百九十一話
百九十一話
191-1
その日の仕事は、終わる前から終わっていた。
紙は残っている。決裁も残っている。
補修進捗、巡回再配置、相談窓口の延長、対外危機評価のたたき台。国家が平時の顔へ戻るための手順は、机の上にいくらでも積まれている。だが御親領衛の詰所にいる人間の頭は、もうどの紙にも真っ直ぐ乗っていなかった。
呼び方が手前まで来ている。
そこまで来たものは、だいたい次にもう戻らない。
羽場桐妙子は、その事実を紙の山の向こうで正確に理解していたし、理解しているからこそ、誰にもそれを先に言わなかった。言った瞬間、それは「そういう方針」になる。方針になったものを人は守る。守ろうとした瞬間、たぶん、今日の夜にしか起きないことが死ぬ。
だから何も言わない。
何も言わないまま、必要な書類だけを切り分けていく。
あの女はそういう時、本当に厄介だ。秩序の側に立ちながら、秩序だけでは届かない地点を先に察している。
紺野健太郎は、自分の机の前に座っていた。
座っているだけで、紙には手が進まない。
進まないからといって、落ち着かないわけでもない。落ち着かないというのは、もっと表面の話だ。今のこれは違う。自分の中のどこかが、もう少し先へ寄ってしまっていて、身体だけがまだ詰所に残っている。そういうずれ方だった。
陽鳥がそれを見逃すわけがない。
「健太郎」
事務の声ではなかった。
詰所の中では少し近い呼び方だ。少し近い呼び方をする時、この女はだいたい感情を隠し損ねている。
「何だ」
「紙、逆よ」
紺野は手元を見た。
報告書を上下逆さまに持っていた。
「……ほんとだな」
「ほんとだな、じゃないの」
陽鳥は机の脇まで来て、逆さの紙を奪うように直した。
「今日のあんた、顔より先に手が駄目」
「うるせえな」
「うるさいって言えるならまだまし」
紺野は椅子へ背を預ける。
「で、何の用だ」
「用がないと声かけちゃ駄目?」
「お前がそういう入り方する時、大体用しかねえだろ」
陽鳥はそこで、少しだけ唇を歪めた。
笑うには足りない。だが否定まではしない顔だ。
「じゃあ用よ」
「ほら見ろ」
「今夜、出るでしょ」
詰所の中の何人かの手が、ほんの少しだけ止まった。
高倉がすぐに目を逸らし、真名がその逸らし方を見なかったことにし、樋道は露骨に聞き耳を立てようとして綾瀬に睨まれ、宗一は地図に視線を落としたまま耳だけこちらを向けている。
紺野は、少しだけ黙ってから答えた。
「……出る」
「だと思った」
「止めるか」
「止めるわよ」
「じゃあ何で最初に“出るでしょ”って聞くんだよ」
「止まる気がない顔してる人間に、最初から命令だけ投げても無駄だから」
その言い方が妙に的確で、紺野は舌打ちを飲み込んだ。
「一人では行かせない」
陽鳥が続ける。
「私も行くわ」
「いらない」
「嫌よ」
「お前、それ昨日も言ったろ」
「昨日言って、今日も同じこと思ってるんだから仕方ないでしょ」
「危ないぞ」
「知ってる」
こういう話は、断定だけで切ると、かえって人間の方が嘘になる。
紺野は少しだけ声を落とした。
「姉さん」
その呼び方で、周囲の音が一拍だけ遠くなる。
「……何?」
陽鳥は返す。少しだけ睫毛の影が深くなる。
「お前、怖く無いのか」
「怖いわよ」
即答だった。
「怖いに決まってるでしょ。怖くない顔して見えるなら、私の演技力が高いだけ」
陽鳥は、そこでほんの少しだけ視線を外した。
「……怖いわよ」
それは今までで一番、人間の声に近かった。
「怖いし、嫌。あんなのに健太郎が見つかってる感じも嫌。あんたが、それでも自分から見に行く顔してるのもっと嫌」
