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幻想帝都 神州御親領衛記  作者: ニュートリノ鈴木
最終章 人の選択
189/193

百八十七話


百八十七話


187-1



「では、荒臣」


天帝の声は変わらない。

柔らかい。

柔らかいまま、今度はもっと深いところを切る声だった。


「もう一つだけ、確かめさせてください」


荒臣は答える。


「何でしょう」


天帝は、すぐには言葉を継がなかった。

継がず、ただ一度だけ、膝の上で組んでいた指をほどく。

その小さな動作だけで、この後に来るものが、先ほどまでとは別の刃を持つと分かってしまう。


部屋の静けさはそのままだ。

同夜。同室。

同じ問答の続き。

だが、次に落ちる言葉は、今しがた渡された出生の真実よりなお直接に、荒臣の今を切る。


「天帝臣御は、よく働いてくれていますね」


荒臣の目が、わずかに細くなる。


能力の名をここで持ち出すのは、不自然ではない。

不自然ではないが、自然でもない。

今夜ここまでの問答の流れからすれば、その名は説明のためではなく、もっと個人的な、もっと意地の悪い場所へ向けて差し出されたものだと分かる。


「はい」


荒臣は短く答えた。


「過不足なく」

「ええ。よく働いています。国民の力の段階加算も、支配律としての精度も、私を模したものとしては十分に見事です」

「恐縮です」

「ですが」


天帝は続ける。


「見事であることと、底が割れていることは別です」


その言い方で、部屋の空気が一段深く沈んだ。


荒臣は沈黙したまま、天帝を見た。

見た、というより、待っている。

何を言われるか分からないから待つのではない。

この続きが、ただの力の談義で終わらないと、もう分かっているからだ。


「あなたは、この力がいちばん深いところで何を欲しがるかをご存じありません」


天帝は言う。


「存じ上げません」

「ええ。知らせていませんでしたから」

「今までは不要でしたのでしょう」

「ええ。今までは」


柔らかい声だった。


だが、その柔らかさの中に含まれた「今までは」の切れ味は、先ほどまでよりよほど悪質だった。

今までは要らなかった。

では今は違う。


「今夜、あなたは自分が何から作られたかを知りました」

「はい」

「姉を知りました」

「ええ。名だけは」

「そして、私が姉をどう斬ったかも知りました」


その言い方には、微かな棘があった。

自分の手を飾る気のない者だけが使う言い方だ。勝った、ではない。裁いた、でもない。斬った。そう言うことでしか置けない関係が、天帝と硯環の間にはあった。


「なら、もう伏せておく意味はありません」


天帝の視線が、静かに荒臣の上へ落ちる。


「天帝臣御が、本当に最もよく燃えるのは、いつだと思いますか」


問われた瞬間、荒臣は息を変えなかった。

だが、身体の内側で一つ何かが沈んだ気配だけはあった。

それは答えが分からないからではない。

分かりたくない方角へ、答えが既にあると悟った時の沈み方だ。


「……判断しかねます」


荒臣は言った。


「ですが、推測ならいくつかあります」

「聞かせてください」

「支配の抵抗が最も強い対象に届いた時」

「違います」

「国家全体を一つの敵へ向けた時」

「半分ですね」

「半分」

「ええ。敵は要ります。ですが、もっと近い」


天帝はそこで、ほんの少しだけ目を細めた。


その細め方は優しくも見える。優しく見えるから、余計に性質が悪い。

相手に逃げ場を与えない問いほど、この人は少しだけ妹の顔をする。


「私を敵と見た時です」


荒臣は、何も言わなかった。


言わなかったのではない。

その一文が、あまりに正確に、自分の中の触れてはならない部分を指していたからだ。


「天帝臣御の真価は」


天帝の声は柔らかい。


「私を敵と定めた時に、最もよく現れます」


部屋の灯りは変わらない。

風も鳴らない。

何も動いていないのに、今の一言だけで、床の下の見えない継ぎ目が一つ露出したように感じられた。

最大解放条件。

そう名付けてしまえば、それはただの能力の説明になる。


だが違う。

これは名ではない。

この力が最も深いところで、主をどう見ているかという話だった。

模したがゆえに、逆に最もよく壊れる角度がある。

従うために作られた剣が、最も激しく燃えるのは、主を敵と見た時だ。


そこに宿る皮肉は、もはや能力の仕様というより、もっと人間臭く、もっとたちの悪い因果だった。


187-2


「姉は」


