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幻想帝都 神州御親領衛記  作者: ニュートリノ鈴木
最終章 人の選択
188/191

百八十六話


百八十六話


186-1



夜の宮城は、音の返りが昼より遅い。


石が冷えるからではない。廊下が広いからでもない。ここでは、人間が自分で作る余計な音だけが、妙に薄くなる。咳払い。靴の擦れ。躊躇いの間。そういうものだけが壁へ届く前に削がれる。残るのは、要る足音だけだ。

だから、この場所を歩く者は、自分が必要な側かどうかを、耳の方で先に思い知らされる。


その夜、硯荒臣は一人で宮城へ入った。


昼の召命とは違う。封は無い。近衛本庁を通した正式な手順も無い。女官が現れ、陛下がお待ちです、とだけ告げた。それで十分だった。十分で済む呼び出し方というものがある。国家形式の命令より、もっと狭く、もっと深く、もっと逃げ道の少ない呼び方だ。


羽場桐妙子は同行を願い出なかった。

願い出る理由が無いことを理解していたからだ。副官にも入ってよい部屋と、入ることでむしろ形を壊す部屋がある。あの女は、そこを間違えない。

ただ、出立の前に一言だけ残した。


「少将閣下」

「何だ」

「戻られた後の予定だけ、明朝一番で確認させてください」

「無事を祈らないのか」

「宮城へ入られる方に、その言葉は仕事になりません」

「では何になる」

「戻られた後の形を、先に整えるだけです」


荒臣はその時、ほんの僅かに口元を歪めた。

笑ったのではない。笑うほど軽くはない。だが、面白がる余白だけは認めた顔だった。


「良い副官だ」

「恐縮です」

「褒めているのではない。事実だ」


それきりだった。


車は揺れない。中で余計な会話が増えないよう、宮城へ向かう車はたいていそう整備されている。人間は揺れると口数が増える。沈黙を誤魔化すために、どうでもよい確認を始める。管理の中枢へ向かう間の会話は、たいてい無駄だ。


堀を越え、門を通り、白壁の内側へ入る。


夜の宮城は、昼より白い。明るいからではない。暗い方が、輪郭だけがよく見えるからだ。人間が削ぎ落としたものの形は、だいたい夜の方がはっきりする。


通された先は、昼の部屋ではなかった。


広くない。飾りも少ない。灯りも低い。だが、その少なさに節約の匂いは無い。余計なものを持ち込まないこと自体が、この部屋の格式なのだと分かる。机も、椅子も、花も、ある。あるが、どれも「人間はこのくらいの柔らかさがあった方が落ち着く」という配慮のために置かれていない。

必要だからある。必要でないから無い。その線だけで出来ている。


天照帝由瀬は、そこに一人でいた。


柔らかな少女の顔立ち。声もまた柔らかい。だが、その柔らかさは人を安心させる方向へ働かない。切るべきものを切る時、余計に血が跳ねないようにするための柔らかさがある。その人間の声は、だいたいがそういうものだった。


「来てくださってありがとうございます、荒臣」

「陛下がお呼びなら、いつでも」


一礼し、頭を上げる。


天帝はしばらく荒臣を見ていた。見る、というより、こちらがまだ何を言っていない段階から、既に問答の終わりまで見渡しているような視線だった。


「今夜は命令ではありません」

「問いですか」

「ええ」


天帝の声は静かだった。


「貴女の、でしょう?」


荒臣は、その返答に何も飾らなかった。


「では、問わせて頂く」


室内の空気が、そこで一段だけ薄くなった。

考えて、選んで、言葉を探したのではない。最初から、その一文しか必要がなかっただけだ。


「私は、何者ですか」


天帝はすぐには答えなかった。


迷っているのではない。答えはある。あるからこそ、どの順で渡せばこの問いが最も逃げ場を失うかを、一度だけ測っている。

そして、言った。


「彼方の主に聞いたのですね」

「はい」

「あなたが、本来の五役の“理解”ではないことを」

「はい」


そこまでで、荒臣はまだ動かなかった。

動かないのは平然としているからではない。動くべき筋肉までの距離が、一瞬だけ消えているからだ。人間は、自分の足元を崩す答えを渡された時、表情より先に身体の方が「次を決められない」時間に入る。


