三十二話 荷捌き場の朝
三十二話
32-1 荷捌き場の朝
羽場桐妙子は、現場に出ない時ほど人を現場へ連れて行く。
その朝、紺野健太郎が渡されたのは出動命令書ではなく、薄い確認票だった。紙面に並ぶのは座標と時刻、それに「立会」の二文字だけで、相手の名は九席・高倉源三とある。事件名も被疑者名も書かれていない。代わりに欄外へ小さく、補足のように追記されていた。
――帝都中央卸売区画/薬種・乾物通り/記録照合
「軍人に買い出しの付き添いをさせる気ですか」
紺野が言うと、羽場桐は帳簿から目を上げずに答えた。
「買い出しではありません。市場の流れを見ます。高倉さん一人だと店側が構えませんが、構えなさすぎて逆に舐められることがあります」
「俺が行くと構えるのでは」
「その通りです。今回はそこを見たい」
言い方はいつも通り丁寧で、内容はいつも通り容赦がない。紺野は紙を二つに折り、胸ポケットへ入れた。
「……つまり、脅し要員か」
「抑止力です。言葉を選んでください」
机の向こうで、羽場桐の口元がほんの僅かに動いた。笑ったのではない。訂正が通ったかどうかを見る顔だ。紺野は小さく息を吐く。
「高倉さんは?」
「もう出ています。待たせると市場の機嫌が悪くなるそうです」
「人より市場の機嫌を取るのか」
「市場の機嫌を損ねると、人が困ります」
そこでようやく羽場桐は紺野を見た。
「紺野少尉。今日は斬る仕事ではありません。見て、聞いて、覚えて帰ってください」
「……それが一番向いてないって顔してるでしょう、今」
「いいえ。向いていないからこそ、やってもらいます」
返しが早い。紺野はそれ以上言うのをやめた。言っても無駄だと分かっている時のやめ方だった。
中央卸売区画は、昼前でも朝の顔をしている。
人の声が多い。荷車の音が多い。紙が擦れる音と秤の金属音が多い。帝都の商業地には賑わいの種類がいくつもあるが、ここにあるのは見せるための熱ではなく、回すための熱だ。綺麗に飾る暇がない代わりに、嘘の置き場所も限られる。
高倉源三は、既に薬種問屋の軒先で帳面を開いていた。
くたびれた上着に、野菜の匂いの抜けきらない手。軍人に見えない男が市場で立っていると、それだけで周囲の肩から力が抜ける。御親領衛の中で高倉が効くのは、能力だけではない。こういう場所で「話せる顔」をしているからだ。
「遅いぞ、紺野」
「来いって言ったの羽場桐中尉だろ」
「羽場桐中尉は時間ぴったりだ。お前は“ちょうどいい遅れ方”をしない」
「褒めてるのか」
「困ってる」
高倉は帳面を閉じて、顎で店の奥を示した。
「薬種が妙なんだ。無くなってる物と、無くなり方が。高い薬じゃない。売れる薬でもない。なのに続けて抜ける」
「盗みか」
「盗みだけなら警察で済む。問題は帳面の方だ」
高倉の声が少し落ちる。
「数字が合ってる」
紺野は眉を動かした。
「合ってるのが問題か」
「こういう場所じゃな。人間が動かす帳面は、少しは汚れる。書き損じる。計算を後で直す。揉めた跡が残る。ところが今回のは、抜けてるのに整いすぎてる」
高倉は店の主人に聞こえないよう、帳面の端を指で叩いた。
「綺麗に減ってる。商売の減り方じゃない。誰かが“減らし方”を知ってる手だ」
その言葉に、紺野は路地で見た子供の顔を思い出した。薄い薬。解熱剤。包帯。金にならない盗品。あれが単発ではないなら、線になる。
「明灯会か」
高倉はすぐには頷かなかった。周囲を一度見てから、低く言う。
「名前はまだ出すなよ。ここで出すと、耳が増える」
「耳ね」
「市場はな。壁より耳が多い」
言っていることはもっともだった。紺野は通りを見渡す。荷を担ぐ若い衆、帳場でそろばんを弾く女、客の顔をして立ち話をしているだけの連中。誰がどこまで商売人で、どこからが別口か、見た目では分からない。
分からないから、こういう場所は面倒だ。
面倒な場所で高倉が呼ばれる理由も、よく分かる。
「で、俺は何を見ればいい」
高倉は少し笑った。疲れた人間の笑い方だったが、目だけは明るい。
「お前さんは、店じゃなくて人を見てくれ。帳面を綺麗にする手は、だいたい人間の方に癖が出る」
