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幻想帝都 神州御親領衛記  作者: ニュートリノ鈴木
最終章 人の選択
191/193

百八十九話


百八十九話


189-1


市場裏から戻った後も、詰所は仕事場の顔をしていた。


紙は増える。印は押される。

報告は束ねられ、分類され、必要なものから順に人の手を離れていく。国家の末端というのは、だいたいそういうものだ。得体の知れないものが広場に立っても、駅裏に現れても、机の上では欄が増えるだけで済まされる。済まされる、ではない。済ませるしかない。そうしないと、先に人間の方が壊れるからだ。


羽場桐妙子は、戻ってきた二人の顔を見て、何も訊かなかった。

訊かない代わりに、空いた机へ記録用紙を二枚置いた。

一枚は時刻と場所のため。

一枚は、記録欄に収まらない部分を書くためだ。

その分け方が、この女らしかった。

紺野は椅子に座ったが、紙へすぐ手を伸ばさなかった。


陽鳥は壁際へ寄りかかり、腕を組んだまま、まだ呼吸の深さだけが市場裏に残っている。

羽場桐が先に口を開く。


「順に確認します」

「……ああ」

「対象は再出現した」

「した」

「発話もあった」

「はい」

「紺野少尉に向いた」


紺野は数秒だけ黙ってから答えた。


「向いた、でいいと思う」

「“また見た”」


羽場桐が、言葉を選ぶように繰り返す。


「あれは、こちらに向けた発話として記録しますか」

陽鳥が先に返した。

「記録はそうしていい」

「珠洲原主任個人の見解は」

「見られてる」


短い。

だが、それだけで十分だった。

真名が小さく息を吐く。


「嫌ですね」


高倉が腕を組んだまま言う。


「嫌で済んでるうちは、まだましだろ」


「そういう言い方をされると、急に現実味が出るのでやめてください」

「現実味がねえまま怖ぇ方が困る」


志摩が椅子の背に頭を当てたまま言う。


「紺野少尉」

「何だ」

「お前、今の見て、まだ追えると思ってんのか」


紺野は少しだけ考えた。

考えたが、考えた時間より前に、答えの形だけは体のどこかで決まっていた気がした。


「追うって言い方は違うな」

「じゃあ何だ」

「向こうが出てくる場所を、こっちが後ろからなぞる感じだ」

「それ、追ってんのとどこが違うんだよ」

「主導権が向こうにあると分かった上で動くかどうかだろ」


志摩はそこで鼻を鳴らした。

樋道が珍しく茶々を入れずに続ける。


「ねえ、それ分かってて行くの、けっこう気持ち悪くない?」

「気持ち悪いな」


紺野は即答した。


「気持ち悪いし、正直、二回目見た時点でもう関わるなって言われた方が楽だ」

「じゃあそうしなさいよ」


陽鳥が言う。

言い方は乾いている。

だが、乾いているのは表面だけで、奥の方の温度は消えていない。


「楽な方がいいなら、もうあんた一人では出ない。私も羽場桐中尉も、宗一も、綾瀬も、最初から全員で囲んで、それで駄目なら駄目で手順ごと閉じる」

「できるならな」

「できるかどうかの話じゃないの。やるかやらないかの話」


紺野はそこで、ようやく陽鳥を見た。


「姉さん」


その呼び方は、室内にいる人間の数に対して少しだけ近すぎた。

だが今の紺野は、それを引っ込める余裕がなかった。


「何だよ、その“閉じる”って」


陽鳥の目が細くなる。

怒ったのではない。

怒る前に、今の呼び方を拾って、場に馴染ませるか無視するかを一瞬で決めた目だ。


「言葉のままよ」

「言葉のままじゃ分かんねえから聞いてんだろ」

「じゃあ分かるように言う」


陽鳥は壁から背を離した。


「健太郎。あれが何かはまだ決められない。決められないけど、向こうがあんたを中心に寄り始めてるのは確か」

「……ああ」

「なら、こっちが“あんた個人の気味の悪さ”として処理してる間はまだいい。でも、それが庁舎前に出て、市場に出て、昼の光の中でも立つなら、もうあんた一人の問題じゃない」