「…………」
「でも」
陽鳥は視線を戻す。
「あれを“あれ”のままで放っておく方が、たぶんもっと嫌」
紺野は返せなかった。
その順番は、自分の中にもあったからだ。
怖い。嫌だ。気味が悪い。
それでも放っておく方がもっと嫌だ。
だから出る。
それがもう、自分一人だけの理屈じゃなくなっている。
羽場桐が、紙を揃える音だけを一度置いてから言った。
「二十二時までには戻ってください」
紺野と陽鳥が同時に振り向く。
「止めねえのか」
紺野が問う。
「止めたいですが、止めても行く顔をしているので。でしたら少しでも戻る時刻だけは固定した方がましです」
「中尉」
陽鳥が呆れたように言う。
「職務放棄よ、それ」
「違います」
妙子は平らに返す。
「職務上の敗北を、少しでも小さくしているだけです」
高倉がぼそりと漏らした。
「正直で助かるが、本当に助かってる気はしねえな」
「私もそう思います」
羽場桐はそう言って、記録帳を閉じた。
「ただし条件があります」
「何だ」
紺野が言う。
「今日は、向こうが何を言っても、呼び方を急いで決めないこと」
その一言は、思ったより重く落ちた。
紺野は眉を寄せる。
「……分かるのか」
「分かります」
「何が」
「今日の夜、それが決まり得ることくらいは」
羽場桐は視線を上げた。
「だからこそ、急がないでください」
陽鳥が、珍しく羽場桐の方へ助けを求めるような目をした。
「そういうの、最初に言って」
「今が最初です」
「ちょっと貴女の事嫌いになりそう」
「光栄です」
真名が小さく息を吐く。
「中尉、そういう言い方するから苛立たせるんですよ」
「承知しております」
詰所の空気が、そこで少しだけ人間のものへ戻った。
戻ったが、だからこそ今夜がここまでで最後の「まだ決まっていない時間」だと全員に分かってしまった。
191-2
帝都南区の外れには、川がある。
大河ではない。歴史の中心を流す川でもない。
だが都市の余計なものを静かに流し続けてきた水の顔をしている。古い橋脚、低い護岸、工事の跡、雑草、遠くの高架。川というものは、だいたい街が見せたくない継ぎ目をよく集める。
夜の川縁は、その継ぎ目だけが薄く光る。
街灯は多くない。
多くないから、明るいところと暗いところの境が深い。
深い境というのは、人に見えないもののためではなく、人が「見えている」と思い込むために都合がいい。
紺野と陽鳥は、並んで歩いていた。
二人きりだ。
ここまで来ると、本部の事務口調も少しずつ剥がれる。
川沿いへ出る前、高架下の白い壁で一度見た。
今夜はすぐには消えなかった。
だから追った。追ったというより、向こうが立つ場所の少し後ろを、こちらがなぞらされている感じに近い。
「嫌な歩き方」
陽鳥が言う。
「何がだ」
「こっちが追ってるのに、向こうに散歩コース決められてる感じ」
「まあ、それは分かる」
「でしょ」
「でも止まる気ねえだろ、お前」
「健ちゃんもね」
二人の会話は、無駄に見えて、たぶん無駄ではない。
怖い場面で人間が少しだけくだらないことを言うのは、緊張が緩んだからではない。緩まないままでは身体が持たないからだ。
川面の向こうに、電車の明かりが流れる。
一瞬だけ銀色が走り、すぐ消える。
そのすぐ消える明かりの間に、白いものが立っていた。
護岸の下。低い石段の途中。
川の黒と、街灯の白のちょうど継ぎ目。
夜に見るたび、あれは少しずつ近くなっている。
距離の話ではない。
こちらの視界の中で、向こうが「ただ立っているだけのもの」では済まなくなっている、という意味で。
陽鳥が低く息を吐く。
「いた」
紺野は答えない。
