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幻想帝都 神州御親領衛記  作者: ニュートリノ鈴木
一章 神州と言う國
31/191

二十九話 湯の命令


二十九話


29-1 湯の命令



水が止まった。


止まったのは配管ではなく、生活の方だ。

御親領衛本部の廊下に貼られた紙はいつもの招集ではない。防護機構の定期整備に伴う断水。時間帯。復旧予定。代替措置。軍の紙らしく整っていて、整っているぶん腹が立つ。現場の血は止められなくても、水は止められるのか、と。


樋道芳芙美が紙の前で声を上げた。本人曰く、今日も給料に見合わないほど可愛い顔をしている。


「断水ってなに? ボクの髪が死ぬんだけど」


支倉真名が視線だけ寄越す。反応が早いのに声は落ち着いている。人前で空気を扱ってきた者の癖だ。


「あなたは髪より先に生活が死ぬよ。いま手袋してる? 床、まだ危ないんだけど」

「反省してるって言ったでしょ」


「言ってるだけでしょ。反省してたら“危ない”って言われる前に手袋が出る」


樋道が口を尖らせるより先に、三木三つ子が紙の下に肩を寄せた。声だけ先に弾む。


「おふろ!」

「双葉はおふろきらい」

「うそ、双葉もすき」


東雲丈雲が頭を押さえた。怒鳴らない。怒鳴ると余計に跳ねると知っている顔だ。


「好き嫌いはいい。勝手に繋がるな。湯船で繋がったら、三人まとめてのぼせる」

「しない!」

「するって言ってないし」

「でもちょっとだけなら」

「ちょっとが一番危ない」


護国綾瀬は壁際で黙っていた。黙っているが、目だけが紙の復旧予定時刻を読んでいる。読んだ上で、誰にも聞かない。聞けば何かが動くのを知っている顔だ。


護国宗一が廊下の角から出てきて、状況を一息で飲み込んだ。


「……混ざってるな。樋道准尉、騒がない。三木、走らない。綾瀬、睨むな。睨んでも水は出ない」


綾瀬が即答する。声だけ丁寧で、内容は棘がある。


「睨んでいません。確認しているだけです、兄さん」

「確認の目が鋭すぎる」


紺野健太郎は紙を一度見て、舌打ちしそうになって飲み込んだ。断水は命令だ。命令に腹を立てても水は出ない。腹を立てるなら、せめて別の対象が欲しい。


「羽場桐中尉は」


宗一が言うより先に、丁寧な声が後ろから刺さった。


「ここにいます」


羽場桐妙子は、すでに代替措置の紙を持っていた。

軍属浴場の時間割。移動順。現地での注意事項。見ただけで面倒が増える紙だが、ないともっと面倒になる種類の紙でもある。


「本日、外出扱いにはしません。移動は班単位。現地での能力使用は禁止。例外は私が判断します」


樋道が不満そうに口を尖らせる。


「なんで禁止。お湯の温度、分子レベルで整えた方が気持ちよくない?」

「気持ちよさのために、国が説明責任を増やす必要はありません」

「冷たいなあ」

「冷たくしないと壊れます」


羽場桐が言い切ったところで、廊下の奥から足音がした。

硯荒臣が歩いてくる。珍しく軍帽は被っていない。帽子がないだけで、将官の顔が少しだけ人間に寄る。


「断水か」


若い声が、妙に日常の温度で落ちた。


「はい、少将閣下。代替として軍属浴場を」

「良い。行け、全員」


羽場桐が一拍、言葉を選ぶ。 


「閣下、全員は——」

「全員だ。私も行く」


廊下の空気が一段だけ変わった。命令の形をしているが、これは命令というより気まぐれに近い。その気まぐれが厄介で、否定もできない。

樋道が口元を押さえて笑いを殺す。


「閣下も? 湯ってそんなに大事?」

