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幻想帝都 神州御親領衛記  作者: ニュートリノ鈴木
最終章 人の選択
186/191

百八十四話


百八十四話


184-1



昼過ぎの近衛庁舎は、静かに忙しい。

忙しい、というのは騒がしいという意味ではない。むしろ逆だ。


人間は本当に差し迫った仕事をしている時ほど声を低くする。足音を短くする。書類を机に置く角度まで小さくなる。庁舎という場所は、そういう種類の緊張をよく育てる。国家はだいたい、大声ではなく、低く揃えた手順の方で動くからだ。


御親領衛の詰所も、その例外ではなかった。


昨夜の報告はすでに再整理され、羽場桐妙子の机の上では、紙が三度目の顔をしている。視認記録。周辺証言。地下計測。動線重複。駅、市場、帰路。数字にできるものと、まだ数字のふりしかできないものとが、別の山に分けられていた。


紺野健太郎は窓際で腕を組んでいた。


考えているようにも見えるし、何も考えないために立っているようにも見える。詰所の中には他にも人がいた。宗一は机に地図を広げ、綾瀬は窓の外を監視し、真名は誰かの苛立ちが広がらないよう場の空気を丸め、樋道はその丸まった空気の端を爪でつつき、高倉は市場から持ち込まれた聞き取りの裏を取り、三つ子は三人で一つの紙束を持って運んでいた。


誰もが動いている。

だが、昨夜の白いものについて、誰も軽くは喋らなかった。

軽く喋った瞬間に、ただの怪談へ落ちる。 ただの怪談へ落とすには、あれは少し近すぎた。


扉が二度、規則正しく叩かれた。


詰所の中の視線は一斉には動かない。ここは軍だ。一斉に動くのは、新兵か、死にかけの現場だけでいい。だが全員が、別々の角度で同じ方を意識した。


羽場桐が「どうぞ」と答える前に、扉は開いた。


入ってきたのは伝令ではなく、近衛本庁側の文官だった。階級章より先に、手に持った封の方が目につく。白でも黒でもない。淡い生成りの厚紙に、極めて細い金糸の押し印。見た目は控えめだ。控えめだが、その控えめさが逆に重い。


封は、開く前から人を立たせる種類のものだった。

文官は室内を一瞥し、最短距離で羽場桐の机へ進む。


「近衛御親領衛一席、硯少将宛です」


羽場桐は立ち上がった。


「お預かりします」

「いえ。手渡しの指示です」


それだけで、室内の温度が半度下がったような気がした。

手渡し。 つまり中継を嫌っている。記録の経路を削っている。誰が見た、誰が触れた、どこを通った、という余分な層を、最初から最小限にしている。


文官は続けた。


「即時。ご在室であれば、本人へ」

「少将閣下は現在、庁舎内に」

「分かっております。それでも確認させて頂きたい」


答え方に、すでに余計な確認を拒む固さがあった。


羽場桐は一礼し、封を受け取る。手袋越しでも分かる重さがある。紙そのものの重さではない。封の中身を知る人間が少ない時、紙はいつも必要以上に硬く感じられる。


文官は礼だけ残して下がった。

扉が閉まる。

閉まった音は小さかった。小さいのに、詰所の中の雑音だけが一段落ちた。三つ子の紙をめくる手が止まり、樋道がソファに沈めていた肩を少し上げ、志摩龍二が椅子の脚を床へ戻す。


