表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
幻想帝都 神州御親領衛記  作者: ニュートリノ鈴木
最終章 人の選択
183/191

百八十一話


百八十一話


181-1



南区の夜は、帝都の中でも少しだけ音が遅い。


人通りが少ない、という意味ではない。

人はいる。店も開いている。路地の奥ではまだ小さな酒場が客を抱えているし、表通りの菓子屋には戸を閉める前の灯りが残っていた。


だが、そういうものが発する音の届き方だけが遅い。古い壁、低い軒、湿り気を含んだ石畳、昼の熱を抱えた木戸。南区の建物は音をすぐには返さない。一拍呑み込んでから、思い出したように外へ戻す。

だから、夜の気配が厚い。


駅から二つ角を折れた先に、その店はあった。


看板は小さい。古物商を名乗るには愛想が足りず、骨董店を名乗るには商売気が薄い。表の硝子も磨かれてはいるが、客を誘うための透明さではなかった。見せるために拭いたのではなく、曇らせたままにするのが嫌だから拭いている、そういう硝子だ。


羽場桐妙子は店先で足を止めた。


「入ります」

「中尉、毎回そこからだな」

「手順は、慣れている時ほど省かない方が事故が減りますから」


紺野はそれ以上言わず、戸に手を掛けた。


引き戸は軽かった。古い店の戸にありがちな癖がない。手入れが行き届いているのだと分かる。古いものを並べる店で、本当に値打ちがあるのは古さではない。古いものを古いまま傷ませずに持たせる手の方だ。


店の中は、暖かいというより、温度が多かった。

紙の乾いた温度。木の鈍い温度。布の薄い温度。金属が昼のあいだに蓄えた冷えの名残。材質ごとに違う時間の抱え方が、狭い空間の中で混ざらずに浮いている。


棚は高くない。だが詰まっていた。茶碗。硝子器。欠けた額縁。古い時計。片方だけの燭台。用途の終わった何か。用途を明かさない方がいい何か。


人間が要らなくなって手放したものと、人間が要るか要らないか決め損ねたものが、同じ棚に、同じ顔で置かれている。

古物は、残った理由を自分で喋らない。

だから人間の方が勝手に意味を足す。


「いらっしゃい」


奥から声がした。


柔らかい。だが歓迎ではない。こちらが来ることを知らなかった人間の声ではない。知っていて、来るなら来るで構わない、という声だ。


卓の向こうに、名無子が座っていた。


相変わらず年齢が読みづらい。若く見えないわけではない。老いても見えない。どちらでもないのではなく、どちらに寄せても決め手が足りない。


そういう曖昧さは、たいてい外見の作り方に出るものだが、この女の場合は、こちらの認識の方が先に踏み外している気配があった。


羽場桐が一礼する。


「夜分に失礼します」

「ええ」

「羽場桐です」

「知ってるけど」

「承知しております。そのうえでの形式です」

「そう。形式は大事だ」


紺野は奥へ目をやった。


床近くの低い棚の前で、給仕服の女が帳面を広げていた。寝そべってはいない。だが、椅子にもきちんと座っていない。木箱を裏返したような低い台に腰だけを掛け、片肘で卓を支えながら、片手で札をまとめている。やる気のある姿勢ではない。だが手は止まっていなかった。


女は視線だけを上げる。


「こんばんは」


短い。


「お茶、出しますよ」


それだけ言って立ち上がる。動作は無駄がない。愛想がないのではなく、必要以上を足さないだけだと分かる。そういう種類の簡潔さだった。

羽場桐がそちらにも会釈した。


「ありがとうございます、未来さん」

「仕事だから」


未来はそう返し、もう次の動きに入っている。湯を足し、湯呑を三つ出し、何も考えていないような顔で、ちゃんと温度の違うものを先にどける。だらけているのではない。手を抜いて見える形のまま、必要なところだけ抜かない。


