二十九話 湯の命令
二十九話
29-1 湯の命令
水が止まった。
止まったのは配管ではなく、生活の方だ。
御親領衛本部の廊下に貼られた紙はいつもの招集ではない。防護機構の定期整備に伴う断水。時間帯。復旧予定。代替措置。軍の紙らしく整っていて、整っているぶん腹が立つ。現場の血は止められなくても、水は止められるのか、と。
樋道芳芙美が紙の前で声を上げた。本人曰く、今日も給料に見合わないほど可愛い顔をしている。
「断水ってなに? ボクの髪が死ぬんだけど」
支倉真名が視線だけ寄越す。反応が早いのに声は落ち着いている。人前で空気を扱ってきた者の癖だ。
「あなたは髪より先に生活が死ぬよ。いま手袋してる? 床、まだ危ないんだけど」
「反省してるって言ったでしょ」
「言ってるだけでしょ。反省してたら“危ない”って言われる前に手袋が出る」
樋道が口を尖らせるより先に、三木三つ子が紙の下に肩を寄せた。声だけ先に弾む。
「おふろ!」
「双葉はおふろきらい」
「うそ、双葉もすき」
東雲丈雲が頭を押さえた。怒鳴らない。怒鳴ると余計に跳ねると知っている顔だ。
「好き嫌いはいい。勝手に繋がるな。湯船で繋がったら、三人まとめてのぼせる」
「しない!」
「するって言ってないし」
「でもちょっとだけなら」
「ちょっとが一番危ない」
護国綾瀬は壁際で黙っていた。黙っているが、目だけが紙の復旧予定時刻を読んでいる。読んだ上で、誰にも聞かない。聞けば何かが動くのを知っている顔だ。
護国宗一が廊下の角から出てきて、状況を一息で飲み込んだ。
「……混ざってるな。樋道准尉、騒がない。三木、走らない。綾瀬、睨むな。睨んでも水は出ない」
綾瀬が即答する。声だけ丁寧で、内容は棘がある。
「睨んでいません。確認しているだけです、兄さん」
「確認の目が鋭すぎる」
紺野健太郎は紙を一度見て、舌打ちしそうになって飲み込んだ。断水は命令だ。命令に腹を立てても水は出ない。腹を立てるなら、せめて別の対象が欲しい。
「羽場桐中尉は」
宗一が言うより先に、丁寧な声が後ろから刺さった。
「ここにいます」
羽場桐妙子は、すでに代替措置の紙を持っていた。
軍属浴場の時間割。移動順。現地での注意事項。見ただけで面倒が増える紙だが、ないともっと面倒になる種類の紙でもある。
「本日、外出扱いにはしません。移動は班単位。現地での能力使用は禁止。例外は私が判断します」
樋道が不満そうに口を尖らせる。
「なんで禁止。お湯の温度、分子レベルで整えた方が気持ちよくない?」
「気持ちよさのために、国が説明責任を増やす必要はありません」
「冷たいなあ」
「冷たくしないと壊れます」
羽場桐が言い切ったところで、廊下の奥から足音がした。
硯荒臣が歩いてくる。珍しく軍帽は被っていない。帽子がないだけで、将官の顔が少しだけ人間に寄る。
「断水か」
若い声が、妙に日常の温度で落ちた。
「はい、少将閣下。代替として軍属浴場を」
「良い。行け、全員」
羽場桐が一拍、言葉を選ぶ。
「閣下、全員は——」
「全員だ。私も行く」
廊下の空気が一段だけ変わった。命令の形をしているが、これは命令というより気まぐれに近い。その気まぐれが厄介で、否定もできない。
樋道が口元を押さえて笑いを殺す。
「閣下も? 湯ってそんなに大事?」
「湯は重要だ」
荒臣は真顔で言った。
「湯を軽んじる部隊は、いずれ現場で軽んじられる。身だしなみは軍の皮膚だ。皮膚が荒れれば、先に剥がれる」
真名が小さく息を吐いた。
「なんか言い回しが怖いなあ」
