百八十九話
百八十九話
189-1
市場裏から戻った後も、詰所は仕事場の顔をしていた。
紙は増える。印は押される。
報告は束ねられ、分類され、必要なものから順に人の手を離れていく。国家の末端というのは、だいたいそういうものだ。得体の知れないものが広場に立っても、駅裏に現れても、机の上では欄が増えるだけで済まされる。済まされる、ではない。済ませるしかない。そうしないと、先に人間の方が壊れるからだ。
羽場桐妙子は、戻ってきた二人の顔を見て、何も訊かなかった。
訊かない代わりに、空いた机へ記録用紙を二枚置いた。
一枚は時刻と場所のため。
一枚は、記録欄に収まらない部分を書くためだ。
その分け方が、この女らしかった。
紺野は椅子に座ったが、紙へすぐ手を伸ばさなかった。
陽鳥は壁際へ寄りかかり、腕を組んだまま、まだ呼吸の深さだけが市場裏に残っている。
羽場桐が先に口を開く。
「順に確認します」
「……ああ」
「対象は再出現した」
「した」
「発話もあった」
「はい」
「紺野少尉に向いた」
紺野は数秒だけ黙ってから答えた。
「向いた、でいいと思う」
「“また見た”」
羽場桐が、言葉を選ぶように繰り返す。
「あれは、こちらに向けた発話として記録しますか」
陽鳥が先に返した。
「記録はそうしていい」
「珠洲原主任個人の見解は」
「見られてる」
短い。
だが、それだけで十分だった。
真名が小さく息を吐く。
「嫌ですね」
高倉が腕を組んだまま言う。
「嫌で済んでるうちは、まだましだろ」
「そういう言い方をされると、急に現実味が出るのでやめてください」
「現実味がねえまま怖ぇ方が困る」
志摩が椅子の背に頭を当てたまま言う。
「紺野少尉」
「何だ」
「お前、今の見て、まだ追えると思ってんのか」
紺野は少しだけ考えた。
考えたが、考えた時間より前に、答えの形だけは体のどこかで決まっていた気がした。
「追うって言い方は違うな」
「じゃあ何だ」
「向こうが出てくる場所を、こっちが後ろからなぞる感じだ」
「それ、追ってんのとどこが違うんだよ」
「主導権が向こうにあると分かった上で動くかどうかだろ」
志摩はそこで鼻を鳴らした。
樋道が珍しく茶々を入れずに続ける。
「ねえ、それ分かってて行くの、けっこう気持ち悪くない?」
「気持ち悪いな」
紺野は即答した。
「気持ち悪いし、正直、二回目見た時点でもう関わるなって言われた方が楽だ」
「じゃあそうしなさいよ」
陽鳥が言う。
言い方は乾いている。
だが、乾いているのは表面だけで、奥の方の温度は消えていない。
「楽な方がいいなら、もうあんた一人では出ない。私も羽場桐中尉も、宗一も、綾瀬も、最初から全員で囲んで、それで駄目なら駄目で手順ごと閉じる」
「できるならな」
「できるかどうかの話じゃないの。やるかやらないかの話」
紺野はそこで、ようやく陽鳥を見た。
「姉さん」
その呼び方は、室内にいる人間の数に対して少しだけ近すぎた。
だが今の紺野は、それを引っ込める余裕がなかった。
「何だよ、その“閉じる”って」
陽鳥の目が細くなる。
怒ったのではない。
怒る前に、今の呼び方を拾って、場に馴染ませるか無視するかを一瞬で決めた目だ。
「言葉のままよ」
「言葉のままじゃ分かんねえから聞いてんだろ」
「じゃあ分かるように言う」
陽鳥は壁から背を離した。
「健太郎。あれが何かはまだ決められない。決められないけど、向こうがあんたを中心に寄り始めてるのは確か」
「……ああ」
「なら、こっちが“あんた個人の気味の悪さ”として処理してる間はまだいい。でも、それが庁舎前に出て、市場に出て、昼の光の中でも立つなら、もうあんた一人の問題じゃない」