妙な店だった。 妙な店というより、妙なものしか中に置いていない店のくせに、人間の生活の手つきだけはちゃんとある。


「長話なら座れば?」


名無子が言った。

羽場桐が先に腰を下ろし、紺野も向かいへ座る。未来が茶を置く。湯気は細い。熱いが、すぐには熱いと気付かない嫌な温度だった。


「それで」


女が言う。


「中尉さんがこんな夜に来る時は、たいてい用事が二つある」

「礼と確認です」

「今日は正直」

「隠しても意味が薄い相手には、隠し方だけ増えますので」

「それは立派だね」


褒めているようで、褒めていない声音だった。


181-2


羽場桐は鞄から封を一つ出した。


厚みはない。公文書ほど硬くもない。だが私信にしては整いすぎている。礼状に近い。近いが、それだけでもない。あれは「残した」という事実だけは残すための紙だ。


「東都事変終息後における一連の非公式協力に対し、近衛御親領衛として謝意をお伝えします。正式記録にはしません。ただ、何も残さないのも不自然ですので、最低限だけ」


名無子は封を受け取らない。卓の上に置かれたそれを眺め、それから指先で手元へ引いた。開きもしない。封のまま横へ置く。


「ありがと」

「いえ」

「中尉さんは、私を礼を言うべき相手かどうかで迷わないね」

「迷いません」

「どうして?」

「礼を言う価値があるかどうかと、礼を言うべきかどうかは別です」

「そう」


名無子はそこで初めて少しだけ笑った。愉快だから笑ったのではない。答えが、期待した場所にきちんと落ちたから笑っただけだ。


紺野は茶に手を伸ばした。熱い。嫌な温度だ。口の中ではなく、指先にだけ長く残る。


「で」


名無子の視線が、今度は紺野へ移る。


「君は、今日は何しに来たの?」

「連れて来られた」

「半分正解」

「半分って、.....お前が言うのか」

「自分で来てるから」

「違うな」

「違わないよ。嫌ならこの戸はくぐらない」


言い返しかけて、紺野はやめた。言い返してどうなる話でもない。こういう相手は、勝ち負けの形を先に決めて話す。否定すれば、その否定の仕方まで含めて材料にする。


未来が帳面を閉じ、空いた湯を足した。


「冷めますよ」


それだけ言って、また棚の札に手を戻す。茶を出す。帳面を締める。置きっぱなしの包みを一つ脇へ寄せる。客に構いすぎない。構わなさすぎもしない。適当だが、雑ではなかった。


「もう東都の夜は終わったよ」


名無子が言った。

断定だった。感想ではない。判定に近い。


「終わったものを、まだ続いてるみたいに言い張るのは、だいたい当事者か、野次馬か、その両方だ」

「片付いてはいません」


羽場桐が返す。


「うん。だから君らが忙しい」


軽い言い方だった。 軽いのに、卓の上へ落ちた重さは軽くない。

名無子は続けた。


「壊れた物は直せる。全部じゃなくても、だいたいは直せる。窓ははめ直せる。道も埋め直せる。看板も掛け直せる。数字も揃えられる。国家はそのためにある。立派なものだね」


そこで言葉が切れる。


「でも、戦の後に残るのは、壊れた物より残った手順だ」


紺野は眉を寄せた。


「手順?」

「そう。振り返る。空を見る。音に先に身構える。列を詰めない。子供の手を離さない。逃げ道を先に測る。人間はね、助かった後の方が手順をよく覚える」


羽場桐は、微かに息を吐いた。

あれは肯定だ。 反論ではない。知っているものが、改めて別の言葉で置かれた時の呼吸だ。


「今日の南区、歩きづらかったでしょ」


名無子が何気なく言う。


紺野は答えなかった。確かに歩きづらかった。人の流れの詰まり方も、灯りの置かれ方も、店じまいの早さも、全部がほんの少しずつ過敏だった。過敏なのに、それを隠すために皆、必要以上に普段通りの顔をしている。ああいう街は、歩いていて妙に疲れる。


