百八十二話
百八十二話
182-1
朝の詰所は、紙の音から始まる。
人のいる組織なら、普通は足音とか挨拶とか、そういうものが先に来る。
だがここは違う。羽場桐妙子がいる限り、御親領衛の朝は、だいたい紙の音から始まる。
綴じる音。めくる音。揃える音。決裁印の位置を一ミリだけ直す音。国家というのは大層な顔をしているが、末端まで下ろせば、たいてい紙が紙を呼んで動いているだけだ。
詰所の窓から差す朝の光は明るかった。
明るいが、軽くはない。東都の夜が終わってから、帝都の朝はずっとそうだ。夜を越えた安心が朝を明るくするのではなく、夜の続きを見ないために朝の方を必要以上に整えている。庁舎前の旗はちゃんと上がる。巡回の靴音も一定だ。食堂の湯気も、いつも通りの時間に立つ。
いつも通り、の形だけが先に出る。
その机の上で、羽場桐は二つの山を分けていた。
左が正式報告。
右が正式報告にならなかった紙だ。
正式報告の方は、数字が整っている。補修。再配置。封鎖解除。補償進捗。巡回強化。窓口延長。国家はこういう紙を好む。理由は簡単だ。数字は、揃っているだけで、片付いた顔ができる。
反対に右の紙は、揃っていなかった。
相談窓口の聞き取り。 巡回兵の備忘。 鉄道員の私的メモ。 市場での口伝え。 交番に寄せられた、苦情未満の雑音。
それらは報告書にならない。なぜなら、事実として扱うには薄く、無視するには妙に偏っているからだ。
羽場桐は、その右側の紙束から一枚抜いた。
『南三区画第三通り、二十一時過ぎ。白い服の子供が立っていたように見えた。確認時、該当者なし』
次。
『中央線上りホーム。発車後、線路脇に白い人影を見たとの申告二件。保守班確認、異常なし』
次。
『北二番市場。白いものが棚の向こうを横切ったと騒ぎ。猫ではないかとのこと』
次。
『見間違いと思われるが、同種申告が今週四件目』
見間違い。 その言葉は便利だ。
便利だから、役所はよく使う。警察も使う。軍も使う。見間違い、聞き違い、気のせい、疲労由来、集団心理。そういう箱を持っていると、人間は一度そこで考えるのをやめられる。
羽場桐は、やめない方の人間だった。
「朝から嫌な顔してんなあ、中尉」
高倉源三が、紙袋を提げたまま覗き込んだ。袋の口から葱が見えている。詰所に八百屋の匂いが漂うのは、もう日常だった。
「嫌な顔ではありません」
「そうかい。俺にはまた帳簿に入らねえもんが増えた顔に見えるけどな」
「概ね正解です」
高倉は机の端に紙袋を置いた。
「市場でもあったぞ」
「何がですか」
「白いの見たってやつ。うちの女房なら“そんな暇あったら手動かしな”で終わる話なんだが、三人四人と重なると、さすがに耳に残る」
羽場桐は視線を上げた。
「いつ頃ですか」
「昨日の昼と夕方の間。北二番。魚屋の裏通り。あと駅前でも似たようなの聞いた」
「同じ特徴ですか」
「そこが気味悪ぃんだよ。みんな言うことが雑なのに、白い、だけは揃う」
白い。
色は情報として粗い。粗いくせに、人間の目には先に刺さる。暗い夜ならなおさらだ。影の中で白だけが浮く。掲示板の紙。標識。袖口。子供の帽子。見間違いが起きるには、都合のいい色でもある。
都合がよすぎるから、逆に残る。
詰所の扉が開いた。
紺野健太郎が入ってくる。顔に寝不足はない。だが、眠れた人間の顔でもない。あれは休んだから戻る顔ではなく、止まらないから形だけ整っている顔だと、羽場桐は思った。
「おはようございます、紺野少尉」
「……ああ、おはよう」
高倉が紺野を見て顎をしゃくる。
「おう、少尉。白いの見たことあるか」
「朝一番で雑な聞き方するなよ」
「雑で通じる話ってのは、たいてい面倒なんだよ」
紺野は答えない。
答えないこと自体が、答えに寄っている。
羽場桐は右側の紙束を揃え直した。
「紺野少尉。昨夜の件とは別に、似た申告が増えています」
「例の白いの、か」
「はい」
「見間違いだろ」
「一件ならそう処理します」
「二件なら」
「まだそうします」
「十件なら」
「処理する側が怠慢です」
高倉が鼻を鳴らした。
「だよなあ。人間、十人そろって暇ってことはあっても、十人そろって同じ嘘つくのは面倒くせえ」