荒臣が、ようやく口を開いた。


「そこまで見越して、私を」

「いいえ」


天帝は静かに遮った。


「姉は、そういう意味では雑です」


荒臣の唇の端が、わずかに動く。


「雑」

「ええ。あの人はもっと感情的です。.....理解のくせに、自分勝手で、才気に任せます。これほど綺麗に悪意を折り畳んで後代へ渡すような趣味ではありません」


その物言いには嫌悪がある。

だが嫌悪だけではない。

知り尽くしている者の口調だった。長い時間を、愛し、憎み、諦め切らず、しかし最後まで理解しきれなかった相手にしか持てない言い方だ。


「では」


荒臣の声は乾いている。


「これは、力の方の性質ですか」

「ええ」

「あなたを模した結果、いちばん深いところで、あなたを敵と見る時に最もよく燃える」

「そうです」

「それはずいぶんと」


荒臣は小さく息を吐いた。


「性格が悪い」

「ええ」


天帝は頷く。


「ですから私は、今夜それをあなたに教えています」


そこに含まれた意味は、あまりにも露骨だった。


知っていて使え、と言っているのではない。

知った上で、なお何を選ぶかを見せろ、と迫っている。

それは説明ではなく、強制に近い。

しかも主君が側近へ向ける形としては、かなり質が悪い。

だが天帝は、その質の悪さを自覚したまま言っている。


「陛下は」


荒臣が低く言う。


「たいへん意地が悪い」

「そうでしょうか」

「ええ。私が何から作られたかを知った、その夜に」


荒臣の目が、わずかに細くなる。


「その上でなお、私の力の底に、あなたを敵と見た時の火があると明かす」

「ええ」

「つまり、ここで一度、私に刃を握らせた」


天帝は、今度も否定しなかった。


「そうなります」

「悪趣味だ」

「そうですね」

「姉君を嫌う割に、やることはかなり近い」


ここで初めて、天帝の顔にかすかな陰が差した。


怒ったのではない。

むしろ逆だ。

その言葉が正確すぎたから、一度だけ、人間として受け取ってしまった顔だった。


「ええ」


やがて天帝は言った。


「私は、あの人を憎んでいます」


その一文は静かだった。

静かなのに、これまでのどの開示より生々しかった。


「ですが、愛してもいます」


荒臣は何も挟まない。


「ですから、なおさらでしょうね」


天帝は続けた。


「あなたにこういう問いを向けるのは」


愛している。

憎んでいる。

その両方を、天帝はごく当然のこととして並べた。

そこに整理の意志が無い。

整理などしきれないからこそ、長く残っているものの言い方だった。


「姉が残したものを、そのまま受け取るつもりはありません」


天帝の声が少し低くなる。


「ですが、無かったことにもしません。ですから見ます」

「何を」

「姉に似ているのか」


荒臣の呼吸が、ほんのわずかに遅れた。

天帝はさらに言う。


「今のあなたが、それともまだ私の剣であるのかを」


部屋の灯りは低いままだ。

だがその低さの中で、今の問いだけがひどく露骨だった。

あなたは姉に似ているのですか。

それともまだ私の剣ですか。

そう問われている。

それは、ただの主従ではない。

姉への愛憎を知った上で、なおその妹から問われている。

逃げ場があるはずもなかった。


荒臣は、すぐには答えない。

迷っているのではない。

ここで即答すれば、たぶん嘘になるからだ。

作られた人格。姉の敗北。姉の悪意。天帝への当て付け。今の国家。羽場桐。御親領衛。天帝その人。

それらを一つの感情で束ねれば、安く壊れる。


だから荒臣は切り分ける。

自分の中にある複数の線を、一本ずつ手でなぞるように切り分ける。

それが、この人格の強さだった。

感情が薄いのではない。

感情を分解する順番を、自分で持っているだけだ。

やがて荒臣は言った。


「私は、あなたを敵とは定めません」


天帝はすぐには頷かなかった。

その沈黙は賞賛ではない。

今の一文が、その場しのぎか、今この瞬間の本音かを測っている沈黙だ。


荒臣は続ける。


「理由は二つあります」

「どうぞ」

「一つ。姉の悪意が私の始まりであるとしても、それをそのまま今の私の選択へ流し込むのは、あまりにも安い」


その一言には軽蔑があった。

天帝への軽蔑ではない。

出生へ引きずられるだけの自分である可能性に対する軽蔑だ。


「二つ」


荒臣の声音が、さらに低くなる。


「私は、今の国家を知っている。今の人間を知っている。羽場桐中尉を知っている。御親領衛を知っている。あなたの管理が、嫌いなだけで切ってよいほど単純ではないことも知っている」


