百八十一話
百八十一話
181-1
南区の夜は、帝都の中でも少しだけ音が遅い。
人通りが少ない、という意味ではない。
人はいる。店も開いている。路地の奥ではまだ小さな酒場が客を抱えているし、表通りの菓子屋には戸を閉める前の灯りが残っていた。
だが、そういうものが発する音の届き方だけが遅い。古い壁、低い軒、湿り気を含んだ石畳、昼の熱を抱えた木戸。南区の建物は音をすぐには返さない。一拍呑み込んでから、思い出したように外へ戻す。
だから、夜の気配が厚い。
駅から二つ角を折れた先に、その店はあった。
看板は小さい。古物商を名乗るには愛想が足りず、骨董店を名乗るには商売気が薄い。表の硝子も磨かれてはいるが、客を誘うための透明さではなかった。見せるために拭いたのではなく、曇らせたままにするのが嫌だから拭いている、そういう硝子だ。
羽場桐妙子は店先で足を止めた。
「入ります」
「中尉、毎回そこからだな」
「手順は、慣れている時ほど省かない方が事故が減りますから」
紺野はそれ以上言わず、戸に手を掛けた。
引き戸は軽かった。古い店の戸にありがちな癖がない。手入れが行き届いているのだと分かる。古いものを並べる店で、本当に値打ちがあるのは古さではない。古いものを古いまま傷ませずに持たせる手の方だ。
店の中は、暖かいというより、温度が多かった。
紙の乾いた温度。木の鈍い温度。布の薄い温度。金属が昼のあいだに蓄えた冷えの名残。材質ごとに違う時間の抱え方が、狭い空間の中で混ざらずに浮いている。
棚は高くない。だが詰まっていた。茶碗。硝子器。欠けた額縁。古い時計。片方だけの燭台。用途の終わった何か。用途を明かさない方がいい何か。
人間が要らなくなって手放したものと、人間が要るか要らないか決め損ねたものが、同じ棚に、同じ顔で置かれている。
古物は、残った理由を自分で喋らない。
だから人間の方が勝手に意味を足す。
「いらっしゃい」
奥から声がした。
柔らかい。だが歓迎ではない。こちらが来ることを知らなかった人間の声ではない。知っていて、来るなら来るで構わない、という声だ。
卓の向こうに、名無子が座っていた。
相変わらず年齢が読みづらい。若く見えないわけではない。老いても見えない。どちらでもないのではなく、どちらに寄せても決め手が足りない。
そういう曖昧さは、たいてい外見の作り方に出るものだが、この女の場合は、こちらの認識の方が先に踏み外している気配があった。
羽場桐が一礼する。
「夜分に失礼します」
「ええ」
「羽場桐です」
「知ってるけど」
「承知しております。そのうえでの形式です」
「そう。形式は大事だ」
紺野は奥へ目をやった。
床近くの低い棚の前で、給仕服の女が帳面を広げていた。寝そべってはいない。だが、椅子にもきちんと座っていない。木箱を裏返したような低い台に腰だけを掛け、片肘で卓を支えながら、片手で札をまとめている。やる気のある姿勢ではない。だが手は止まっていなかった。
女は視線だけを上げる。
「こんばんは」
短い。
「お茶、出しますよ」
それだけ言って立ち上がる。動作は無駄がない。愛想がないのではなく、必要以上を足さないだけだと分かる。そういう種類の簡潔さだった。
羽場桐がそちらにも会釈した。
「ありがとうございます、未来さん」
「仕事だから」
未来はそう返し、もう次の動きに入っている。湯を足し、湯呑を三つ出し、何も考えていないような顔で、ちゃんと温度の違うものを先にどける。だらけているのではない。手を抜いて見える形のまま、必要なところだけ抜かない。
妙な店だった。 妙な店というより、妙なものしか中に置いていない店のくせに、人間の生活の手つきだけはちゃんとある。
「長話なら座れば?」
名無子が言った。
羽場桐が先に腰を下ろし、紺野も向かいへ座る。未来が茶を置く。湯気は細い。熱いが、すぐには熱いと気付かない嫌な温度だった。
「それで」
女が言う。
「中尉さんがこんな夜に来る時は、たいてい用事が二つある」