陽鳥の言葉は長くなった。
長くなった時、この女はたいてい、冷静さの下へ別のものを押し込んでいる。
「だから閉じる。閉じるってのは、近づけない、触らせない、広げない、その三つ。そうやって可能性ごと潰すって意味」
紺野は反論しかけて、やめた。
やめたのは説得されたからではない。
説得されてはいない。
ただ、今の陽鳥の言葉が、脅しでも理屈でもなく、「それでも自分はそうする」という告白に近いことが分かったからだ。
羽場桐が、その空気の上へ、わざと平らな声を置く。
「本日の外出はもう禁止します」
「おい」
紺野が振り返る。
羽場桐は視線を逸らさない。
「紺野少尉。あなたは今、行くと言えば行く顔をしているので」
「それを止めるのがお前らの仕事か」
「その顔で外へ出られると、記録が増える前に人的被害が出ます」
「おいしい言い方するじゃない」
樋道がぼそりと言う。
真名が即座に切る。
「黙ってください」
三つ子は三人で顔を見合わせていた。
一葉は言い返したそうにしている。
双葉は既に駄目だと思っている。
三葉は二人の間で不安そうに口を結んでいる。
詰所の空気は、仕事場の顔をしている。
しているが、中身はもう完全に仕事場のそれではなかった。
見ているうちに、見られる側の方が形を持ち始めていた。
189-2
外出禁止は、紺野にとってほとんど意味が無かった。
禁止されていると分かった瞬間、人間は自分がどれだけその外へ出る気だったかを初めて知る。
机に戻り、報告書を見て、夜の巡回線を確認し、宗一のまとめた要注意地点を流し読んでも、視線だけがずっと市場裏へ引かれている。行きたい、ではない。戻らなければならない、に近い。
それが余計に質が悪かった。
夜になっても、詰所の明かりは落ちなかった。
誰も気にしていないふりをしている。
気にしていないふりをする時ほど、人間は耳だけが同じ方向を向く。
紺野は結局、机を離れた。
離れたところで、扉の前に陽鳥がいた。
最初から分かっていたような顔をしている。
いや、分かっていたのだろう。あの女はこういう時だけ、人の先回りを苛立たしい精度でやる。
「行くつもりだった?」
「つもりじゃない。今から行く」
「駄目だって」
「お前、それしか言わねえな」
「今はそれしか言う必要がないから」
「あるだろ」
紺野は少しだけ声を落とした。
「……あれは庁舎前まで来ているんだぞ。市場裏で終わる話じゃない」
陽鳥も声を落とす。
「分かってる」
「分かってるなら」
「分かってるから止めてる」
間が立つ。
詰所の中の人間には聞こえない程度の距離だ。
それでも二人きりと言うには少しだけ足りない。
だから陽鳥はまだ「紺野少尉」へ戻れる位置にいる。
だが戻らない。戻らないまま、少し近い声で言う。
「健太郎。今のあんた、あれを見に行くんじゃない」
「じゃあ何だ」
「呼ばれに行く顔してる」
その一言が、紺野の胸へ真っすぐ入った。
反論が一瞬遅れる。
「……呼ばれてねえ」
「呼ばれてるよ」
陽鳥の声は冷たくない。
冷たくしないと、自分の方が先に崩れると分かっている人間の、薄い乾き方だった。
「今日、市場で立ち止まった時のあんた、自分から前に出たんじゃない。向こうがいるところへ、身体の方が先に寄ってた」
「見てたのか」
「見てるに決まってるでしょ」
それは少しだけ怒っていた。
怒っているのは、紺野が勝手を言ったからだけではない。
あの場で自分がちゃんと掴まなければ、紺野はもう半歩前に出ていた、その事実に対して怒っている。もっと言えば、自分の怒りの半分は恐怖に近い。
紺野は、そこで初めて少しだけ肩の力を抜いた。
「……姉さん」
二人の間だけに落ちる音の高さになっていた。
