百八十八話
百八十八話
188-1
翌日の帝都は、よく晴れていた。
晴れている、ということは、たいてい人間を油断させる。雨は視界を削る。風は音を散らす。曇りは空の方に言い訳を作る。
だが晴天だけは違う。見える。聞こえる。遠くまで通る。だから人は、見えていたはずのものを見落とした時、自分の目ではなく相手の不自然さの方を疑う。
晴れた日の異変は、そういう意味で質が悪い。
庁舎前の白線は乾いていた。
車寄せの石段は白く、街路樹の影は細く、巡回兵の靴音も無駄なく揃っている。人の流れは昨日より少しだけ速い。東都の夜から続いていたあの半歩短い歩幅も、今日は表面上かなり戻っていた。
戻っていたのは、顔だけだ。
人間の身体は、怖かった場所を忘れても、怖かった時の筋肉だけはなかなか忘れない。肩は上がる。視線は空を一度だけ見る。信号が青でも足が少し止まる。帝都中に薄く貼り付いていたあの余計な知恵は、晴れた日にはかえって見えにくくなる。
近衛御親領衛の詰所も、朝の光の中では妙に平穏だった。
平穏に見える、が正しい。
紙は増える。印は押される。羽場桐妙子の机の上では、夜のうちに整理された報告がすでに三山になっている。宗一は現場地図に新しい巡回線を引き、綾瀬はその線の甘さを二箇所で刺し、真名が場の空気を丸め、高倉源三は市場筋からの聞き取りを古い帳場の字で書き直し、樋道芳芙美は「その字ひどくない?」と余計な口を挟んで真名に睨まれ、三つ子は三人で一枚の紙束を運んで、やはり一枚としては運べていない。
人がいて、紙があり、やることがある。
国家の末端としては、これ以上ないくらい正常な朝だった。
その正常さの真ん中で、紺野健太郎だけが少しだけ場に遅れていた。
自分の机に肘をつき、昨夜から増えた視認報告を見ている。
中央線上りホーム。北二番市場前。南三区画第三通り。今朝方、庁舎前広場。
言い方はばらばらだ。白い服。白い子供。白い女。白い影。どれも曖昧だ。なのに「白い」だけが揃っている。
それが嫌だった。
数が増えているからではない。
数だけなら、見間違いで済ませることもできる。人間は疲れる。疲れれば、柱を人と間違え、紙を袖に見違える。白線や広告板や街灯の反射に勝手に輪郭を足す。そういうことは珍しくない。
珍しくないのに、今回だけは並び方が綺麗すぎた。
帰る時刻。
人がほどける動線。
駅。市場。帰路。
一日の終わりへ向かって気が抜ける、その縫い目ばかりを舐めるように寄ってくる。
報告書の上では、ただの「視認事案」だ。
だが昨夜それを見た人間にとって、あれはもう「ただの」が付かない。
「顔が悪いわね」
扉にもたれたまま、陽鳥が言った。
地味な上着。白衣ではない。軍の支給品でもない。技術研究開発局の主任としても、御親領衛の外部顧問としても、どちらにも寄せ切らない格好だ。所属を曖昧にしたいのではない。どこにいても一つの顔では足りないから、最初から片側だけで入ってこない。
紺野は紙から目を上げない。
「最初から良かった試しがないが」
「そういう意味じゃない」
陽鳥は中へ入ってくる。
「昨日より悪いって意味」
「褒め言葉か」
「私があんたにそれ言う時があると思う?」
「無いな」
「じゃあ無駄な確認させないで」
それだけのやり取りなのに、周囲の人間の手が少しだけ止まる。
この二人が普通に会話している時ほど、詰所の人間は妙なところでよく聞く。別に面白がっているわけではない。あの二人の距離が、その時々で職場全体の空気を少し変えることを知っているからだ。
羽場桐が視線を上げる。
「珠洲原主任、地下は」
「静かよ」
陽鳥の返答は短い。
「静かすぎる」
「変動は」
「取れてない。取れてないのに、地上だけ同じ方を向き始めてる」
宗一が地図を指で叩いた。
「昨夜以降、北三番通りでも一件出ています」
綾瀬が続ける。
「中心部へ少しずつ寄っています。偶然の散り方ではありません」
