百八十三話
百八十三話
183-1
見た、と書いた瞬間から、人間の記憶は少し軽くなる。
軽くなるというのは、忘れるという意味ではない。もっと嫌な意味だ。見たものを紙へ移し替えたことで、もう自分の手から半分離れたような気になる。記録した。報告した。手順を踏んだ。だから次は誰かの番だ、と。人間はそうやって恐怖を分割する。
国家は、その分割のためにある。
翌朝、羽場桐妙子の机の上には、昨夜の記録がもう三部になっていた。
一部は時刻順。 一部は地点順。 一部は「現時点では特記事項に分類しきれない要素」として、正式報告の外へ退避させた束。
中央線上りホーム。 北二番市場前。 視認者三名。 周辺一般人二名の反応あり。 継続視認時間、いずれも短い。 接触不能。 足跡なし。 残留兆候なし。 地下計測値の有意変動なし。
事実だけ並べると、それは奇妙なほど弱い。
弱いくせに、妙に形が良い。時刻も、場所も、人の流れも、寄り方が綺麗すぎる。偶然の乱雑さをしていない。事故の顔をしているのに、事故にしては線が通りすぎている。
羽場桐はその紙束を閉じた。
閉じたところで、昨夜見たものの輪郭が薄くなるわけではない。むしろ逆だった。紙にしたことで、「これは自分の見間違いだけではない」と確定してしまった。確定した恐怖は、未確認の恐怖より静かで長持ちする。
「で、中尉」
高倉源三が、湯飲みを片手に机へ寄ってきた。
「帳簿の外、どのへんまで膨らんだ」
「あなたの八百屋の売上報告よりは控えめです」
「そりゃ助かる」
高倉は紙の束を見下ろし、顔をしかめる。
「嫌な重さしてんな」
「はい」
「見たのか」
「ええ」
「見た上で、その顔か」
「見た上で、この程度の紙にしかならないからです」
高倉は少しだけ黙り、それから湯飲みを机の端へ置いた。
「人間ってのはよ、見たもんがでかいほど、報告書は小さくなるんだよな」
「どういう理屈ですか」
「決まってんだろ。でかすぎると、書き方が分からねえ」
それはかなり正しい。
壊れた建物なら、高さと面積で書ける。死傷者なら数で書ける。爆発なら規模、被害、原因、対応で切れる。だが昨夜のあれは、そういう欄へ入らない。白い。人の形。いた。消えた。三人見た。二人も見た。なのに地下は静か。事実にすると薄い。体感にすると重い。
報告書は、見たものの重さまで記録しない。
記録できない、と言った方が正しいかもしれない。
「珠洲原主任は」
高倉が顎をしゃくる。
「地下ですか」
「朝から潜ってる。嫌な静けさってのは、数字で出ねえ時が一番性質悪ぃってさ」
詰所の隅で、宗一が地図を広げたままこちらを見ずに言った。
「昨夜の二地点を結ぶと、中央線を降りた人間の帰路動線にほぼ沿います」
綾瀬が窓際から続ける。
「北二番市場前は、買い物帰りの流れとも重なります。つまり“止まらない人間”に寄っている」
「嫌な言い方だな」
紺野が、入ってきたばかりの声で言った。
宗一が顔を上げる。
「おはようございます、紺野少尉」
「おはよう」
綾瀬も振り向かないまま言う。
「おはようございます。顔色は悪くありませんね」
「褒めてねえだろそれ」
「悪くないと言っただけです」
樋道がソファから身を起こす。
「おはよ、紺野少尉。ねえ、これって幽霊?」
「朝一で雑に楽しむな」
「だって面白……」
真名の視線が飛んだ。
樋道が言葉を切る。
「……ごめん、違う。面白いじゃなくて、気持ち悪い」
「それなら正しいです」
真名はそう言って、机上の記録へ目を落とした。
「昨夜、駅前でも似た通報が一件。白いものが柱の脇に立っていた、と。確認時には該当なし」
「増えてるのか」
紺野が羽場桐の机へ歩み寄る。
羽場桐は新しく加わった報告を一枚差し出した。
紺野は読み、眉間にわずかな皺を寄せる。あの顔は、理解した時の顔ではない。理解しきれないまま、自分の中にある何かと一致してしまった時の顔だ。
「……寄りすぎだな」
「はい」
「偶然で済ませるには綺麗すぎます」
詰所の扉が開いた。
珠洲原陽鳥が、階段下の冷気を少し連れて入ってくる。地味な上着の襟元だけが少し乱れている。地下から急いで上がった時の乱れ方だった。
陽鳥は室内を一瞥し、机上の新しい紙を見つけ、すぐに歩幅を変えた。
「また増えたの?」
「ええ」
羽場桐が紙を渡す。
陽鳥は立ったまま目を通す。数秒。短い。
「……静かすぎる」
「地下は」
「まだ静か」
紺野が腕を組む。
「まだ、ってことは」
陽鳥は紙を机へ返し、事務的な声で答えた。
