つ。君は次の指を残せ」


高倉は苦笑した。


「そう言われると断りづらいんだよなあ……」


三つ目の騒ぎは人ではなく熱だった。

旧式の補助配線が一点だけ過熱し、廊下の壁内で唸り始める。大事故ではない。だが放置すると煙が出る。煙が出れば三つ子が騒ぐ。三つ子が騒げば廊下が崩れる。


樋道が先に手を挙げる。


「ボクやる?」


羽場桐が先に釘を刺す。


「壁ごとやらないでください」

「信用ないなあ」

「実績があります」


真名が横から口を開く。


「周りの人、先にどかす?」

「お願いします」


と羽場桐。

真名は通りかかった軍令部職員へにこやかに笑いかけた。支倉真名の能力は輝陽星陰(スターライトステージ)。関心と無関心を範囲で操作する感応能力だ。


派手な強制ではない。視線の置き場を少しずらす。気にすべきものを気にさせ、今は見なくていいものを見ないまま通させる。


職員たちは壁の異常よりも、羽場桐の示した迂回路の方を“自然に”選んで去っていく。

真名は小さく言う。


「今のうち」


樋道が壁際へ出る。指先を壁へ近づけ、触れない距離で止める。

彼の分子円塵(アボガドロエンジン)は、自身の周囲へ分子分解を強制する領域能力だ。ただ単純な破壊で言うなら雑に強い。だが雑に使えば壁も配線も人も等しく壊す。だから羽場桐がいる日にだけ、少し丁寧になる。


「ここだけね。ここだけ」


自分に言い聞かせるように呟き、樋道は過熱した金具の固着部分だけを崩した。壁に穴は開かない。煙も最小で済む。

羽場桐が確認して短く頷く。


「助かりました」


樋道は胸を張る。


「もっと褒めていいよ」

「後で報告書に書いておきます」

「紙じゃなくて口で!」


その少し先では、志摩が三つ子に囲まれていた。


「ねえ志摩、暑いの止めて!」

「オレは冷房じゃねえ!」


言いながら、志摩は壁に背を預けて目を閉じる。逆鱗静域(アンチパレード)の減衰を薄く広げ、廊下の熱の立ち上がりだけを鈍らせる。強くかければ人の思考まで落ちる。だから薄く、薄く、神経を使う。


額に汗が浮く。制御が難しい能力ほど、派手に見えないところで削れる。

東雲がその横で立っていた。


「自分まで落とすなよ」

「分かってるよ……分かってるけど、こういう細かいの一番疲れんだよ」

「知ってる。だから隣に立ってる」


東雲の言葉に、志摩は返事をしなかった。返事をしない代わりに、減衰の厚みだけ少し安定した。


紺野が戻ってきたのは、その頃だった。

袖に埃が付いている。地下の補助扉をこじ開けるのに手間取ったらしい。


「終わったか」


羽場桐が視線を上げる。


「地下は一段落です。宗一さんは綾瀬さんの導線で残り確認中。そちらは?」

「本部はまだ生きています」

「“まだ”か」

「ええ。“まだ”です」


紺野はそこで食堂の方を見る。高倉が箱を運び、荒臣が手伝い、陽鳥が配線盤の前でしゃがみ込み、何か細い器具を差し込んでいる。


陽鳥の指先が動くたび、袖口の影が一瞬だけ揺れた。


埃か、虫か、見間違いか。

はっきり見えたと思った時には、もう何もない。本人は青い目で笑っているだけだ。


「珠洲原主任。そこ、触って平気か」


紺野が声をかけると、陽鳥は振り返って笑みを深くした。


「心配してる?」

「本部が止まると面倒だ」

「素直じゃないね、健ちゃん」

「......」


二人きりではない。わざとだと分かる呼び方だった。紺野の眉が動く。陽鳥はそれを見て楽しそうに器具を抜く。


「仮固定だけ。技研が来るまでの延命」


荒臣がそのやり取りを聞いていた。


「延命で足りるなら上等だ。完全をやるな珠洲原。今日は実験日ではない」


陽鳥が肩をすくめる。


「はぁい、少将閣下」


軽い返事だが、手は止まる。荒臣の言葉を本気で無視する者は、この部隊にはいない。怖いからだけではない。越えてはいけない線を、彼女がちゃんと見ていると知っているからだ。


二刻の停止は、結局大事なく終わった。

大事故はない。死者も怪我人もない。報告書には“計画通り”と書ける類の一日だ。

だが、その“計画通り”の中身を埋めたのは、防衛機構ではなく人間だった。


35-4


復旧確認が終わる頃には、皆それなりに疲れていた。


羽場桐は帳簿へ戻り、東雲は三つ子を座らせ、宗一は綾瀬の糸の残しを確認し、志摩は壁にもたれて目を閉じ、樋道は真名に「今の見た?」を三回くらい言い、高倉は食堂で鍋をかき回し、陽鳥は器具を拭き、紺野は黙って水を飲んでいる。