高倉が腕を組む。
「市場でも、もう笑って済ます空気じゃねえな。見た奴がみんな、同じところで一回だけ声落とす」
樋道が珍しく真面目な顔で口を挟む。
「怖がり方が似てるんだよね。大げさに騒ぐんじゃなくて、ちょっとだけ黙るの。あれ、嫌」
真名が小さく頷く。
「誰も、自分の見間違いだと言い切りたがらない。そこが、いちばん気味が悪いです」
志摩だけが少し遅れて言った。
「来るな」
椅子の背にもたれていた身体が、もう前へ出ている。
羽場桐が問う。
「何がですか」
「空気」
志摩は目を細める。
「人が同じ方向見たがる前の減り方してる」
例えは雑だ。
だが、こういう時の志摩の雑さは妙に核心へ近い。
紺野は紙束を机に置いた。
「なら、出ます」
羽場桐が即座に返す。
「現場確認は必要です」
陽鳥が続ける。
「私も行くわよ」
「単独でいいだろ」
紺野が言う。
陽鳥はあからさまに眉をひそめた。
「何でよ?」
「数字はお前の仕事だ。見回りは俺一人でもできる」
「できるわけないでしょ」
「できる」
「紺野少尉」
今度の呼び方は事務的だった。
詰所の中で線を引く時の声だ。
「今のあれは、ただの見回りじゃない」
「じゃあ何だ」
「向こうがあんたに寄ってくるかどうかを見る確認」
「余計に一人でいい」
「余計、一人で行かせる意味が無い」
間が立つ。
羽場桐がそこで口を入れた。
「二人で行ってください。場所は昨夜と同じ線をなぞります。中央線上りホームから北二番市場、南三区画第三通りまで」
宗一が地図を差し出す。
「途中、巡回の目を二箇所だけ増やします」
綾瀬が冷たく言う。
「ただし、増やしすぎると向こうが散るかもしれません」
「そうだな」
紺野が答える。
「あれは見られるのは平気そうなのに、触られるのは嫌がってる感じがある」
陽鳥がそちらを見た。
「……感じ?」
「見れば分かるだろ」
「そういう勘で動くの、私は嫌い」
「知ってる」
「分かってて毎回やるの、もっと嫌いよ」
「まだ姉気取りかよ」
それは口が先に滑った言い方だった。
詰所の空気が、一瞬だけ止まる。
陽鳥は数秒、紺野を見た。
怒ってはいない。
怒ってはいないが、事務の線をほんの少しだけ踏み越えられた時の、あの微妙な距離の取り直しがあった。
「……二人じゃないんだけど」
声は少しドライだった。
だが乾かし方が甘い。完全には職務へ戻していない。
紺野は少しだけ視線を逸らした。
「悪い」
高倉が小さく咳払いをする。
「いや、俺は何も聞いてねえ」
「高倉さん」
真名が止める。
「分かってるって」
場の緊張はそれで切れた。
切れたが、消えてはいない。
詰所の全員が、今の一往復を「いつもの延長」ではなく、「少しだけ違う延長」として受け取ったことだけは分かった。
羽場桐が立ち上がる。
「では、十七時から。珠洲原主任、紺野少尉、現地確認。私は少し遅れて合流します」
紺野が眉を寄せる。
「中尉も来るのか」
「記録が要るので」
「記録で済む相手か?」
「済まないから、私も行きます」
それで決まった。
188-2
十七時過ぎの中央線上りホームは、人間の帰り方がよく見える。
朝の駅には目的がある。
昼の駅には用事がある。
夕方の駅だけが違う。夕方の人間は、目的や用事ではなく、「終わらせたつもり」の顔でホームへ立つ。そこがいちばん脆い。まだ終わっていないことなど、だいたい全員が抱えている。なのに身体だけが先に帰る方へ寄る。
駅というのは、そういう誤魔化しを毎日呑み込んでいる。
紺野と陽鳥は、ホームの端寄りに立っていた。
巡回兵は見える位置に二名。
宗一の手配だろう。
だが増やしすぎていない。気配だけある。視界の端に薄く置いた。あの男はそういう実務が上手い。
陽鳥は柱に背を預け、時刻表の下の影を見ている。
紺野は白線の向こうではなく、人の流れの隙間を見ていた。
「何か見える?」
陽鳥が訊く。
「今のとこはないな」