天帝は、真正面から言った。


「まず、貴女が言われた通り、貴女は本来の理解ではありません」

「……理解」


その語に、荒臣はわずかに眉を寄せた。

天帝は続ける。


「理解とは本来、一つの役名ではなく一人の女の名でした」

「存じ上げません」

「でしょうね」


天帝の声は淡い。


「あなたは、その人を知りません。知るようには作られていない」


その一言は、荒臣の喉に小さく引っ掛かった。


知っているはずの何かを思い出せない苦しさではない。逆だ。最初から何も知らないはずなのに、自分の存在の根に、その知らない名前が既に差し込まれていたと知る不快さだ。


「その名は」


天帝は言った。


硯環(すずりたまき)


荒臣の姓と同じ音が、部屋に落ちた。


だが、その音に、懐かしさも、共鳴も、何一つ起きない。そこが余計に重かった。もし少しでも胸が鳴れば、人間はそこへ意味を見出せる。だが何も鳴らない。何も鳴らないのに、自分の名前の根元だけが、急に他人のものへ繋ぎ変わる。


「私の、姉でした」


その短い告白で、この部屋の中の位置関係だけが一度全部入れ替わったように感じられた。


186-2


天帝は、硯環という名に余計な感傷を混ぜなかった。


死者を語る声ではない。失われた姉を惜しむ妹の声でもない。もっと冷たい。もっと静かな。ずっと長い時間を経て、悼みを感情としてではなく、判断の履歴として持つ者の声だった。


「二千年前」


天帝が言う。


「人類は、死滅を産みました」


荒臣は目を伏せない。


「早すぎた願いです。終わりたい。止めたい。消したい。そういう欲求は、人の内側には昔からありました。ですが、それを人類全体の役へ押し上げるには、当時の文明はまだ若すぎた。若いくせに、手だけが届きすぎていた」


夜の部屋の灯りは低い。 だがその低さの中で、天帝の言葉だけは妙に輪郭があった。


「人類は、自分たちの容量を越えた文明を育てたのです」

「……それが死滅を産んだ」

「ええ」


天帝は頷いた。


「死滅は、完成した役ではありませんでした。終わらせる衝動だけが先に生まれ、終わった後を持てなかった。だから私は、文明伐採が必要だと判断しました」


伐採。


その語は乾いている。乾いているが、含まれている規模だけが途方もない。森に対して使うべき言葉を、人類に向ける。その時点で、その判断がどれだけ人間の感情と距離を取っているかがよく分かる。


「行き過ぎた枝を落とす必要があったのです」


天帝の声は柔らかい。


「放置すれば、人類は死滅を抱えたまま膨張し、世界ごと壊す。保存も、理解も、観測も、管理も、何も成立しない。ですから切るしかなかった」


荒臣はそこで初めて口を開いた。


「硯環は、反対したと」

「ええ」


返答は短かった。


「姉は、理解の役でした」


天帝は言う。


「切る前に知ろうとする。裁く前に繋がろうとする。壊す前に、なぜそこまで膨れたのかを見ようとする。役として、当然です」

「だから文明伐採を拒んだ」

「ええ」


天帝の目に、ようやくほんの僅かだけ、人間らしい硬さが宿る。


「姉は、死滅を生んだ人類に対してさえ、まだ理解が先だと言った。私は、そこまでの余裕は無いと判断した」


部屋の中の沈黙が深くなる。


これは思想の違いなどという生易しいものではない。五役がそれぞれの役に忠実であったがゆえに、同じ人類を前にして、真逆の手つきを選んだ。その結果、衝突は避けられなかった。


