百九十話
百九十話
190-1
翌朝、紺野健太郎は最初から機嫌が悪かった。
機嫌が悪い、という言い方も少し違う。怒っているのではない。苛立ってもいない。ただ、頭の中にずっと引っ掛かったまま剥がれないものがある時、人間の顔はだいたい機嫌が悪く見える。昨夜の市場裏から、白いものの声だけが取れない。
またみた。
とおい。ちかい。
言葉としては足りない。
足りないくせに、足りなさの方でこちらの奥へ入ってくる。意味が足りないから切れないのではない。意味になり切っていないのに、感触だけが先に分かってしまう。そういうものは、たいてい質が悪い。
詰所では朝から紙が増えていた。
羽場桐妙子の机の右端に、新しい欄が一つだけ生えている。
視認地点。発話有無。反応差。接近時挙動。
そして最後に、妙に広い余白がある。記録しきれないもののための余白だ。余白が増え始めた報告書は、だいたい碌でもない。
高倉源三が、その余白を見て眉を寄せた。
「なあ中尉、これもう最初から帳簿の負けじゃねえか」
羽場桐は紙を揃えながら答える。
「勝ち負けの話ではありません」
「いや、負けだろ。枠の外を先に広く取った時点で、もう“中に収まりません”って言ってるようなもんだ」
「……ええ」
妙子は淡々と頷いた。
「その通りです」
高倉が鼻を鳴らす。
「正直で助かるが、助からねえな」
宗一が地図を広げたまま言う。
「昨夜の市場裏、今日の昼にもう一度見ますか」
綾瀬が即座に刺す。
「見るだけなら意味が薄いです。同じ線をなぞるなら、今度は反応の差を取るべきです」
「反応の差、とは」
「呼び方です」
その一言で、詰所の中の視線が少しだけ紺野へ寄った。
紺野は机の端に腰を掛けたまま答える。
「昨日のあれか」
綾瀬は振り向かないまま続ける。
「“あれ”では反応が無かった。“白いの”では反応した。なら、その間にあるものを試す価値はあります」
樋道が、珍しくそこに乗る。
「わかる。人間もさ、急にお前って言われるより、“そこの子”とかの方が先に耳が行く時あるじゃん」
真名が見る。
「その例え方は軽いですが、言っていること自体は間違っていません」
志摩が椅子の背にもたれたまま、低く言う。
「紺野少尉」
「何だ」
「あんた、呼ぶ気だろ」
紺野は少しだけ視線を逸らした。
「……決めてねえよ」
「そういう返しをする時は、決めてる時だ」
高倉が茶をすすりながら言う。
「だいたいよ、名前ってのは付けようとして付くもんばっかじゃねえ。口が勝手に選ぶ時の方が、後から長い」
羽場桐が紙へ目を落としたまま言う。
「ですので、今日は試行を取ります」
陽鳥が壁際から口を挟んだ。
「試行って言い方やめた方がいい」
その声は少しドライだ。
だが完全に事務でもない。気に入らない時の乾き方だった。
「対象が何であれ、人の形してるものに向かって、その言い方は判断を歪ませる」
羽場桐は顔を上げる。
「他に適当な語がありますか」
「無いけど、だからって先に道具みたいに扱うと、こっちの足場まで安くなるって話よ」
紺野がそこで初めて顔を上げた。
「……昨日、お前も同じこと思ったか」
陽鳥は少しだけ間を置いた。
「思った」
それは短い返答だったのに、妙に近かった。
「現象のままで見ようとすると、向こうの方が先にこっちを知ってる感じがする。だから嫌なのよ」
高倉が頷く。
「分かる。野菜でもよ、名前で仕入れ見てる時はまだ物だが、“あの畑のあいつが作った大根”って見た瞬間、値段の付け方がちょっと変わる」
樋道が顔をしかめる。
「その例え、今すっごい嫌」
「俺も言ってて途中で嫌になった」
羽場桐は小さく息を吐いた。
「結論としては、今日もう一度出ます」
一人一人、会話がその場で立っている。
それでも中心だけは、少しずつ紺野の方へ寄っていた。
「珠洲原主任、紺野少尉。私も同行します」
「また三人か」
紺野が言う。
陽鳥が返す。
「何。私と二人なら行く?」
「行く」
「即答するな」
「じゃあお前は来るなよ」
「それはもっと駄目」
そこまで言ってから、陽鳥は一度だけ紺野を真正面から見た。
「健太郎。今日のあんた、自分でも分かってるでしょ」
「何が」
「呼び方が決まると、もう後戻りできないってこと」
紺野は返事をしなかった。