見ている。
向こうも見ている。
川沿いには、人がほとんどいなかった。
遠くの橋に一人。
護岸の上を自転車が一台。
それだけだ。
こういう場所で、二人きりに近い状況が生まれると、呼び方の方が先に近づいてしまう。
「……おい」
紺野が言う。
白いものは反応しない。
「あの子」
肩がほんの少し動く。
「白いの」
今度は顔がこちらを向く。
昨日までと同じだ。
だが今日は、その反応の差が前よりはっきりしている。
陽鳥が小さく言う。
「ほらね」
白いものが、少しだけ首を傾ける。
その動きに、紺野は妙な苛立ちを覚えた。
向こうの方が、こちらの逡巡を楽しんでいるように見えたからだ。
実際に楽しんでいるかどうかは分からない。
分からないが、名が定まるのを待っている感じだけは、もう隠しようがない。
「何だ」
紺野が低く言う。
「何待ってる」
白いものは、少し考えるように止まった。
「……なまえ」
その一語に、陽鳥の指がぴくりと動いた。
紺野は息を止める。
「待ってるのか」
「…………」
「俺が付けるのを」
白いものは答えない。
だが、答えないこと自体が答えに近かった。
陽鳥が紺野の袖を掴む。
「健太郎」
「分かってる」
「今、付けたら戻れないって言ってるの」
その言い方は、昨夜の羽場桐より少しだけ感情に寄っていた。
理屈ではなく、もっと個人的な恐れとして言っている。
「戻るって何にだよ」
紺野が言う。
「ただの視認に」
陽鳥の返答は早かった。
「ただの視認に戻れない。呼んだ瞬間、向こうがこっちの中で位置になる」
「もうとっくになってるだろ」
その一言に、陽鳥は数秒だけ黙った。
やがて、言う。
「だから嫌なのよ」
白いものはそのやり取りを黙って見ていた。
黙っているのに、黙って立つだけのものではなくなっている。
そこが一番不吉だった。
紺野は、喉の奥で一度だけ息を整えた。
「あの子、でも駄目らしい」
「ええ」
「白いの、でも足りない」
「そう」
「じゃあ何だ」
陽鳥は、そこで紺野の袖を掴んだまま少しだけ目を伏せた。
「それを私に聞くの」
「聞くに決まってるだろう」
「意地悪ね」
「それはお互い様だろ」
「……そうね」
二人の会話は、ようやくそこまで来ていた。
191-3
川の音は小さい。
大きい川ではないからだ。
だが小さい音ほど、静かな夜には人の息の置き方まで拾う。
紺野の呼吸。陽鳥の呼吸。
白いものの、呼吸をしているかどうかも分からない立ち方。
その全部が、夜の薄い水面の上で一度だけ似た形になる。
「なあ」
紺野が言った。
白いものは、こちらを見る。
「お前、白いな」
それは、名付けではなかった。
ただの確認だ。
事実の言い直しだ。
だが人間は、たまにその言い直しの中で、いつの間にか呼び方の方を決めてしまう。
白いものは、ほんの少しだけ笑ったように見えた。
「……しろい」
紺野は続ける。
「ずっと白い。夜でも昼でも、駅でも市場でも、庁舎前でも、全部同じように白い。だから、白いのって呼ぶしかなかった」
陽鳥が、何か言おうとしてやめる。
ここで止めると、もう違う。
止めるべきなのに、止めた瞬間に壊れる気配がある。
だから黙るしかない。
紺野の声は低かった。
「だが、それだと長いし、何より気持ちが悪い」
白いものは黙っている。
待っている。
待っているように見える。
その待ち方が、まるで名前を貰う直前の子供みたいで、どうしようもなく不吉だった。
「……白」
その一音は、思ったより軽く落ちた。
他愛も無い軽い名前ほど、たまに人の喉に深く残る。
白。
それだけだ。色の名でしかない。
何も分かったことにはならない。
