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幻想帝都 神州御親領衛記  作者: ニュートリノ鈴木
最終章 人の選択
187/193

百八十五話


百八十五話


185-1



神州の国主、天照帝由瀬(てんしょうていゆせ)のいる部屋は広くは無かった。


広くないのに、近くもない。

人間が一歩で詰められる距離と、役が役へ届く距離は違う。あの部屋は最初から後者だけで測られている。机も、椅子も、飾りも、あるにはある。だが「このくらいは置いておいた方が人間は落ち着く」という配慮のために置かれたものが一つも無い。


必要だからある。必要でないから無い。その線だけが、妙にきれいだった。

人は、こういう部屋で、自分が管理される側だと知る。

広さで圧すのではない。豪奢さで黙らせるのでもない。ただ、ここでは余分なものが最初から許されていないと理解した時、人間は自分の中の余分まで勝手に削り始める。


硯荒臣は一礼の姿勢を解いていた。


羽場桐妙子は半歩後ろに控えたまま、視線だけを床へ落としている。見ていないのではない。見ているものを表へ出さないだけだ。副官として正しい位置だった。


天帝は静かに座していた。


藍羽織に白い衣。 長い髪。 柔らかい少女の声。

だが、その柔らかさが人を安心させる方向へ働くことはない。人間はたまに勘違いする。優しい声をしたものが優しい判断を下すと。違う。優しい声というのは、切るべきものを切る時に、血飛沫が無駄に散らないようにするための技術でもある。


「昨夜の視認については、もう上がっていますね」


天帝が言った。

荒臣は短く答える。


「はい」

「地上の人流に沿って寄る。けれど地下の計測は、まだ沈黙を保っている」

「その通りです」

「ええ。礼儀が良い」


天帝は微かに頷いた。


「終わりの側のものは、いつもそうです。いきなり中心から壊したりはなさいません。人がほどける時刻、人が帰る道、人が自分の一日を閉じ始めるところへ、先に立ちます」


羽場桐は、その言葉を頭のどこかで記録した。

記録したが、それをそのまま報告書へ写せるとは思わなかった。これは定義であって、証言ではない。しかも、定義したのが人間の上に立つ役である以上、ただ書き取るだけでは薄まる。


天帝は続ける。


「死滅は、人類が生み出すには早すぎた願いでした」


室内の空気が、その一言だけ少しだけ硬くなった。


死滅。 白いものの向こうにいるもの。 白いものそのものより、もっと深く、もっと大きく、もっと人間の言葉に乗りにくいもの。

天帝の声は変わらない。


「不完全なのです。早すぎたから。人は終わりを願うことはできます。終わらせたいとも思えます。止めたいとも、消したいとも。けれど、その願いを人類全体の役へ押し上げるには、まだ自分たちはあまりに若かった」


荒臣は黙って聞いている。

羽場桐も沈黙を保ったまま、呼吸だけを薄くした。


「ですから死滅は、完成していません」


天帝は言う。


「役としては生まれた。けれど、役のまま世界を持つには足りない。終わらせることはできても終わった後の人類を持てない。だから不完全です」


荒臣が低く口を開いた。


「処分は、なさらないのですか」

「ええ。いたしません」


返答は即答だった。


「管理の役として、消すことはできます。封じることもできます。固定もできます。ですが、それでは人類が自分で生んだものに対して、何一つ答えを出さないままになります」


天帝はそこで、羽場桐を見た。


「羽場桐中尉」

「は」

「記録なさい。これは命令ではなく、判断です」

「承知いたしました」

「死滅の扱いは、まず人類へ委ねます」


その言葉は静かだった。 静かなのに、極めて重い。

管理者が管理を放棄するという意味ではない。逆だ。管理者が管理者として、まずは人類自身へ答えを出させる順序を選んだ、という意味だ。順序を選ぶこともまた、管理の一部だった。


荒臣が問う。


「誰に」

「誰に、ではありません」


天帝はそこで言い換えた。


「人類全体に、です。けれど人類は誰か一人の選択へ先に現れます。今回は、それが紺野健太郎と守社厳志郎の衝突として表へ出る」


荒臣の目が、僅かに細くなった。


「厳志郎は通しません」

「ええ」

「全力で拒む」

「そうでしょう」

「それでも、恐らくあの男は引かない」

「引けば、そこまでです」


その一往復に感情はない。 にもかかわらず、冷たくはなかった。 これは二人が人間を捨てているからではない。人間の感情を持ったまま、その上で役として会話しているから、余計な揺れを入れないだけだ。


