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幻想帝都 神州御親領衛記  作者: ニュートリノ鈴木
最終章 人の選択
193/193

百九十一話


百九十一話


191-1


その日の仕事は、終わる前から終わっていた。


紙は残っている。決裁も残っている。

補修進捗、巡回再配置、相談窓口の延長、対外危機評価のたたき台。国家が平時の顔へ戻るための手順は、机の上にいくらでも積まれている。だが御親領衛の詰所にいる人間の頭は、もうどの紙にも真っ直ぐ乗っていなかった。


呼び方が手前まで来ている。

そこまで来たものは、だいたい次にもう戻らない。

羽場桐妙子は、その事実を紙の山の向こうで正確に理解していたし、理解しているからこそ、誰にもそれを先に言わなかった。言った瞬間、それは「そういう方針」になる。方針になったものを人は守る。守ろうとした瞬間、たぶん、今日の夜にしか起きないことが死ぬ。


だから何も言わない。

何も言わないまま、必要な書類だけを切り分けていく。

あの女はそういう時、本当に厄介だ。秩序の側に立ちながら、秩序だけでは届かない地点を先に察している。


紺野健太郎は、自分の机の前に座っていた。


座っているだけで、紙には手が進まない。

進まないからといって、落ち着かないわけでもない。落ち着かないというのは、もっと表面の話だ。今のこれは違う。自分の中のどこかが、もう少し先へ寄ってしまっていて、身体だけがまだ詰所に残っている。そういうずれ方だった。

陽鳥がそれを見逃すわけがない。


「健太郎」


事務の声ではなかった。

詰所の中では少し近い呼び方だ。少し近い呼び方をする時、この女はだいたい感情を隠し損ねている。


「何だ」

「紙、逆よ」


紺野は手元を見た。

報告書を上下逆さまに持っていた。


「……ほんとだな」

「ほんとだな、じゃないの」


陽鳥は机の脇まで来て、逆さの紙を奪うように直した。


「今日のあんた、顔より先に手が駄目」

「うるせえな」

「うるさいって言えるならまだまし」


紺野は椅子へ背を預ける。


「で、何の用だ」

「用がないと声かけちゃ駄目?」

「お前がそういう入り方する時、大体用しかねえだろ」


陽鳥はそこで、少しだけ唇を歪めた。

笑うには足りない。だが否定まではしない顔だ。


「じゃあ用よ」

「ほら見ろ」

「今夜、出るでしょ」


詰所の中の何人かの手が、ほんの少しだけ止まった。

高倉がすぐに目を逸らし、真名がその逸らし方を見なかったことにし、樋道は露骨に聞き耳を立てようとして綾瀬に睨まれ、宗一は地図に視線を落としたまま耳だけこちらを向けている。