「嘘とは限りません」
「見間違いも、嘘も、気のせいも、結果が同じなら帳面の外だろ」
「結果が同じなら、なおさら偏りだけは見ます」
紺野が机へ近づいた。
羽場桐は一枚だけ紙を差し出す。
紺野は読む。眉が少しだけ寄る。南三区画第三通り。中央線上りホーム。北二番市場。場所は飛んでいるのに、人の流れに沿っている。駅、市場、帰路。帝都が日常の顔を作る動線だ。
「……嫌な並びだな」
「ええ」
「わざとみてえだ」
「そう見える時点で、少なくとも“ただの疲労”だけでは処理しません」
高倉が紙袋を持ち上げる。
「俺は台所戻るぞ。嫁に遅いと殺される」
「脅迫の申告なら受理しますよ」
「受理した瞬間もっと殺意増すわ」
高倉はそう言って去っていった。
詰所の中に、また紙の音が戻る。
だが今度の紙は、整えるための音ではなかった。整わないものを、せめて散らさず置いておくための音だった。
182-2
地下から上がってきた珠洲原陽鳥は、白衣ではなく地味な上着を羽織っていた。
いつものことだ。陽鳥は所属を隠すために曖昧な格好をしているのではない。どこにいても一つの所属だけでは済まないから、最初から寄せ切らない。
扉が閉まる。
陽鳥は詰所の空気を一目で読み、羽場桐の机の上の右側の紙束で視線を止めた。
「増えたの?」
「はい」
羽場桐が数枚を差し出す。
陽鳥は立ったまま読む。読む速度が早い。読み飛ばしているのではなく、要る情報だけを先に抜く読み方だ。
「……白い、ね」
「どう見ますか」
「計器は静か」
「静かですか」
「少なくとも、地下の数値だけなら」
紺野が腕を組んだまま言う。
「地下が静かなら、終わりじゃないのか」
陽鳥は紙から目を上げた。
その視線は事務的だった。詰所の中だ。だから呼び方も距離も変わる。
「紺野少尉。それは逆」
「何がだ」
「数字が静かなのに、人間の目だけ同じ方向を向く時は、数字の方が取りこぼしてる可能性を疑う」
「都合よく言ってるだけにも聞こえるな」
「現場ってそういうものよ。取れた数字だけ信じて、取れてないものを全部幻覚扱いしたら、技術屋はすぐ死ぬわよ」
羽場桐が一枚指で押さえた。
「場所が人の流れに沿っています。駅、市場、帰路。偶然にしては寄り方が綺麗すぎます」
陽鳥は頷く。
「綺麗すぎるのは嫌ね」
「帳簿の数字が、ですか」
「違う。見間違いの分布が」
そこで紺野が言う。
「見間違いってのは、もっと散るものか」
「散る。疲労なら特に」
陽鳥は紙を二枚抜き出して並べた。
「人は疲れてると、見たいものを見るんじゃない。見たくないものを、見やすい形に誤認する。だから普通は、犬が子供になるとか、標識が人影になるとか、各自の生活に引っ張られて散る」
「今回は散ってない」
「白い、だけが揃いすぎてる」
陽鳥はそこで紙を戻した。
「気持ち悪いわね」
短い言葉だったが、その短さの中に十分すぎる判定が入っていた。
羽場桐が問う。
「追いますか」
「追う」
「方法は」
「二つね」
陽鳥は指を二本立てた。
「一つ、数字。地下と周辺の変動をもう少し細かく刻む」
「はい」
「二つ、歩く」
「歩く?」
「人の流れに沿って。見間違いが寄ってるなら、寄ってる場所の方を先に見る」
紺野が小さく息を吐いた。
「結局、足か」
陽鳥は肩を竦める。
「健ちゃん、そういう顔するけど、最終的に信用できるのは足よ」
二人きりではない。だが、今の一言は事務の外へ少しだけ踏み出した距離だった。
紺野が眉をひそめる。
「最近、その呼び方曖昧だぞ」
「知ってる。だから一回だけよ」
羽場桐は何も挟まない。挟まないが、その一往復を聞き落としてもいない。
陽鳥は視線を紺野から外した。
「夕方。中央線上りホームから北二番市場まで。人が引く前の時間がいい」
「同行は」
「私と紺野少尉」
「私も行きます」
「中尉は書類」
「私が書類だからです」
陽鳥は少しだけ考えた。
「あんたがいると、見えるものが増える時と減る時がある」
「今回はどちらですか」
「半々」
「でしたら、行きます」
陽鳥はそこで諦めた。
「好きにして」
好きにして、という言い方のくせに、もう手順を組んでいる声だった。
182-3