「今のとこ、ね」
「何だよ」
「その返しする時のあんた、だいたい見たくないものが来そうだと思ってる時」
「お前、俺のそういうのばっかよく見るな」
「長いから」
それは短い返事だったのに、妙に近かった。
紺野は少し黙る。
「……昨日のやつ」
「うん」
「お前も、あれ、向こうから見てきてる感じしたか」
陽鳥は視線を動かさないまま答える。
「した」
「だよな」
「ただ、見てるのと狙ってるのは違う」
「その違いが分からねえから嫌なんだよ」
「分かる」
陽鳥の声は少し低かった。
「分かるけど、だからって健太郎が勝手に前に出ていい理由にはならない」
今度の呼び方は、少し近い。
ホームの雑音の中で、線が半歩だけずれた。
紺野が鼻を鳴らす。
「出てねえだろ、まだ」
「“まだ”って言い方する時は、その先がある時でしょ」
「先に来るかもしれねえから見てんだよ」
「来たら私も見る。あんただけにやらせない」
「技術屋の台詞じゃねえな」
「顧問の台詞でもない」
「じゃあ何だ」
陽鳥はそこで初めて紺野を見た。
「……知らない」
その知らない、の言い方は少しだけ人間的すぎて、紺野はそれ以上突っ込めなかった。
ホームに電車が滑り込む。
風が起き、裾が揺れ、列が半歩寄る。
銀色の車体が視界を切る。
その瞬間だった。
向かいのホームの柱の脇、広告板の白い余白のあたりに、何かが立っていた。
白い。
まず色だけが見えた。
次に、人の形へ寄った。
少女か、若い女か、その中間。
髪の重さも、服の境い目も、輪郭だけは曖昧なのに、「立っている」ことだけが妙に濃い。
紺野の喉が先に詰まる。
「……いたな」
陽鳥の視線が即座に走る。
「どこ」
「向こう、柱の」
言い終わる前に、発車ベルが鳴る。
車体が一瞬、全部を遮る。
銀の壁が通り過ぎた時には、もうそこには広告板しかなかった。
「消えた」
紺野が言う。
「見間違えの可能性は」
「無い」
陽鳥は即答した。
「自分でよくわかってるでしょ」
「……なら、追うか?」
「追うにしても、駅の中はだめ。外へ寄る」
ホームを降りる。
改札を抜ける。
夕方の駅前は人が多い。多いが、それがかえってよくない。人が多いと、白いものは浮くはずだ。浮くはずなのに、見失う余地もまた増える。
北二番市場へ向かう途中、紺野は一度だけ立ち止まった。
ガラス張りの店舗の硝子に、人の流れが映っている。
自分と陽鳥も映っている。
その少し後ろ、映り込みの中にだけ、一瞬白いものがいた。
振り返る。
いない。
また硝子を見る。
今度は何もいない。
陽鳥がすぐ気づく。
「どうした」
「硝子よ」
「何が」
「さっき、映ってた」
陽鳥も店の硝子へ目を向ける。
光の角度。通行人の影。看板の白。夕方の街は、見間違いの材料に満ちている。
「追い込まれてる時の視界ね、これ」
陽鳥が低く言う。
「嫌いだわ」
「俺も好きじゃないな」
「好きだったら問題よ」
そんなことを言っているうちに、市場のざわめきが近づく。
魚の匂い。土の匂い。値切る声。包丁の音。人が人間に戻る一歩手前の雑音が、路地いっぱいに溜まっていた。
188-3
北二番市場の裏へ回ると、人の流れが少しだけ薄くなる。
表は商いの声で埋まっているが、裏通りは違う。運び終えた木箱。濡れた床。捨てられた新聞紙。店の顔をしていないものだけが寄せ集められている。そういう場所は、昼より夕方の方がよく澱む。
紺野は足を緩めた。
「……ここだ」
陽鳥も周囲を見る。
「昨日の位置?」
「近い」
その時、通りの向こうを買い物帰りの母子が横切った。
子供の手が、母親の袖を引く。
「だめ。立ち止まらないの」
声だけが、少し強い。
理由を説明しない強さだ。見えたものへ名前を与えないための声。
白いものは、その先に立っていた。
市場の裏口の柱の脇。木箱と濡れた石畳の間。
夕方の薄い光の中で、そこだけが少し明るすぎる。
