三十一話 値札のない店
三十一話
31-1 値札のない店
任務の帰りだった。
休暇ではない。待機が解けたわけでもない。近衛の人間が帝都を歩く時、その多くは「今は呼ばれていない」というだけで、呼ばれればすぐ戻れる位置に身体を置いている。紺野健太郎もそうだった。
軍刀の鞘に付けた留め具が一つ、先の現場でわずかに歪んでいた。使えないほどではない。だが使えるからと放っておくと、いずれ余計なところで手間を取る。几帳面だからではない。紺野は面倒が嫌いなだけだ。
帝都の表通りから一本、二本と折れた先に、妙に静かな通りがある。人通りはあるのに声が上ずらず、商いの匂いは濃いのに、値踏みの熱だけが薄い。古い物を扱う店が並ぶ通りというのは、総じて時間の流れが鈍い。
その一角で、紺野は足を止めた。
軒先の風鈴が鳴らない。風はある。のれんは揺れている。揺れているのに、音だけが遅い。そういう店だった。
戸を開けると、乾いた木の匂いと、金属と、紙と、説明のつかない古さが鼻に入る。
「いらっしゃい」
店の奥から女の声がした。軽い声だ。軽いのに耳に残る。
帳場の横で古い皿を拭いていた女は、年齢の読めない顔をしていた。若く見える角度と、古い柱みたいに見える角度が同じ顔にある。正体の定まらない人間というのはいるが、この女はそれを隠そうとしない。
店の隅では、給仕服の若い女が脚立に片足を掛けたまま箱をいじっていた。客が入っても頭だけ動かし、挨拶はしない。黒い髪は店の影に馴染むのに、瞳だけが妙だった。黒く見えるはずの奥に、淡い翠が薄く混じっている。見間違いかと思わせる程度の色で、だから余計に目に残る。
紺野は軍刀を外し、歪んだ留め具を指で示した。
「近衛の紺野と言う者だ。急な話だがこれを急ぎで直せるか」
帳場の女は皿を置いて近づいたが、刀は受け取らない。受け取らず、距離を保ったまま覗き込む。
「直せるよ。直せるけど、直すのは私じゃないね」
「……じゃあ誰だ」
女は顎で奥を示す。
「そっちの不機嫌な子」
「不機嫌じゃない」
店の隅から即座に返ってくる。箱から目を離さないままなので、余計に機嫌が悪く聞こえた。
「ほら。不機嫌」
帳場の女は楽しそうに笑う。紺野は笑わない。笑わないが、帰るほどでもない顔で立っている。
若い女がようやく近づき、紺野の手元を見た。視線は短い。一息で歪みの具合を測り終える目だった。
「……打ち直しで足りる。五分」
「時間は」
「今言った」
「随分と早いな」
「遅い方がいい?」
「.....いや」
若い女は刀を受け取って奥へ戻る。動きに無駄がない。店主の方は人を食ったような笑い方をしているのに、こちらは必要なことしかしていない。その落差が、店の空気をさらに掴みにくくしていた。
帳場の女が紺野を眺める。
「近衛さんは暇そうでいいね」
「暇に見えるだけだ」
「そうなんだ。こんな店に来てるのに」
「自分の店をこんな呼ばわりしていいのか」
「そりゃそうだ」
女は吹き出したように笑った。
笑ってから、ふと紺野の腰元――刀を外した帯のあたりへ目を落とす。
「随分と機嫌が悪いね」
「変な店番に絡まれてるからな」
「そう言う事じゃないよ。なんていうかな、そう──手に噛み跡がある」
紺野の目が細くなる。
「……何の話だ」
「比喩」
女はさらりと言った。
「嫌なものに触った後って、人は歩き方が少し変わる。力の入る場所がずれる。君はいま、喉の奥で歯を立ててる歩き方してるね」
紺野は返さなかった。図星だからではない。図星かどうかを判別する前に、言葉の置き方が気に障ったからだ。
──噛み跡。