「数字が静かなまま人間の目だけ同じ方を見る時は、たいてい数字の方が遅れてる」
「追えるのか」
「追うしかないでしょ」
そこで陽鳥は、ほんの一瞬だけ視線を細めた。
「今度は街の方が先に鳴ってる」
183-2
近衛庁舎の地下は、地上より空気が薄い。
本当に薄いわけではない。換気もされているし、湿度も温度も管理されている。にもかかわらず薄く感じるのは、そこに置かれているものの大半が、人間の呼吸を前提にしていないからだ。配線、計器、封止材、術式補助枠、観測板、振幅記録。どれも人間のためにある。だが人間の居心地のためには作られていない。
陽鳥が使う区画は、その中でも特に生活感がなかった。
無菌室のように綺麗、というのとも違う。綺麗汚い以前に、最初から人が長くいる前提の部屋ではない。立って、見て、処理して、出る。そういう動線だけで組まれている。
壁一面に走る目盛りは静かだった。
振れがない。 波がない。 嫌になるほど従順だ。
「静かですね」
羽場桐が言う。
「ええ」
陽鳥は数値盤の一つを指先で叩いた。
「静かすぎるのよ。昨夜の視認があっても、だから」
陽鳥は短く息を吐く。
「本当に何も起きてないなら、昨夜の三件は人間側の疲労で切れる。でも、人間側の疲労って普通もっと散るのよ」
紺野が背後から言う。
「同じ話だな」
「同じ話を二回する時は、だいたい一回じゃ伝わってない時」
「嫌な言い方するな」
「健ちゃんに優しく言っても、たまに意味ないでしょ」
羽場桐は視線を数値盤へ置いたまま、口を挟まない。
陽鳥は配線の末端に付いた小さな観測子を持ち上げる。
「駅、市場、帰路。全部、人間が“帰る”方向に寄ってる」
「それが何だ」
「終わりに近いから」
紺野が眉をひそめた。
「終わり?」
「一日の」
陽鳥はそう言って観測子を戻した。
「人間は始まりの時より、終わる時の方が弱い。仕事が終わる。店が閉まる。家に帰る。気を抜く。身体が“ここから先は自分の時間だ”って勝手に思う。そういう場所に、よく寄る」
羽場桐が問う。
「見せたいからですか」
「見せたい、とは少し違う」
陽鳥は壁の記録板に、昨夜の時刻を並べて書いた。
十七時四十三分。 十八時十一分。 二十時過ぎ、南三区画。
「見つけやすい場所にいる、が近い」
「意図がある」
「少なくとも分布には」
「白いもの」が人の流れへ寄る。 地下の数字は静か。 地上の目だけが同じ方を向く。
その組み合わせが、紺野にはどうにも嫌だった。
見つかりに来ているようでいて、捕まらない。目につくようでいて、形が残らない。あれは人間の敵意に似ていない。敵意ならもっと分かりやすく噛んでくる。悪意でもない。悪意は相手を傷つける時、自分の輪郭まで少し汚す。あの白さは、汚れていない。
汚れていないのに、怖い。
それが一番性質が悪かった。
「今日も出るわ」
陽鳥が言う。
羽場桐が即座に答える。
「はい」
「同じ動線をもう一度なぞる。今日は北二番から先も見る」
「俺も行く」
紺野が言う。
陽鳥は最初から止めない顔をしていた。
「分かってる」
「最初からそのつもりだったろ」
「健ちゃんを置いていく方が面倒よ」
「その呼び方やめろ」
「じゃあ、紺野少尉」
陽鳥が、そこで初めて少しだけ口元を緩めた。笑ったのではない。笑う一歩手前まで筋肉が行って、それで済ませた。
羽場桐は記録帳を閉じる。
「では、夕刻の再確認で」
陽鳥が頷く。
「そう。今度は見たら追う」
「追って掴める相手に見えますか」
「見えないわね」
「それでも?」
「それでもよ。見えないからって、見なかったことにはしない」
その言葉は、計器の数値よりよほど信頼できた。
地下が静かなら、地上の方がうるさくなる。
人間の世界は、だいたいそういう順で壊れる。
183-3
夕方の南区は、光の色だけ先に帰り支度を始める。
陽が落ち切る前に、看板の灯りが点る。店の硝子が外の色を吸って、内側だけ先に暖かく見える。道を歩く人間の足はまだ早い。だが顔の方はもう少しだけ家へ向いている。都市が昼から夜へ移る時、人間の身体は時計に従うが、気持ちは少し早く終わろうとする。
だから、その隙間ができる。
中央線の下を抜け、北二番市場を回り、南三区画第三通りへ入る。昨日と同じ線を、少しだけ伸ばした。
羽場桐は一歩後ろで時刻と位置を拾う。 陽鳥は左右の流れと、人の反応だけを見ている。 紺野は前を歩いた。
意識しているわけではない。だが、自然とそうなった。ああいう白さは、たぶん、先頭に立つ人間に一番寄る。昨夜から、紺野はそう感じていた。