「癖、か」
「……お前、最近そういうの分かる顔になってきたな。嫌な話だけどよ」
紺野は返さなかった。
返さないまま、通りの奥へ目をやる。
その時だった。人の流れの中に、見覚えのある輪郭が混じった。
年齢の読めない女が一人。店で見た時と同じく、軽い顔をして歩いている。隣には黒髪の若い女が付き、荷札のついた木箱を片手で持っていた。給仕服めいた仕立ての服を着ているのに、この市場では妙に浮かない。服装より、立ち方の方が目を引くからだ。視線を避ける立ち方をしているのに、目だけが逃げない。
黒い瞳に、淡く翠が混じって見えた。光の加減と言い切るには、色が冷たすぎる。
紺野が黙って見ていると、高倉が小声で言った。
「知り合いか」
「……たぶん、古物屋の店主と修理屋だ」
「たぶん?」
「名前を聞いてない」
高倉は呆れたように鼻を鳴らした。
「お前、そういうとこだぞ」
32-2
女の方が先にこちらへ気づいた。
気づいて、すぐに笑う。客商売の笑い方にも見えるし、からかいが始まる前の笑い方にも見える。判別がつきにくいのは、たぶんわざとだ。
「近衛さん。また刀の留め具?」
紺野が答える前に、高倉が割って入った。
「なんだ、知り合いか。なら話が早い。あんた、こいつを少し人間らしくしてやってくれ」
「それは難しい注文ね」
女は即座に返した。間がいい。市場の人間とも、軍人とも違う間だ。
紺野は軽く眉を顰める。
「俺を売り物みたいに言うな」
「売るには愛想が足りないね」
「買う気もないくせに」
「あるよ。面白いものは買う主義だから」
高倉が喉の奥で笑った。
「いいじゃねえか、会話してる。珍しいもん見た」
「高倉さん」
「悪い悪い。紹介しろよ、さすがに」
そこまで言われて、紺野は女の顔を見た。女は帳場の時と同じく、こちらが困る一拍をちゃんと待っている。待ってから、自分で口を開いた。
「そう言えば、名乗ってなかったね」
「ああ、聞いてないな」
「じゃあ今するわ」
女は市場の喧騒の中で、妙に静かに言った。
「古際名無子。店で呼ぶならそれで通るよ」
言い終えて、隣の黒髪の女へ顎を向ける。
「こっちは未来。口より手の方が喋る子」
未来と呼ばれた女は無表情のまま会釈だけした。
「……どうも」
短い声だった。低くも高くもない。抑えているというより、最初から余計を足さない声だ。
高倉が頭を掻く。
「高倉源三。八百屋だ。こっちは知ってるだろうが紺野少尉」
「知ってるよ。近衛の人は目立つからね。目立つつもりがなくても」
名無子はそう言って、紺野の顔を一度見たあと、通りの奥へ視線を流した。視線が動いた先を追うと、薬種問屋の若い衆が何人か、こちらを気にしている。近衛が市場で立ち話をしていれば気にもなる。だがそれだけではない。気にし方が揃いすぎていた。
紺野が口を開く。
「何を買いに来た」
「今日は古い薬箪笥の仕切り板と、帳場の引き出し。店の棚が足りなくてね」
「古物屋に薬箪笥か」
「古い店には古い箱が似合う」
高倉が横から言った。
「それだけかい?」
名無子は高倉を見て笑みを少し深くする。
「八百屋さんは耳がいいね」
「市場にいるなら普通だ」
「じゃあ普通に答える。薬瓶も見る。瓶そのものじゃなくて、瓶の出どころ」
紺野の目が少し細くなった。
「……何を嗅いでる」
「嗅いでる、は違うかな。古い物ってね、誰の手を渡ったかが残る時がある。今この通り、薬が減る話をしてるでしょ」
高倉が反射的に周囲を見る。名無子は肩を竦めた。
「大丈夫。具体の名は出してない」
「そういう問題じゃないんだよ」
「分かってるわ。分かった上で言ってる」
会話の温度が少し上がった。高倉の声音には市井の警戒があり、名無子の返しには悪びれの薄さがある。紺野は二人の間を見る。どちらも間違っていない時の面倒な空気だった。
未来が木箱を持ち直した拍子に、箱の中で硝子が小さく鳴った。
その音に紺野の意識が寄る。未来の指先は細い。細いのに、箱の重さを嫌っていない持ち方をしている。持ち慣れているというより、重さを計算に入れて動いている手だ。
紺野が言う。