その言い方は、胸の底で時々鳴く空腹に妙に近い。
店の外が少し騒がしくなったのは、その時だった。
31-2
最初に聞こえたのは怒鳴り声ではない。物が倒れる音だった。
木箱が割れる乾いた音に続いて、表通りから女の短い悲鳴。通りの空気が一気に立つ。まだ「逃げる」までは行っていない。誰かが何とかしてくれると思っている立ち方だ。
紺野が戸口へ向かうより先に、帳場の女が言った。
「走ってるね」
「.....近衛を見て安心する類じゃないだろう、この辺りの治安は。警察に任せればいい」
「確かに安心はしないだろうね。でも押し付けはするよ」
「.....ちっ」
舌打ちをして、紺野は外へ出た。
通りの角で果物屋の木箱が倒れていた。青い果実が石畳を転がり、店主が片腕を押さえてうずくまっている。若い男が二人、何かを追いかけかけて、追うのをやめて立ち止まっていた。
立ち止まらせたのは恐怖ではない。ためらいだ。追えば届く距離なのに、足が進まない。その一拍で、細い影が路地へ滑り込む。
子供だった。十にも届かない背丈。片手に布包みを抱えている。薬包紙がはみ出していた。
「止まれ」
紺野が声を掛ける。命令の声だ。通りの空気が一拍で変わる。
子供は振り返った。痩せた頬に汗が光り、目だけがひどく怯えている。怯えているのに足が止まらない。追われる者の走りではなく、どこかへ運ばされている走り方だった。
紺野は路地へ踏み込む。
路地は狭い。逃げるには向くが、逃げ切るには向かない。角を二つ曲がったところで子供の足がもつれた。転ぶ。抱えていた布包みが地面へ滑る。
中から出たのは包帯、小瓶、安い解熱剤。
盗品としては地味すぎる。金に換える類ではない。
紺野は距離を詰めた。子供が這うように後ずさる。
「来るな」
「来るなで済むなら近衛はいらんな」
紺野はしゃがまない。立ったまま見下ろし、子供の手首に目を落とした。
細い。汚れている。擦り傷がある。そこまでは普通だった。
問題は、その手首にまとわりつく薄い癖だ。
見えるものではない。だが紺野には分かる。表面に出る前の現象のざらつきがある。何かがこの子供の判断を齧っている。喉を塞ぐほど強くはない。ただ、迷いと恐怖の置き場所をずらすには十分な薄さで貼り付いている。
子供が震えた。
「おれ、悪くない……おれじゃない、言われたんだ」
「誰に」
「知らない、顔、見えない、でも持ってけって……これ持ってけば母ちゃん診るって」
息が荒い。言葉は出る。出るが、必要なところだけ滑る。自分で避けているのではない。避けるように、内側の線を引かれている。
紺野は子供の手首を掴んだ。
──喧騒の底が一段沈んだ。
音が消えたわけではない。空気が冷えたわけでもない。ただ、子供の皮膚に貼り付いていた薄い癖だけが、紺野の掌へ寄った。
俯瞰すれば起きたことは小さい。手首から腕にかけて走っていた緊張の偏りが崩れ、瞳孔の開き方が戻り、呼吸の乱れが「恐慌」から「疲労」に落ちた。それだけだ。
それだけなのに、見ている側には気味が悪い。
剥がしたのでも、払ったのでもない。何かを掴んで、握り潰したように見える。
子供が目を見開く。今まで出なかった涙がようやく出る。
紺野は手を離した。掌の奥に嫌な味が残る。喉の奥の空腹が、ほんの少しだけ静かになる。静かになるから余計に腹が立つ。
「……二度とやるな、とは言わん」
紺野は言った。低い声だったが、突き放し切らない。
「だがやる時は相手を選べ。薬屋から解熱剤盗んでも、お前の母親は治らん。お前だけが残る」
子供は泣きながら頷いた。頷いて、また薬を掴もうとする。その手つきだけで、この盗みが金のためではなかったことが分かる。