「礼と確認です」
「今日は正直」
「隠しても意味が薄い相手には、隠し方だけ増えますので」
「それは立派だね」
褒めているようで、褒めていない声音だった。
181-2
羽場桐は鞄から封を一つ出した。
厚みはない。公文書ほど硬くもない。だが私信にしては整いすぎている。礼状に近い。近いが、それだけでもない。あれは「残した」という事実だけは残すための紙だ。
「東都事変終息後における一連の非公式協力に対し、近衛御親領衛として謝意をお伝えします。正式記録にはしません。ただ、何も残さないのも不自然ですので、最低限だけ」
名無子は封を受け取らない。卓の上に置かれたそれを眺め、それから指先で手元へ引いた。開きもしない。封のまま横へ置く。
「ありがと」
「いえ」
「中尉さんは、私を礼を言うべき相手かどうかで迷わないね」
「迷いません」
「どうして?」
「礼を言う価値があるかどうかと、礼を言うべきかどうかは別です」
「そう」
名無子はそこで初めて少しだけ笑った。愉快だから笑ったのではない。答えが、期待した場所にきちんと落ちたから笑っただけだ。
紺野は茶に手を伸ばした。熱い。嫌な温度だ。口の中ではなく、指先にだけ長く残る。
「で」
名無子の視線が、今度は紺野へ移る。
「君は、今日は何しに来たの?」
「連れて来られた」
「半分正解」
「半分って、.....お前が言うのか」
「自分で来てるから」
「違うな」
「違わないよ。嫌ならこの戸はくぐらない」
言い返しかけて、紺野はやめた。言い返してどうなる話でもない。こういう相手は、勝ち負けの形を先に決めて話す。否定すれば、その否定の仕方まで含めて材料にする。
未来が帳面を閉じ、空いた湯を足した。
「冷めますよ」
それだけ言って、また棚の札に手を戻す。茶を出す。帳面を締める。置きっぱなしの包みを一つ脇へ寄せる。客に構いすぎない。構わなさすぎもしない。適当だが、雑ではなかった。
「もう東都の夜は終わったよ」
名無子が言った。
断定だった。感想ではない。判定に近い。
「終わったものを、まだ続いてるみたいに言い張るのは、だいたい当事者か、野次馬か、その両方だ」
「片付いてはいません」
羽場桐が返す。
「うん。だから君らが忙しい」
軽い言い方だった。 軽いのに、卓の上へ落ちた重さは軽くない。
名無子は続けた。
「壊れた物は直せる。全部じゃなくても、だいたいは直せる。窓ははめ直せる。道も埋め直せる。看板も掛け直せる。数字も揃えられる。国家はそのためにある。立派なものだね」
そこで言葉が切れる。
「でも、戦の後に残るのは、壊れた物より残った手順だ」
紺野は眉を寄せた。
「手順?」
「そう。振り返る。空を見る。音に先に身構える。列を詰めない。子供の手を離さない。逃げ道を先に測る。人間はね、助かった後の方が手順をよく覚える」
羽場桐は、微かに息を吐いた。
あれは肯定だ。 反論ではない。知っているものが、改めて別の言葉で置かれた時の呼吸だ。
「今日の南区、歩きづらかったでしょ」
名無子が何気なく言う。
紺野は答えなかった。確かに歩きづらかった。人の流れの詰まり方も、灯りの置かれ方も、店じまいの早さも、全部がほんの少しずつ過敏だった。過敏なのに、それを隠すために皆、必要以上に普段通りの顔をしている。ああいう街は、歩いていて妙に疲れる。
答えない紺野の代わりに、羽場桐が答える。
「ええ」
「それが後始末だよ」
女は湯呑に口を付けた。
「この国の後始末は、いつも君らだ」
未来の手がそこで一度だけ止まった。 止まったが、視線は上げない。札を束ねる指先だけが、ほんの僅かに間を空けてからまた動く。
紺野は、その一言に何を返すべきか少しだけ迷った。
買い被りだ、と切るのは簡単だ。だが簡単な言葉ほど、こういう場所では後で喉に引っ掛かる。
「……あんたはやらないのか」
結局、出たのはそんな言葉だった。
女は首を傾げる。
「何を」
「後始末だ」
「なんで?しないよ」
「見てるだけか」
「そうだよ」