返事をしないということは、図星だったということだ。
名付けとは支配ではない。支配ならまだ単純だ。もっと面倒で、もっと近い。呼び方が定まるというのは、相手がこちらの中で「現象」から「位置」へ変わることだ。位置になったものは、もう簡単には外へ戻せない。
羽場桐が言う。
「だからこそ、今のうちに試します」
「嫌な言い方ね」
陽鳥が呟く。
「嫌な段階ですので」
妙子の返答は、あまりにも羽場桐妙子だった。
190-2
昼の庁舎前広場は、晴れていると広く見える。
白線、石段、車寄せ、旗、警衛、伝令、車両。配置されているものは平時と変わらない。だが晴れた日は、影が薄い。そのせいで、人間は「何でも見えている」と勘違いする。見えているから見間違わないと思い込む。そこへ異物が立つと、かえって気付くのが遅れる。
三人が広場へ出た時、陽は真上に近かった。
兵の往来は多い。
だが軍の人間ほど、見たくないものを視界の端へ流す訓練ができている。だから白いものが出るなら、むしろ民間人の流れが薄く差す時の方が見つけやすい。羽場桐の判断で、今日の確認場所は庁舎前の広場になった。
紺野は車寄せの柱の影に立つ。
陽鳥はその半歩後ろ。
羽場桐はさらに一歩引き、記録帳を開いた。
「本当に出ると思う?」
陽鳥が訊く。
「出る、じゃなくて」
紺野は広場の向こうを見たまま言う。
「もう、こっちが待ってると知られてる感じがするな」
「それ、気持ち悪いわね」
「お前も今更だな」
「今更だから言ってるの」
会話の量は増えていた。
増えているのに、軽くなっていない。
軽くならないのは、二人とも今、自分が何を怖がっているのかを少しずつ言葉にし始めているからだ。
羽場桐が低く言う。
「来ます」
その声で、二人の視線が同時に上がる。
広場の正面、掲示板の脇。
白い紙が何枚も重なって貼られている、その少し外側。
石段の白と旗の白の間に、立っていた。
白い。
昼の光の下で見ると、夜よりも余計に輪郭が決まらない。
光があるから形が分かるのではない。むしろ、現実の輪郭が全部強い分、その中であれだけが「形の定まらなさ」を保っていることの方が異様だった。
白い服。白い影。白い子供。
報告書のどれも違う。
どれも外れてはいない。
だから余計に嫌だ。
「……いたな」
紺野が言う。
陽鳥が小さく息を吐く。
「ええ」
白いものは、こちらを見ている。
見ている、というより、先に知っているものが改めて確認しているような目だった。目の輪郭なんて読めないくせに、視線の向きだけは奇妙に分かる。
紺野は一歩前へ出かけて、陽鳥に袖を引かれた。
「待ちなさい」
「分かってる」
「顔が分かってないわよ」
羽場桐が記録帳を押さえたまま言う。
「呼称確認を始めます」
「嫌な言い方ね」
陽鳥がまた言う。
「代替案をどうぞ」
「今は無いけど」
「では、このままで」
紺野が息を吐く。
「……おい」
白いものは反応しない。
「お前」
変化無し。
「あの子」
白いものの肩が、ほんの僅かに動いた。
羽場桐がすぐ書く。
「“あの子”で微反応」
陽鳥が横から言う。
「女とも子供とも決まってないのに、そう呼ばれると少し寄るのね」
白いものの立ち位置が一つ近づいた。
歩いたのではない。
距離だけが少し削れた。
「今の」
「ええ。移った」
羽場桐の声は平らだ。
平らなのに、指先だけが少し強く紙を押さえている。
紺野は喉の奥で舌打ちを殺した。
「あの子、じゃ足りないのか」
陽鳥が目を細める。
「足りないって言い方は違う。向こうが、こっちの呼び方の重さ見てる」
紺野は少し黙った。
白いものは待っている。
待っている、ように見える。
呼び方の次を。それはもう、現象ではない。
「……白いの」
その一言で、白いものの顔のあたりが、ほんの少しだけこちらへ向いた。
今までより、はっきり。
「反応が強い」
羽場桐が短く記録する。
陽鳥の指が、紺野の袖をまた掴む。
「健太郎」
「何だ」
「今の、かなり近い」
紺野は白いものから目を離さないまま、低く言う。
「じゃあ何だ。向こうが選ばせてるじゃねえか」
その言い方に、陽鳥は返せなかった。
返せないということは、否定しきれないということだ。
白いものの口が動く。
「……しろ、い」
繰り返した。
ただの反響ではない。