高倉が最初に口を開いた。


「……そりゃまた、嫌なもん来たな」


羽場桐は封を見たまま答える。


「ええ」


樋道が首を傾げる。


「何それ。軍のやつじゃないよね」

「近衛の内線文書なら、こんな意匠にはなりません」


宗一が地図から目を上げる。


「宮城ですか」

「断定はしません」

「したも同然に聞こえます」

「そう聞こえるように言いましたので」


羽場桐の声は落ち着いていた。

落ち着いているが、それは平静ではない。平静でなくても、手順の上に声を置けるだけだ。


紺野が窓際から離れる。


「少将は」

「本庁側の会議室へ呼ばれていました」

「呼び戻すのか」


羽場桐はそこで、ほんの少しだけ考えた。

考える時間が短い。短いが、その短さの中に、この女が普段どれだけ即断を積んでいるかが出る。


「いえ」


そう言って、封を持ち直す。


「私が持って行きます」

「一人でか」

「はい」


紺野が眉を寄せる。


「そういう顔をするな」

「どんな顔ですか」

「これ以上巻き込まない方がいいと思ってる顔だな」


羽場桐は否定しなかった。

否定しないのは、否定しても意味がないからだ。紺野は、こういう時だけ妙に勘がいい。


「巻き込む、ではありません」

「なら何だ」

「順番です」


羽場桐は封を机上に置かず、そのまま鞄へも入れなかった。持ったまま言う。


「この封は、持った人間から順に意味が変わります。ですので、少ない方がいい」


それは詩的な言い方だったが、内容は実務そのものだった。 誰が見たか。 誰が知ったか。 知ったことで誰の行動が変わったか。

国家の中枢に近い文書ほど、中身そのものより、そこから生まれる揺れの方が大きい。


「羽場桐中尉」


今度は宗一だった。


「ご同行しましょうか」

「不要です」

「しかし」

「不要です、護国少尉」


二度目は、柔らかい声の形をしていて、拒絶としては十分だった。

宗一はそれ以上言わない。


184-2


本庁舎の会議室前は、妙に明るい。


廊下が明るいのではない。蝋引きされた床も、白い壁も、昼の光を薄く返しているだけだ。明るく見えるのは、人間の方がそこで息を揃えすぎるからだ。


重要な会議室の前というのは、だいたいそうだ。扉一枚向こうの決定が、自分の仕事量を増やすか減らすかだけは、誰でも直感で分かる。

羽場桐が立つと、扉前の当番兵が姿勢を正した。


「中尉殿」

「少将閣下は」

「在室中です。ですが、議題は――」

「急件です」


当番兵の目が、羽場桐の手元へ落ちる。封を見た瞬間、その顔から迷いが消えた。中身を知らなくても分かることはある。分からないからこそ分かることもある。

兵が中へ取り次ぐ前に、扉の内側から声がした。


「入れ。廊下で固まられる方が仕事の邪魔だ」


硯荒臣の声だった。


羽場桐は扉を開ける。

会議室の中は、すでに片付いていた。机上にはまだ何枚か資料が残っているが、残っているだけだ。会議そのものは終わっている。終わっているのに、退席が遅れている。つまり、誰かが最後に要らない一言を足したか、要る一言の重さを測っているか、そのどちらかだ。

前者だったらしい。


海軍の将官らしい男が、苦い顔で帽子を取り上げる

ところだった。


「では、少将」

「ああ、次はもう少し数字を綺麗にして出せ。貴官ら海の人間は、妙なところで大雑把だ」

「肝に銘じます」

「銘じるだけなら安い。直してから来い」


男は会釈し、羽場桐の脇を抜けて出て行く。

すれ違う時、彼は一席へではなく、その外側にある何かへ礼をしている顔だった。階級の上下では済まない時、人間は自然とそういう礼の仕方になる。


荒臣は会議卓の奥に座っていた。


小柄な身体。白基調の軍装。肩章。長い黒髪を首の後ろで束ね、椅子に浅く腰掛けている。その外見だけ見れば、場違いなくらい若い少女だ。だが口を開けば、たいていその誤認は三秒持たない。視線の置き方が人間を年齢で見ていない。もっと上の、役割や損耗、そういう場所で測っている。


「どうした、中尉」


荒臣の視線が、羽場桐の顔ではなく、手の封へ先に落ちた。


「少将閣下宛です。手渡しの指示でした」

「ほう」


荒臣は立たない。だが「ほう」の一音だけで、室内の空気が微妙に締まる。興味を示したのではない。興味を示す必要があると判断した声音だ。


羽場桐が封を差し出す。

荒臣はそれを受け取り、表の押し印だけを見る。封を裏返しもしない。紙質と印だけで十分らしい。


「……なるほど。珍しくもないが、嫌な順番で来たな」


羽場桐は返答を待つ。


荒臣は封を開いた。中の紙を一枚だけ引き抜く。文量は少ないらしい。少ない文書ほど、中身は重いことが多い。長文はだいたい責任の分散だ。短文は、責任の所在が最初から決まっている。


荒臣は読み、紙を畳み直した。

表情はほとんど変わらない。

変わらないが、この人物の表情が変わらないからといって、何も起きていないわけではない。それを知らない人間は、たいてい一席を「読めない」と言う。違う。読めないのではない。出力先が、こちらの見慣れた筋肉にないだけだ。


「羽場桐中尉」

「はい」

「同行しろ」

「承知しました」


間がない。

間がないということは、行き先が既に決まっているということだ。


荒臣は椅子から立った。机上の資料にはもう目をやらない。こういう時のこの人は、切るのが早い。未練がないのではない。未練が仕事の役に立たない場面を、最初から弁えている。