第三通りは狭い。 道幅が狭いのではない。人間が「狭い道」として使うには、情報が多すぎるのだ。家の壁。小さな店先。干された布。掲示板。置き忘れた木箱。露店の名残。そういうものが、歩く人間の視界へ細かく刺さる。目が散る道では、見間違いが増える。
増えるはずだ。
なのに、今日は視界が妙にまとまっていた。
散るはずのものが散らない。
誰もが、何かを見ないようにしている時のまとまり方だった。
「止まって」
陽鳥が小さく言った。
三人が同時に止まる。
通りの先、洗濯物の影が風で揺れる。その向こう、掲示板の前に、立っていた。
白い。
昨日より近い。 近いのに、輪郭はやはり決め手が足りない。少女に見える。見えるが、年齢が読めない。服の形も曖昧だ。白いのではない。周囲の暗さだけが、そこを避けている。
今度は最初から、こちらを見ていた。
息を呑んだのは紺野だけではなかった。羽場桐も、陽鳥も、同じ沈黙を一瞬作った。人間が本当に同じものを見た時、まず起きるのは会話ではない。呼吸の乱れ方が揃う。
「……いる」
羽場桐が、ごく低く言う。
陽鳥の声はもっと低かった。
「分かってる」
「行くのか」
紺野が訊く。
「待って」
陽鳥は一歩も動かず言う。
「今動くと、消える」
「……じゃあどうする」
「見せる方から来るかもしれない」
言い終わる前だった。
白いそれが、ほんの少し首を傾けた。
首を傾ける、というありふれた動作が、あまりにも人間的で、紺野の背中が遅れて冷えた。人間に見えないものより、人間に見えすぎるものの方が怖い時がある。
通りの横を、買い物帰りの母子が通り、小さな子供が足を止めた。
「おかあさん、あれ」
母親は振り返らない。
「だめ。立ち止まらないで」
声は強い。強いが、理由を説明しない強さだ。見たくないものに名前を与えないための声。
その親子が通り過ぎる一瞬、洗濯物が風で膨らんだ。
視界が切れる。
次の瞬間には、少しだけ位置が変わっていた。
歩いたのではない。 移った、としか言いようがない。 掲示板の前から、今度は通りの奥の街灯の下へ、間を飛ばして立っている。
陽鳥の声が鋭くなる。
「……来てる」
「追うか」
「まだよ」
「まだ、じゃねえだろ」
紺野が前へ出かける。
その時だった。
白いそれの口が、動いた。
風が先に鳴る。 遅れて声が来る。
「また見た」
子供の声にも聞こえる。 若い女の声にも聞こえる。 音量は小さいのに、妙に近かった。
羽場桐の手帳を持つ手が、一度だけ止まる。
陽鳥は初めて一歩前へ出た。
「何を?」
返事はない。
白いそれは、ただこちらを見ている。見ているのに、焦点が合っていない。三人の顔を見ているのではない。もっと向こうの、何か重なった輪郭ごと見ているような目だった。
紺野の喉が、先に言葉を押し出した。
「俺をか」
そこで、ほんの少しだけ、白いそれの目が動いた。
合った。
合った、と思った瞬間には、もう遅かった。
街灯が一度だけ強く瞬く。 音が重なり、洗濯物がまた揺れる。
次の瞬間には、もういなかった。
残ったのは、街灯の白さだけだ。
掲示板の紙。 洗濯物の端。 壁に跳ねた光。 現実は、いつだって見間違いの逃げ道をきちんと用意している。
誰もすぐには動かなかった。
先に動いたのは陽鳥だ。 通りの奥へ走る。街灯の下。掲示板の裏。路地の角。覗き込み、触れ、確かめる。だが何もない。
羽場桐はその場で、息を一つ整えてから時刻を書く。
紺野だけが、まだ立ち尽くしていた。
「紺野少尉」
羽場桐の声。
「……聞こえた」
「はい」
「お前らもか」
陽鳥が戻ってくる。
「聞こえたわよ」
「何て言った」
「同じものを聞いたはずよ」
「同じかの確認だ」
陽鳥は少しだけ黙った。
それから、乾いた声で言う。
「“また見た”」
紺野は通りの奥を見た。
見られていた、とは少し違う。
向こうがこちらを確認した、でもない。
また見た。
その言葉は、再会の言い方に似ている。
だが再会なら、以前にも見ていることになる。
いつ。どこで。何を。
答えがないまま、言葉だけが妙にきれいに残った。
羽場桐が手帳を閉じる。
「見間違いでは、もう処理できません」
「当たり前だ」
紺野の声は思ったより低かった。
陽鳥は通りの先を睨んだまま言う。
「……ええ。もう、そういう段階じゃないわね」
夜の南区は、何事もなかった顔で息をしている。
市場の名残の匂い。 遠い電車の音。 どこかの家の食器の触れ合う音。
その全部の上に、まだ名もない白いものの気配だけが、静かに残っていた。