紺野は、少しだけ黙ってから答えた。


「……出る」

「だと思った」

「止めるか」

「止めるわよ」

「じゃあ何で最初に“出るでしょ”って聞くんだよ」

「止まる気がない顔してる人間に、最初から命令だけ投げても無駄だから」


その言い方が妙に的確で、紺野は舌打ちを飲み込んだ。


「一人では行かせない」


陽鳥が続ける。


「私も行くわ」

「いらない」

「嫌よ」

「お前、それ昨日も言ったろ」


「昨日言って、今日も同じこと思ってるんだから仕方ないでしょ」

「危ないぞ」

「知ってる」


こういう話は、断定だけで切ると、かえって人間の方が嘘になる。

紺野は少しだけ声を落とした。


「姉さん」


その呼び方で、周囲の音が一拍だけ遠くなる。


「……何?」


陽鳥は返す。少しだけ睫毛の影が深くなる。


「お前、怖く無いのか」

「怖いわよ」


即答だった。


「怖いに決まってるでしょ。怖くない顔して見えるなら、私の演技力が高いだけ」


陽鳥は、そこでほんの少しだけ視線を外した。


「……怖いわよ」


それは今までで一番、人間の声に近かった。


「怖いし、嫌。あんなのに健太郎が見つかってる感じも嫌。あんたが、それでも自分から見に行く顔してるのもっと嫌」

「…………」

「でも」


陽鳥は視線を戻す。


「あれを“あれ”のままで放っておく方が、たぶんもっと嫌」


紺野は返せなかった。

その順番は、自分の中にもあったからだ。

怖い。嫌だ。気味が悪い。

それでも放っておく方がもっと嫌だ。

だから出る。

それがもう、自分一人だけの理屈じゃなくなっている。

羽場桐が、紙を揃える音だけを一度置いてから言った。


「二十二時までには戻ってください」


紺野と陽鳥が同時に振り向く。


「止めねえのか」


紺野が問う。


「止めたいですが、止めても行く顔をしているので。でしたら少しでも戻る時刻だけは固定した方がましです」

「中尉」


陽鳥が呆れたように言う。


「職務放棄よ、それ」

「違います」


妙子は平らに返す。


「職務上の敗北を、少しでも小さくしているだけです」


高倉がぼそりと漏らした。


「正直で助かるが、本当に助かってる気はしねえな」

「私もそう思います」


羽場桐はそう言って、記録帳を閉じた。


「ただし条件があります」

「何だ」


紺野が言う。


「今日は、向こうが何を言っても、呼び方を急いで決めないこと」


その一言は、思ったより重く落ちた。

紺野は眉を寄せる。


「……分かるのか」

「分かります」

「何が」

「今日の夜、それが決まり得ることくらいは」


羽場桐は視線を上げた。


「だからこそ、急がないでください」


陽鳥が、珍しく羽場桐の方へ助けを求めるような目をした。


「そういうの、最初に言って」

「今が最初です」

「ちょっと貴女の事嫌いになりそう」

「光栄です」


真名が小さく息を吐く。


「中尉、そういう言い方するから苛立たせるんですよ」

「承知しております」


詰所の空気が、そこで少しだけ人間のものへ戻った。

戻ったが、だからこそ今夜がここまでで最後の「まだ決まっていない時間」だと全員に分かってしまった。


191-2


帝都南区の外れには、川がある。


大河ではない。歴史の中心を流す川でもない。

だが都市の余計なものを静かに流し続けてきた水の顔をしている。古い橋脚、低い護岸、工事の跡、雑草、遠くの高架。川というものは、だいたい街が見せたくない継ぎ目をよく集める。