「湯は重要だ」


荒臣は真顔で言った。


「湯を軽んじる部隊は、いずれ現場で軽んじられる。身だしなみは軍の皮膚だ。皮膚が荒れれば、先に剥がれる」


真名が小さく息を吐いた。


「なんか言い回しが怖いなあ」


「怖いのは正しい。怖いと思えるうちはまだ皮膚が生きている証拠だ」


意味が分かるようで分からない。分からないのに、羽場桐は一度だけ目を伏せた。反論を諦めた顔ではない。帳尻を合わせる顔だ。


「了解しました。閣下も同行。……護国少尉、引率を」

「承知しました」


宗一が返事をし、紺野へ目を向ける。


「紺野少尉、勝手に抜けるな。今日は生活の任務だ」

「……抜けるとは言ってませんが」


紺野は言い返し、少しだけ言葉を足す。


「……面倒が嫌いなだけです。面倒なら処理は早い方がいい」


荒臣が楽しそうに目を細めた。


「それで良い。面倒を嫌う者は片付ける。面倒に恋する者は育てる」


誰のことを言っているのか、半分は分かる。樋道が胸を張りかけ、真名に肘で止められた。


29-2


軍属浴場は帝都の外れにある。派手ではないが、軍の札があるだけで妙に静かになる建物だ。受付の老人は近衛の腕章を見るなり深く頭を下げ、下げたまま言った。


「今日は……多いですね」

「断水です」


羽場桐の返しは即答だった。事務ではなく戦術の即答だ。宗一が続ける。


「一般客の時間帯には被りません。手順はこちらで守る。迷惑はかけない」


老人は笑った。笑い方が、市井の慣れに近い。


「迷惑はもう慣れてますよ」


その言葉に宗一は何も返さず、頭だけ下げた。


廊下で班が割れた。女湯側へ三つ子と綾瀬、それに真名が向かう。三つ子は扉に吸い込まれそうな勢いで走りかけ、綾瀬が肩口を軽く押さえて止めた。止め方が乱暴ではない。乱暴に見えないように、きっちり力を抜いている。


「走らないでください。足元が滑ります」

「綾瀬、こわい!」

「怖がる必要はありません。転ぶ方が危ないだけです」


真名が小さく笑い、視線を逸らす。笑いを見せ過ぎると、三つ子は調子に乗る。

荒臣は三つ子へ視線を落とす。


「三木。湯で遊ぶな。遊ぶなら陸で遊べ」

「陸ってなに!」

「床のことだ。床でも遊ぶな」


無茶の形をした正論だった。真名が口元を押さえ、笑いを飲み込む。


一方、男湯側へ向かう流れの中で、樋道が何食わぬ顔で女湯へ混ざろうとした。混ざり方が自然すぎて逆に腹が立つ。


「樋道准尉。あなたは男湯です」


羽場桐の声が刺さる。


「えっ」

「戸籍と軍籍は男です。施設の規則はそこに従います」

「今日だけは女湯の空気にしてほしいんだけど!」

「却下です」


即答だった。樋道は真名に助けを求める目を向ける。真名は助けない。助けない顔で、きっちり刺す。


「よかったね。男湯で“可愛い”の価値、証明してきて」

「真名ちゃん、性格悪いよね?」

「あなたが甘えてるだけでしょ」


宗一が間に入った。声を荒げない。荒げないまま、逃げ道だけ潰す。


「樋道准尉。規則に従え。揉めるな。揉めるなら本部で揉めろ」

「本部で揉めたら中尉が帳簿で殴るじゃん」

「殴られたくないなら、ここで片付ける」


樋道は頬を膨らませたまま男湯へ向かった。向かいながら小声でぼやく。


「男湯、絶対ボクが一番可愛い……」


紺野がすれ違いざまに言う。


「余計な勝負をするな」

「勝負じゃないよ、戦略」

「やめろ」


男湯の脱衣場で、樋道は一度だけ周囲を見回した。近衛の軍属ばかりとはいえ、居心地の良い視線ではない。珍獣を見る目と、見ないふりをする目が混ざっている。混ざり方が一番厄介だ。