陽鳥の言葉は長くなった。

長くなった時、この女はたいてい、冷静さの下へ別のものを押し込んでいる。


「だから閉じる。閉じるってのは、近づけない、触らせない、広げない、その三つ。そうやって可能性ごと潰すって意味」


紺野は反論しかけて、やめた。

やめたのは説得されたからではない。

説得されてはいない。

ただ、今の陽鳥の言葉が、脅しでも理屈でもなく、「それでも自分はそうする」という告白に近いことが分かったからだ。

羽場桐が、その空気の上へ、わざと平らな声を置く。


「本日の外出はもう禁止します」

「おい」


紺野が振り返る。

羽場桐は視線を逸らさない。


「紺野少尉。あなたは今、行くと言えば行く顔をしているので」

「それを止めるのがお前らの仕事か」

「その顔で外へ出られると、記録が増える前に人的被害が出ます」

「おいしい言い方するじゃない」


樋道がぼそりと言う。

真名が即座に切る。


「黙ってください」


三つ子は三人で顔を見合わせていた。

一葉は言い返したそうにしている。

双葉は既に駄目だと思っている。

三葉は二人の間で不安そうに口を結んでいる。

詰所の空気は、仕事場の顔をしている。

しているが、中身はもう完全に仕事場のそれではなかった。

見ているうちに、見られる側の方が形を持ち始めていた。


189-2


外出禁止は、紺野にとってほとんど意味が無かった。


禁止されていると分かった瞬間、人間は自分がどれだけその外へ出る気だったかを初めて知る。

机に戻り、報告書を見て、夜の巡回線を確認し、宗一のまとめた要注意地点を流し読んでも、視線だけがずっと市場裏へ引かれている。行きたい、ではない。戻らなければならない、に近い。