「じゃあどうすりゃいい」
陽鳥は答えを急がない。
たぶん答えを持っていないのだ。
持っていないからこそ、すぐ喋ると嘘になる。
「分からない」
やがて、そう言った。
「分からないけど、あんた一人で行かせるのはもっと嫌」
「だったら一緒に来いよ」
陽鳥は目を細める。
「それを私が言わせたかったんじゃないの」
「知らねえよ」
「嘘」
紺野が鼻を鳴らす。
「嘘でもいいだろ」
「よくない」
「何でだ」
「私がそれで付いて行くと、あとであんたが勝手に“自分の判断だった”みたいな顔するから」
「しねえよ」
「する」
短く返しているのに、言葉の量は前より少しだけ増えた。
二人きりに近い時、この二人はこういう無駄な往復をする。無駄に見えて、実際にはそこへしか乗せられないものがある。
結局、二人で出た。
羽場桐には言わない。
言えば止められる。
止められると分かっていて黙って出るのは、本来なら軍人としては最低だ。だが今夜に限っては、その最低さまで含めて必要な気がした。
南区へ向かう夜道は、昨日より暗かった。
曇っているわけではない。晴れている。だが晴れているからこそ、明るい場所と暗い場所の差が深い。駅前の灯りは白く、一本裏へ入ると急に黒い。夕方より夜の方が怖いのは、見えるものが減るからではない。残るものが絞られるからだ。
中央線の高架下を抜ける手前で、陽鳥が足を止めた。
「待って」
「何だ」
「静かすぎる」
紺野も止まる。
普段から静かな通りだ。
だが今は、静かなものが全部、一歩だけ後ろへ下がっている感じがした。
店じまいの音も遠い。風も細い。犬の鳴き声も無い。音が無いのではない。要らない音だけが先に消えている。
「嫌な感じだな」
「うん」
「来るか」
「来る、じゃなくて」
陽鳥の声がさらに低くなる。
「もう、いる」
その時だった。
高架下の白い壁の前、ちょうど街灯と街灯の間の、光が薄く切れるところに、立っていた。
夜だから白いのではない。
昼でも白かった。
晴れていても白かった。
つまり、あれは最初からああいうふうに見えるものなのだと、ようやく分かる。
今夜は昨日より近い。
近いのに、輪郭は相変わらず決め手が足りない。少女にも見える。女にも見える。そのどちらでもないようにも見える。なのに「こっちを知っている」感じだけが、前よりずっと濃い。
紺野の喉が先に動いた。
「……おい」
白いものは反応しない。
「お前」
今度は少し低く、少し近く呼ぶ。
それでもまだ駄目だ。向こうに届いていないのではない。届いているが、それではこちらが向こうを定めきれていない。
陽鳥が小さく言う。
「健太郎」
「分かってる」
「分かってる顔じゃない」
「じゃあ何だよ」
「今のあんた、“何て呼べばいい”ってそっちに気取られてる」
図星だった。
人間でも、物でも、敵でも、怪異でもない。
その中途半端さが、紺野の口を曖昧にする。
曖昧にするくせに、向こうの視線は最初からこちらの輪郭を知っている。
それが腹立たしかった。
「……白いの」
思わず、そう言った。
その瞬間、白いものの肩が、ほんの僅かに揺れた。
反応した。
紺野と陽鳥は同時にそれを見た。
「今」
「ええ」
陽鳥の声は乾いている。
だがその乾き方が、逆に緊張の深さを示していた。
「聞こえてる」
紺野は、今度は少しだけ慎重に言い直す。
「白いの」
白いものの口が動く。
「……しろい」
繰り返した。
受け取ったというより、試した。
まだ名ではない。
だが、さっきまでより一歩だけ近い。
向こうが、人の言葉の方へ、自分から半歩寄った。
不吉だった。
不吉なのに、どこか子供じみてもいた。
それが余計に嫌だった。