「ですから」


天帝は言った。


「現の世でやらせるわけにはいきません」


羽場桐は呼吸を整えた。 やはりそこへ来る。

帝都でもない。 東都でもない。 人の住む場所の延長でもない。

守護が全力で戦い、なお国家の側がそれを許容する場。 そんなものは普通、この星に存在してはならない。存在してはならないものを、管理の役が一度だけ許可する。そういう話だ。


「私が、場を用意します」


荒臣は、数瞬だけ黙った。

その沈黙には重さがある。 命令の内容ではなく、その結果の広がりを測る沈黙だ。


「承知しました」

「ええ。あなたには、場の外縁に立っていただきます」


天帝の声は柔らかい。


「中立として」


羽場桐は、その二文字を心の中で反芻した。

中立。 それは「何もしない」と同義ではない。硯荒臣のような存在にとって、中立とは最も難しい仕事だ。最も簡単に終わらせられる側に立つ者が、終わらせず、通すか止めるかの選択そのものには介入しない。剣に鞘へ入っていろと言うより難しい。


荒臣は低く返す。


「逸脱時のみ封じますか」

「はい」

「それまでは」

「見届けなさい」


天帝は、ほんの少しだけ目を細めた。


「今回は、斬る役ではありません。場の成立を担い、壊れてはならない線だけを守る。そのための中立です」


荒臣は一礼した。


「御意に」


その一言で十分だった。

主従の線が通る音は、だいたい外には聞こえない。聞こえないから、人はそこを軽く見る。だが本当に重い命令ほど、室内では静かに終わる。


天帝は今度は羽場桐を見た。


「中尉」

「は」


「記録は取りなさい。ですが、記録したことで全てを扱えたと思ってはなりません」


昨夜の古物商の言葉と同じ種類の圧だった。 閉じた帳簿の外に残るものを数えろ、という話の延長にある。


「はい」


羽場桐は答える。


「肝に銘じます」

「ええ。あなたなら、その方がよろしいでしょう」


部屋の中に、しばし沈黙が落ちた。

命令は下った。 場は定まった。 荒臣は中立に立つ。 死滅の扱いは、まず人類へ委ねられる。


それだけで、この部屋へ入る前の世界と、今の世界は、もう同じではない。


185-2


「陛下」


荒臣が再び口を開いた。


「何でしょう」

「御親領衛には、どこまで」

「場の用意があることまでは伝えて構いません」

「紺野少尉には」

「まだです」


その「まだ」に、曖昧さはなかった。


「今伝えれば、彼は準備を始めます」


天帝の声は穏やかだった。


「準備は悪いことではありません。ですが、早すぎる準備は、人を先に答えへ寄せます。今回は、それをさせたくない」


荒臣は僅かに顎を引く。


「形にしない方がいいものがある」

「ええ」

「理解したい、だの、喰いたくない、だの、その曖昧なものも含めて」

「はい」


天帝は膝の上で指を組んだ。


「人が自分の願いを言葉にした時、それは半分、別のものになります。言葉は形ですから。形になれば、人はそれを守ろうとします。けれど、形になる前にしか正しく育たないものもある」


羽場桐は、その言葉を聞きながら、紺野健太郎の顔を思い浮かべた。


壊していないだけの顔。 止まっているだけの顔。 だが、それでもなお、止められたまま終わらない顔。

あの男に「これがお前の答えだ」と早く渡せば、たぶんそれを自分の答えにしてしまう。そうなると、もう一度そこを疑うためには、また別の破壊が要る。


「ですから」


天帝は言う。


「場は与えます。ですが、答えは与えません」


管理者としては、奇妙な宣言だった。

管理とは通常、定義し、線を引き、通る形を決めることだ。だがこの人は今、その逆をやっている。場は作る。線は引く。逸脱は防ぐ。そこまでは管理する。だが、その中で人類が出す答えまでは先に固定しない。