夜の川縁は、その継ぎ目だけが薄く光る。

街灯は多くない。

多くないから、明るいところと暗いところの境が深い。

深い境というのは、人に見えないもののためではなく、人が「見えている」と思い込むために都合がいい。


紺野と陽鳥は、並んで歩いていた。

二人きりだ。

ここまで来ると、本部の事務口調も少しずつ剥がれる。

川沿いへ出る前、高架下の白い壁で一度見た。

今夜はすぐには消えなかった。

だから追った。追ったというより、向こうが立つ場所の少し後ろを、こちらがなぞらされている感じに近い。


「嫌な歩き方」


陽鳥が言う。


「何がだ」

「こっちが追ってるのに、向こうに散歩コース決められてる感じ」

「まあ、それは分かる」

「でしょ」

「でも止まる気ねえだろ、お前」

「健ちゃんもね」


二人の会話は、無駄に見えて、たぶん無駄ではない。

怖い場面で人間が少しだけくだらないことを言うのは、緊張が緩んだからではない。緩まないままでは身体が持たないからだ。


川面の向こうに、電車の明かりが流れる。

一瞬だけ銀色が走り、すぐ消える。

そのすぐ消える明かりの間に、白いものが立っていた。


護岸の下。低い石段の途中。

川の黒と、街灯の白のちょうど継ぎ目。

夜に見るたび、あれは少しずつ近くなっている。

距離の話ではない。

こちらの視界の中で、向こうが「ただ立っているだけのもの」では済まなくなっている、という意味で。

陽鳥が低く息を吐く。


「いた」


紺野は答えない。

見ている。

向こうも見ている。

川沿いには、人がほとんどいなかった。

遠くの橋に一人。

護岸の上を自転車が一台。

それだけだ。

こういう場所で、二人きりに近い状況が生まれると、呼び方の方が先に近づいてしまう。


「……おい」


紺野が言う。

白いものは反応しない。


「あの子」


肩がほんの少し動く。


「白いの」


今度は顔がこちらを向く。

昨日までと同じだ。

だが今日は、その反応の差が前よりはっきりしている。

陽鳥が小さく言う。


「ほらね」


白いものが、少しだけ首を傾ける。

その動きに、紺野は妙な苛立ちを覚えた。

向こうの方が、こちらの逡巡を楽しんでいるように見えたからだ。

実際に楽しんでいるかどうかは分からない。

分からないが、名が定まるのを待っている感じだけは、もう隠しようがない。


「何だ」


紺野が低く言う。


「何待ってる」


白いものは、少し考えるように止まった。


「……なまえ」


その一語に、陽鳥の指がぴくりと動いた。

紺野は息を止める。


「待ってるのか」

「…………」

「俺が付けるのを」


白いものは答えない。

だが、答えないこと自体が答えに近かった。

陽鳥が紺野の袖を掴む。


「健太郎」

「分かってる」

「今、付けたら戻れないって言ってるの」


その言い方は、昨夜の羽場桐より少しだけ感情に寄っていた。

理屈ではなく、もっと個人的な恐れとして言っている。


「戻るって何にだよ」


紺野が言う。


「ただの視認に」


陽鳥の返答は早かった。


「ただの視認に戻れない。呼んだ瞬間、向こうがこっちの中で位置になる」

「もうとっくになってるだろ」


その一言に、陽鳥は数秒だけ黙った。

やがて、言う。


「だから嫌なのよ」


白いものはそのやり取りを黙って見ていた。

黙っているのに、黙って立つだけのものではなくなっている。

そこが一番不吉だった。

紺野は、喉の奥で一度だけ息を整えた。


「あの子、でも駄目らしい」

「ええ」

「白いの、でも足りない」

「そう」

「じゃあ何だ」


陽鳥は、そこで紺野の袖を掴んだまま少しだけ目を伏せた。


「それを私に聞くの」

「聞くに決まってるだろう」

「意地悪ね」

「それはお互い様だろ」

「……そうね」


二人の会話は、ようやくそこまで来ていた。


191-3


川の音は小さい。

大きい川ではないからだ。

だが小さい音ほど、静かな夜には人の息の置き方まで拾う。

紺野の呼吸。陽鳥の呼吸。

白いものの、呼吸をしているかどうかも分からない立ち方。

その全部が、夜の薄い水面の上で一度だけ似た形になる。


「なあ」


紺野が言った。

白いものは、こちらを見る。


「お前、白いな」


それは、名付けではなかった。

ただの確認だ。

事実の言い直しだ。

だが人間は、たまにその言い直しの中で、いつの間にか呼び方の方を決めてしまう。

白いものは、ほんの少しだけ笑ったように見えた。


「……しろい」


紺野は続ける。