「怖いのは正しい。怖いと思えるうちはまだ皮膚が生きている証拠だ」
意味が分かるようで分からない。分からないのに、羽場桐は一度だけ目を伏せた。反論を諦めた顔ではない。帳尻を合わせる顔だ。
「了解しました。閣下も同行。……護国少尉、引率を」
「承知しました」
宗一が返事をし、紺野へ目を向ける。
「紺野少尉、勝手に抜けるな。今日は生活の任務だ」
「……抜けるとは言ってませんが」
紺野は言い返し、少しだけ言葉を足す。
「……面倒が嫌いなだけです。面倒なら処理は早い方がいい」
荒臣が楽しそうに目を細めた。
「それで良い。面倒を嫌う者は片付ける。面倒に恋する者は育てる」
誰のことを言っているのか、半分は分かる。樋道が胸を張りかけ、真名に肘で止められた。
29-2
軍属浴場は帝都の外れにある。派手ではないが、軍の札があるだけで妙に静かになる建物だ。受付の老人は近衛の腕章を見るなり深く頭を下げ、下げたまま言った。
「今日は……多いですね」
「断水です」
羽場桐の返しは即答だった。事務ではなく戦術の即答だ。宗一が続ける。
「一般客の時間帯には被りません。手順はこちらで守る。迷惑はかけない」
老人は笑った。笑い方が、市井の慣れに近い。
「迷惑はもう慣れてますよ」
その言葉に宗一は何も返さず、頭だけ下げた。
廊下で班が割れた。女湯側へ三つ子と綾瀬、それに真名が向かう。三つ子は扉に吸い込まれそうな勢いで走りかけ、綾瀬が肩口を軽く押さえて止めた。止め方が乱暴ではない。乱暴に見えないように、きっちり力を抜いている。
「走らないでください。足元が滑ります」
「綾瀬、こわい!」
「怖がる必要はありません。転ぶ方が危ないだけです」
真名が小さく笑い、視線を逸らす。笑いを見せ過ぎると、三つ子は調子に乗る。
荒臣は三つ子へ視線を落とす。
「三木。湯で遊ぶな。遊ぶなら陸で遊べ」
「陸ってなに!」
「床のことだ。床でも遊ぶな」
無茶の形をした正論だった。真名が口元を押さえ、笑いを飲み込む。
一方、男湯側へ向かう流れの中で、樋道が何食わぬ顔で女湯へ混ざろうとした。混ざり方が自然すぎて逆に腹が立つ。
「樋道准尉。あなたは男湯です」
羽場桐の声が刺さる。
「えっ」
「戸籍と軍籍は男です。施設の規則はそこに従います」
「今日だけは女湯の空気にしてほしいんだけど!」
「却下です」
即答だった。樋道は真名に助けを求める目を向ける。真名は助けない。助けない顔で、きっちり刺す。
「よかったね。男湯で“可愛い”の価値、証明してきて」
「真名ちゃん、性格悪いよね?」
「あなたが甘えてるだけでしょ」
宗一が間に入った。声を荒げない。荒げないまま、逃げ道だけ潰す。
「樋道准尉。規則に従え。揉めるな。揉めるなら本部で揉めろ」
「本部で揉めたら中尉が帳簿で殴るじゃん」
「殴られたくないなら、ここで片付ける」
樋道は頬を膨らませたまま男湯へ向かった。向かいながら小声でぼやく。
「男湯、絶対ボクが一番可愛い……」
紺野がすれ違いざまに言う。
「余計な勝負をするな」
「勝負じゃないよ、戦略」
「やめろ」
男湯の脱衣場で、樋道は一度だけ周囲を見回した。近衛の軍属ばかりとはいえ、居心地の良い視線ではない。珍獣を見る目と、見ないふりをする目が混ざっている。混ざり方が一番厄介だ。
「……ねえ護国少尉」
樋道の声が少しだけ低い。冗談の皮を薄くした声だ。
「ボク、ここで揉めたら、現場より危ない?」
宗一は即答しない。即答しないまま、目だけで線を引いた。