荒臣は、食堂の入口に立って全員を見た。

珍しい光景だ。

御親領衛が、誰も倒れず、誰も暴れず、誰も勝っていないのに、同じ場所にいる。


「よし」


荒臣が言う。


「今日は褒美をやる」


樋道が真っ先に反応する。


「金?」

「違う」


志摩が目だけ開ける。


「休み?」

「半分」


三つ子が揃って言う。


「おやつ!」


荒臣は少し笑った。


「近いな。昼だ」


高倉が鍋の蓋を開ける。冷蔵庫停止前に出した食材と、市場で持ち込んだ野菜で作った煮込みだった。豪華ではない。だが温かい。こういう日は、それで十分すぎる。


「非常食と在庫の整理も兼ねてます」


と高倉が言う。


「食わねえと捨てるしかないんで」


荒臣が頷く。


「良い。捨てるより胃に入れた方が兵站としては優秀だ」


羽場桐が食堂まで来て、盆を取りながら呆れ半分の顔をした。


「それは、兵站の定義としては雑すぎます」

「雑で回る日は雑で回せ。丁寧に壊れるよりましだ」


宗一が席を整え、綾瀬が三つ子から少し離れた位置に座る。だが三葉が当然みたいに隣へ寄ってきて、綾瀬は嫌そうな顔をした後、追い払わない。双葉は向かいで眠そうにし、一葉はもう食べる気で前のめりだ。

真名が樋道の皿へ野菜を多めに乗せる。


「好き嫌いするな」

「してないし。可愛い子は栄養バランスも完璧だから」

「その割に甘い物だけ先に取ったよね」


志摩は匙を持ったまま高倉に言う。


「おっちゃん、これうまいな」

「おっちゃん言うな。まだ四十だ」

「十分おっちゃんだろ」

「お前がガキなんだよ」


東雲はそのやり取りを聞きながら、三つ子の食べる速さを見ている。速すぎる方に一言、遅すぎる方に一言。親代わりというのは、こういう細かい仕事の総称なのだろう。

陽鳥は白衣の袖を少し持ち上げて、青い目で湯気を眺めていた。


「高倉さん、これ味付け変えた?」

「よく分かりますね。缶詰の塩気強いから、だし足した」

「正解。前のままだと午後みんな喉乾く」

「技研の人ってそういうのも見るんだな」

「人も物も見る仕事だもの」


そう言って笑う顔を、荒臣は横から一度だけ見た。何も言わない。何も言わないまま、自分の椀を受け取る。

紺野は少し遅れて座った。荒臣の向かいだった。


「少尉」


荒臣が匙を持ちながら言う。


「はい、閣下」

「今日は勝ったか」


紺野は少し考えた。考えてから答える。


「壊れなかったので、たぶん」


荒臣は笑った。


「そうか、良い答えだ」


それから周囲をぐるりと見回して、少しだけ声を上げる。


「聞け。御親領衛は別に、この国の中心でも何でもない。大局から見れば端だ。端だから雑に使われる。実験台にもされる」


羽場桐が苦い顔をする。否定しない。

荒臣は続ける。


「だが、端が崩れると平時は案外うるさい。今日はそれを潰した。偉い。だから食え」


樋道が手を挙げる。


「褒美、昼飯だけ?」

「不満か」

「いや、美味しいから許す」


食堂に小さく笑いが広がる。大笑いではない。御親領衛はそういう部隊ではない。だが、息が少しだけ揃う笑いだった。


荒臣は椀を口に運び、熱に少しだけ眉を寄せた。猫舌らしい。誰も言わない。言わないが、見ている者は何人かいた。

人間臭さというのは、大仰な告白で出るものではない。こういうところに滲む。


食堂の窓の向こうでは、本部の補助照明が一本ずつ戻っていく。機構は復旧した。帳簿も積み上がるだろう。任務もまた来る。

それでも今は、鍋の湯気と食器の音がある。

荒臣は匙を置き、羽場桐にだけ聞こえる程度の声で言った。


「中尉。今日の報告書、題名は何にする」


羽場桐は一拍も置かずに答える。


「『内部点検補助に伴う一時運用変更』です」


荒臣は肩を揺らした。


「つまらん」

「読みやすい方が後で助かります」

「まあ、それもそうか」


そう言ってまた匙を取る。

御親領衛の昼は、珍しく静かに終わっていった。大きな勝利も敗北もない日だったが、こういう日の積み重ねだけが、次の面倒を少し遅らせる。


この部隊にとって、それは十分に価値のある仕事だった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