「争われたのですか」


荒臣が問う。


「ええ」


天帝は答える。


「二千年前。人類が死滅という早すぎた願望を抱えたまま膨張した、その果てで。私は管理として切ろうとし、姉は理解として止めようとした」

「そして」

「姉は敗れました」


淡々としている。 だが、その淡々さが逆に凄惨だった。


勝った負けたという次元の話ではない。人類の文明を切るか、それともまだ理解を試みるか。その衝突で敗れた側は、役としての正しさごと折られる。そこに含まれる痛みは、戦場の血よりもずっと長く残る。


天帝は少しだけ指を組み直した。


「敗れた姉は、世界へ還ることも、理解そのものとして消えることも選びませんでした」

「…………」

「自分の理解を、そのまま終わらせなかった」


天帝の視線が荒臣へ落ちる。


「捻ったのです」


その一語だけで十分だった。


「敗北した理解は、理解のまま死ななかった。代わりに、私への当て付けに近い形で、一つの人格を作った」


荒臣は動かない。

動かないが、その沈黙の底で、今聞かされた話と自分の名前と自分の在り方とが、容赦なく噛み合い始めているのが分かる。


自在天球(ネビュライクリプス)

「.....」

「全ての人類と接続し、理解し、そして模倣する力です」

「.....模倣」

「その力で、私の天照大帝(テスタメント)を模倣し、自身を覆い隠す仮の人格と言う外殻を作り上げた」


天帝の声は低い。


「それが、あなたです」


部屋の灯りは変わらない。 風も鳴らない。 何も動いていないのに、荒臣の足元だけが見えない深さへ差し替わったようだった。


自分は五役の理解ではない。 知らない名の女がいる。 その女は天帝の姉で、二千年前、死滅を生んだ人類への文明伐採を巡って天帝と衝突し、敗れた。 そして敗れた理解が、天帝へのあてつけとして、自分という人格を作った。

説明としては筋が通る。 通るからこそ、逃げ場がない。


「……なるほど」


荒臣は、ようやくそれだけを言った。


軽い言葉ではない。

軽く言ったのでもない。

受け取った、という事実だけを、崩れない声で置いたにすぎない。


天帝は問う。


「理解できますか」

「辻褄は、合います」


荒臣は答えた。


「私が私であることに、妙な作為の匂いが混じっていた。理由の無い親近も、理由の無い嫌悪も、私の中には最初から少ない。全部、後から手順で作った感触がある」


天帝は何も言わない。


「ただ」


荒臣は続ける。


「私は、その硯環という女を知らない」

「ええ」

「一度も」

「ええ」

「そのくせ、私の根はその女に繋がっている」


天帝は頷いた。


「そうです」


荒臣の声は低く、乾いていた。


「ひどい話だ」

「ええ」

「私の知らぬ女の敗北と悪意が、私の始まりですか」

「そうなります」

「なら私は何だ」


先ほどの問いと同じ形をしている。 だが、今度のそれはもっと切実だった。


知らない名を聞く前の「私は何者か」と、聞いた後の「私は何だ」は違う。前者は輪郭を求める問いだ。後者は、今しがた崩された輪郭の上に、なお立てるものがあるかを問う。


186-3


天帝は、その問いにも逃げなかった。


「あなたは」


柔らかな声が、静かに落ちる。


「姉の残滓ではありません」


荒臣の眉が、わずかに寄る。


「違いますか」

「ええ。残滓なら、ここまで保ちません」


天帝は言った。


「敗者の悔恨や悪意だけで、国家の剣がこれほど長く成立することはありません。羽場桐中尉のような人間が、あなたの横に立ち続けることも無いでしょう」


その名が出た時、荒臣の目の底だけが僅かに動いた。


「では」

「作られた人格です」


天帝ははっきり言った。


「姉の敗北。姉の悪意。姉の当て付け。その全てを原型に持つ。ですが、今ここにあるあなたは、それだけではありません」


荒臣は答えない。


「始まりは姉です」


天帝は続ける。


「ですが、今の硯荒臣は、もう姉の感情だけで動いてはいない。国家を受け、軍を受け、人を受け、あなた自身の選択で積んだものがある。だから私は、あなたを姉の残り滓としては扱わない」