それが余計に質が悪かった。


夜になっても、詰所の明かりは落ちなかった。

誰も気にしていないふりをしている。

気にしていないふりをする時ほど、人間は耳だけが同じ方向を向く。


紺野は結局、机を離れた。

離れたところで、扉の前に陽鳥がいた。

最初から分かっていたような顔をしている。

いや、分かっていたのだろう。あの女はこういう時だけ、人の先回りを苛立たしい精度でやる。


「行くつもりだった?」

「つもりじゃない。今から行く」

「駄目だって」

「お前、それしか言わねえな」

「今はそれしか言う必要がないから」

「あるだろ」


紺野は少しだけ声を落とした。


「……あれは庁舎前まで来ているんだぞ。市場裏で終わる話じゃない」


陽鳥も声を落とす。


「分かってる」

「分かってるなら」

「分かってるから止めてる」


間が立つ。

詰所の中の人間には聞こえない程度の距離だ。

それでも二人きりと言うには少しだけ足りない。

だから陽鳥はまだ「紺野少尉」へ戻れる位置にいる。

だが戻らない。戻らないまま、少し近い声で言う。


「健太郎。今のあんた、あれを見に行くんじゃない」

「じゃあ何だ」

「呼ばれに行く顔してる」


その一言が、紺野の胸へ真っすぐ入った。

反論が一瞬遅れる。


「……呼ばれてねえ」

「呼ばれてるよ」


陽鳥の声は冷たくない。

冷たくしないと、自分の方が先に崩れると分かっている人間の、薄い乾き方だった。


「今日、市場で立ち止まった時のあんた、自分から前に出たんじゃない。向こうがいるところへ、身体の方が先に寄ってた」

「見てたのか」

「見てるに決まってるでしょ」


それは少しだけ怒っていた。

怒っているのは、紺野が勝手を言ったからだけではない。

あの場で自分がちゃんと掴まなければ、紺野はもう半歩前に出ていた、その事実に対して怒っている。もっと言えば、自分の怒りの半分は恐怖に近い。

紺野は、そこで初めて少しだけ肩の力を抜いた。


「……姉さん」


二人の間だけに落ちる音の高さになっていた。


「じゃあどうすりゃいい」


陽鳥は答えを急がない。

たぶん答えを持っていないのだ。

持っていないからこそ、すぐ喋ると嘘になる。


「分からない」


やがて、そう言った。


「分からないけど、あんた一人で行かせるのはもっと嫌」

「だったら一緒に来いよ」


陽鳥は目を細める。


「それを私が言わせたかったんじゃないの」

「知らねえよ」

「嘘」


紺野が鼻を鳴らす。


「嘘でもいいだろ」

「よくない」

「何でだ」

「私がそれで付いて行くと、あとであんたが勝手に“自分の判断だった”みたいな顔するから」

「しねえよ」

「する」


短く返しているのに、言葉の量は前より少しだけ増えた。

二人きりに近い時、この二人はこういう無駄な往復をする。無駄に見えて、実際にはそこへしか乗せられないものがある。


結局、二人で出た。

羽場桐には言わない。

言えば止められる。

止められると分かっていて黙って出るのは、本来なら軍人としては最低だ。だが今夜に限っては、その最低さまで含めて必要な気がした。


南区へ向かう夜道は、昨日より暗かった。

曇っているわけではない。晴れている。だが晴れているからこそ、明るい場所と暗い場所の差が深い。駅前の灯りは白く、一本裏へ入ると急に黒い。夕方より夜の方が怖いのは、見えるものが減るからではない。残るものが絞られるからだ。


中央線の高架下を抜ける手前で、陽鳥が足を止めた。


「待って」

「何だ」

「静かすぎる」


紺野も止まる。

普段から静かな通りだ。

だが今は、静かなものが全部、一歩だけ後ろへ下がっている感じがした。

店じまいの音も遠い。風も細い。犬の鳴き声も無い。音が無いのではない。要らない音だけが先に消えている。


「嫌な感じだな」

「うん」

「来るか」

「来る、じゃなくて」


陽鳥の声がさらに低くなる。


「もう、いる」


その時だった。

高架下の白い壁の前、ちょうど街灯と街灯の間の、光が薄く切れるところに、立っていた。

夜だから白いのではない。

昼でも白かった。

晴れていても白かった。

つまり、あれは最初からああいうふうに見えるものなのだと、ようやく分かる。


今夜は昨日より近い。

近いのに、輪郭は相変わらず決め手が足りない。少女にも見える。女にも見える。そのどちらでもないようにも見える。なのに「こっちを知っている」感じだけが、前よりずっと濃い。