「揉めるな。今日は湯だ。武功も美も要らない。湯だけでいい」
「なにそれ。逆に難しい」
「難しいなら学べ」
湯気が立つ。男湯の湯気は濃い。濃いが、息が詰まらない。現場の濃さとは違う。湯船の縁に腰を下ろした紺野が短く息を吐く。
「……面倒だ」
宗一が湯に肩まで沈めたまま返す。
「面倒を嫌うのは得意だろう」
「嫌うだけだ。片付けるのは別だ」
「じゃあ今日は片付けろ。断水は命令だ。命令は従う方が早い」
高倉が隣で湯を掬って、ぼそりと言った。
「命令で湯に入るってのも、人生の味がするな……」
「味ってなんですか」
「説明すんな。薄くていい。湯は薄い方が腹に落ちる」
樋道が湯船の端で露骨に不機嫌な顔をしていた。だが入っている。入っているだけで、今日は仕事になっている。
「ボクさ、男湯ってだけでストレスで髪が死ぬ」
「髪の話はさっきした」
紺野が言うと、樋道はむっとする。
「健太郎くん、会話の密度が薄いよ。湯は会話を濃くするものだよ?」
「濃くしなくていい」
「冷たい!」
「じゃあ湯で温まれ」
その瞬間、壁の向こうから三つ子の声が響いた。女湯側だ。声が元気すぎる。元気すぎる声の向こうに、荒臣の声が混ざるのが聞こえた。
「走るなと言っただろう」
「走ってない!」
「走る前の顔をしている」
「双葉はもう走ってる未来が見える!」
「未来を見るな、今を見ろ」
言い回しが怖いのに、言っていることだけは正しい。真名の声が続く。
「三つ子は湯船の縁で回らない。回るのは舞台だけ」
「舞台ってなに!」
「説明しない、落ちるから!」
東雲の声も遠くで聞こえた。男湯側にいるはずなのに、妙に不安そうな声だけが壁を越える。
「……あの、三木の湯加減は——」
荒臣の声が即座に返す。
「死んでいない。なら問題ない」
問題がある基準が怖い。
宗一が小さく息を吐く。
「平和じゃないな」
樋道が湯気の向こうで言った。
「でも、こういうの、ちょっとだけ平和っぽいよね」
宗一はすぐには答えない。
「平和じゃない。休息だ」
「違いは?」
「休息は、終わる」
湯からあがり一息ついた頃、脱衣場側の扉が開き、荒臣が女湯から出てきた。湯上がりの浴衣姿で髪だけ少し湿っている。普段とは違い、その顔の不機嫌さは薄い。ただ、寝ていない人間の鈍さが目の下に残っている。
「少尉」
紺野が顔を上げる。
「顔が硬い」
「いつもです」
「今日は違う。湯に負けている」
紺野の眉が動く。
「湯に負けるって何ですか.....」
荒臣は淡々と言った。淡々としているのに、刺さるところだけ刺さる。
「楽になることに負けるな。楽になれば次に欲しくなる。欲しくなれば次に奪う。奪う癖を自分につけるな」
宗一が目を伏せた。紺野は黙った。腹が立つほど正確な言い方だ。
荒臣はそれ以上言わず、廊下の先へ消える。女湯側へ戻ったのか、給湯室へ行ったのかは分からない。分からないままでいい。今は湯の日だ。湯の日に、分からないものを追うと余計に疲れる。
紺野はまだ湿った髪を手で撫で、もう一度手拭いで拭いた。
「宗一、先に戻る。……まだ紙の匂いの方が落ち着く」
宗一が小さく笑いそうになって、やめた。
「それは褒め言葉じゃないですね」
「褒めてない」
「でしょうね」
外へ出ると夜の空気が冷たい。断水の紙が頭から抜ける程度には冷たい。
本部へ戻れば、またいつもの匂いがする。血より先に紙の匂いがする日もある。
だが今日だけは、湯気の匂いが少し残っている。
残っている間くらいは、それで足りる。足りると思えるうちは、まだ壊れ方を選べる。