「他へは」


羽場桐が問う。


「まだ伝えるな」

「紺野少尉にも、ですか」

「特に伝えるな」


荒臣は軍帽を取り、軽く打って埃もない縁を確かめる。癖だ。機嫌の指標にはならない。外へ出る時の、手順の最後だ。


「今、あれに知らせて利があるか」

「ありません」

「そうだ。ない。ならまだ要らん」


それから荒臣は、会議室の扉へ向かいながら、ふと思い出したように言った。


「もっとも、中尉。あの男は勘だけは悪くない。何かあったこと自体は、すぐ嗅ぎつくだろう」

「では」

「嗅ぎついても、今は放っておけ。犬に毎回答えをやると、自分で追わなくなる」


羽場桐は、その言い回しが少しだけ紺野に厳しすぎると思ったが、顔には出さなかった。

荒臣は出る前に一度だけ視線を寄越す。


「嫌そうな顔をするな。私はまだ何もしていない」

「そのような顔はしておりません」

「している。お前は帳簿と同じで、綺麗に閉じている時ほど少しだけ隙間がある」


それだけ言って、荒臣は扉を開けた。


184-3


宮城へ向かう公用車はあまり揺れない。

揺れないように整備されている。整備されている、というのは、乗り心地を良くするためではない。中で余計な会話を増やさないためだ。人間は揺れると口数が増える。沈黙を誤魔化すために、どうでもいい確認を始める。国家中枢へ向かう車内で、それはだいたい無駄だ。


車内は静かだった。


窓の外で、帝都の道が後ろへ流れていく。庁舎街を抜ける。堀沿いを回る。検問を二つ越える。兵は車体番号を見、乗車者を見、最後に帽章を見て道を開ける。手順は簡潔だ。簡潔だが、その簡潔さそのものが、通る先の重さを物語る。


羽場桐は向かいに座る荒臣を見なかった。 見なかったが、気配の方はよく分かる。

この人が静かな時は、空気が薄くなるわけではない。むしろ逆だ。饒舌な時の方が人間らしい厚みが出る。静かな一席は、役へ寄っている。個人が消えるわけではない。ただ、個人を前へ出す必要がなくなるだけだ。


しばらくして、荒臣が言った。


「中尉」

「はい」

「君は、昨夜の白いものをどう見ている」


脈絡がないようでいて、たぶんこの人の中では繋がっている。

羽場桐は少しだけ考えた。


「報告書の上では、まだ“反復視認事案”です」

「上ではな」

「ええ」

「下では」

「意図がある寄り方です」


荒臣は窓の外を見たまま、口の端だけを少し動かした。


「良い」


褒めたのではない。採点に近い。


「意図がある、で止めたのも良い。あれをここで“誰の”とか“何の”とか言い始めると、だいたい人間は自分が欲しい答えへ走る」

「承知しています」

「お前は承知している。だから連れている」


宮城の外周門が近づく。

兵の数が増える。制服の質が変わる。歩哨の目線が、人物の顔より先に、そこに乗っている役目の方を測る。ここまで来ると、都市の一部というより、もう別の国だ。帝都の中にあるくせに、帝都の日常と連続していない場所。国家中枢とは、たいていそういうふうに作る。


車が検問前で一度だけ止まった。

外で短い確認の声が交わされる。

そのわずかな間に、荒臣がぽつりと言った。


「厳志郎が嗅ぎつけば、面倒だな」


羽場桐は顔を上げた。


「守社閣下が、ですか」

「他に誰がいる。あれは鼻が利く。特に“人間のまま終われなくなる匂い”にはな」


その言い方は、冗談にしては冷えていた。


「今回の召命は、厳志郎閣下に関わるものですか」

「さあな」

「少将閣下」

「推測はするなとは言わん」


荒臣はそこでようやく羽場桐を見た。


「だが、推測を事実みたいな顔で持ち歩くな。お前はそれをやらないから、まだ使いやすい」


門が開く。 車が再び動き出す。


宮城の内側は、外より静かだった。 静かだが、穏やかではない。音を削りすぎた場所には、だいたい別の圧が残る。足音が小さい。庭木の剪定まで、あまりに正確だ。人間の手が届きすぎている空間は、ときどき自然より怖い。


車が止まる。

降車用の庇の下には、案内役の女官が一人だけ立っていた。人数が少ない。少ないということは、歓迎ではなく、最短経路で中へ通す気だということだ。

女官が頭を下げる。


「少将閣下、中尉殿。お待ちしておりました」

「待たせたか」


荒臣が言う。


「いいえ。陛下は、まだお時間の内です」


まだお時間の内。

その言い方に、羽場桐はほんの少しだけ背筋を正した。天帝の側近くへ行く人間の言葉は、たまに時刻の扱い方からして違う。


長い廊下を進む。 曲がる。 さらに進む。 通された先は、広い謁見の間ではなかった。広さで圧を作る部屋ではなく、距離の取り方だけで十分だと分かっている部屋だ。


女官が扉の前で止まる。


「こちらへ」


荒臣は迷わず歩を進める。 羽場桐は半歩遅れて従う。


扉が開く。

まず見えたのは光だった。昼の光ではない。薄く、やわらかく、部屋の形を壊さない明るさ。その中に、人影が一つだけある。


座している。

白い。 だが昨夜の白さとは違う。こちらは名も役も、最初から与えられた白だ。

天帝、天照帝由瀬が、静かにこちらを見ていた。


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