「……ねえ護国少尉」


樋道の声が少しだけ低い。冗談の皮を薄くした声だ。


「ボク、ここで揉めたら、現場より危ない?」


宗一は即答しない。即答しないまま、目だけで線を引いた。


「揉めるな。今日は湯だ。武功も美も要らない。湯だけでいい」

「なにそれ。逆に難しい」

「難しいなら学べ」


湯気が立つ。男湯の湯気は濃い。濃いが、息が詰まらない。現場の濃さとは違う。湯船の縁に腰を下ろした紺野が短く息を吐く。


「……面倒だ」


宗一が湯に肩まで沈めたまま返す。


「面倒を嫌うのは得意だろう」

「嫌うだけだ。片付けるのは別だ」

「じゃあ今日は片付けろ。断水は命令だ。命令は従う方が早い」


高倉が隣で湯を掬って、ぼそりと言った。


「命令で湯に入るってのも、人生の味がするな……」

「味ってなんですか」

「説明すんな。薄くていい。湯は薄い方が腹に落ちる」

樋道が湯船の端で露骨に不機嫌な顔をしていた。だが入っている。入っているだけで、今日は仕事になっている。


「ボクさ、男湯ってだけでストレスで髪が死ぬ」

「髪の話はさっきした」


紺野が言うと、樋道はむっとする。


「健太郎くん、会話の密度が薄いよ。湯は会話を濃くするものだよ?」

「濃くしなくていい」

「冷たい!」

「じゃあ湯で温まれ」


その瞬間、壁の向こうから三つ子の声が響いた。女湯側だ。声が元気すぎる。元気すぎる声の向こうに、荒臣の声が混ざるのが聞こえた。


「走るなと言っただろう」

「走ってない!」

「走る前の顔をしている」

「双葉はもう走ってる未来が見える!」

「未来を見るな、今を見ろ」


言い回しが怖いのに、言っていることだけは正しい。真名の声が続く。


「三つ子は湯船の縁で回らない。回るのは舞台だけ」

「舞台ってなに!」

「説明しない、落ちるから!」


東雲の声も遠くで聞こえた。男湯側にいるはずなのに、妙に不安そうな声だけが壁を越える。


「……あの、三木の湯加減は——」


荒臣の声が即座に返す。


「死んでいない。なら問題ない」


問題がある基準が怖い。

宗一が小さく息を吐く。


「平和じゃないな」


樋道が湯気の向こうで言った。


「でも、こういうの、ちょっとだけ平和っぽいよね」


宗一はすぐには答えない。


「平和じゃない。休息だ」

「違いは?」

「休息は、終わる」


湯からあがり一息ついた頃、脱衣場側の扉が開き、荒臣が女湯から出てきた。湯上がりの浴衣姿で髪だけ少し湿っている。普段とは違い、その顔の不機嫌さは薄い。ただ、寝ていない人間の鈍さが目の下に残っている。


「少尉」


紺野が顔を上げる。


「顔が硬い」

「いつもです」

「今日は違う。湯に負けている」


紺野の眉が動く。


「湯に負けるって何ですか.....」


荒臣は淡々と言った。淡々としているのに、刺さるところだけ刺さる。


「楽になることに負けるな。楽になれば次に欲しくなる。欲しくなれば次に奪う。奪う癖を自分につけるな」


宗一が目を伏せた。紺野は黙った。腹が立つほど正確な言い方だ。


荒臣はそれ以上言わず、廊下の先へ消える。女湯側へ戻ったのか、給湯室へ行ったのかは分からない。分からないままでいい。今は湯の日だ。湯の日に、分からないものを追うと余計に疲れる。

紺野はまだ湿った髪を手で撫で、もう一度手拭いで拭いた。


「宗一、先に戻る。……まだ紙の匂いの方が落ち着く」

宗一が小さく笑いそうになって、やめた。

「それは褒め言葉じゃないですね」

「褒めてない」

「でしょうね」


外へ出ると夜の空気が冷たい。断水の紙が頭から抜ける程度には冷たい。


本部へ戻れば、またいつもの匂いがする。血より先に紙の匂いがする日もある。


だが今日だけは、湯気の匂いが少し残っている。

残っている間くらいは、それで足りる。足りると思えるうちは、まだ壊れ方を選べる。


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