答えない紺野の代わりに、羽場桐が答える。


「ええ」

「それが後始末だよ」


女は湯呑に口を付けた。


「この国の後始末は、いつも君らだ」


未来の手がそこで一度だけ止まった。 止まったが、視線は上げない。札を束ねる指先だけが、ほんの僅かに間を空けてからまた動く。


紺野は、その一言に何を返すべきか少しだけ迷った。

買い被りだ、と切るのは簡単だ。だが簡単な言葉ほど、こういう場所では後で喉に引っ掛かる。


「……あんたはやらないのか」


結局、出たのはそんな言葉だった。

女は首を傾げる。


「何を」

「後始末だ」

「なんで?しないよ」

「見てるだけか」

「そうだよ」


あっさりしていた。言い訳もない。弁解もない。堂々としているのでもない。ただ、本当にそこへ罪悪感を混ぜていない人間の声だった。


「それで済むのか」

「済まないことの方が多いね」


名無子は言った。


「でもね、触ると壊れるものもある。片付けようとして散らす人間もいる。だから、見てるしかない方がましな時はある」


未来が横から口を挟む。


「名無子、言いすぎです」

「そう?」

「今日は少し多い」

「そうかも」


短い会話だったが卓の上の圧がほんの少しだけ逃げた。未来は店主を止めているのではない。言葉の出過ぎだけを摘んで、場が壊れない程度へ戻している。やはり、必要な仕事だけはきちんと済ませる。


紺野はようやく、羽場桐がここへ来た理由の一端を理解した。


報告書には、数が載る。 だが、人間の内側に残る手順の方は欄がない。

欄がないものは、だいたい後から効く。

だからこういう場所へ来るしかない。

書類の外側で、まだ名になっていない残り方を一度見ておくために。


181-3


帰る頃には、外の冷えが店の戸口まで差し込んでいた。


羽場桐が礼を言い、名無子は軽く頷く。未来は湯呑を下げ、もう次の帳面を開いていた。客が帰ることに感慨はない。帰るなら帰るで、その分だけ床が空く、くらいの顔だ。


紺野が戸へ手を掛けた時だった。


「紺野少尉」


未来が呼んだ。


事務的な呼び方だった。 妙にそれが引っ掛かった。

振り返ると、未来は帳面に目を落としたまま、頁を一枚めくっている。こちらを見ない。見ないまま言葉だけを置く。


「帰り、気をつけて」

「……普通だな」

「普通でいいんですよ」

「珍しいこと言うな。やる気は無さそうなのに」

「やる気は無いですけど、珍しくない」


一拍置いて、未来は続けた。


「見間違いは、夜の方が増えるから」


羽場桐の足が止まる。

紺野は黙る。 未来はそこで初めて視線を上げた。


「白いものは、暗い時の方が先に目につく。疲れてると余計に」

「……何の話だ」

「注意です」


簡潔だった。 それ以上足さない。だから余計に嫌な残り方をする。

名無子は口を挟まない。挟まないが、止めもしない。未来に言わせるべきものだけ言わせている顔だった。


紺野は戸を開ける。

外気が入る。店の中の複数の温度が、少しだけ揺れる。


「中尉さん」


今度は古物商の女が羽場桐を呼んだ。


「はい」

「貴女、帳簿はちゃんと閉じる方?」

「閉じます」

「そう。じゃあ、閉じた後に残るものをたまには数えなさい」


妙子はすぐには答えなかった。

分からないから黙るのではない。分かるが、軽く返すと自分の方が誤魔化す形になる時の黙り方だ。


やがて一礼する。


「努力します」

「それでいいよ」


戸が閉まる。


通りへ出ると、南区の夜は来た時より静かだった。静かだが、軽くはない。店じまいの掛け金がどこかで鳴り、遠い通りの笑い声がすぐ消える。風が電線を細く鳴らしていた。


しばらく歩いてから、羽場桐が言う。


「……未来さんの言葉ですが」

「聞こえてたか」

「近かったので」

「で」

「見ましたか」


紺野は少しだけ黙った。


電車の窓に映ったような、白い気配。見間違いで済ませられる程度の薄さ。だが、済ませるには引っ掛かりすぎている。


「分からない」


結局、そう答えた。


羽場桐は頷いた。否定もしない。問い詰めもしない。ただ、その返答のまま受け取る。

それが今はありがたかった。


駅前の掲示板には白い紙が何枚も貼られていた。補償窓口。相談所延長。封鎖解除区画。再配置案内。どれも正しい紙だ。正しいが、紙である以上、人間の後から貼られる。


街は戻る。 人は働く。 手順は増える。 見間違いみたいな白さだけが、まだ名もないまま視界の端に残る。

今夜は、それで十分だった。 十分というのは、答えが要らないという意味ではない。まだ答えに触れないまま、次へ持って行けるだけの量として足りている、という意味だ。


到着を告げる音が鳴る。

紺野は掲示板の白い紙を一度だけ見て、それから視線を外した。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