「ずっと白い。夜でも昼でも、駅でも市場でも、庁舎前でも、全部同じように白い。だから、白いのって呼ぶしかなかった」


陽鳥が、何か言おうとしてやめる。 

ここで止めると、もう違う。

止めるべきなのに、止めた瞬間に壊れる気配がある。

だから黙るしかない。

紺野の声は低かった。


「だが、それだと長いし、何より気持ちが悪い」


白いものは黙っている。

待っている。

待っているように見える。

その待ち方が、まるで名前を貰う直前の子供みたいで、どうしようもなく不吉だった。


「……白」


その一音は、思ったより軽く落ちた。

他愛も無い軽い名前ほど、たまに人の喉に深く残る。

白。

それだけだ。色の名でしかない。

何も分かったことにはならない。

ならないのに、その瞬間、今までの「あれ」「あの子」「白いの」とは違う何かが、確かに向こうへ届いた。


それが、止まる。

止まる、というのも少し違う。

今まで立っていたものが、初めてその場で「そこへ呼ばれた」と理解したように見えた。


「……しろ」


今度は繰り返しではない。

確かめるでもない。受け取った。

陽鳥の指が、紺野の袖からゆっくり離れる。

その仕草だけで十分だった。

もう止めても意味が無いところへ来たと、この女も理解したのだ。

白は、一歩だけ石段を上がった。

歩いた。

今までは距離だけが滑っていたのに、今度はちゃんと一歩だった。

足音はしない。

だが歩いたとしか見えない。

名前を得たことで、わずかに人の側へ寄ったような、その一歩。


「何で俺なんだ」


紺野が訊く。

白は少し考える。

言葉を探している。

それがもう、現象の黙り方ではない。


「……みる、から」

「何を」

「おわりの、ほう」


またその答えだった。

終わり。

単語の断片だけが、毎回同じ方へ落ちる。

直接説明しないくせに、どこへ連れて行きたいかだけは妙に分かる。


「俺に何を見せる」


紺野が重ねる。

白の目が、わずかに揺れた。


「とおいの」

「それは昨日も聞いた」

「ちかい」

「だから、それが何だよ」


白は、今度はすぐには答えない。

答えない時間の長さが、前より人間に近かった。

考えている。

考えているように見えるだけかもしれない。

だがそう見えること自体が、もう大きすぎた。

やがて、ごく小さく言う。


「……まだ」


その一語だけで、紺野はこれ以上詰めても今夜は無理だと分かった。

まだ。

何が、とは言わない。

だが、今はまだそこまでしか言えない、と向こうが自分で線を引いた。

なら今夜ここでそれを破らせる意味はない。


「白」


紺野がもう一度呼ぶ。

白は、今度はすぐに顔を上げた。


「次、出るなら」


紺野は言う。


「もう少しちゃんと喋れ」


陽鳥がそこで、半ば呆れたみたいに息を吐く。


「健ちゃん」

「何だよ」

「その言い方、あんた完全に向こうを“次も来る相手”として扱ってる」

「だが来るだろう」

「そうだけど」

「じゃあいいだろ」


陽鳥は数秒だけ黙ってから、小さく首を振った。


「よくないわよ」

「何が」

「よくないから、よくないの」


その返しは少し子供っぽかった。

少し子供っぽいのに、今の陽鳥にはそれしか言えないのだと分かる。

怖い。止めたい。

でももう、呼び方が定まった。

定まった以上、ただ壊せとは言えない。

そういう詰まり方をしている。


白は、その二人を見ていた。

見ているだけで、何も言わない。

だが、その沈黙はもう現象のものではない。

誰かの会話の中に、自分が置かれていると分かった者の黙り方だ。

川面の向こうで、遅い列車の光が一度だけ流れる。

その瞬間、白の輪郭が薄くなる。


「待て」


紺野が言う。

白は消えかけたまま、ほんの少しだけ顔を上げた。


「……しろ」


今度は自分の名をなぞるみたいに言った。

それが最後だった。

白は、夜の川縁へ薄く散った。

護岸の白。街灯の反射。水面の細い光。

現実はいつも通りだ。

だが、もう今のを現象とは呼べない。

陽鳥が静かに言う。


「終わったわね」

「何がだ」

「戻れなくなる段階が、よ」


紺野は返事をしなかった。

返事をしないまま、白がいた石段を見ていた。

白。

色の名でしかない。

なのに、もうそれ以外では呼べない。

名を与えた。

受け取られた。

向こうもそれを自分のものとして口にした。


それで十分だった。

呼び方が、ようやく名前になった。

そして名前になった以上、次はもう、人類の拒絶が立つ番だ。


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