受け取って、試して、まだそれでいいのか確かめている。
名前ではない。
だが、もう「あれ」では済んでいない。
190-3
そのまま数秒、誰も動かなかった。
広場の雑音だけが遠くで続く。
現実はいつも通りだ。いつも通りなのに、その真ん中へ、呼び方だけが異物として刺さっている。
「……何を見てる」
紺野が、思わずそう訊いていた。
白いものは答えない。
答えないが、黙ってもいない。
言葉を口へ乗せる順番が、まだ人間の作法に馴染んでいないだけだ。そういう黙り方をする。
「また、みた」
今度は前より少し近く聞こえた。
羽場桐の記録帳の先が一瞬止まり、すぐにまた動き出す。
陽鳥が低く言う。
「何を」
白いものは少し考えるように止まる。
「……とおいの」
「何が遠いの」
「ちかい」
返答になっていない。
返答になっていないのに、適当に喋っている感じが無い。
紺野は苛立った。苛立ちの中身は分かっている。
意味が通らないからではない。
意味が通らないくせに、向こうがこっちの方を先に知っている顔をしているからだ。
「分かるように言え」
陽鳥がすぐ止める。
「健太郎」
「何だよ」
「今それやると、向こうじゃなくてあんたが崩れる」
「崩れてない」
「崩れてる一歩手前よ」
会話が短く終わらない。
終わらないからこそ、そこに今の二人の距離が出る。
紺野は歯噛みするみたいに息を吐いた。
白いものは、しばらく紺野を見ていた。
それから、ごく僅かに顔の輪郭だけを緩める。笑った、とは言い切れない。だが笑みに一番近い変化だった。
「みる、から」
「何をだ」
「あなた」
その一語だけで十分だった。
陽鳥の指が、知らないうちに紺野の袖から手首へ移る。
止めるためというより、まだそこに熱があるか確かめるみたいな掴み方だった。
羽場桐が低く言う。
「対象の紺野少尉への指向を明示」
「対象って言うな」
陽鳥が尖る。
「……今それ、嫌」
羽場桐は目を上げずに返す。
「嫌ですが、記録には必要です」
それだけで、妙子もそれ以上は言わない。
白いもの――白いの、としかまだ呼べない何かは、今度は自分から半歩だけ下がった。
下がった、というより、現実の方へ薄く戻り始める。
石段の白。掲示板の紙。昼の反射。
見間違いの材料が、周囲から一斉にこちらへ寄ってくる。
紺野が、ほとんど無意識で言った。
「待て」
白いものはそこで一度だけ止まる。
「……しろい」
それが最後だった。
白いの、とこちらが呼んだ、その呼び方を、向こうが確かめるように口にする。
まだ名ではない。
だが、名前の手前だ。
手前まで来た呼び方は、たいてい次にはもう引き返せない。
次の瞬間には、白いものは昼の広場へ薄く散った。
残るのは現実だけだ。
広場は何事もなかった顔をしている。人間の世界は、だいたいそういう厚かましさで持っている。
陽鳥が、ようやく手首を離した。
「……戻るわよ」
紺野はまだ広場の中央を見ている。
「健太郎」
「分かってる」
「本当に?」
「……いや、多分分かってない」
その返答だけは、妙に正直だった。
羽場桐が記録帳を閉じる。
「本日の結論を置きます」
紺野が振り返る。
妙子は平らに言う。
「“あれ”では反応しない。“あの子”で微反応。“白いの”で明確に応答。加えて、対象は紺野少尉を明確に認識している」
陽鳥が付け足す。
「あと、向こうはたぶん、こっちが呼び方を決めるのを待ってる」
紺野が眉を寄せる。
「待ってる、か」
「ええ」
「嫌な言い方だけど、それが一番近い」
紺野は、もう一度だけ広場を見る。
まだ名ではない。
だが、現象と呼ぶには近く、名前と呼ぶにはまだ早い。
その中途半端さが、どうしようもなく気持ち悪い。
気持ち悪いのに、もう放っておく側へは戻れない。
「……次だな」
紺野が言う。
陽鳥がすぐ返す。
「そうね。次で、多分決まる」
「何がだよ」
陽鳥は紺野を見た。
「あれの呼び方が」
それだけ言って、三人は庁舎へ戻った。
晴れた日の広場は明るい。
明るいが、その明るさの中へ今しがた何が立っていたのかを、もう三人とも忘れられない。
呼び方は、名になる前から人の立ち位置を決め始める。今はまだ、その手前だった。
だが手前まで来た以上、次はもう、ただの視認事案では済まない。