「その箱、中身は」
未来が名無子を見る。名無子は止めない。
「空瓶。洗浄済み。三十七本」
「数まで即答か」
「聞かれると思ったから」
淡々とした返しだった。感情は薄い。だが無礼ではない。人との距離の取り方が、妙に正確だ。黒い瞳に混じる翠の色と合わせて、そこだけ市場の空気から少し浮く。
名無子が紺野を見て、ふっと笑う。
「前に会った時より、今日は機嫌がいいね」
「そう見えるか」
「見える。噛みつく前に一度考える顔してる」
紺野は即座に返しかけて、やめた。前にも似たことを言われたのを思い出したからだ。言葉を変えて同じ場所を触ってくる。わざとなのか、癖なのか判断がつかない。
高倉が横から口を挟む。
「古際さんだったか。あんた、薬の流れに詳しいなら一つ聞く。最近、安い解熱剤と包帯の流れ、偏ってねえか」
名無子はすぐには答えなかった。市場の喧騒を一度聞くみたいに、少しだけ間を置いてから言う。
「偏ってるね。買ってる人間が偏ってるんじゃなくて、集められ方が偏ってる」
「どこへ」
「さあ?そこまでは追ってないわ。追うと嫌な顔されるから」
「誰にだ」
「いろんな人に」
曖昧だ。だが嘘の曖昧さではない。言える線を引いている曖昧さだった。
紺野が問う。
「それを今言う理由は」
名無子はあっさり答えた。
「最近、世間が面白くなってきたからかしら」
高倉が顔をしかめる。
「人が困ってる話を面白がるな」
「困ってるのは人だけじゃないよ。市場も困る。薬が変な抜け方すると、次は値段が壊れる。値段が壊れると、もっと人が困る」
その返しに高倉は黙った。怒りたいのに、筋が通っているから怒り切れない顔だった。
名無子は、その沈黙を拾わない。
拾わないまま、通りの向こうを見た。
「……あ」
軽い声だった。軽いまま、視線だけが鋭くなる。
紺野が反応するより早く、未来が木箱を地面へ置いた。箱を置く音がほとんどしない。手を離した時には、もう身体が動いていた。
人混みの中で一人、荷を抱えた少年が走った。
薬包紙。包帯。見覚えのある、金にならない盗みの形だった。
32-3
「待て」
紺野が声を飛ばす。市場の通りは路地より厄介だ。人が多い。荷が多い。逃げる側にとって障害物が多いということは、追う側にも同じだけ障害物がある。
だが少年の走り方は、やはりおかしかった。
速いわけではない。足があるわけでもない。むしろ転びそうな体勢で、転ばない場所だけを選んで抜ける。自分で選んでいるというより、選ばされている動きだ。
高倉が呻くように言う。
「また子供かよ……」
紺野は答えず、人の肩と荷車の間を縫って距離を詰める。市場の端、干物屋と空き倉の間の細い抜け道で少年の肩が壁に当たった。小柄な体がよろめく。荷を抱えたまま振り返る。目が合う。恐怖はある。だが恐怖の向きが紺野を見ていない。別の何かを見て怯えている目だ。
「下ろせ」
紺野が言う。
少年は首を振る。振りながら、唇だけが別の言葉を探している。
「持ってけって……これ持ってけって言われた、遅いと、遅いと――」
そこで言葉がもつれた。喉が閉じる。肩が強張る。呼吸が浅くなる。
紺野は一歩だけ近づく。脅さない距離ではない。だが時間がない。
「誰に言われた」
「見えない……白い手袋……いや、違う、見えないのに、見え――」
少年の瞳が泳ぐ。言葉の線が切れる直前の顔だった。次に来るのが沈黙か、別の何かか。紺野には分かる。分かってしまう。
手首を掴んだ。
──少年の肌に貼り付いていた薄い癖が、掌へ寄った。
冷たくはない。熱くもない。ただ、喉の奥で嫌な味がする。砂と油を混ぜたような、噛みたくないものの味だ。紺野の胸の底が小さく鳴る。空腹が、寄ってきたものに反応する。
喰えば静かになる。
そう思った瞬間に、紺野は意識して力を切った。出力を抑える。削り取るのではなく、表面だけを剥がす。深く入ると終わり方が悪い。終わり方が悪いと、残る。
結果的に起きた変化は小さい。少年の手首から肘にかけて走っていた緊張の偏りが解け、呼吸の詰まりが戻り、視線の焦点が紺野へ合う。それだけだ。
それだけなのに、見ている側には不気味に映る。