今度は夜でも、窓越しでもない。
距離があまりに近い。
近いのに、やはり顔は読めない。
読めないくせに、こちらを知っている感じだけは昨日より濃い。
紺野は、反射で一歩だけ前へ出た。
だが陽鳥がすぐに腕を掴む。
「だめよ」
陽鳥の指が強い。
止めるための力だ。
止めたいからだけではない。止め損ねると、次はもう同じ形で出ないかもしれないと分かっているからだ。
紺野はそれでも視線を外さない。
白いものは動かない。
動かないが、こちらを見ている。
見ている、というより、こちらの息の置き方を知っているものが、確認だけしているような見方だった。
「あれ」
紺野の口から、先に言葉が落ちた。
おい、でもない。
お前、でもない。
人に向けるには遠く、現象に向けるには近い、その中途半端な呼び方しか出なかった。
白いものは反応しない。
「聞こえてないのか」
紺野が低く言う。
陽鳥が返す。
「聞こえてても、それじゃ向こうのものになってない」
「何だそれ」
「分からない。でも、そういう感じがする」
紺野は眉を寄せた。
「あの子供、でいいか」
「知らない。子供かどうかも分からない」
「分からないが、そのまま“あれ”のまま見ているのは気分が悪い」
陽鳥の指先が、ほんの少しだけ緩む。
その言葉の意味は、陽鳥にも分かった。
ただの現象として処理したいのに、それにしては向こうの視線が人間に近すぎる。だから「あれ」としか呼べないこと自体が、もう負けている感じを作る。
白いものの口が、少しだけ動いた。
音は届かない。
だが、何か言おうとしている。
言葉がある。
それだけで、紺野の背中が遅れて冷えた。
「……おい」
今度は少し声を張る。
「聞こえてるなら、何か言え」
陽鳥が掴んだまま呟く。
「健太郎、煽らないで」
その呼び方で、紺野の肩が一瞬だけ止まる。
だが周囲の雑音がちょうど薄くなっていて、その一語だけがやけに近かった。
白いものは、ほんの少しだけ首を傾けた。
子供が初めて遠くの音を聞き取った時みたいな、妙に人間的な仕草だった。
それから、風が細く鳴る。
市場の裏口の軒がきしむ。
新聞紙が石畳を滑る。
その全部の上から、白いものの声だけが、妙に近く落ちた。
「……また見た」
今度は聞こえた。
紺野にも。
陽鳥にも。
陽鳥の指が、紺野の腕へ深く食い込む。
「聞いた?」
「……ああ」
白いものはそれきり喋らない。
ただ立っている。
立っているだけなのに、今の一言で、見間違いの逃げ道だけが全部死んだ。
紺野は、喉の奥に引っ掛かった違和感を飲み込めなかった。
また見た。
前にも見ているような言い方だ。
誰を。何を。どこで。
問いは増える。
答えは無い。
なのに、向こうはもうこちらのことを、自分の中のどこかに位置づけている。
それがどうしようもなく嫌だった。
嫌だったが、目を逸らせない
「……お前」
紺野が低く言う。
「何見てる」
返事はない。
ないが、その沈黙は空白ではない。
言葉にし切れないものを、まだ人の順番で口へ下ろせていないだけの黙り方だった。
陽鳥が呟く。
「これ、だめね」
「何がだ」
「もう、ただの視認じゃない」
その認識だけは、紺野にも同意できた。
あれ、としかまだ呼べないものは、だいたいこちらの方を先に知っている。
そういう種類の気配が、もう十分にあった。
そして次の瞬間、白いものは、市場裏の雑多な光の中へ薄く散った。
木箱の白い角。濡れた床の反射。新聞紙の端。
現実は、いつも見間違いの逃げ道だけは丁寧に用意している。
だが、今のはもう逃げ道にならない。
陽鳥がようやく手を離す。
「……戻るわよ」
紺野はまだ、その場から動かない。
「紺野少尉」
「分かってる」
「何も分かってない顔してる」
「だろうな」
それだけ言って、紺野はようやく踵を返した。
あの白いもの。
呼び方はまだ定まらない。
定まらないまま、もう現象では済まないところまで来ていた。