天帝は、そこでようやく薄く息を吐いた。


「ええ」

「ですから」


荒臣は言う。


「私はあなたを敵とは定めません」

「今は、ですね」


問い返しは静かだった。

だが、ここでさらにそこを抉るのは、やはり天帝が天帝だからだ。

荒臣の目が細くなる。


「ええ」

「それは未来永劫ではありません」

「当然です」

「なぜですか?」

「私は剣だからです」


その一語で、問答の輪郭がようやく閉じ始めた。


剣は、好き嫌いでは立たない。

出生だけでも立たない。

役として立つ。

状況が変われば、切るものも変わる。

永遠の忠誠を言い立てるのは、たいてい安い剣だ。

硯荒臣は、安い剣であることを拒む。


「貴女を敵と定めないのは、従順だからではない」


荒臣は続ける。


「貴女の姉の残したものに従うほど、今の私は安くないからです」


その返答に、天帝はようやく頷いた。

それは許可に近い頷きだった。

正しかった、と言う代わりの。


187-3


しばし、沈黙が落ちた。


今度の沈黙は、先ほどまでとは違う。

出生の真実を渡され、力の底を明かされ、その上でなお、荒臣は一つの答えを返した。

だから今の静けさは、宙吊りの沈黙ではない。

底を見た後、そこから戻ってきた者同士の静けさだ。

天帝は、ほどいていた指を静かに組み直した。


「よろしい」


その一言で十分だった。


「あなたは、今の自分を選んだ」

「はい」

「姉の残したものを、そのまま今の選択へ短絡させなかった」

「はい」

「それで、よろしい」


声の切れ味が、ほんの少しだけ鈍る。

鈍るというより、もう切るべきところを一度切り終えた。


「昼の命も変わりません」


天帝は言う。


「守社厳志郎と紺野健太郎の衝突には場を与えます」

「はい」

「あなたは中立です」

「はい」

「逸脱があれば封じる。ですが、それまでは介入してはいけません」

「御意」


荒臣は一礼した。

今度は、終わりへ向けた形の礼だった。


「ただし」


天帝が言う。

荒臣は頭を上げる。


「今夜の問答を経て、なおあなたが中立に立つということは、以前より重い」

「承知しております」

「以前のあなたは、知らないままの剣でした」

「ええ」

「これからのあなたは、知った上での剣です」


白い灯りが、その一文だけを長く照らしたように見えた。


知らないまま従う剣と、知った上でなお従う剣は違う。

強さの話ではない。

意味の話だ。

荒臣はそれを拒まない。


「重いですね」

「ええ」

「ですが、その方が私には都合が良い」

「そうでしょうね」


天帝は、ほんのわずかに目を細めた。


「あなたは、自分が軽い道具だと思っている時ほど、少しつまらないですから」


荒臣の唇の端が、今度ははっきりと歪んだ。


「それは、だいぶ不愉快な評価です」

「本音ですので」

「ええ。陛下は、そういう時だけ妙に誠実だ」

「そういう時だけ、ではありません」


そのやり取りだけが、異様に人間臭かった。

だが人間臭いからこそ、軽くならない。

軽くならないどころか、ここでようやく、この二人がただ役として向かい合っているだけでなく、切り分け切れない愛憎の残骸の上でも会話していると見えてしまう。

それがむしろ重い。


荒臣は再び一礼する。


「では、失礼いたします」


今度こそ、扉へ向かう。

歩幅は変わらない。

変わらないこと自体が、今は少し異様だった。

自分が天帝の姉の敗北と、消しきれなかった感情の延長から作られた人格であり、自分の力の底が天帝を敵と見た時に最もよく燃えると知った後でも、この人はまだ国家の中を歩く速度を変えない。


扉の前で、荒臣は一度だけ足を止めた。

振り返りはしない。


「陛下」

「何でしょう」

「礼は、やはり申しません」

「ええ」

「礼を言える種類の答えではありませんので」

「そうですね」

「ですが」


荒臣の声が、ほんの少しだけ低くなる。


「今夜の問答は、忘れません」


天帝は答える。


「……ええ、忘れないでください」

「御意」


荒臣は出て行った。

扉が閉じる。

白い灯りだけが残る。

天帝はしばらく動かなかった。

膝の上の指も、そのままだ。


姉。管理。理解。二千年前。

死滅を生んだ人類。

切るしかなかった自分。

切らせまいとした姉。

その敗北の残り香から作られた人格。

なお、今はもうそれだけではない一席。


管理の役は、切るだけではない。

見極めることもまた管理に含まれる。

だから今夜、真実は渡され、剣の底は明かされ、選択が迫られた。


天帝はやがて、ごく小さく息を吐いた。

その音は、誰にも聞かせるためのものではない。

そして、誰にも向けず、誰にも説明せず、ただ独り言のように、ほんのわずかに零した。


「……兄様、貴方はどんな選択をなさりますか?」


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