紺野の掌へ寄った“薄い何か”が、形を成す前に沈んだように見えるからだ。
少年が大きく息を吸った。次の瞬間、堰を切ったように泣き出す。
「おれ、やだ、やりたくない、でも母ちゃんの薬、持ってこいって、持ってこないと診ないって……」
言葉が今度は途切れずに出る。乱れているが、生きている出方だ。
紺野は荷を取り上げなかった。代わりに、少年の抱えた包みを片手で支え直して落とさせないようにした。
「泣くのは後にしろ。逃げる気はあるか」
少年は首を横に振る。涙と鼻水でぐしゃぐしゃの顔で、それでもはっきり振った。
「ない……でも、戻ったら、また」
「戻る先を先に言え」
そこへ高倉が追いついてきた。息を切らしながらも、状況を見る目は早い。
「紺野。店主には俺が話つける。お前、その子連れて衛生詰所行け。薬は一旦預かる」
「代金は」
「俺が立てる。後で帳尻は合わせる」
「前借りか」
「そうだよ。俺の得意分野だろうが」
高倉の声には棘がない。だが急いでいる。市場で大人が一人、泣く子供の側に立つだけで、周囲の目はもう集まり始めていた。集まる目は、助けにもなるが、次の噂にもなる。
その時、抜け道の入口から名無子が覗き込んだ。未来は一歩後ろで立っている。黒髪の下の目が、少年の手首と紺野の掌を一度ずつ見た。
名無子が言う。
「今の、優しかったね」
紺野は振り返らない。
「見世物じゃない」
「見てたのは手つきだよ。壊さないように食べた」
「.....あ?」
高倉が名無子を見る。言葉の選び方に一瞬だけ警戒が走る顔だった。
「.....古際さん。言い方」
「悪い?でも違わないでしょ」
紺野はそこでようやく振り向いた。目が少し細い。怒っているというより、踏み込みの深さを測っている目だ。
「……何を知ってる」
名無子は即答しなかった。未来が横で木箱を抱え直す。木箱の中の空瓶が、乾いた音を一つ鳴らした。
「知ってることは多い。でも言うことは少ない」
名無子はそう言って、いつもの軽い笑いを少しだけ引っ込める。
「ただ一つ、今日は言える。追うなら、薬じゃなくて“診る側”を追った方がいい。持っていかれてる量が、患者の数に対して少なすぎる」
高倉の顔つきが変わった。商売人の顔から、数字を扱う人間の顔になる。
「……転売じゃなく、見せ餌か」
「かもしれない。あとはそっちの帳簿の人が上手くやる」
羽場桐のことだろう。名は出さない。だが通じる言い方をする。
紺野は数秒、名無子を見た。問いたいことはある。多い。だが今は少年が先だ。順番を間違えると、後で面倒が増える。
「また店に行く」
紺野が言うと、名無子は肩を竦めた。
「来ればいい。値札のない話は高いけどね」
「最初に名乗った分、少しはまけろ」
その返しに、名無子は目を丸くしてから笑った。
「今のはいいね。ちゃんと人間らしい会話になってる」
高倉が呆れたように首を振る。
「感心してる場合じゃねえぞ。紺野、行け。泣き止む前に運べ」
「分かってる」
紺野は少年の肩を支え、抜け道を出る。強くは押さない。逃がさないだけの力で連れていく。市場の喧騒へ戻ると、人の声と秤の音がすぐに耳へ乗ってきた。
背中で、名無子の声が一度だけ飛んだ。
「近衛さん」
紺野は足を止めずに、首だけ少し向ける。
「何だ」
「その子の前で、あんまり怖い顔しない方がいい。泣き止む前に気絶する」
紺野は短く鼻を鳴らした。
「善処する」
「できない方に賭ける」
未来の小さな声が続いた。初めて少しだけ、皮肉の色が混じっていた。
紺野は振り返らなかったが、口元だけ僅かに動いた。
市場の通りは相変わらず忙しい。荷は流れ、紙は増え、人は値をつける。誰かが困っていても、全部は止まらない。止まらないから生きる人間もいる。
少年の肩越しに見える通りの向こうで、高倉が既に店主へ頭を下げていた。名無子は木箱を指で叩き、何事もなかった顔で未来と歩き出す。
紺野は前を向く。
喉の奥の空腹は、今は静かだった。静かなだけで消えたわけではない。それでも、静かな間に運べるものは運ぶ。今日はそれで足りる。
そう思って、衛生詰所の方角へ足を速めた。