189-3
「何だ、お前は」
紺野の声が少し荒くなる。
「何を見てる」
白いものは首を傾ける。
「……また、みた」
「それは昨日聞いた」
「きのう」
「そうだよ。昨日も言っただろ」
白いものは黙る。
黙るが、空白ではない。
言葉の順番がまだ体に馴染んでいない人間の黙り方だ。
陽鳥が一歩だけ前へ出る。
「何を見たの」
白いものの視線が、陽鳥へ移る。
あの見方は、紺野へ向けるものと少し違う。距離を測っている。止める側の匂いを嗅いでいるような目だ。
「……とおいの」
「遠い何」
「ちかい」
「答えになってない」
陽鳥が低く吐き捨てる。
紺野が割って入る。
「分かってる。分かってるけど、今はそれでしか喋れないんだろ」
陽鳥がそちらを見る。
「甘い」
「違う」
「何が」
「これ、適当に言ってる感じじゃない」
白いものは、紺野を見たままだった。
その視線の中に、敵意はまだ無い。
無いのに、安心もできない。
敵意があれば切れる。
悪意があれば警戒できる。
だが今そこにあるのは、もっと曖昧で、もっと近くて、もっと嫌な何かだった。
見つけている。
待っている。
呼び方が定まるのを、向こうまで少しだけ待っている。
そんな感じがした。
「お前」
紺野が低く言う。
「それ、俺に見せてんのか」
白いものは、ほんの少しだけ考えるように止まった。
それから、ごく小さく言う。
「みせる」
「何で」
「みる、から」
会話としては壊れている。
だが壊れているからといって意味が無いわけではない。
むしろ壊れた形のまま、こちらの核心だけを撫でてくる。
見せる。見るから。
向こうはもう、紺野が見てしまう側の人間だと知っている。
その時、どこか遠くで列車の通過音が鳴った。
高架が震える。
街灯が一度だけかすかに瞬く。
白いものの輪郭が、その揺れに合わせて薄くなる。
「待て」
紺野が言う。
陽鳥が腕を伸ばす。
だが白いものは、もう風景の方へ溶け始めていた。
壁の白さ。街灯の反射。線路脇の薄い霧。
現実の中に最初から用意されていた逃げ道だけが、最後に残る。
消える寸前、白いものはもう一度だけ言った。
「……しろい」
今度は呼び返したのではない。
呼び方を確かめた。
まだ定まっていない名前の、その手前の呼び方を。
そして消えた。
通りには夜だけが残る。
高架の影。白い壁。細い風。
現実はいつだって、見間違いの言い訳だけは丁寧に残す。
陽鳥が息を吐く。
「最悪よ」
「何が」
「もう、ただの視認じゃない」
紺野は返事をしない。
返事をしないまま、今しがた白いものが立っていた位置を見ていた。
白い。それはまだ名前ではない。
名前ではないが、現象よりずっと近い。
名を与えるにはまだ早い。
だが「あれ」だけで済ませるには、もう遅い。
陽鳥が静かに言う。
「戻るわよ」
紺野はまだ見ている。
「健太郎」
「……分かってる」
「何も分かってない顔してる」
「だろうな」
「そういう時ほど、一人で考え込むとろくな方に行かない」
「じゃあどうしろってんだ」
陽鳥は少しだけ間を置いた。
「少なくとも、次に出た時、あんた一人で呼ぶな」
紺野がやっと視線を外す。
「呼ぶって決めてねえよ」
「決めてる」
「何で分かる」
「今の顔」
それだけ言って、陽鳥は先に歩き出した。
紺野は数秒遅れて付いていく。
夜の南区は静かだった。
静かだが、その静けさの中へ、さっきの声だけがまだ残っている。
しろい。またみた。とおいの。ちかい。
どれも意味になり切らない。
なり切らないのに、全部が嫌に近い。
それはまだ名前ではない。
だが、名の手前まで来ていた。
そしてその手前にまで来たものは、もうただの現象では済まない。