あっさりしていた。言い訳もない。弁解もない。堂々としているのでもない。ただ、本当にそこへ罪悪感を混ぜていない人間の声だった。
「それで済むのか」
「済まないことの方が多いね」
名無子は言った。
「でもね、触ると壊れるものもある。片付けようとして散らす人間もいる。だから、見てるしかない方がましな時はある」
未来が横から口を挟む。
「名無子、言いすぎです」
「そう?」
「今日は少し多い」
「そうかも」
短い会話だったが卓の上の圧がほんの少しだけ逃げた。未来は店主を止めているのではない。言葉の出過ぎだけを摘んで、場が壊れない程度へ戻している。やはり、必要な仕事だけはきちんと済ませる。
紺野はようやく、羽場桐がここへ来た理由の一端を理解した。
報告書には、数が載る。 だが、人間の内側に残る手順の方は欄がない。
欄がないものは、だいたい後から効く。
だからこういう場所へ来るしかない。
書類の外側で、まだ名になっていない残り方を一度見ておくために。
181-3
帰る頃には、外の冷えが店の戸口まで差し込んでいた。
羽場桐が礼を言い、名無子は軽く頷く。未来は湯呑を下げ、もう次の帳面を開いていた。客が帰ることに感慨はない。帰るなら帰るで、その分だけ床が空く、くらいの顔だ。
紺野が戸へ手を掛けた時だった。
「紺野少尉」
未来が呼んだ。
事務的な呼び方だった。 妙にそれが引っ掛かった。
振り返ると、未来は帳面に目を落としたまま、頁を一枚めくっている。こちらを見ない。見ないまま言葉だけを置く。
「帰り、気をつけて」
「……普通だな」
「普通でいいんですよ」
「珍しいこと言うな。やる気は無さそうなのに」
「やる気は無いですけど、珍しくない」
一拍置いて、未来は続けた。
「見間違いは、夜の方が増えるから」
羽場桐の足が止まる。
紺野は黙る。 未来はそこで初めて視線を上げた。
「白いものは、暗い時の方が先に目につく。疲れてると余計に」
「……何の話だ」
「注意です」
簡潔だった。 それ以上足さない。だから余計に嫌な残り方をする。
名無子は口を挟まない。挟まないが、止めもしない。未来に言わせるべきものだけ言わせている顔だった。
紺野は戸を開ける。
外気が入る。店の中の複数の温度が、少しだけ揺れる。
「中尉さん」
今度は古物商の女が羽場桐を呼んだ。
「はい」
「貴女、帳簿はちゃんと閉じる方?」
「閉じます」
「そう。じゃあ、閉じた後に残るものをたまには数えなさい」
妙子はすぐには答えなかった。
分からないから黙るのではない。分かるが、軽く返すと自分の方が誤魔化す形になる時の黙り方だ。
やがて一礼する。
「努力します」
「それでいいよ」
戸が閉まる。
通りへ出ると、南区の夜は来た時より静かだった。静かだが、軽くはない。店じまいの掛け金がどこかで鳴り、遠い通りの笑い声がすぐ消える。風が電線を細く鳴らしていた。
しばらく歩いてから、羽場桐が言う。
「……未来さんの言葉ですが」
「聞こえてたか」
「近かったので」
「で」
「見ましたか」
紺野は少しだけ黙った。
電車の窓に映ったような、白い気配。見間違いで済ませられる程度の薄さ。だが、済ませるには引っ掛かりすぎている。
「分からない」
結局、そう答えた。
羽場桐は頷いた。否定もしない。問い詰めもしない。ただ、その返答のまま受け取る。
それが今はありがたかった。
駅前の掲示板には白い紙が何枚も貼られていた。補償窓口。相談所延長。封鎖解除区画。再配置案内。どれも正しい紙だ。正しいが、紙である以上、人間の後から貼られる。
街は戻る。 人は働く。 手順は増える。 見間違いみたいな白さだけが、まだ名もないまま視界の端に残る。
今夜は、それで十分だった。 十分というのは、答えが要らないという意味ではない。まだ答えに触れないまま、次へ持って行けるだけの量として足りている、という意味だ。
到着を告げる音が鳴る。
紺野は掲示板の白い紙を一度だけ見て、それから視線を外した。