夕方の中央線上りホームは、人間の疲れ方が均一だった。
均一に見えるだけで、一人一人の事情は違う。違うのだが、改札を抜け、発車時刻を見て、列へ寄って、車両の位置へ身体を置く、その一連の流れが揃うと、人間は不思議なくらい同じ顔になる。仕事を終えた顔。まだ終わっていない仕事を家へ持ち帰る顔。誰にも見せない溜息を飲み込んでいる顔。
都市の夕方とは、そういう顔が一方向へ流れる時間だ。
羽場桐は柱際に立ち、陽鳥は線路の向こう側まで視線を送っていた。紺野は少しだけ二人から離れ、白線の外を見ている。
白線。 掲示板の紙。 駅員の手袋。 女学生の襟。 白いものはいくらでもある。
だから厄介だった。
「何かある?」
陽鳥が低く言う。
「まだだ」
「まだ、ね」
「お前は」
「計器は静か。静かすぎる」
羽場桐が手帳へ時刻だけ書き込む。
「十七時四十三分。ホーム異常なし」
「現時点では、を付けて」
「承知しました。現時点では、異常なし」
ホームに電車が滑り込む。風が起き、裾が揺れ、列が一歩だけ前へ寄る。その瞬間だった。
向かい側の柱の脇に、立っているものが見えた。
白い。
まず色だけが見えた。 それから、人の形に見えた。 年若い女か、子供か、その境目の細さ。髪の輪郭は曖昧で、服の境い目もはっきりしない。白い、というより、周囲の暗さだけがそこを避けているみたいだった。
紺野の喉が、先に詰まる。
「……見えた」
陽鳥の視線が即座に走る。
「どこ」
「向こう柱だ」
言い終わる前に、発車のベルが鳴る。
一瞬、車両の銀色が視界を切った。
次の瞬間には、もういなかった。
いた場所には、柱と広告板と、遅れて走ってきた学生が一人いるだけだ。広告板には白い紙が貼られている。新しい遅延案内。見間違いだと言われれば、それで通る程度には、現実がちゃんと揃っている。
「消えたな」
紺野が言う。
「最初から居なかった可能性は?」
羽場桐。
「低い」
陽鳥が即答した。
「紺野少尉の目が良いからじゃない。私も間に合わなかったけど、今の反応は“空振りを見た人間”の反応じゃない」
「追いますか」
「市場側へ」
三人はホームを離れた。
改札を抜ける。夕方の駅前は人で埋まっている。だが、埋まっているからこそ、白いものは浮く。浮くはずなのに、今度は見えない。
市場へ向かう途中、八百屋の前で小さな男の子が母親の袖を引いた。
「ねえ、あそこ」
母親は振り返らない。
「だめ。走らないの」
「あの白いおねえちゃん」
その一言で、陽鳥と紺野の視線が同時に動いた。
通りの向こう、信号柱の脇。 人の流れの切れ目に、確かに何かが立っていた。
白い。
今度は紺野だけではなかった。
羽場桐も見た。 陽鳥も見た。
その形は、こちらを見ているようで、見ていない。立っているだけなのに、周囲の人間だけがそこを上手く避けて流れていた。気付いているわけではない。気付かないまま、身体の方が先にそこへ寄らない。
「……いる」
羽場桐が初めて、少しだけ声を失った。
陽鳥が一歩出る。
「待て」
止めたのは紺野だった。
「何」
「今、お前が行くと散る」
「根拠は」
「ない。けど、そういう気がする」
陽鳥は苛立たなかった。苛立つ代わりに、白いものを睨むように見た。
信号が青になる。 人の流れが一斉に動く。 一瞬だけ、鞄と肩とコートの裾が重なり、視界が切れる。
次の瞬間には、もういなかった。
羽場桐の手帳の上に、風だけが落ちる。
「……消えました」
「うん」
陽鳥の返事は短い。
「でも見間違いじゃない」
「はい」
「分布も、時間も、寄り方も綺麗すぎる」
紺野は信号柱の根元を見た。何もない。足跡もない。落とし物もない。白い紙片の一つすら落ちていない。現実の方は、あまりにも現実として揃いすぎていた。
それでも、今のはいた。
いたものを、いなかったことにはできる。 できるが、その処理を始めた瞬間、人間はたぶん、次に来るものへ一番弱くなる。
夕方の市場が、背後でいつも通りに騒いでいる。
魚屋の声。 値切る声。 荷車の軋み。 包丁の音。 生活は、何事もなかった顔で続いている。
その真ん中に、白いものだけが、まだ名もないまま寄り始めていた。