紺野の喉が先に動いた。


「……おい」


白いものは反応しない。


「お前」


今度は少し低く、少し近く呼ぶ。

それでもまだ駄目だ。向こうに届いていないのではない。届いているが、それではこちらが向こうを定めきれていない。

陽鳥が小さく言う。


「健太郎」

「分かってる」

「分かってる顔じゃない」

「じゃあ何だよ」

「今のあんた、“何て呼べばいい”ってそっちに気取られてる」


図星だった。

人間でも、物でも、敵でも、怪異でもない。

その中途半端さが、紺野の口を曖昧にする。

曖昧にするくせに、向こうの視線は最初からこちらの輪郭を知っている。

それが腹立たしかった。


「……白いの」


思わず、そう言った。

その瞬間、白いものの肩が、ほんの僅かに揺れた。

反応した。

紺野と陽鳥は同時にそれを見た。


「今」

「ええ」


陽鳥の声は乾いている。

だがその乾き方が、逆に緊張の深さを示していた。


「聞こえてる」


紺野は、今度は少しだけ慎重に言い直す。


「白いの」


白いものの口が動く。


「……しろい」


繰り返した。

受け取ったというより、試した。

まだ名ではない。

だが、さっきまでより一歩だけ近い。

向こうが、人の言葉の方へ、自分から半歩寄った。

不吉だった。

不吉なのに、どこか子供じみてもいた。

それが余計に嫌だった。


189-3


「何だ、お前は」


紺野の声が少し荒くなる。


「何を見てる」


白いものは首を傾ける。


「……また、みた」

「それは昨日聞いた」

「きのう」

「そうだよ。昨日も言っただろ」


白いものは黙る。

黙るが、空白ではない。

言葉の順番がまだ体に馴染んでいない人間の黙り方だ。

陽鳥が一歩だけ前へ出る。


「何を見たの」


白いものの視線が、陽鳥へ移る。

あの見方は、紺野へ向けるものと少し違う。距離を測っている。止める側の匂いを嗅いでいるような目だ。


「……とおいの」

「遠い何」

「ちかい」

「答えになってない」


陽鳥が低く吐き捨てる。

紺野が割って入る。


「分かってる。分かってるけど、今はそれでしか喋れないんだろ」


陽鳥がそちらを見る。


「甘い」

「違う」

「何が」

「これ、適当に言ってる感じじゃない」


白いものは、紺野を見たままだった。

その視線の中に、敵意はまだ無い。

無いのに、安心もできない。

敵意があれば切れる。

悪意があれば警戒できる。

だが今そこにあるのは、もっと曖昧で、もっと近くて、もっと嫌な何かだった。


見つけている。

待っている。

呼び方が定まるのを、向こうまで少しだけ待っている。

そんな感じがした。


「お前」


紺野が低く言う。


「それ、俺に見せてんのか」


白いものは、ほんの少しだけ考えるように止まった。

それから、ごく小さく言う。


「みせる」

「何で」

「みる、から」


会話としては壊れている。

だが壊れているからといって意味が無いわけではない。

むしろ壊れた形のまま、こちらの核心だけを撫でてくる。

見せる。見るから。

向こうはもう、紺野が見てしまう側の人間だと知っている。


その時、どこか遠くで列車の通過音が鳴った。

高架が震える。

街灯が一度だけかすかに瞬く。

白いものの輪郭が、その揺れに合わせて薄くなる。


「待て」


紺野が言う。

陽鳥が腕を伸ばす。

だが白いものは、もう風景の方へ溶け始めていた。


壁の白さ。街灯の反射。線路脇の薄い霧。

現実の中に最初から用意されていた逃げ道だけが、最後に残る。

消える寸前、白いものはもう一度だけ言った。


「……しろい」


今度は呼び返したのではない。


呼び方を確かめた。

まだ定まっていない名前の、その手前の呼び方を。

そして消えた。

通りには夜だけが残る。

高架の影。白い壁。細い風。

現実はいつだって、見間違いの言い訳だけは丁寧に残す。

陽鳥が息を吐く。


「最悪よ」

「何が」

「もう、ただの視認じゃない」


紺野は返事をしない。

返事をしないまま、今しがた白いものが立っていた位置を見ていた。

白い。それはまだ名前ではない。

名前ではないが、現象よりずっと近い。

名を与えるにはまだ早い。

だが「あれ」だけで済ませるには、もう遅い。

陽鳥が静かに言う。


「戻るわよ」


紺野はまだ見ている。


「健太郎」

「……分かってる」

「何も分かってない顔してる」

「だろうな」

「そういう時ほど、一人で考え込むとろくな方に行かない」

「じゃあどうしろってんだ」


陽鳥は少しだけ間を置いた。


「少なくとも、次に出た時、あんた一人で呼ぶな」


紺野がやっと視線を外す。


「呼ぶって決めてねえよ」

「決めてる」

「何で分かる」

「今の顔」


それだけ言って、陽鳥は先に歩き出した。

紺野は数秒遅れて付いていく。

夜の南区は静かだった。

静かだが、その静けさの中へ、さっきの声だけがまだ残っている。


しろい。またみた。とおいの。ちかい。


どれも意味になり切らない。

なり切らないのに、全部が嫌に近い。

それはまだ名前ではない。

だが、名の手前まで来ていた。

そしてその手前にまで来たものは、もうただの現象では済まない。


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