路地の入口に、果物屋の主人が立っていた。腕を押さえたまま、近づくべきか迷っている顔だ。
紺野は布包みを拾って子供へ渡した。
「店の方は俺から話す。お前は逃げるな。……逃げられるような足じゃない」
子供は俯いたまま、小さく言った。
「……なんで、近衛なのに」
紺野は少し考え、肩を竦めた。
「今日は気分が悪いんでな」
嘘ではない。説明にもなっていない。だが今の紺野に出せる言葉としては、それが一番ましだった。
31-3
留め具を受け取りに店へ戻ると、若い女はもう作業を終えていた。
「直した。前より硬い」
「助かる」
紺野が受け取って帯へ戻す。その手元を帳場の女が見ている。
「噛み跡、少し薄くなったね」
「その言い方はやめろ」
「じゃあ、爪痕」
「もっと悪い」
女は肩を揺らした。からかわれている。分かっていて、紺野はそれ以上乗らない。
代金を置いて店を出る時、帳場の女が背中へ向けて言った。
「近衛さん。次に来る時は刀じゃなくて無手で来な」
紺野は振り返らない。
「意味が分からん」
「分からないくらいでちょうどいいよ」
通りへ戻る。喧騒はもう日常の形に戻っている。割れた木箱は片付き、果物屋の主人は店先に立ち、さっきの子供の姿はない。逃がしたのではない。あの場の大人たちが見なかったことにしたのだ。帝都の生き方としては珍しくもない。
本部へ戻ると、御親領衛の廊下は相変わらず静かだった。
静かなまま、部屋の中だけに薄い光がある。灯りの色ではない。人の気配の焦点が、一つの机に集まっている時の感じだ。
紺野が扉を開けると、羽場桐は不在だった。代わりに珠洲原陽鳥が、資料の束を机に広げていた。
白衣のまま椅子に腰掛け、片手で紙を押さえ、もう片方の手で細い器具を弄っている。顔を上げて笑う。
「おかえり、健ちゃん」
その呼び方に紺野の眉がわずかに動く。陽鳥はそれを見て、笑みを少し深くした。
「羽場桐中尉がいないから。今はいいでしょ」
「……何してる」
「仕事。回ってきた雑件の整理」
陽鳥は机の端の小さな布片を指先でつまんだ。路地で子供の袖口から採った、あの薄い繊維だ。紺野が衛兵へ預けたものが、もうここに来ている。
早い、と紺野が思った瞬間、陽鳥の青い目が一度だけ細くなる。
「これ、面白いね」
「何が分かる」
「まだ何も。ただ――触った感じが薄い」
その言い方に、紺野は路地の感覚を思い出した。判断を水で伸ばすみたいに均す、あの薄さ。
陽鳥は布片を机へ戻す。戻す時、爪の先ほどの黒い影が指の周りを一瞬だけ這った気がした。見間違いと言い切るには、生き物じみた動きだった。だが次の瞬間には何もない。
癖だ。演出だ。そう思わせる程度に、陽鳥はいつも上手い。
「羽場桐中尉は?」
「会議。戻ったら帳簿で殴るって言ってた」
「誰を」
「みんなを」
陽鳥は笑う。青い瞳は笑っているのに、別の所で何かを測っている顔だ。
紺野は返事をしない。しないまま自分の机の前に立った。路地で掴んだ薄い癖の感触が、まだ掌に残っている。あれを自分が消したのか、壊したのか、あるいは別の何かをしたのか、言葉にしようとすると喉の奥がざらつく。
言葉にしなくていいなら、その方が楽だ。
この部隊は、言葉にしないまま進むことを許してくれる時がある。だから厄介で、だから離れにくい。
廊下の向こうで、誰かが笑った。樋道か、志摩か、三つ子の誰かだろう。遠くで高倉の声もする。生活の声だ。軍の声ではない。
その混ざり方を聞きながら、紺野は椅子に座った。
喉の奥の空腹は、今は黙っている。
黙っている間くらいは、それで足りる。