それは慰めではない。 慰めなら、もっと優しい言い方はいくらでもある。

これは判断だ。 管理の役が、被造人格に対して下す、冷たい承認だった。


荒臣はしばらく黙っていた。

沈黙の時間は短くない。だが長すぎもしない。泣くための間ではない。崩れるための間でもない。自分の中で言葉が一度死んで、なお残るものだけを拾い上げる間だった。


「つまり」


やがて荒臣は言った。


「私は、硯環という女の敗北と悪意を原型に持つ」

「ええ」

「だが、今の私をそこだけで測るなと」

「はい」

「ひどく、難しい命ですね」


天帝は、わずかに目を細めた。


「命ではありません」

「では」

「確認です」


荒臣はその返答に、初めて少しだけ唇を歪めた。

笑ったのではない。

ただ、「やはりそう来るか」と思った時、人間はたまにああいう顔をする。


「陛下は、残酷だ」

「そうでしょうか」

「ええ。作られたと教えた上で、それでも選択は今の自分のものだと言う。正論です。正論ですが、被造物には重い」


天帝は否定しない。


「ですが、それ以外にあなたを測る方法がありません」


静かな断定だった。


「何から作られたかだけで測るなら、あなたは永遠に姉の悪意の内側から出られない。私は、それではあなたを見ません」


荒臣は、そこでようやく小さく息を吐いた。

その吐息には怒りも嘲りもなかった。

ただ、重い真実を受け取った後にだけ出る、余分な空気を一度捨てる呼吸だった。


「……なるほど」


そして続ける。


「では、今後の私は、出自ではなく選択で測られる」

「はい」

「姉が作った人格であっても」

「はい」

「私自身が、何を守り、何を切り、何を見逃すかで」

「その通りです」


天帝はそこで初めて、ほんの少しだけ声を柔らかくした。


「そうでなければ、あなたをここへ呼びませんでした」


その一言は、冷たさの中にぎりぎり残された温度だった。

荒臣は一礼しなかった。まだ話が終わっていないからだ。

代わりに、低く言う。


「本来の理解が、硯環であり、あなたの姉であり、私がその敗北から作られた人格であること。理解しました」

「ええ」

「理解した上で、なお私は、昼に受けた命を変えません」


天帝の視線が静かに細くなる。


「中立に立つのですね」

「はい」

「生まれを知った後でも」

「知った後だからです」


天帝は、そこで僅かに頷いた。


「よろしい」


それだけで十分だった。


今夜必要な最初の崩れと、その上でなお立つ確認は終わった。だが、問答そのものは終わっていない。

荒臣は、そのことを理解していた。

だから扉へ向かわない。だから礼も言わない。

だから沈黙のまま、次に来るものを待つ。


部屋の灯りは低いままだった。


膝の上で組まれた天帝の指はほどけない。

風も鳴らない。

何も動いていないのに、空気だけが、次の一言のために目に見えない位置を変えていく。


そして天帝は、静かに口を開いた。


「では、荒臣」


声音は変わらない。

柔らかい。

柔らかいまま、今度はもっと深いところを切る声だった。


「もう一つだけ、確認を」


荒臣は答える。


「……何でしょう」


天帝は、その問いにすぐには言葉を継がなかった。


継がず、ただ一度だけ、膝の上で組んだ指をほどく。

その小さな動作だけで、この後に来るものが、先ほどまでとは別種の重さを持つと分かってしまう。


部屋の静けさはそのままだ。

同夜。同室。

同じ問答の続き。


だが次に落ちる言葉は今しがた渡された出生の真実よりなお直接に、荒臣の今を切る問いだった。


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