ならないのに、その瞬間、今までの「あれ」「あの子」「白いの」とは違う何かが、確かに向こうへ届いた。
それが、止まる。
止まる、というのも少し違う。
今まで立っていたものが、初めてその場で「そこへ呼ばれた」と理解したように見えた。
「……しろ」
今度は繰り返しではない。
確かめるでもない。受け取った。
陽鳥の指が、紺野の袖からゆっくり離れる。
その仕草だけで十分だった。
もう止めても意味が無いところへ来たと、この女も理解したのだ。
白は、一歩だけ石段を上がった。
歩いた。
今までは距離だけが滑っていたのに、今度はちゃんと一歩だった。
足音はしない。
だが歩いたとしか見えない。
名前を得たことで、わずかに人の側へ寄ったような、その一歩。
「何で俺なんだ」
紺野が訊く。
白は少し考える。
言葉を探している。
それがもう、現象の黙り方ではない。
「……みる、から」
「何を」
「おわりの、ほう」
またその答えだった。
終わり。
単語の断片だけが、毎回同じ方へ落ちる。
直接説明しないくせに、どこへ連れて行きたいかだけは妙に分かる。
「俺に何を見せる」
紺野が重ねる。
白の目が、わずかに揺れた。
「とおいの」
「それは昨日も聞いた」
「ちかい」
「だから、それが何だよ」
白は、今度はすぐには答えない。
答えない時間の長さが、前より人間に近かった。
考えている。
考えているように見えるだけかもしれない。
だがそう見えること自体が、もう大きすぎた。
やがて、ごく小さく言う。
「……まだ」
その一語だけで、紺野はこれ以上詰めても今夜は無理だと分かった。
まだ。
何が、とは言わない。
だが、今はまだそこまでしか言えない、と向こうが自分で線を引いた。
なら今夜ここでそれを破らせる意味はない。
「白」
紺野がもう一度呼ぶ。
白は、今度はすぐに顔を上げた。
「次、出るなら」
紺野は言う。
「もう少しちゃんと喋れ」
陽鳥がそこで、半ば呆れたみたいに息を吐く。
「健ちゃん」
「何だよ」
「その言い方、あんた完全に向こうを“次も来る相手”として扱ってる」
「だが来るだろう」
「そうだけど」
「じゃあいいだろ」
陽鳥は数秒だけ黙ってから、小さく首を振った。
「よくないわよ」
「何が」
「よくないから、よくないの」
その返しは少し子供っぽかった。
少し子供っぽいのに、今の陽鳥にはそれしか言えないのだと分かる。
怖い。止めたい。
でももう、呼び方が定まった。
定まった以上、ただ壊せとは言えない。
そういう詰まり方をしている。
白は、その二人を見ていた。
見ているだけで、何も言わない。
だが、その沈黙はもう現象のものではない。
誰かの会話の中に、自分が置かれていると分かった者の黙り方だ。
川面の向こうで、遅い列車の光が一度だけ流れる。
その瞬間、白の輪郭が薄くなる。
「待て」
紺野が言う。
白は消えかけたまま、ほんの少しだけ顔を上げた。
「……しろ」
今度は自分の名をなぞるみたいに言った。
それが最後だった。
白は、夜の川縁へ薄く散った。
護岸の白。街灯の反射。水面の細い光。
現実はいつも通りだ。
だが、もう今のを現象とは呼べない。
陽鳥が静かに言う。
「終わったわね」
「何がだ」
「戻れなくなる段階が、よ」
紺野は返事をしなかった。
返事をしないまま、白がいた石段を見ていた。
白。
色の名でしかない。
なのに、もうそれ以外では呼べない。
名を与えた。
受け取られた。
向こうもそれを自分のものとして口にした。
それで十分だった。
呼び方が、ようやく名前になった。
そして名前になった以上、次はもう、人類の拒絶が立つ番だ。