不親切なのではない。

その不親切さそのものが、たぶん管理の役の慈悲に近い。


「厳志郎は」


荒臣が言う。


「紺野健太郎の在り方そのものを、人類の枠から外れかねないものとして見ている」

「ええ」

「それを、陛下は誤りとはなさらない」

「しません」


天帝ははっきり言った。


「厳志郎は正しいのです。正しく拒絶している。正しく嫌い、正しく許せない。人類のまま終わるためには、あの拒絶は必要です」

「それでも、紺野は通そうとするでしょう」


またそこで、ほんのわずかに空気がずれた。

羽場桐は伏せた視線を動かさない。 今の一語は、聞き漏らすべきものだと本能で分かった。拾ってはならない種類の、わずかな言い方の違い。

天帝は訂正しない。 ただ続ける。


「通るかどうかはまだ分かりません。通らなければ、それまでです。ですが、通る可能性がある以上、私はそのための場を閉じません」


荒臣の返答は短い。


「御意」

「よろしい」


天帝は、それで話を一度閉じた。

部屋の空気が少しだけ薄くなる。 決定の後の静けさだった。 すでに命は下りた。あとはそれぞれが、その命をどう持ち帰るかだけになる。


「羽場桐中尉」

「は」

「少将をお支えなさい」

「無論です」

「今回は、いつも以上に」

「……承知いたしました」


天帝はそこでようやく、ごく微かに笑んだ。


「良い返事です」


185-3


戻りの車内では、しばらく誰も喋らなかった。


喋らないこと自体が会話になっている沈黙だった。

何も起きていないから静かなのではない。起きたことの重さに対して、まだ余計な言葉を足す方が軽くなると分かっているから、口を閉じている。


窓の外に、宮城の白壁が流れていく。 検問を越える。 堀を回る。 庁舎街へ近づく。

帝都はいつも通りの顔をしている。 その「いつも通り」の中身が、今しがた変わったことなど、道を歩く人間は誰も知らない。だが国家の重い決定というのは、たいていそうだ。見た目は昨日の続きのまま、底だけが入れ替わる。


羽場桐が先に口を開いた。


「少将閣下」

「何だ」

「御親領衛へは、どこまで」

「白いものの追跡継続。そこまではよい」

「場のことは」

「まだ伏せる」

「紺野少尉にも」

「繰り返すが、特に伏せろ」


答えに迷いはない。

羽場桐は続ける。


「理由を伺っても」


荒臣は窓の外を見たまま言った。


「今あれに与えると、心まで形にする」


天帝の言葉と、よく似ていた。 違うのは、こちらの方が少しだけ荒いことだ。


「形にしない方がいいものがある、と」

「そうだ」


荒臣は軍帽の縁を親指で一度だけ撫でた。


「お前は逆だがな。整えていないと壊れる」

「自覚はあります」

「知っている」


短い返答だった。

だが、その短さの中に信頼も運用も混じっている。羽場桐妙子を便利な副官として使い、同時にそれ以上として把握しているから出る声音だ。


車が近衛庁舎へ近づく。

羽場桐は、先ほどの部屋で下された命令を頭の中で並べ直した。


死滅は不完全な願望。 その扱いはまず人類へ委ねる。 紺野と守社が全力で戦える特別な場。 荒臣は中立。 逸脱時のみ封止。 答えはまだ与えない。

紙にすれば短い。 短いが、その短さのままではとても持てない。


「中尉」


荒臣が言った。


「はい」

「記録を取れ」

「承知しております」

「正確に取れ。だが、取ったことで全て掬えたと思うな」

「……はい」

「お前は帳簿を閉じるのが上手い。だからこそ、閉じた外に残るものを忘れる」


羽場桐は、その言葉に小さく息を整えた。


昨夜の古物商。 今朝の紙束。 宮城の一室。 別々の場所で、同じ種類の警告ばかりが増えていく。

それはたぶん、今がそういう段階だからだ。

もう数字と記録だけでは足りない。

だが数字と記録を捨てても届かない。

その中間に、人間の選択がある。


車が止まる。

荒臣が先に降りる。

小柄な背が白い軍装を揺らし、庁舎の階段へ向かう。


今しがた、この人は「斬るな」と命じられた。

場に立ちながら、剣でありすぎるなと。

剣は、振るわない時にいちばん剣である。

羽場桐は半歩遅れて続いた。


庁舎の扉が開く。

紙の匂いが戻る。人の足音が戻る。

国家の末端の仕事が、何事もなかった顔で待っている。


その最奥で、まだ名も答えも与えられていないものだけが、静かに次へ進み始めていた。


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